南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘
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Re: 外交官の証言
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/12/12 10:41 投稿番号: [37640 / 41162]
ボエケーと見ていても、陸軍より外務省なんだよ、君知らないの陸海外三省のの関係を、嘘吐く君。
これは メッセージ 37639 (fukagawatohei さん)への返信です.
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外交官の証言
投稿者: fukagawatohei 投稿日時: 2011/12/12 10:18 投稿番号: [37639 / 41162]
>以上より、中国に於ける南京虐殺は無かったと結論付けられる。
虐殺の現場をぼけ〜と見ていたら日本兵にぶっ殺されちまうだろ〜が。
外国の外交官の目撃証言なんあるわけ無いでしょうが、あほ〜。
これは メッセージ 37628 (nyankotyanndamon さん)への返信です.
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Re: 南京大虐殺事件に関する外交官の証言
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/12/11 16:37 投稿番号: [37638 / 41162]
昭和十二年当時大元帥府
大元帥府
大元帥
蒋介石
国防委員会
委員長
蒋介石
副委員長
馮玉蘒
参謀長
白崇禧
副参謀長
毛沢東
委員
朱徳、蔡延錯、陳銘樞、李済深等八十名
国防経済委員会
委員長
宗子文
副委員長
孔蘒熙
委員
六百名
国防政治委員会
委員長
毛沢東
副委員長
陳立夫
委員
百五十名
国防会議
主席
汪兆銘
秘書長
彭学沛
参議
周恩来、周佛海、毛沢東等二十一名
これは メッセージ 37614 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京などで残虐行為が多発した背景(5)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/11 15:02 投稿番号: [37637 / 41162]
歩兵第六十六聯隊第一大隊の
戦闘詳報には、さらに次のように
記録されている。
九、右命令ニ基キ兵器ハ第一第四中隊ニ命ジ整理集積セシメ
監視兵ヲ附ス
午後三時三十分各中隊長ヲ集メ捕虜ノ処分ニ附意見ヲナシタル
結果、各中隊ニ等分ニ分配シ監禁室ヨリ連連五十名宛レ出シ、
第一中隊ハ路営地南方谷地
第三中隊ハ路営地西南方凹地
第四中隊ハ露営地東南谷地ニ於テ
刺殺セシムルコトトセリ
但シ監禁地ノ周囲ハ厳重ニ警戒兵ヲ配置シ連レ出ス際絶対ニ
察知サレザル如ク注意ス
各隊共ニ午後五時準備終リ刺殺ヲ開始シ概ネ午後七時三十分
刺殺ヲ終リ聯隊ニ報告ス
第一中隊ハ当初ノ予定ヲ変更シテ一気ニ監禁シ焼カントシテ
失敗セリ捕虜ハ観念シ恐レズ軍刀ノ前ニ首ヲ差シ伸ブルモノ、
銃剣ノ前ニ乗リ出シ
従容トシ居ルモノアリタルモ、中ニハ
泣キ喚キ救助ヲ嘆願セルモノアリ特ニ隊長巡視ノ際ハ各所ニ
其ノ声起レリ
武装を解除し、投降した捕虜全員を、ただちに
殺害することは、
国際法違反である以前に、人道に反する残虐行為に
ほかならない。
ひとつの部隊だけでも、上記のような
数日にもわたる
組織的な
大量殺害が
実行されたのだから、日本軍全体での
捕虜殺害は、
いったい
どれほどの規模だったのだろうか――
想像を絶する。
虐殺の背景として、まず
第1には、中国人への蔑視とともに、
国際世論を恐れて戦争の実態を「事変」
と得矮小化するために
戦時国際法を無視したことによる
人権感覚の喪失が挙げられる。
第2に、もともと補給を極端に軽視する
日本軍の欠陥体質があり、
予期せぬ大量の捕虜を収容し、処遇に窮する事態を招いたことだ。
そして、第3には、軍紀風紀の頽廃による規律喪失が無視できない。
急速な軍隊の拡大による
兵士の素質の低下、とくに後備兵の増加が
軍紀風紀の頽廃の原因となり、その結果が、兵士個人の犯罪である
掠奪、強姦などを
多出させた
と考えられる。
旧軍の軍紀風紀関係資料については、既に別の投稿で引用したが、
「掠奪、強盗、強姦等極メテ悪質」犯罪の多発が記録されている。
日本の国土が
他国から
武力攻撃を受けているとか、侵略により
国家の独立が危機にたっている惨状を
目の当たりにして
自らの
愛国精神によって起ち上がった、等という状況では
まったくなく、
「事変」と称した他国への侵攻戦において、日本軍兵士の
多くは、
予期もせず
突然の令状で召集された
予後備兵か
補充兵だった。
もともと祖国防衛や民族解放などの崇高な理想に起った戦ではなく、
目的が不明確なうえに、各戦場では、予想を超えた
中国人たちの
はげしい抵抗に直面して、多くの戦友を失い、死の恐怖に苛まれた
日本兵士たちには、中国人民への憎悪と侮蔑感情だけが
かぎりなく
増幅し、理性と規律を
喪失していった。
これは、数多くの史料や
証言によって
記録されている事実だ。
これは メッセージ 37636 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京などで残虐行為が多発した背景(4)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/11 15:02 投稿番号: [37636 / 41162]
対中戦争を「事変」の鎮圧で済ませようとした
日本軍には
長期戦に必要な補給路確保、給養の備えは
不十分だった。
その日本軍に、大量の捕虜を収容し続ける手段は
なかった。
上海派遣軍右翼を進んだ独立攻城重砲兵第二大隊第一中隊の中尉は、
仙鶴門鎮付近で
大部隊を捕虜にした際の状況を
証言している。
捕虜の数は約一万でしたが、早速軍司令部に報告したところ、
「直ちに銃殺せよ」
と言ってきたので
拒否しましたら
「では中山門まで連れて来い」
と命令されました。
「それも不可能」
と断わったら、やっと
「歩兵四コ中隊を増援するから連れて来い」ということになり、
私も中山門近くまで同行しました。(中略)
「直ちに銃殺せよ」とは、一体誰が決定し、命令を下したのか。
当時、私の胸が痛かった印象は、従軍中はもとより
今日に至るまで、私の脳裡から
離れません。
(畝本正巳「証言による『南京戦史』」)
師団副官が捕虜殺害を指示したという
歩兵第三十八聯隊副官の
次の証言もある。
聯隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、
彼我入り乱れて
混戦していた頃、師団副官の声で、
師団命令として「支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ」
と電話で伝えられた。(中略)
部隊としては実に驚き、困却しましたが
命令やむを得ず、
拡大隊に下達しましたが、拡大隊からは、その後何ひとつ
報告は
ありませんでした。
師団が捕虜の処置を決めて指示した
という史料も
残されている。
第十三師団は、10月9日付師団司令部名「戦闘に関する教示」で
中国人捕虜の扱いについての方針を
次のように
示していた。
(前略)捕虜中将校ハ之ヲ射殺スルコトナク武装解除ノ上、
師団司令部ニ護送スルヲ要ス
(中略)
但シ少数人員ノ捕虜ハ所要ノ尋問ヲ為シタル上適宜処置スル
モノトス
(防衛研究所所蔵「第十三師団戦闘詳報別紙及附図」第一号)
護送せずに、「適宜処置スル」とは、つまり
処刑を意味している。
武装解除した後の捕虜を、裁判もなしに
その場で処刑することは
当時の国際法上でも、明白な違反であったことは、言うまでもない。
しかし、「事変」と称した大量殺戮の場では
国際法は
適用されず、
道義的規範は
完全に
無視されたのだ。
第十軍
第百十四師団
歩兵第六十六聯隊第一大隊の
戦闘詳報が
残されており、12月10日から13日の間に捕虜1,657人を
捕らえたこと、そして、この捕虜を
旅団命令で14日に
すべて
殺した事実が、具体的に
記述されている。
その記録によると、
捕虜を、上部命令で
組織的に虐殺したことが明らかにされている。
以下に
13日の記事の一部を抜粋してみよう。
八、午後二時零分聯隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク
イ.旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スベシ
其ノ方法ハ十数名ヲ捕縛シ逐次銃殺シテハ如何
ロ.兵器ハ集積ノ上別ニ指示スル迄監視ヲ附シテ置クベシ
ハ.聯隊ハ旅団命令ニ依リ主力ヲ以テ城内ヲ掃蕩中ナリ
貴大隊ノ任務ハ前通リ
これは メッセージ 37635 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京などで残虐行為が多発した背景(3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/11 15:01 投稿番号: [37635 / 41162]
南京などで残虐行為が多発した背景(3)
以下は、中国戦線に従軍した
一兵士の証言だ。
徴発、掠奪をガタクルと言った・・・
掠奪はいかん、物品は必ず
金円を支払って調達せよと空命令を出しても身も心も荒みきった
兵隊に通じる筈もなかった。漢口を発つ時、どの部隊も糧秣等は
現地調弁せよと命令され、調達物資は必ず相当金額を支払うこと、
金円がない場合は後払い証を発行せよ
と言われた。
こんな馬鹿げた命令をする奴は、第一線の状態が
どんな様相を
呈しているのか承知していて、腹の中では
腕ずくでも、相手を
殺してでも徴発すべしと言っているのだ。
日本軍の来襲を知り、
いち早く避難し、姿をくらましてしまった住民と
どうやって
売買を交渉し、金を払えというのか――
(「湘南戦記」「十五年戦争史②日中戦争」青木書店より)
補給確保を軽視し、現地での
徴発(という名目の略奪)に頼り、
それでもなお
自軍兵士の食料確保にさえ
窮していた日本軍に、
大量の中国人捕虜を収容し、給養を確保する手段は
なかった。
方面軍司令は、南京での捕虜殺害について、次のように述べている。
捕虜も相当出来たけれども捕虜に食はせる物もない。さういふ
状態で戦闘しつつ捕虜が出来るから
始末することが出来ない。
それでちよん斬つてしまうといふことになった。
それで大したことではないのだが、南京の東南方の鎮江との
間の所で一万余の捕虜があつたのだけれども、そんなのは無論
追撃中だから戦闘中と見てもよろしい、又捕虜となつても逃亡
する者もあるし、始末が付かぬものだから
シヤーシヤーと
射つてしまつたのだ。
その死骸が川に流れた。
それから問題になつたのだ。
(吉田裕『南京事件と国際法』より)
食料が不足して捕虜の処遇に困った、それで「戦闘中」と見なして
捕虜を殺害した
という証言だ。
どうやら
日本軍の司令官は
中国軍捕虜を処分することを
犯罪とは考えていなかったようだ。
このほかにも、軍や師団が
捕虜の「処分」を命令または指示し、
組織的な殺害がおこなわれていたという史料が
数多く存在している。
派遣軍司令部の情報主任参謀で方面軍参謀を兼ねていた中佐が、
捕虜をどうするかという師団からの問い合わせに対して、
くりかえし「ヤツチマエ」と命令していた
という証言がある。
これは、当時少佐で方面軍司令の専属副官であった人物の証言だ。
おそらく、南京虐殺「まぼろし説」を振りかざす否定派などは、
こうした数々の証言を
すべて
捏造だ、ウソだ、などと決めつけ、
必死になって
否定しようとするだろう。
しかし、引用した陸軍次官通牒や戦闘詳報など
日本軍の記録には
これらの証言を裏付けるように、日本軍の
中国軍兵士への認識や
対処方針などが示されており、資料的価値は
非常に高いものだ。
これは メッセージ 37634 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京などで残虐行為が多発した背景(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/11 15:00 投稿番号: [37634 / 41162]
第2に、日本軍の
補給確保軽視という、戦略上の欠点が挙げられる。
この欠陥は後に、太平洋戦争でも
兵士の大量餓死発生の要因となる。
補給軽視の体質の上に、対中戦争を「事変」鎮圧で済ませようとした
日本軍には
長期的戦略はなく、給養の備えは
不十分だった。
物資補給は、もっぱら
「現地調達」
に頼るほかなく、必然的に
「徴発」という名目による
現地人民からの略奪、強盗頻発を招いた。
ハーグ陸戦法規には、徴発する場合は
その場で
現金を支払うか、
もしくは
「領収証」
を発行し、「なるべく速やかに」
支払いを
履行しなければならない、と定められていた。
しかし
南京へ進撃していた日本軍は、兵士らが
勝手に略奪を
続けることを
放置していたに
等しかった。
以下に引用する兵士の証言は、当時の実情の一端を
表している。
↓
「米もカンパンも持ってなくての。特務隊が半煮えのご飯で作った
おにぎりなんかを、たまに届けてくれたの。だけども食料が来ない
ので、食べ物は
ほとんど徴発ですましてました。米とか味噌とか、
鶏、豚なんかを
徴発していました。」
「夜、中国人の家ん中に入って、鍋を探す者、米探す者、菜っ葉
探す者とそれぞれ役目を決めて、探して来た物を
分隊で分けて
食べるのさ。住民は皆逃げてしまって、ほとんど何も
残ってい
なかったこともあったけど、二ヶ月くらい徴発で食いつないだかの。
菜っ葉なんか食べて食いつなぎました。ずっと物を盗ってすごしたな」
(社会評論社「南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて・元兵士102人の
証言」P-350,351より)
日本軍兵士の証言だけでは足りない、と思われるかもしれないので、
南京安全区国際委員会委員長が残した記録も併せて引用しておこう。
↓
「12月13日・・・
日本軍は10人から20人のグループで行進し、
略奪を続けた。
それは実際に
この目で見なかったら、とうてい
信じられないような光景だった。
彼らは窓と店のドアをぶち破り
手当たり次第盗んだ。
食料が不足していたからだろう。」
「ドイツのパン屋、カフェ・キースリングもおそわれた。また、
福昌飯店もこじ開けられた。中山賂と太平賂の店もほとんど全部。
なかには、獲物を安全に持ち出すため、箱に入れて引きずったり、
力車を押収したりする者もいた」
