★「竹島」は日本固有の領土です

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「欝陵全島と竹島石島」  勅令第41号

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/27 21:15 投稿番号: [9137 / 9207]
ところで、東京の学生さんの勅令第41号第2条の中の「欝陵全島と竹島石島」を「鬱陵の全島と竹島(チュクド)という石の島」と読めるという説は、私の知り合いで韓国人漢文学者も可能だと渋々認めました。仰る通り「チュクドという石の島」になりますから、「石島」が独島だという韓国の主張は嘘になり、当時のいい加減な鬱島郡守、沈興澤が正確な方角も距離も知らない一島を「本郡所属獨島」と報告したという事になります。ー転写ー

*「欝陵全島と竹島石島」の竹島石島にはあいだにスペースもカンマもありませんね、竹島石島=竹石島   つまり   竹島と言う石島   竹島又は石島という解釈も成立します。

宗主国ロシアだったら一人残らずツンドラへ

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/26 18:47 投稿番号: [9136 / 9207]
>外圧に対する自国防衛の意識や、それ以前に国土に対する考え方が時の中央政府に決定的に欠如していたのではないかと考えられますが、いかがでしょうか?<

これに関しては、まったくの同意。
多少なりとも歴史を(列強がどのようにして植民地を獲得していったかを)知っていれば、鉄道敷設権やら森林伐採権を他国に売却することが何をもたらすか、わかるはず。

日本が介入しなければ、最悪、朝鮮半島は白人国家になる可能性もあったのです。
(この場合、朝鮮人は中央アジアかシベリア辺りに強制移住(実例あり))

だいたい、日本の当初の朝鮮半島政策は、
朝鮮を独立近代化させ、中国・ロシアとの緩衝地帯にすることは明白だと思うんですよね。
近代化の資金は貸付だから、あまり日本政府の懐は痛まないし・・・
朝鮮の政府が、ヘマを続けたために、
朝鮮併合という日本政府に資金や労力を大きく負