(ジョン・ラーベ著「南京の真実」P-110より)
防衛研究所などに収蔵されている
軍関係の資料を
調査すれば、
上記は、膨大な記録の
ごく
一部にすぎないことが理解できる。
こうした記録が
示すように、日本軍は
「徴発」という名目の
略奪に頼って、なんとか食いつないでいたというのが実情だった。
菓子や酒など嗜好品の類も「徴発」していた
という記録もある。
このように、現地で略奪に頼るほど、日本軍は補給に窮していた。
補給の途絶は、自軍兵士の給養欠乏という
深刻な事態とともに、
予想を超える多数の
中国人捕虜の収容を
困難にしてしまった。
日本軍の包囲戦により、南京城内及び周辺地域には
少なくとも
10万人程度の中国兵が
逃げ遅れ、投降した
と推定される。
これに対し、日本軍側には
捕虜収容の用意が
まったくなかった。
給養の点に窮乏し
困り果てた日本軍にとって
残された手段は、
捕らえた
中国人俘虜を
大量に
「処分」
することだった。
これを
裏付ける資料として、大量の捕虜の処置に窮し、
上級司令部が殺害を命じた
という記録が
残されている。
これは メッセージ 37633 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京などで残虐行為が多発した背景(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/11 15:00 投稿番号: [37633 / 41162]
日本軍が起こした
戦争を、『植民地解放を目指した聖戦』
として
美化したい者にとって、日本軍が
中国大陸や
東南アジアの各地で
行った残虐行為の事実は、非常に
都合の悪いものだろう。
彼らが、
必死で「ウソ」、「捏造」と否定し、日本の歴史を汚す主張だなどと、
証拠に基づく議論を放棄し、悪罵を
吐き散らすのは、当然のことだ。
しかし、人が殺し合い
破壊し合う戦争を起せば、日本軍に限らず
戦場や占領地において
残虐な行為が発生することは
必然なのだ。
したがって、過去の事実を
真摯に受け止め、原因と経緯を究明し、
教訓とすること自体が、日本の歴史を汚すとか、恥をさらすという
ことではないし、実際、そのような目的で
論じているのではない。
南京事件や慰安婦問題などの
歴史の事実に向き合うことを恐れ、
記録や証言などの資料を
すべて「ウソ」、「デタラメ」
と否定し、
「聖戦」の大義名分だけを
拠所にして
戦争を美化することが、
真に国を愛する者の言動である
とは言えない、と思う。
問題にすべきは、なぜ
規律に厳しかったはずの
日本軍でさえも
残虐行為を
組織的に、かつ
広範囲にわたって
発生させ、
それを防げなかったか、ということであり、いま行うべきことは
客観的資料に基づく
徹底した検証作業なのだ
と思う。
この視点から、日中戦争の実相を
あらためて
論じてみたい。
日中戦争が
全面化し始めたとき、日本軍部は、これを
「事変」
であるから、「戦時国際法は適用しなくてもよい」
と決定していた。
支那駐屯軍が
華北で総攻撃を開始した
直後の
1937年、
8月5日付陸支密第198号
支那駐屯軍参謀長宛
陸軍次官通牒
「交戦法規ノ適用ニ関スル件」
には、次のように
示されている。
一、現下ノ情勢ニ於テ帝国ハ対支全面戦争ヲ為シアラザルヲ以テ
「陸戦ノ法規ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約」ノ
具体的事項ヲ
悉ク適用シテ行動スルコトハ
適当ナラズ
戦線が、華北のみならず
中国全土に拡大し、各方面で
日中両軍が
総力戦に突入して
全面戦争となった
にもかかわらず、日本軍部は
国際社会からの非難と制裁を恐れ、戦争とは呼ばず「事変」と称した。
「戦争」でないのだから、当然、戦時法は
適用できないことになる。
さらに、「日支全面戦ヲ相手側ニ先ンジテ決心セリト見ラルル如キ言動、
例ヘバ
戦利品、俘虜等ヘノ名称ノ使用」などは
「つとめて避けよ」
と指示している。
国際社会の批判を恐れ、先に戦争を仕掛けたのが
日本だと悟られないよう、戦利品や俘虜という戦時用語は
使用するな
と
自軍の兵士に命じたのだ。
こうした軍中央部の方針は、ただちに
現地軍に伝えられた。
投降した多数の中国人捕虜に対して、国際法に基づいた処遇は不要。
したがって、収監したり
護送したりする
手間は
要らなかった。
日本軍から
国際法に基づく人道的扱いが消えたのは
当然だった。
虐殺の背景として、まず
第1には、このような
中国人への蔑視と
国際法を無視したことによる
人権感覚の喪失があった
と言える。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/37633.html
Re: 南京大虐殺事件に関する外交官の証言
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/12/11 13:22 投稿番号: [37632 / 41162]
昭和十二年六月時点での中国軍以下の如し
中央直系軍
約四七師
約四十八萬
旧東北軍
約四五師
約四十六萬
廣東軍
約十五師
約十一萬
廣西軍
約七師
約五萬
宗哲元軍
約四師
約八萬
山西軍
約八師
約九萬
山東軍
約五師
約六萬
萬福麟軍
約三師
約二萬
馮占軍
約一師
約二萬
四川諸軍
約二十六師
約二十五萬
其の他辺境軍
約十五師
約二十六万
十月六日頃支那の戦区分割
華北区
総司令官閻錫山、副司令官馮玉蘒、参謀長李済深
華中区
総司令官蒋介石、副司令官張学良、参謀長白崇禧
華南区
総司令官何應欽、副司令官李宗仁、参謀長李烈鈞、前敵総指揮余漢謀
これは メッセージ 37631 (nyankotyanndamon さん)への返信です.
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Re: 南京大虐殺事件に関する外交官の証言
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/12/11 13:06 投稿番号: [37631 / 41162]
八月九日大山注意事件発生し戦禍愈々上海に及ぶや南京の同様甚だしく殊に同十四日支那側の上海空爆に依り上海方面の事態は最悪の場面に立至りたるを以て十四日在南京に高参事官より「南京に於ける緊迫せる空気、使用人の動揺、食糧購入の困難、上海との交通途絶等種々の困難に拘わらず諸外国大使館等尚滞留中のことにも在り殊に日支考攻極めて厳重なる此の秋に当たり最後に至る迄万難を排して館員を率い大使館本来の任務遂行を期したき處婚儀事変悪化し何等の措置を執るの必要に迫らるる場合を考慮し此の際館員を是非必要なる員数に切り詰め爾余の者は引き挙げしめ度尚万一の場合は裁量に依り適宜の方法により引き挙げたく」との請訓の次第ありたるに対し当方より「支那側の上海爆撃に依り海軍の態度硬化し海軍に於いては上海付近のみならず杭州、廣紱等各地支那工場の大規模爆撃を行う方針にて斯くては貴地に於ける貴官以下の生命財産の安全も俄に保障し難き次第なるを以て一部員のみならず此の際一斉に引き挙げられ度」旨訓電したり
↑陸軍ではなく海軍がの態度が硬化したんだね。
これは メッセージ 37614 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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Re: 南京大虐殺事件に関する外交官の証言
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/12/11 12:34 投稿番号: [37630 / 41162]
大山事件
(昭和十二年)八月九日大山事件発生せるや今次事変に対する政府の根本方針に鑑み本事件の拡大は面白からざるのみならず本事件の為亦は同様の事件が再発し大局が歪めらるることを極度に避けた志との方針にて極めて慎重なる態度を持し八月十日外務大臣より川越大使に対し「本件は速やかに之を合理的に解決し解決条件等に就いては支那側の実行至難なる如きものは之を避くることとする一方上海に於ける緊張せる彼我がの空気の緩和方」訓令せり
石射執務記録より抜粋。
これは メッセージ 37614 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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Re: 南京大虐殺事件に関する外交官の証言
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/12/11 09:26 投稿番号: [37629 / 41162]
石射猪太郎が行っていた職務内容。
東亞局第二課關係
・居留民の保護取締
・警察関係諸問題
・在外邦人教育
・朝鮮人関係問題
・満州国治安状態
・支那事変関係
・支那満州に於ける共産運動
東亞局第三課関係
・満州に於ける治外法権撤廃及び満州附属地行政権の移譲
・日満経済共同委員会関係
・日満経済共同委員会関係の外日満経済関係
・鉄道関係
・河川及び橋梁協定
・満州国承認問題
・満蒙会議
・在満帝国領事館の閉鎖
・在満外国領事館
昭和十二年度執務報告書より抜粋。
これは メッセージ 37614 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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Re: 南京大虐殺事件に関する外交官の証言
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/12/11 09:10 投稿番号: [37628 / 41162]
彭
学
沛
交通常務次長
許世英出迎え
昭和十三年一月二十一日
漢口より
南京虐殺の話し無し
陳
公
博
軍事員会国際宣伝部長
欧州方面遊説終わり帰朝
昭和十三年一月二十二日
南京虐殺に関する話し無し
蕭
吉
珊
国民政府僑務委員会委員
南洋華僑の救国公債の応募勧誘
昭和十三年一月二十四日
新嘉坡より
南京大虐殺に関する話し無し
ノーブル
英国長江艦隊指令長官海軍少将
赴任
昭和十三年二月三日
ロンドンより
南京大虐殺に関する話し無し
クラブ
元英国長江艦隊司令長官海軍少将
帰朝
昭和十三年二月五日ロンドンへ
南京大虐殺に関する報告なし
ドライモンドヘイ
米国女流新聞記者兼飛行家
支那紙察
新嘉坡より
昭和十三年二月十二日
南京大虐殺に関する記事なし
ジョンカーター
米国新聞記者
戦地視察
昭和十三年二月二十五日
市俄古より
南京大虐殺に関する記事なし
ノーブル
英国長江艦隊司令長官海軍少将
長江方面視察
昭和十三年二月十七日
南京大虐殺に関する報告なし
ビット
米国新聞記者
戦地視察
昭和十三年二月二十三日
南京大虐殺にかんするきじなし
以上より、中国に於ける南京虐殺は無かったと結論付けられる。
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Re: 南京大虐殺事件に関する外交官の証言
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/12/11 08:39 投稿番号: [37627 / 41162]
香
翰
屏
第四路軍副司令
戦況報告
昭和十二年十二月八日
通常戦闘の記録のみ
曾
聖
提
外六名
戦地派遣南洋新聞記者団
戦況通信
昭和十二年十二月十四日
南京虐殺に関する記事なし
リツル
英国支那艦隊司令官
上海より帰任
昭和十二年十二月十四日
南京虐殺に関する報告なし
孫
科
全国経済委員会委員
時局に関し欧州各国へ宣伝
昭和十二年十二月十七日
南京虐殺に関する宣伝なし
甘
介
候
第五路軍顧問
昭和十三年一月六日
漢口より事務打合せ
南京大虐殺に関する報告なし
宗
美
齢
蒋介石夫人
昭和十三年一月十二日
漢口より事務打合せ
南京大虐殺に関する話し無し
劉
瑞
恆
軍事委員会軍医所長
上記事務打合せ
報告なし
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続: 南京陥落による戦没者の遺体の埋葬
投稿者: maximirion 投稿日時: 2011/12/11 06:38 投稿番号: [37626 / 41162]
ところで、中国側提出の資料である「崇善堂埋葬隊埋葬死体数統計表」などによれば、城外の遺体の収容と埋葬に擁した人員は、埋葬隊の規模について、第1隊〜第4隊の4個分隊、1分隊に主任1人、隊員1人、人夫が10人とありますから、合わせて50人程度。
50人程度の人員が、僅か3週間余りで広範囲な城外を掛け巡って10万5千体足らずの以外を回収して埋葬できてしまうのだから、超人揃いで相応に大量の遺体回収と埋葬のノウハウを持ち合わせていた集団なのでしょう。
それほどまでに、数万以上の遺体回収と埋葬の必要があったのが南京周辺の地域性なのでしょうかね。
まあ、確かに南京では過去にも虐殺で死体が溢れた歴史があるけどね。(笑)
棺は使ったんだろうかね。
使ったとすれば、そっちの方も大変な大仕事だよね。
実際に遺体の回収と埋葬を担ったのは、紅卍会と自治委員会↓だ。
「中華民国27年度南京市概況」
〈棺桶および死体の処理
城の内外に散在した死体は紅卍字会および自治委員会救済課で埋葬隊を組織して処分し、又事変前から未だ埋めていなかった棺桶は管理者に埋葬せしめ、管理なきものは南門外に運搬して埋葬した。(督弁南京市政公署秘書処編・中華民国28年3月出版)〉
大阪朝日新聞
北支版1938年4月16日付け(一部抜粋)
〈戦いのあとの南京でまず整理しなければならないものは、敵の遺棄死体であった。
濠を埋め、小川に山と重なっている幾万とも知れない死体、これを捨ておくことは、衛生的にいっても人心安定の上からいっても害悪が多い。
そこで、紅卍会と自治委員会と日本山妙法寺に属するわが僧侶 らが手を握って片づけはじめた。腐敗したのをお題目とともにトラックに乗せ一定の場所に埋葬するのであるが、相当の費用と人力がかかる。
人の忌む悪臭をついて日一日の作業はつづき、最近までに城内で1793体、城外で3万311体 を片づけた。約1万1千円の入費となっている。苦力も延5、6万人は動いている。しかしなお城外の山かげなどに相当数残っているので、さらに8千円ほど金を出して真夏に入るまでにはなんとか処置を終わる予定である。(林田特派員)〉
中国政府が軍事裁判用に作成した資料のでは、崇善堂埋葬隊埋葬は12月28日からの104日間での城外作業で処理したことになっている。
だが、崇善堂埋葬隊が自治委員会に陳情している文書は、年の明けた2月6日付けになっている。
これは メッセージ 37625 (maximirion さん)への返信です.
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南京陥落による戦没者の遺体の埋葬
投稿者: maximirion 投稿日時: 2011/12/11 06:38 投稿番号: [37625 / 41162]
崇善堂の存在を裏付ける資料はあっても、其処にあるのは炊き出しの類の奉仕活動の記録。
遺体を片付ける及び埋葬するなどに従事したことを表す記録や資料が殆どない。
あるのは、3件の資料。
一つは、南京市崇善堂報告の文書だ。
南京市崇善堂報告書≪南京市崇善堂埋葬隊活動一覧表≫付属文書
--------------------------------------------------------------------------------
付属文書
一
本堂は、同胞の惨死体がいたるところに散乱しているのを悼み、特別崇字埋葬隊を組織し、紅卍字会と協力した。紅卍字会は市西部の埋葬を担当し、本堂は市東部の埋葬を担当した。全部で四隊、各隊に主任を置き、食事つき、無給であった。隊員一人につき一日八合[
中国の一合は約0.5合
]、隊員10名につき一日米□六合を給した。
--------------------------------------------------------------------------------
『南京事件資料集・中国関係資料編』P277
二つ目は、1938年2月6日に崇善堂埋葬隊長周一漁が南京自治委員会に宛てた書簡。
崇善堂埋葬隊長周一漁が南京自治委員会に宛てた書簡
--------------------------------------------------------------------------------
1938年2月6日
中華民国二十七年二月七日着
拝啓
査するに幣堂が埋葬隊を成立させてから今まで一ヶ月近くたち、作業割当ては大変頻繁であります。しかし車両が大変不足しております。そのうえ今や春となり、気温が上昇してきております。残っている遺体を迅速に埋葬しなければ、おそらく遺体が地面に露出し、関係する公共衛生はまことに少なくないと存じます。一漁、ここにご高覧を仰ぎたく存じ上げます。幣堂所有の自動車は二十四年製造のものであり、目下修理に急を要しますので、次の各用品を配給されたくとくに書簡でお願い申し上げます。
1
バッテリー
2
ピストン肖子
3
クラッチ等
貴会がどうか補助の方法を講じ、事業に利をあたえ、慈善事業を推し進めることができますよう、この段どうかどうかご明察のほどあわせてお願いもうしあげます。
ご返事はこのうえにいただければ幸甚でございます。
南京市自治委員会御中
南京崇善堂埋葬隊長
周一漁
(以下、委員会の指示)
直接丁三自動車修理部と相談するように
2月8日
--------------------------------------------------------------------------------
(侵日軍南京大屠殺遇難同胞記念館所蔵資料より)
『南京事件資料集』中国関係資料編P278
南京在郷の豊かとはいえない慈善団体のようですね。
そしてもう一つは、中国政府が極東国際軍事裁判と中国の軍事裁判などの為に証拠資料として作成した文書で、紅卍会とは別に埋葬に当たった民間団体としてその処理数と作業期間が記されているだけだ。
その処理数とは、崇善堂埋葬隊が4月9日から5月1日までのわずか23日間に、南京城の南方および東方の近郊で10万4718体もの遺棄死体を埋葬し、12月28日から4月8日の104日間をかけて、城内で7548体を埋葬したというもの。
これは メッセージ 37616 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京大虐殺事件の被害者数
投稿者: maximirion 投稿日時: 2011/12/11 04:50 投稿番号: [37624 / 41162]
これは メッセージ 37615 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京陥落による蒋介石軍雑兵の行方
投稿者: maximirion 投稿日時: 2011/12/11 04:22 投稿番号: [37623 / 41162]
南京防衛で、蒋介石軍兵士として連行されていた、全体の4割を占めたとされる雑兵。
大虐殺肯定派の拠りどころであるラーベの日記には、新米兵として以下のように記述される。
【ラーベの日記より】
11月17日
新たに徴集された新兵、かれらはなんというひどい格好をしているのだろう。程度の差こそあれ、みな、ぼろをまとって、荷物を背負い、さびついた猟銃をかついでいる。
11月18日
(船で漢口やその先に避難するため、揚子江に向かう「力車や荷馬車、乗用車、トラック」が荷物を満載して昼夜となく町からでていくのと、)
時を同じくして、北部から新米兵の隊列があとからあとからやってきた。どうやら、あくまでも(南京を)防衛する覚悟らしい。兵士は、ぎょっとするほどみすぼらしい身なりだ。みな裸足で、黙々と行進してくる。果てしなく続く疲れ切った人々の無言の行列。
これらをみると、義勇兵というものでもなく民兵というものでもないらしい。
蒋介石軍が、雑兵として労役や使役を目的に何処其処から徴発連行した民間人を雑兵として正規軍に組み入れていた、とみるべきであろう。
彼らの兵装とは
・ぼろをまとう
・裸足
・錆付いた猟銃
・行軍中は荷物を背負う
彼らが、戦闘中に猟銃を持って敵兵に遭遇すればどうなるか。
1.捕虜となる権利のない便衣兵と看做され、現行犯で射殺される。
2.戦闘員と認識できる識別章を付けていれば、戦闘員として撃たれるか捕縛される。
3.戦闘員として認識された場合に限り、投降を申し入れて受け入れられる可能性がある。
彼らが、もとから蒋介石軍兵士として識別できるものを何も付けて以内のであれば、正規の戦闘員と認識される可能性は殆どない。
猟銃を捨てれば、そのまま民間人となりえる身なりで行軍してきたのであるから、既存の正規兵でさへ軍服を脱いで隠遁を図った事実からすれば、彼らは逸早く武器を捨てて民間人に戻って安全区内へ避難したことは容易に推して量れる。
でなければ、猟銃で南京錠防衛の戦闘に身を捧げて死亡する。
そうした場合、戦闘終了後に発見される彼らの骸は、戦闘に巻き込まれた民間人犠牲者としてカウントされて回収されるわけだ。
安全区へ逃げ込んだ場合に、その後民間人としてい続ければ十分生き残れたことであろう。
そういう者達が、陥落直前や陥落後に安全区へ逃げ込む場合にどう言って安全区を管理する外国人の聴取にこたえるであろうかは、推して量るに難くない。
安全区から出ることなく、陥落当時の状況を安全区外から避難してきた中国民間人に聴取したとして本国に報告書を提出していた英米独などの公館職員達は、陥落前には安全国民間人は殆どいなくなっていたとも報告している。
彼らが、安全区から出た頃には既に南京城もその周辺も陥落前から始まった破壊と略奪で荒れ果て、片付かぬ遺骸があちこちに見受けられる状態であったのだ。
これは メッセージ 37615 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京陥落に関する外国人記者の証言
投稿者: maximirion 投稿日時: 2011/12/11 04:10 投稿番号: [37622 / 41162]
NYタイムズのダーディン記者のレポート
〈確かに、蒋将軍はあのような大混乱の起こるのを許すべきではなかった。
確かに唐将軍も自分が最後までやり通すことができず、とどのつまりは不首尾に終わった。犠牲の道にふみ出したことは強く非難さるべきである。
唐らは、その日いくつかの小部隊の援護で、日本軍が市内深く侵入するのを支えながら、総退却の配置をすることによって、状況を救う何らかの努力をしてもよかったのだ。そんなことが行われた様子もなく、いずれにせよ状況は改善されなかった。唐は自分の幕僚の多くのメンバーにさえも知らせず、指揮官なしに軍を置き去りにしたことは、全面的破壊の合図となった。〉
〈日本軍が句容をこえて(12月7日)、進撃しはじめたことが中国軍による焼き払いの狂宴の合図となったが、これは明らかに城壁周辺で抵抗するために土壇場の準備を行っているものであった。
中国の「ウエストポイント」である湯山には、砲兵学校と歩兵学校、それに蒋将軍の夏期臨時司令部が置かれているが、そこから南京へ向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。
村ぐるみ焼き払われたのである。
中山陵園内の兵舎・邸宅や、近代化学戦学校、農業研究実験室、警察学校、その他多数の施設が灰塵に帰した。火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられたが、これらの地区はそれ自体小さな市をなしているのである。
中国軍による焼き払いによる物質的損害を計算すれば、優に2000万ドルから3000万ドルにのぼった。
これは、南京攻略に先立って何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害よりも大きいが、おそらく実際の包囲期間中における日本軍の爆撃によって、また占領後の日本軍部隊によって生じた損害に等しいであろう。
中国軍部は、南京市周辺全域の焼き払いを軍事上の必要からだ、といつも説明してきた。
城壁周辺での決戦で日本軍が利用できそうなあらゆる障害物、あらゆる隠れ家、あらゆる施設を破壊することが必要だというのだ。
この目的のために、建物ばかりでなく、樹木・竹やぶ・茂みなどもすっかり焼き払われた。
「中立国の観察者の信じるところでは、この焼き払いもまた、かなりの程度は中国人の“もったいぶったジェスチュア”であって、怒りと欲求不満のはけ口であった。
それは、中国軍が失えば日本軍が使用するかもしれないものはすべて破壊したいという欲望の表れであり、極端な《焦土化》政策の表れであって、日本軍が占領する中国の各地方を、征服者には何の役に立たない焦土にしておこうというのであった〉
〈土曜日(11日)には、中国軍による市内の商店に対する略奪が拡がっていた。
住宅には手を触れていなかったし、建物に入るために必要な限りの破壊にとどまっていた。
略奪の目的が食糧と補給物資の獲得にあることは明らかであった。
南京の商店は安全区以外では経営者が逃げてしまっていたが、食糧は相当に貯蔵してあった〉
〈日曜日(12月12日)の正午(中略)、侵略軍(日本軍)が西門(水西門)付近から城壁をよじのぼると(第6師団三明部隊の一番乗り)、中国軍の崩壊が始まった。第八八師の新兵がまず逃走し、たちまち他の者がそれに続いた。夕方までには大軍が下関(シャーカン)の方へあふれ出たが、下関門(把江門)はまだ中国軍の手中にあった。(※このとき把江門でパニック状態が起き、人なだれとなって多くの中国人が死傷している。)
将校たちは(この)状況に対処することもしなかった。一部隊は銃を捨て、軍服を脱ぎ、便衣を身につけた。記者が12日の夕方、市内を車で回ったところ、一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽と言ってもよいほどの光景であった。多くの兵士は下関(シャーカン)へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。小路に入り込んで便衣に着替えてくる者もあった。中には素っ裸となって一般市民の衣服をはぎとっている兵士もいた〉
これは メッセージ 37614 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京陥落に関する証言を伝える記事
投稿者: maximirion 投稿日時: 2011/12/11 03:15 投稿番号: [37621 / 41162]
東京日日新聞、1937年12月9日付け
〈 南京城外数百の村落 は敗退する支那軍の放火によってことごとく焼き払われ、黒煙もうもうとして空をおおっている。焼き払われた各村落の住民は着のみ着のままで市内の避難区に陸続と遁入、・・・。市内では暴徒が民家の掠奪破壊をはじめた。・・・ 〉(NY12月7日発同盟通信・AP南京電)
朝日新聞、9日付け
〈首都陥落を前にして支那軍はなおも最後の足掻きに必死になっており、7日も南京市外10マイルの地域内にある全村落 に火を放ち、日本軍の進撃に便宜を与えるような物はすべて焼き払わんとしているため、南京市はもうもうたる黒煙に包まれてしまった。・・・焼け落ちた家々からは今まで今まで踏みとどまっていた村民の群が、僅かばかりの家財道具を背負ったり、小脇に抱えたりしてよろめきながら城内指して逃げ込んで来る。・・ 〉(NY特電12月7日発、ダーディン記者)
東京日々新聞
12月20日付け夕刊
〈この蒋委員長の都落ちが伝わるや、全市民は家財を抱えて難民区へなだれ込んだ。〔18日志村特派員発〕(外国人日誌の抜粋記事)〉
東京日々新聞
12月20日付け
〈12月12日、城外の支那軍総崩れとなり、87師、88師、教導総隊は、学生抗日軍を残して市内に雪崩れ込み、唐生智は激怒して彼が指揮する36師に命じ、これら敗残兵を片っ端から銃殺するも、大勢如何ともする能はず、唐生智もまた憲兵と共に夜8時ころ何処ともなく落ちのぶ。
敗残兵の放火、掠奪なさざるはなく、恐怖に陥る。
電灯は消え、月光淡く、この世の末すと疑はる。
電話全く不通となる。〉
ニューヨーク・タイムズ1月4日付け
〈南京の金陵女子大学に避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、
逃亡中の大佐1名とその部下の将校6名をかくまっていたことを発見し、心底から当惑した。
実のところ教授たちはこの大佐をそのキャンプで2番目に権力ある地位につけていたのである。
この将校たちは支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから女子大の建物に住んでいて発見された。
彼らは大学の建物の中にライフル6丁と、ピストル5丁、砲台からはずした機関銃1丁に、弾薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。
この将校たちは南京で略奪したことと、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には日本兵が襲った風にしたことを、アメリカ人たちや他の外国人たちのいる前で自白した。
この元将校たちは逮捕された。戒厳令に照らして罰せられ、おそらく処刑されるであろう。〉
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南京陥落に関する外国人の証言
投稿者: maximirion 投稿日時: 2011/12/11 03:13 投稿番号: [37620 / 41162]
12月8日ラーベ日記
〈城壁の外はぐるりと焼きはらわれ、焼け出された人たちがつぎつぎと(安全区へ)送られてくる。〉
米南京副領事館エスピーの本国政府への報告
〈市民の大部分は南京国際委員会の計画設定するいわゆる『安全地帯』に避難しおり、相当数の支那兵を巧みに捕捉するはずなりしが比較的少数なりしなり、実際に残留せる支那兵の数は不明なれども、数千の者はその軍服を脱ぎ捨て常民の服を着て、常民に混り市内のどこか都合良き処に隠れたるに相違なきなり〉
米南京副領事館エスピーの東京裁判への提出報告
〈ここに一言注意しおかざるべからざるは、支那兵自身、日本軍入城前に掠奪を行いおれることなり。最後の数日間は疑なく彼らにより人および財産に対する暴行・掠奪が行われたるなり。支那兵が彼らの軍服を脱ぎ常民服に着替える大急ぎの処置の中には、種々の事件を生じ、その中には着物を剥ぎ取るための殺人をも行いしなるべし。
また退却する軍人及び常民にても、計画的ならざる掠奪をなせしこと明らかなり。
すべての公の施設の機能停止による市役所の完全なる逼塞(ひっそく)と支那人と大部分の支那住民の退却とにより市に発生したる完全なる混乱と無秩序とは、市をいかなる不法行為をも行い得らるる場所となし終われるなり。
これがため残留せる住民には、日本人来たれば待望の秩序と統制との回復あるべしとの意味にて、日本人を歓迎する気分さえもありたることは想像せらるるところなり。(法廷証第328号=検察番号1906号中の一部を弁護人が朗読したもの=速記録210号)〉
南京アメリカ大使館通信〜エスピー報告
http://1st.geocities.jp/nmwgip/nanking/SP.htmlドイツ大使館のシャルフェンベルク事務長の本国への報告
2月10日付
〈ラーベは最近、日本兵による血なまぐさい事件をまたぶり返し、それを阻止すべく、あいかわらず奔走している。
だが私の意見では、ドイツ人はそんなことを気にとめるべきではない。
なぜなら南京の中国人らが日本人に頼り、仲良くなっていることは、見れば明らかなことだ。第一、暴行事件といっても、すべて中国人から一方的に話を開いているだけではないか。〉
金陵大学ベイツ教授
〈南京の城壁に直接に接する市街地と南京の東南京郊外ぞいの町村の焼き払いは、中国軍が軍事上の措置としておこなったものである。それが適切であったかなかったかわれわれの決定しうることではない〉
〈南京攻略に先だって何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害」よりもさらに甚大な破壊と、放火と掠奪が行われたというのである。しかも、東京裁判ではこれらの焼き払いと掠奪の狂宴は、すべて日本軍の仕業に置き換えられ、南京における日本軍の暴虐事件として告発されているのである。〉
これは メッセージ 37614 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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続\南京事件の証人とされる外国人
投稿者: maximirion 投稿日時: 2011/12/11 02:38 投稿番号: [37619 / 41162]
三、昭和十三年・月六日に掃任したアメリカ大使館員
(エスピー副領事)
一月十五日からこ十四日の間に作成された大使館通信、通称エスピー報告で有名。
そこには宣教師報告の影響が随所に見える。
(アリソン三等書記官)
エスピー報告はアメリカ人の記述に基づくことを附記しているアリソンも、彼等の報告に振り回され、リッグスと共に日本軍歩哨に殴打されるなどした。
しかし東京裁判には出廷せず、後には駐日大使となった。
四、一月十日に帰任したドイツ大使館員
(ローゼン書記官)
アメリカ人宣教師顔負けの強烈な反日的言動を続けて、ラーべも手を焼いていた。
そのようなローゼン文書が、友好国ドイツさえ日本軍を非難していた証拠とされている。
ユダヤ人祖母を持っていたため、一九三八年のうちに休職に追い込まれた。
(シャルフェンベルク事務官)
帰任直後は日本軍をチンギス・ハ−ン軍の暴逆になぞらえていたが、やがて真相が分かったらしく、「アメリカ人宣教師に手なずけられたラーべ」と言う批判をしている。
五、上海にいた新聞記者
(H・アベンド)
ニューヨーク・タイムズ。
打続く日本軍の暴逆情報に、彼等は反乱状態にあるのではないかと誤解した。
(H・テインパレー)
オーストラリア人でフリーランサーの記者。
当時はマンチェスター・ガーディアンの記者だったが、昭和十三年一月頃から、国民政府中央宣伝部顧問になっていた。
「南京(大虐殺)事件」外国人情報の流れ
1.12/15午前中に安全区内を廻ったラーべの実見談がペイツによって改竄され、メモの形で新聞記者に渡って12/15以降の記事となる。2.12/16以降、国際委員会と金陵大学緊急委員会から、彼等の得た伝聞情報が文書になって日本大使館に提出さる。
2.1/7以降、文書の提出先がアメリカ大使館に切替えらる。
3.2/初旬以降、以上の情報を主とする安全地帯の記録と外国人の日記・書信頼が、ベイツからティンパレーに送られ、「外国人の見た日本軍の暴逆」の資料となる。
これは メッセージ 37618 (maximirion さん)への返信です.
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南京事件の証人とされる外国人
投稿者: maximirion 投稿日時: 2011/12/11 02:37 投稿番号: [37618 / 41162]
作・松村俊夫
一、昭和十二年十二月十五日
アメリカ軍艦オアフ号で南京を退去した新聞記者
(F・T・ダーディン)ニューヨーク・タイムズ。
日本軍による大虐殺を報道した証人として最も有名。陥落後はアメリカの大使館で起居し、市内を廻っていた。
(A・T・ステイール)シカゴ・デイリー・ニューズ。
十二月十五日にオアフ号から第一報を発信。
(C・Y・マクダニェル)AP通信社
(L・C・スミス)ロイター通信社
ペイツらと同居していたこのニ人の記事にはアメリカ人宣教師からの影響は殆ど見られない。
尚、他にパラマウント映画社のメンケンもいたが、映像は残っていない。
(C・M・マクドナルド)ロンドン・タイムズ。
バネ−号に乗っていて遭難した。救助されて南京埠頭を通過したが、城内には入っておらず、従ってその記事はすべて伝聞。
二、南東に残留していた外国人
【ドイツ人】
(ジョン・ラ−べ)
世界的兵器・電機コンツェルン、ジーメンス社の南京支社長。
アメリカ権益が集中した地区にアメリカ人宣教師が設定しようとした安全区構想が出来たあと、国際委員会委員長として招かれたこ熱烈なヒトラ事崇拝者と
してのナチス党員。協力者にクレTガー、スペルリングがいる。
【アメリカ人宣教師】
(マイナ−・ベイツ)
金陸大学歴史学教授こ国際委員会の中心メンバーで金陵大学緊急委員会委員長を兼ね、その財政責任者でもあった。
上海にいたティンパレ−に「南京情報」を流し、南京と東京の軍事法廷では自己の行動を正当化して、日本軍の暴行を糾弾するためには偽証も辞さなかった。
(チャ−ルズ・リッグス)
金懐大学でペイツの片腕となり、日本軍指弾の先鋒として動いていた。
(ジョン・マギ−)
本事件で最も有名な牧師。
眼前に見た被害者はすべて日本兵が加害したとの思い込み強く、東京裁判でも証言した。
彼が撮った十六ミリフィルムは、日本軍による大虐殺の証拠とされるが、主として鼓榎病院内のものだったからか、アメリカ国務省もマスコミも無視した。
(ジョ−ジ・フィッチ)
YMCAに所属。蘇州生まれで中国語が堪能だった。
安全区内に潜む便衣隊と接触していたらしい。
マギーのフィルムを持って帰米し、全米を反日と宣教師の活動を宣伝する講演旅行をして廻った。
(ロバート・ウィルソン)
鼓樽病院の外科医師。
十二月十三日以降に担ぎ込まれたり治療を求めてきた患者が、銃創・刀傷・火傷を問わず、すべて加害者は日本兵だったと訴えたことをそのまま信じた。
東京裁判で証言。
(ルイス・スマイス)
金陵大学社会学教授。
国際委員会の秘書として、日・米大使館などへの文書作成に従事。
南京市内外の戦争被害調査を完成させたとして著名。
以上のうち、マギーを除く五名と、マッカラム、ミルズ、ソーンを含む合計ハ名の宣教師が共同生活をしていたから、彼等が夫々に書いた日本兵の暴行記事は殆ど重複している。
マギーは同じ宗派のフォースターと共に教会に住んでいた。
尚、大学病院(鼓樺病院)にトリマー医師、バウアー、ハインズ両看護婦、金陵女子文理大学院のミス・ヴオートリンが難民の世話をしていた。
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南京大虐殺による犠牲者の遺体の行方(3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/10 19:53 投稿番号: [37617 / 41162]
日本軍側の資料にも、数千
あるいは
数万の単位で
捕虜を
処断した
と記録されている。
はたして、これほど
大量の
殺戮が可能だったのかと
疑問に思う人は
少なくないだろう。
南京虐殺「マボロシ派」などは、ハナから
否定するだろう。
ところが
近代戦において、これは
じつに
簡単なことだ。
1万人を
機関銃で
殺害するには、10丁の
軽機関銃で
弾丸が十分に補充されれば、1時間以上
かかることはない。
つまり、1個歩兵中隊
200名程度の
兵力さえ
あれば
無抵抗の人間
1万人を、30分もあれば
全員射殺できる。
1個連隊で
12個歩兵中隊を
保有しているから、無抵抗の
1万人を
殺害したところで
局所の出来事に
すぎない。
南京に進軍した
総数20万もの日本軍の各兵士が、銃弾や
銃剣、各中隊に備わる機関銃などを用いれば、抵抗できない
捕虜などの大量殺戮は、いたって
容易だった
と言える。
当時、南京に駐在していた
ドイツ外交官が記録した文書が
残されており、文字通りの正式外交文書として
ドイツ本国
との
やりとりが、記されている。
以下に
引用しよう。
(岩田勇治訳『資料・ドイツ外交官の見た南京事件』大月書店)
南京入城のさいの
日本軍の所業については、語らぬに
越したことはない。チンギス=ハーンを思い出さずには
いられないほどの徹底した破壊ぶりであった。ある陸軍
参謀の中佐の話では、上海から南京へ向かっていた食糧
輸送部隊はついに本隊のもとに戻らなかったそうである。
この一件からも、日本軍が、ここでは
まるであの
ベルゼルカーのごとく
何もかも
負り尽くしたことが
わかるであろう。
空き家は
ただちに焼き払われた。
(中略)
こうして南京に残っていた女という女はまったくひどい
目にあわされた。
これを
目の当たりにした男たちと
このことについて話をするのは容易ではない。残忍非道な
行為にたいする嫌悪感が、かれらの胸によみがえるからだ。
日本国内では
いまだに
この虐殺事件をめぐって「論争」が
止まない。
いくら
無益と思っても
ふっかけられる「論争」を
避けるわけにはいかないが、虐殺そのものの否定や
学問を装う
自由主義史観の
「学者」もどきの主張も含めて、これらの論は
国際社会という舞台では
歯牙にもかけられるものではなく、
狭い日本の、その
ごく一部でしか、通用しないものだという
世界の常識ぐらいは
知っておくべきだろう。
これは メッセージ 37616 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京大虐殺による犠牲者の遺体の行方(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/10 19:52 投稿番号: [37616 / 41162]
前述した
慈善団体などによる
遺体の
収容・埋葬に関して
とくに
多数の埋葬作業にあたった団体としては、「紅卍会」と
「崇善堂」
があり、1937年12月から
38年3月までに
両者で
15万5000体以上を
埋葬している。
東京裁判でも
南京虐殺事件の最大の証拠とされたのが、これら
慈善団体などによる作業報告だった。
南京虐殺マボロシ派は、こうした数字は
ウソだ
と決め付ける。
特に、崇善堂などは民間の葬儀屋なので、多額の報酬を得るため
数を水増ししているのだ、という説を唱えるものも
少なくない。
たしかに、崇善堂は
日本軍の依頼にもとづき業務にあたったと
されている。
軍が依頼し
報酬を支払った
のであれば、当然
その費用は公金であり、最低限の実績確認・検査は行ったはずだ。
水増しがあった
と仮定しても、日本の役人の目を
欺くのにも
限度というものが
あっただろう。
なお、通常
戦場の掃除は
自軍兵士や
捕虜が実行する。
軍が民間人に
委嘱したことは、
大量に捕虜を殺害したため労働力不足であるうえに、軍だけでは
処理しきれないほどの遺体が存在していた証拠ではないだろうか。
紅卍会と
崇善堂による遺体収容は、南京行政区の中だけであり、
周辺地域や
南京沿いを除く
揚子江などは
含まれていない。
さらに、遺体埋葬を行ったのは
この2つの組織だけではなく、
紅十字会(赤十字)など
複数の機関も
別途実施した。
したがって、南京周辺だけに限っても
約20万以上の
遺体が
あったということは、間違いない事実だ
と考えられる。
大量の遺体が遺棄されていたという事実は、日本軍の関係者も
記録している。
たとえば、第16師団の佐々木到一支隊長は
日記に
次のように
記している。
「この日、わが支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は1万数千に
上り
その外、装甲車が江上に撃滅したもの
ならびに各部隊の
俘虜を合算すれば、我が支隊のみにて2万以上の敵は解決されて
いる筈である。(中略)
午後2時ごろ、概して掃蕩を終わって
背後を安全にし、部隊を纏めつつ前進、和平門にいたる。」
「その後俘虜続々投降し来たり数千に達す、激昂せる兵は上官の
制止を肯かばこそ、片はしより
殺戮する。
多数戦友の流血と
十日間の辛酸を顧みれば
兵隊ならずとも『皆やってしまえ』と
言いたくなる。」
「白米は
もはや一粒もなし、城内には
有るだろうが、俘虜に
食わせるものの
持ち合わせなんか
我が軍には無い筈だった。」
(佐々木到一少将私記「南京戦史資料集」南京戦史編集委員会編、
偕行社、1989年より引用)
佐々木少将が
大ウソつき
でなければ、支隊のみで2万以上の
敵兵を「解決」したこと、俘虜だと認識しながら
殺戮したこと、
食料も底をつき
俘虜の給養は不可能であった状況
などが判る。
このほかにも
数千あるいは数万の単位で捕虜を処断した事実を
記録している軍関係の資料が
残されている。
では、短期間に
これほどの大量殺戮が
可能だったのだろうか。
これは メッセージ 37615 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京大虐殺による犠牲者の遺体の行方(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/10 19:52 投稿番号: [37615 / 41162]
現在の南京城内外には、数多くの集団埋葬地が
存在している。
南京大学(旧金陵大学)
天文台そばの
金陵大学難民収容所及
遇難同胞記念碑、紫金山を望む中山陵(孫文陵)近くにある
集団埋葬地などは
その一つ。
また、北極山の
至る所に
埋められた遺体叢葬の記念碑の数は、じつに
二千を超える。
資料によると、犠牲者の遺体は
次の5つのルートで
埋葬、
処理された
と考えられる。
①国際委員会によるもの
同委員会のメンバーであるベイツは、戦後の東京裁判で証言し、
南京陥落後
72時間以内に、国際委員会が雇った
労働者が
埋葬した軍人・市民の遺体は「3万体に達した」と語っている。
②慈善団体や宗教団体等によるもの
南京城内外に放置された
遺体の埋葬作業にあたった
団体で、
紅卍会
43,123体、
崇善堂
112,267体、
中国赤十字社
22,683体、合計
約178,000体の
埋葬記録がある。さらに
同善堂という団体が7,000体余
を埋葬したとされる。
③市民の埋葬によるもの
市民の手で
合計36,000体あまりを収容・埋葬している。
湖南の木材商
盛世征、昌開運が出資して行った
水西門外の
遺体収容が28,730体、城南市民の
張瀉儒、楊広才らが
難民を組織して
中華門外の
7,000体あまりを
収容、
また、回教徒の埋葬隊が収容・埋葬した遺体は
約400体。
④汪兆銘政権政権によるもの
日本軍の傀儡政権、汪兆銘政権(南京政府)
の市、区の
両級機関の
共同組織が
7,400体を
収容・埋葬した。
うち、第一区役場が
1938年2月に
同区の所轄内で
1,233体を収容。下関区役場が37年12月15日から
38年1月までに、3,240体を収容。
南京市政公署の
監督官高冠吾が
38年12月から
39年の
春にかけて、
衛生局に命じ、中山門外の霊谷寺、馬群一帯の3,000体
あまりを
収容している。
⑤南京進駐日本軍によるもの
日本軍は
部隊を動員して
合計15万体を焼却・処理した。
うち、南京停泊場の司令部の
足立少佐と
大田寿男が率いた
部隊は、10万体を
長江に投げ捨てたり、江北に運んで焼却・
土中に埋めたとされている。
南京に侵攻した部隊が処理した
ものは、5万体。
上述した
遺体収容・埋葬処理の記録を
単純に加算すると
40万体にのぼる。
ただし、収容・処理された
遺体には
重複して集計されたものも
含まれている可能性がある。
また、捕虜や市民ではなく、交戦中に戦死した中国軍兵士の
遺体も相当数
含まれている
と考えるべきだろう。
なお、日本軍の
記録によれば、揚子江に
投げ込んだり、
城外において
密かに埋めた遺体も
数多い
と思われる。
収容できなかったものは記録されず、正確な数を把握する
ことは、ほぼ
不可能である
と言える。
したがって、
公式には、東京裁判が
認定した
南京大虐殺の犠牲者数
「30万人以上」
としか
言えないのだ。
これは メッセージ 37614 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京大虐殺事件に関する外交官の証言
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/10 19:50 投稿番号: [37614 / 41162]
南京虐殺に関しては、これまで
おもに軍の記録や兵士の証言を
客観的資料を
提示してきたが、当時の
外交官による
証言も
参考として
引用してみたい
と思う。
外交官の名は、石射猪太郎という。
彼は、近衛内閣の
外務省東亜局長として、
軍部の日中戦争拡大方針に反対したことで知られている。
彼は、南京事件に関して
次の記述を残している。
南京は暮れの13日に陥落した。わが軍のあとを追って南京に
帰復した福井領事からの電信報告、続いて
上海総領事からの
書面報告がわれわれを慨嘆させた。南京入城の日本軍の
中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である。
憲兵はいても少数で、取締りの用をなさない。制止を試みたが
ために、福井領事の身辺が危いとさえ報ぜられた。
一九三八(昭和13)年一月六日の日記にいう。
上海から来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。
掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。
嗚呼これが皇軍か。
日本国民民心の頽廃であろう。大きな社会問題だ。
南京、上海からの報告の中で、最も目立った暴虐の
首魁の一人は、元弁首魁の一人は、元弁護士の某応召中尉
であった。
部下を使って宿営所に女を拉し来っては
暴行を加え、悪鬼のごとくふるまった。
何か言えばすぐ銃剣をがちゃつかせるので、危険で
近よれないらしかった。
私は
三省事務局長会議で
たびたび陸軍側に警告し、
広田大臣からも
陸軍大臣に軍紀の粛正を要望した。
軍中央部は
無論現地軍を
戒めたに相違なかったが、
あまりに大量の暴行なので手のつけようもなかったのであろう、
暴行者が、処分されたという話を耳にしなかった。
当時
南京在留の外国人達の組織した国際安全委員会
なるものから日本側に提出された報告書には、
昭和13年1月末、数日間の出来事として、七十余件の
暴虐行為が詳細に記録されていた。
最も多いのは強姦、六十余歳の老婆が犯され、臨月の女も
容赦されなかったという記述は、ほとんど読むに耐えない
ものであった。
その頃、参謀本部第二部長本間少将が、軍紀粛正のため
現地に派遣されたと伝えられ、それが巧を奏したのか、
暴虐事件はやがて下火になっていった。
これが聖戦と呼ばれ、皇軍と呼ばれるものの姿であった。
私は
その当時からこの事件を
南京アトロシティーズと
呼びならわしていた。
暴虐という漢字よりも
適切な語感が
出るからである。
日本の新聞は、記事差し止めのために、この同胞の鬼畜の
行為に沈黙を守ったが、悪事は直ちに千里を走って海外に
大センセーションを引き起こし、あらゆる非難が日本軍に
向けられた。
わが民族史上、千古の汚点、知らぬは日本国民ばかり、
大衆は
いわゆる赫々たる戦果を礼賛するのみであった。
(「外交官の一生」
中公文庫版
P332〜P333)
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Re: 南京への道程――武力侵攻の実態(5)
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2011/12/10 14:14 投稿番号: [37613 / 41162]
―――――――
ハーグ陸戦法規第二十三条は、「兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞える敵を殺傷すること」を禁止している。
しかしながら、戦闘の進行中で敵軍の一部が投降せんとする場合に、味方軍がこれを受諾し投降兵を収容して後方に送致する為には味方軍の進撃を中止する必要を生じその事が味方軍の勝利を危うくする惧れのある場合には、味方軍の安全と勝利を確保する為に敵軍の降伏信号を黙殺して攻撃を継続する事が軍事上必要となる。
故に、戦時法規は一定の条件下において投降の拒否を認めるのである。
この見解はオッペンハイムを始め多数の戦時国際法家に支持されている。
「投降兵の助命は、次の場合に拒否しても差し支えない。
第一は、白旗を掲げた後なお射撃を継続する軍隊の将兵に対して、
第二は、敵の戦争法規違反に対する報復として、
第三は、緊急必要の場合において、すなわち捕虜を収容すれば、彼らのために軍の行動の自由が害せられて、軍自身の安全が危うくされる場合においてである。」
(オッペンハイム)
―――――――
現実に支那事変ではどうだったのか。
南京の場合、日本軍は1万人以上の支那兵を捕虜として保護し、最後まで生存させた。
それに対し、支那軍は日本兵を捕虜として保護するようなことは一切しなかった。
約8年間に及ぶ支那事変の全期間においても、支那軍が日本兵を捕虜として保護した事実は一切ない。
支那軍に捕らえられたごく少数の日本兵が「反戦兵士」に仕立てて前線に送り出された記録があるだけだ。
支那軍は「反戦兵士」にする極めて少数の日本兵を除き1人残らず惨殺した。
まさに「皆殺し」だった。
これは メッセージ 37608 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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Re: 731部隊の人体実験 バカエモンへ
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2011/12/10 14:02 投稿番号: [37612 / 41162]
>わしは、ことし8月11日のNHKラジオ深夜便で、元731部隊(中帰連ではない人)の生の証言を聞いた。
NHKの放送を信用するのは恥ずかしいことです。
NHKが関わっている歴史関連の放送の大半は嘘っぱちの出鱈目、捏造、偽造、偏向、歪曲…のオンパレードです。
最近、NHKは偽証をしてくれる人物を探すことに躍起になっています。
これは メッセージ 37582 (oldjiiji さん)への返信です.
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Re: 731部隊の人体実験 バカエモンへ
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2011/12/10 13:59 投稿番号: [37611 / 41162]
>>そのアメリカが約10年間にわたる調査の結果、生物・化学兵器の人体実験や実戦使用については確認できなかったとした。
>と言い出したのはおまえだ。そのソースを示せと言っている。
「ない」から「ない」のであって、「ない」ソースなどない。
「ある」と言っている奴が「ある」ことを証明しろ!
どこに生物・化学兵器の人体実験や実戦使用については確認できる証拠があるんだ?
ちゃんと翻訳して、生物・化学兵器の人体実験や実戦使用については確認できる証拠を示せ!
それと、お前ら反日左翼は、「アメリカが大金をはたいて731部隊から買い取った人体実験の資料」とか「アメリカは731部隊から研究資料を提出させたことによって罪を見逃した」などと言っていた。
どこに大金はたいて買い取ったり、重罪を免除するほどの情報があるんだ?
ん?
これは メッセージ 37584 (shoujouji さん)への返信です.
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南京への道程――中国人からの提案
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/12/08 16:28 投稿番号: [37610 / 41162]
所謂順序とは
(一)反政府的態度を取らざる事、反戦的宣伝をしない事。純潔な国民の立場から、東亞大局の共同幸蘄の為に、当事者に助力して善後研究する事。当事者諒解の下に於いて(即ち中国当局から漢奸と目されず、同時に日本政府からも日奸を目されないやうにして)活動の進行を期す。
(二)この両有志者は必ずに一つの声気相應の機会を作り、相互に一つの地点に集中し、以て綿密に議論を開始する。
(三)この種の議論の結果が未だ本国当事者の同意を得る前に於いては重複検討する事を厭はず、相互同意した後に各々本国政府に対し請求方式を以て請求することを要す。
(四)請求後の手続は双方有志者によって極める。
我が中日同志諸君!この方式が効力微少なりと云う勿れ、若し努力すれば東方のことは東方人が解決するという原則に沿ふし、同時に東亞大局の為に予め永久平和の基礎を築くものであり、この成功の結果は非常に驚くべきものがあらう。西方各国の調停を待つよりも、この価値は更に偉大ではないか。然し、茲に最も必要とする事は、日本当局が武力を以て中国を屈伏せしめんとする根本企図を改変し、且つ真正の提携は決して屈服の方式を以て為し得るものではないことを確認する事である。蓋し、天下の所謂譲歩は強者が弱者に対して始めてなし得るもので、弱者を譲歩せしめようとすれば即ち屈服になる。即ち誠意のない譲歩になる。若し、東亞の永久平和を期するならば、果たして中国人民をして再び屈服の恥を抱かしめていいのであろうか。尚進んで云ふならば、東方永久の平和は同時に世界人道の幸蘄である。故に、凡ての西方有志が、世界共存共栄の為に中日双方有志者の進行に対して賛助することは我々中日同士の最も歓迎する處であって、共に同志として東方新生路の開拓に向かって邁進すべきものである。
これは メッセージ 37604 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京への道程――中国人からの提案
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/12/08 16:25 投稿番号: [37609 / 41162]
以上挙げた各方案は目前及び近き将来に於いてどれ一つ実行し得るものはない。然らば中日両国は各々絶路に向かうのみなりや否や。
我々は東亞大局を保全することを欲し、又自国を保全することを期するものである。中日両国を救うことが即ち東亞を救ふものであり、この信念が死せない以上如何なる場合に於いても拍手傍観することを許さない。茲に於いて、我々はこの難局を打開せんが為に苦思熟慮した結果、やはり第五方案が最も注意すべき解決方法であるという結論に達した。蓋し、今日両国間の抗争は表面から見ると非常に熱烈であるけれども、然し中国側から云わせれば中国の最高当局者は最初から「中国は弱国であり、職を求めているのではなく、応戦の已むなきに至った」事を言っている。これを見ても中国の抗戦は全く圧迫からの消極的なものであって、決して自動的に出た積極的なものではない。意識階級がこの無益を自畳してゐるのみならず、軍部の内に於いても少なからざる深思遠謀の高級将士が初めから穏重を主張してゐる。この思想は一部の出征将士の中にも蔓延してゐる。今後抗戦が長引く程、双方当事者の内心苦痛もこれと共に増して行くであらう。この時期に於いて、双方が事実の真相を明瞭にし、且つ発言の余地がある有志者が憤然と起これば、表面は東亞の大局の調解者として実際は双方当事者の調解者として、公明正大な態度を以て左の順序に従って難なく共同に努力し得るのではないか。所謂順序とは
(一)反政府的態度を取らざる事、反戦的宣伝をしない事。純潔な国民の立場から、東亞大局の共同幸蘄の為に、当事者に助力して善後研究する事。当事者諒解の下に於いて(即ち中国当局から漢奸と目されず、同時に日本政府からも日奸を目されないやうにして)活動の進行を期す。
(二)この両有志者は必ずに一つの声気相應の機会を作り、相互に一つの地点に集中し、以て綿密に議論を開始する。
(三)この種の議論の結果が未だ本国当事者の同意を得る前に於いては重複検討する事を厭はず、相互同意した後に各々本国政府に対し請求方式を以て請求することを要す。
(四)請求後の手続は双方有志者によって極める。
我が中日同志諸君!この方式が効力微少なりと云う勿れ、若し努力すれば東方のことは東方人が解決するという原則に沿ふし、同時に東亞大局の為に予め永久平和の基礎を築くものであり、この成功の結果は非常に驚くべきものがあらう。西方各国の調停を待つよりも、この価値は更に偉大ではないか。然し、茲に最も必要とする事は、日本当局が武力を以て中国を屈伏せしめんとする根本企図を改変し、且つ真正の提携は決して屈服の方式を以て為し得るものではないことを確認する事である。蓋し、天下の所謂譲歩は強者が弱者に対して始めてなし得るもので、弱者を譲歩せしめようとすれば即ち屈服になる。即ち誠意のない譲歩になる。若し、東亞の永久平和を期するならば、果たして中国人民をして再び屈服の恥を抱かしめていいのであろうか。尚進んで云ふならば、東方永久の平和は同時に世界人道の幸蘄である。故に、凡ての西方有志が、世界共存共栄の為に中日双方有志者の進行に対して賛助することは我々中日同士の最も歓迎する處であって、共に同志として東方新生路の開拓に向かって邁進すべきものである。
これは メッセージ 37604 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京への道程――武力侵攻の実態(5)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/08 15:54 投稿番号: [37608 / 41162]
軍中央部が捕虜についての基本方針を示さず、方面軍も捕虜の
取り扱いについての方針を
さだめなかったことから、幕僚が
かってな指示をしたり、軍や師団が不統一な指示をしたことが
結果として
捕虜の大量殺害につながったのだ。
軍や師団の幕僚が
捕虜の殺害を指示していたという記録には、
次のような例がある。
上海派遣軍の右翼、佐々木支隊の後方を進んだ独立攻城重砲兵
第二大隊第一中隊の
沢田正久中尉は、12月14日仙鶴門鎮
付近で
大部隊を捕虜にしたさいに状況を
証言している。
捕虜の数は約一万(戦場のことですから正確に数えており
ませんが、約八千以上おったと記憶します)
でしたが、
早速、軍司令部に報告しましたところ、「直ちに射殺せよ」
と言ったので拒否しましたら「では中山門まで連れて来い」
と命令されました。
(『南京戦史資料集』540頁)
第十六師団歩兵第三十旅団第三十八聯隊副官児玉義雄少佐は、
師団副官から捕虜殺害の指示があったことを
証言している。
連隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、
彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団
命令として「支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ」
と電話で伝えられた。(略)この命令だけは何としても
納得できないと思っております。
参謀長以下参謀にも
幾度か意見具申しましたが、採用
するところとならず、その責任は私にもあると存じます。
部隊としては実に驚き、困却しましたが命令やむを得ず、
各大隊に下達しましたが各大隊からは、その後何ひとつ
報告はありませんでした
(「歩兵作命甲第111号」、『南京戦史資料集』622頁)
南京攻略戦に
直接参加した部隊の中で、上海派遣軍では
第十六師団の
歩兵第三十三聯隊と
歩兵第三十八聯隊、
第九師団の歩兵第七聯隊、第三師団の歩兵第六十八聯隊の
第一、第三大隊、第十軍では第百十四師団の歩兵第六十六聯隊
第一大隊と歩兵第百五十聯隊、国崎支隊、歩兵第四十一聯隊の
第三大隊、同第十二中隊の戦闘詳報が、防衛研究所
図書館に
保存されている。
このうち、第十六師団だけに限った資料でも、12月13日の
1日だけで、少なくとも2万人以上の捕虜を
殺害した事実が
分かっている。
たとえば、同師団の
中島師団長の日記にも
13日だけで2万4、5千の捕虜を「片付けた」
としており、
佐々木旅団長も
「我支隊のみで2万以上の敵は解決した」と
記録している。
これは、第十六師団の、しかも
たった一日だけの数字であり、
日本軍全体で、数日間にわたって
展開された殲滅作戦により
どれほどの捕虜や
敗残兵と見なされた中国人が殺害されたか
想像を絶する
膨大な数字であったことは
容易に理解できる。
南京攻略戦に投入された日本軍の総兵力は、約20万に達する。
20万の兵士が
一人当たり平均で何人の中国兵を殺したのか、
今となっては不明だが、各人が銃弾や銃剣を装備しているほか、
各隊に機関銃が備わっていた状況からすれば、戦闘能力を失い
武器を捨てた捕虜たちを大量殺害するのは
簡単なことだった。
これは メッセージ 37607 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京への道程――武力侵攻の実態(4)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/08 15:53 投稿番号: [37607 / 41162]
ハーグ条約には
日本も加入し、1912年に
批准していた。
しかし、日本軍の欧米諸国の兵と中国人兵士に対する認識には
あきらかに異なる位置づけが
存在していた。
1933年に
陸軍歩兵学校が配布した
参考書「対支那軍戦闘法ノ研究」の
「捕虜ノ処置」
の項目には、次のように
書かれていた。
「捕虜ハ
他列国人ニ対スル如ク必ズシモ之レヲ後送監禁シテ
戦局ヲ待ツヲ要セズ」
「兵員ハ浮浪者多ク其存在ヲ確認セラ
レアルモノ少キヲ以テ
仮ニ之レヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ
世間的ニ問題トナルコト無シ」
中国兵捕虜は殺しても世間的に問題にならない、と教育された
日本軍将兵に、中国人蔑視の思想が根付いたのは
当然だった。
さらに、日中戦争が全面化しはじめた時点で出された陸軍次官
通牒「交戦法規ノ適用ニ関スル件」
は、以下のように示した。
「現下ノ情勢ニ於テ帝国ハ対支全面戦争ヲ為シアラザルヲ以テ
『陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約』
ノ具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラズ」
(1937年8月5日付
陸軍次官通牒陸支密第198号)
これにつづいて、「日支全面戦ヲ相手側ニ先ンジテ決心セリト
見ラルル如キ言動(例ヘバ戦利品、俘虜等ヘノ名称ノ使用)」
などはつとめて避けよ
と指示していた。
国際法規は
適用しなくてよい、捕虜という位置づけも不要
というこの指示が、とくに
敵愾心にあふれた第一線部隊の
兵士たちが捕虜を
躊躇なく殺すうえで
免罪符となった。
日本軍の包囲網が完成し、また
防衛軍側が
ギリギリまで
「南京固守」
を唱え、退却の判断が
遅れたこともあって、
10万人近い中国兵が
逃げ遅れて
投降することになった。
これに対して
日本軍側には、捕虜収容の用意は
なかった。
予想を超える大量の捕虜が発生し、その処置に窮したことが、
大量殺害の直接原因だった。
方面軍司令官松井石根大将は、
南京での捕虜殺害について
次のように
述べている。
さういふやうな勢で
捕虜も相当出来たけれども、捕虜に
食はせる物もない。
さういふ状態で
戦闘しつつ捕虜が
出来るから捕虜を始末することができない。
それで
ちよん斬つてしまふことになつた。
(中略)
始末が付かぬものだからシャーシャーと射つてしまつたの
だ。
その死骸が川に流れた。それから問題になつたのだ。
(吉田裕「南京事件と国際法」より)
松井大将の捉えていた「南京事件」
とは、外国権益の侵害と
一般市民に対する
掠奪、暴行、強姦の
軍紀風紀問題であり、
捕虜処分の問題は視野の外だったようだ。
中国兵に限っては、
捕虜として
扱わなくとも、国際法上の犯罪行為にあたるとは
考えなかったことが
うかがえる。
これは メッセージ 37606 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京への道程――武力侵攻の実態(3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/08 15:52 投稿番号: [37606 / 41162]
一方、南京防衛軍では、司令官唐生智が
南京死守を唱えていた。
このため、退却の時期を逸し、日本軍の完全包囲を
許すことに
なってしまった。
唐生智は、12日の
午後5時になってから
はじめて
撤退命令を発し、午後6時には
まっさきに渡河して
退却した。
しかし、十数万の防衛軍は
すでに
撤退の方法が
なくなっており、一挙に
崩壊してしまった。
指揮組織が消滅し、各部隊ごとに、あるいは
各個人バラバラに、
日本軍の間隙をぬって
逃れようとした。
このため
城外では
いたるところで
混戦が起こり、部隊や
小グループ、個々人で
投降する者が
続出した。
城内は、ほとんどの城門が日本軍に
押さえられたので、ただ一つ残った
下関に通じる
ユウ江門
(「ユウ」は手偏に邑)
に殺到して
大混乱に陥った。
唐生智が脱出した
下関から
揚子江の対岸に逃れる
経路には
わずかな渡河材料が
あるだけで、大混乱になり、13日の午後、
いかだや小船で
脱出しようとする中国兵が、海軍の第十戦隊の
砲艦や駆逐艦で撃滅された。
一部は東北方に脱出しようとして
14日に
山田支隊に捕らえられた。
逃げ遅れた多くの兵士は、
軍服を脱いで
安全区に逃げ込んだ。
こうして、南京防衛軍の組織は
日本軍の入城直前には
完全に
崩壊していた。
日本軍が入城した時点で、中国兵は戦闘能力を
すでに消失していた
というのが実態であり、捕虜の大量殺害を
戦闘中の行為と称して
正当化するのは
間違っている。
中支那方面軍は、17日に
松井方面軍司令官や
朝香宮派遣軍
司令官を先頭にして、各部隊の代表が参加する入城式を挙行した。
これに先立って、城内
とくに
難民20万余が
逃げ込んだ
国際安全区(難民区)
の掃討が、徹底的に
行なわれた。
敗残兵の「剔出」
と称して、兵士の疑いのある男子を引き出し、
次々と
処刑した。
その後、第十軍は
杭州攻略に向かい、
各師団は新配置に移行し、南京の治安粛正は第十六軍が担当した。
南京侵攻戦は上海戦ほどではないにせよ、防衛軍の激しい抵抗で、
日本軍にも
多くの損害が出た。
戦闘詳報などで
明らかに
なっている数字は、戦死1558人、戦傷4619人であるが、
一部不明の記録もあるため、全体としてはこれより
やや多い
数である
と推定される。
これに対する
南京防衛軍の損害は、より莫大なものだった。
防衛軍の総兵力は
約15万人だったが、そのうち包囲網から
逃れて、脱出できたものが
約6万人、残りの
9万人のうち
戦死者が
約1万人であるから、残りの8万人が武器を捨てた
敗残兵、投降兵、捕虜となったことになる。
問題になるのは、
この大量の投降者・捕虜に対する
日本軍の「処置」の方法だ。
捕虜の殺害は、明白な
国際法違反だ。
1899年に
制定された
「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」
いわゆるハーグ条約は、捕虜に対する人道的処遇を定めている。
しかし、日中戦争が全面化したとき、陸軍中央は
この戦争を
事変と称して、戦時国際法は適用せずという方針を出していた。
これは メッセージ 37605 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京への道程――武力侵攻の実態(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/08 15:52 投稿番号: [37605 / 41162]
中支那方面軍に
はじめて南京攻略が
下令されたとき、すでに
その隷下の
上海派遣軍も
第十軍も、独断で
南京に向かって
進撃していた。
上海派遣軍は、11月29日には常州を占領し、
丹陽にむかって前進中であり、第十軍は11月30日に
広徳を
占領したうえで、「独断をもって南京に向かう追撃準備を促進せん
とす」
と称して、前進を命令していた。
12月1日、中支那方面軍は、一挙に南京に
向かうのではなく、
上海派遣軍は
磨盤山山系西方の線に、第十軍は
蕪湖の線に、
各々進出することを命じた。
南京防衛陣地の前面で一旦態勢を
整え、南京の包囲網を
完成しようとするものだった。
ところが、第一線の各部隊は、南京一番乗りの
功名心にかられ、
方面軍の統率をこえて急進撃を続けた。
このため兵站、輜重が
追随できないままに、南京へ向かって
殺到することになった。
こうして、無統制のまま
南京攻撃戦は
はじまった。
上海派遣軍は、第十六、第九師団を
並列して
南京に進撃させ、
天谷支隊と第十三師団を
鎮江に向かわせた。
12月5日には
第十六師団は句容を、第九師団は南京防衛の
第一線陣地である
淳化鎮を
占領した。
第十軍の
第六師団と
第百十四師団は
並行して
南京に向かった。
中支那方面軍は、12月4日の時点で
両軍の南京攻撃準備線を
上天門、小衛、高橋門、雨花台、棉花地に統制する措置をとり、
12月7日には
「南京戦攻略要領」
を示達した。
要領は、両軍の作戦地境(城内を東西に区分)と配当城門を定め、
各師団の入城部隊を制限し、軍紀風紀の維持ならびに外国権益の
保護などを
示したものだった。
12月8日、各方面とも
南京防衛陣地への
攻撃が始まった。
上海派遣軍では、第十六師団が
12日に紫金山の線を占領した。
第九師団は10日には光華門まで達したが、南京防衛軍の抵抗が
予想以上に強く、その後の戦況が
進展しなかった。
また第十三師団主力は、鎮江から揚子江を渡河して
左岸に渡り、
津浦線の遮断に
向かった。
同師団の一部は山田支隊となって
12日
鎮江を出発、第十六師団の
右翼に進出して
烏龍山、
幕府山の
砲台占領に向かった。
当初、第二線兵団として
第九師団の後方を
前進していた
第三師団からは、11日に
一部の兵力を先遣隊として
南京攻撃に
参加させた。
第十軍では、第百十四師団を右、第六師団を左に
並列させて、
8日から
雨花台の堅固な陣地を攻撃した。
第六師団の一部
(歩兵第四十五聯隊)は
左翼の揚子江岸を前進し、南京から
退却する中国軍の部隊を撃破して、下関に向かった。
国崎支隊は
11日に蕪湖北方の慈湖鎮付近で
揚子江を渡り、
退路を遮断するために南京対岸の浦口に向かった。
こうして
日本軍は
南京城を完全に包囲し、紫金山、光華門、
雨花台などで
激しい攻撃が行われた。
各部隊は、城内への
一番乗りの栄誉を競っていたが、国内では、“南京占領近し”
などといった報道が流れ、そのことも
現地軍の
焦りを誘う
ことになった。
これは メッセージ 37604 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京への道程――武力侵攻の実態(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/08 15:51 投稿番号: [37604 / 41162]
1937年12月1日、中支那方面軍に対し、大本営は戦闘序列を
発令し、そのうえで
「中支那方面軍ハ海軍ト協同シテ
敵国首都
南京ヲ
攻略スベシ」
という大陸命を
くだした。
念のため解説すると、戦闘序列とは、戦時に令する軍の編成のこと、
大陸命とは、大本営陸軍部を通じて発する天皇の命令を意味する。
すでに、半年も前に起きた
蘆溝橋での武力衝突を
発端として
両国の軍隊が
全面戦争に
突入していた
にもかかわらず、
この大陸命で
大本営は、はじめて
中国を
「敵国」
と呼び、
首都南京への武力侵略を
正式に
命令したのだ。
日本は、国際社会からの
大儀なき武力侵略に対する
批判を恐れ、
あくまでも「事変」
の鎮圧として、片付けようとしていたからだ。
もともと補給を軽視する日本軍の体質的欠点にくわえ、戦争方針が
数カ月程度の戦闘で中国軍は屈服させる
という甘い見通しのもと、
長期戦争の備えがないまま
中国に大軍を派兵したことが、のちに
深刻な食糧不足に伴う略奪行為多発や捕虜の大量殺戮につながった。
南京の攻略は、参謀本部が
初めから
予定していたわけではない。
第十軍を
杭州湾に上陸させたのは、予想外に厳しい上海の戦況を
打開するためであり、南京へ進撃するためではなかった。
中支那方面軍の編成も変則的で、司令部の機構も小さなものだった。
参謀長は
参謀本部第三部長
塚田攻少将、参謀副長は
参謀本部
第三課長
武藤章大佐、以下の参謀数名も
参謀本部の職員であり、
本部に在籍したまま
「出張」の形式で
派遣された。
その他の司令部の人員の多くは、上海派遣軍司令部の人員が兼務し、
さらに
方面軍には、直属の兵站部隊が
まったく
無かった。
こうした
異例の編成は、上海から遠くへ侵攻するつもりがなく、
後方が局限されていたからであり、このために、中支那方面軍の
南京侵攻作戦には、次のような
問題点が生じた。
第一に、後方補給の準備が
まったく
欠けていたため、
南京へ殺到した
各部隊の給養は
ことごとく
徴発に依存し、
これが
略奪暴行多発の
原因になった。
第二に、方面軍司令部には
外交や渉外の
機能がなく、
国際法の顧問も
従来の戦争のように
置いていなかった。
各国の公館が集中している首都に攻め込むのに、これは
きわめて
不十分な編成で、しかも
南京の公使館、上海の総領事館など
日本の外務省の機関との
連携も
悪かった。
それどころか、
軍は
外交官を
邪魔もの扱いにし、暴行を
制止しようとした
外交官が、身の危険を
感じるほどだった
と報告している。
第三に、軍紀風紀維持についての配慮が、きわめて
不十分だった。
方面軍には
もともと
直属の憲兵がなく、急遽配属された少数の
憲兵で
大軍の犯罪非行を取り締まるのは
ほぼ不可能に近かった。
第十軍に配属された
憲兵隊長の
上砂勝七も
「何分
数個師団
二十万の大軍に配属された憲兵の数僅かに百名足らずでは如何とも
方法がない」
(『憲兵三十一年』東京ライフ社刊)と嘆いていた。
このように、方面隊の編成そのものにも、大虐殺事件に
つながる
要因が
含まれていたと
言うことができる。
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◆検証 南京大虐殺捏造の背景⑤
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/08 01:20 投稿番号: [37603 / 41162]
●「南京大虐殺」はなかった(当たり前であるが)
今まで見てきたように、日本軍の進出は内戦の終結、平和の確立、共栄圏の建設を目的としたものであって、決して破壊や虐殺を目的としたものではありませんでした。これは、国土の焦土化や、民衆の殺戮を平気で行なっていた中国軍とは、きわめて対照的です。
日本には、もともとサムライの時代から、民衆の虐殺や焦土化の思想はなかったのです。日中戦争は北京の近くで始まりましたが、北京は無傷でした。武漢三鎮も無傷のまま。他の都市も全部無傷です。日本軍は、都市を破壊する気も、住民を虐殺する気もさらさらなかったのです。
日本軍は、都市に近づくときには必ず自由都市(オープン・シティ)宣言をしました。降伏するなら、都市を破壊することもしないし、住民の安全を保証するということです。歴史ある都市を戦場にし破壊していけないからです。
日本軍は圧倒的に強かったので、たいていの都市では、中国軍はたいした抵抗をすることもないまま逃げ去り、都市は明け渡されました。しかし南京で、中国軍は珍しく若干の抵抗をみせました。
南京防衛軍司令官の唐生智が「俺に頑張らせてくれ」と言ったので、蒋介石も「頑張れ」と言ったのです。彼が最後まで頑張れば、ある程度、中国軍の統制もとれたでしょうが、この司令官は情けないことに、途中で逃げ出してしまいました。
司令官を失なった中国兵たちは、自分たちも逃げようとしました。けれども彼らの多くは、逃げる味方の兵隊を後ろから撃つ「督戦隊」に殺されました。また中国兵の中には、逃げれば督戦隊に殺されるし、残れば日本軍に捕まるということで、民間人を殺し、その着物をはぎ取って着る者たちもいました。
こうした民間人に化けた中国兵は、それがばれたときに日本兵によって殺されることもありました。そのようなことはありましたが、南京で、日本軍による住民の大量虐殺というようなことは決してなかったのです。
中国は、かつて日本軍は南京で三〇万人の住民を虐殺したと、宣伝しています。しかし、これは中国共産党が流したでっち上げです。なぜなら、もし南京大虐殺があったなら、南京の安全地区にいた外国人は必ず、そのことを世界に発信したはずです。けれどもそのようなことはありませんでした。
また、日本が南京に入る前にいた南京の人口は約二〇万人でした。これはいろいろな調査で一致している数字です。二〇万人の都市で、三〇万人を虐殺するのは不可能です。
また、日本が南京を占領したあと、逃げていた市民たちが戻ってきて、一ヶ月後には人口二五万人になっています。これは南京学会が緻密に調査して出した、信頼できる数字です。また大虐殺が行なわれた都市に、住民が戻ってくるわけがありません。
また南京大虐殺の「証拠写真」と言われるものも、今日ではすべて全く関係のない写真か、捏造によるものであることが、明らかになっています。東中野修道著『南京事件「証拠写真」を検証する』などに、詳しく書かれています。
何年か前、中国系アメリカ人のアイリス・チャンが、英語で『ザ・レイプ・オブ・南京』という本を出し、アメリカでハードカバーで約五〇万部も売りました。これは日本軍が南京で三〇万人虐殺という蛮行を行なったと宣伝する本で、アメリカ人にウソをばらまいたものです。
しかしそののち、彼女が書いたことや、そこに使った写真があまりにインチキであることが、多くの批判書によって明らかになりました。そうした中、彼女は二〇〇四年の暮れに、ピストル自殺しています。
その理由として、『ロンドン・エコノミスト』はその記事の中で、彼女は自分が書いたことがあまりにインチキと批判されたため、それが「南京虐殺はなかった」と主張している人たちに有利に働いて、それを気に病んだのではないだろうかと推定しています。
以上『日中戦争の真実』より引用
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/37603.html
◆検証 南京大虐殺捏造の背景④
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/08 01:15 投稿番号: [37602 / 41162]
共栄圏をつくろうとした日本
一九三七年から始まった日中戦争でしたが、日本はすでに一九四〇年には、すでに中国の華北と、華中の一部を支配下におき、その統治を親日政権である汪兆銘(おうちょうめい)の南京政府にゆだねていました。
日中戦争は八年間続いたと一般にいわれますが、実際には日中の戦闘は一年半あまりで終結し、あとは日本軍はそれ以上領地を広げようとせず、占領地域でのインフラ建設や、経済建設に集中したのです。
その支配地域では、経済、財政、物価、治安が安定し、民衆の生活は他と比べると天国と地獄ほどの差がありました。鉄道もつくられ、人々や物資の移動が容易になりました。よく「日本軍は一方的に略奪と破壊をした」かのように語られることがありますが、実際は全く逆だったのです。
だからこそ、汪兆銘の南京政府や、そのもとにいる多くの中国人は日本を支持し、日本と共同して、その地域の発展のために働いたのでした。
汪兆銘の南京政府が支配する地域では、戦前にも増して平和と繁栄を謳歌していました。その象徴が上海です。日中戦争中ですら、そのダンスホールや映画館はどこも満員という活況を呈していました。
ロシアから逃げてきたユダヤ人たちの居住区も、この上海に設けられ、彼らはそこで安全に暮らしていました。
一方、蒋介石や毛沢東が支配していた地域は、悲惨でした。ただでさえ彼らの軍隊が入ってきたので食糧が不足したばかりか、略奪、搾取が横行したため、たちまち住民は地獄の生活へと転落したのです。
もっとも蒋介石は、日本人のような規律ある生活習慣を目指した「新生活運動」を実施し、中国兵の乱れた規律を正そうと努力はしましたが、それでもなかなか実を結ぶことはできませんでした。
日中戦争中、アメリカがいわゆる「援蒋ルート」を通して、重慶にいる蒋介石軍に様々な物資を送り届けていたことは、よく知られています。兵器、弾薬、医薬品、食糧などですが、しかし山を越え、川を越えているうちに、重慶まで届いた物資は多くても当初の何分の一かに減っていました。
それらの地域を支配する匪賊や、他の武装勢力に、通行料として一部物資を渡していたからです。当時、日本の支配地域以外の中国大陸には、匪賊が約二〇〇〇万人もいたといいます。それは中国軍の約一〇倍に相当します。彼らは略奪で生計をたてていたのです。
また無事に重慶に届いた物資も、国民党幹部のポケットに入ってしまい、他の者には行き渡りませんでした。このように当時の蒋介石の政府が、米国の支援を食い物にしていたことは有名です。
このように、日本の支配地域と、そうでない地域とでは中国民衆の生活に格段の差があったのです。日本はすでに日中戦争のさなかから、中国を近代的民主国家として自立させ、アジアの同胞として共に相携えて共栄圏をつくるために、非常な努力を積んでいたからです。
しかしその望みも、やがて日本が日米戦争で敗戦を迎えたことにより、挫折しました。
そのとき、日本は中国につくった工場や施設、インフラなどを破壊することなく、すべて正確な資産リストを添えて、中国の未来のためにそのまま置いてきました。それらは戦後の中国経済の発展の基礎となったものです。
日本が去ったとき、中国では再び「国共内戦」、すなわち国民党軍と共産軍の内戦が勃発しました。これは実質的に、日本が残した遺産の奪い合いでした。そしてこの内戦での死者は、日中戦争中の死者よりも多かったのです。
またこの国共内戦に共産軍が勝利し、中国を統一したとき、共産党はかつて自分たちがなした中国民衆への殺戮、略奪、搾取などを、すべて日本軍の悪行と宣伝して若者たちに教える教育を始めました。
以前、私がこれら中国の歴史を「レムナント誌」に掲載したとき、ある日本人は「こんなことがあったなんて知りませんでした。一般に世間で言われていることと何と違うでしょう」と言いました。しかし、日本に留学しているある中国人クリスチャンが手紙をくれたのですが、こう書いていました。
「先生は中国に関し真実を書いています。がんばってください」
中国人も、知っている人は知っているのです。
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◆検証 南京大虐殺捏造の背景③
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/08 01:15 投稿番号: [37601 / 41162]
もともと、中国の内戦に巻き込まれたかたちで、中国内部に足を踏み入れた日本軍でした。しかし踏み入れた以上、日本は、そこが共産主義国家になってしまうのを防ぐため、多大な尽力をなしました。またそこに、欧米の侵略や搾取の餌食とならない自立した民主的国家が誕生するよう、手を差し伸べたのです。
日本は中国を「自分の領土」とするために戦っていたのではありません。日本は中国の「領土保全」をかかげ、誰からも侵略されない、中国人による中国人のための安定した国家がそこに誕生することを目指したのです。そして日本と手をたずさえて、アジアを共産主義から守る防波堤になること、そこに一大経済圏が生まれることを目指しました。
ですから、日中戦争(支那事変)が始まった年である一九三七年、一〇月に、当時のローマ法王、平和主義者として知られるピオ一一世(在位1922-39)は、この日本の行動に理解を示し、全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけました。法王は、
「日本の行動は、侵略ではない。日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。日本は共産主義を排除するために戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」
といった内容の声明を出しています。
この声明は当時の日本でも報道されました(「東京朝日新聞」夕刊、昭和一二年一〇月一六日および一七日)。新聞は、
「これこそは、わが国の対支那政策の根本を諒解(りょうかい)するものであり、知己(ちき。事情をよく理解している人)の言葉として、百万の援兵にも比すべきである。英米諸国における認識不足の反日論を相殺して、なお余りあるというべきである」
と歓迎の意を表しています。ローマ法王がこのように日本の行動に賛意を表してくれたことは、欧米の誤解や反日主義に悩まされてきた日本にとって、非常にうれしいことでした。
けれども、そのピオ一一世も、やがて一九三九年には世を去ってしまいます。そのため欧米の反日主義や、日米戦争勃発を防ぐまでには至らなかったのです。
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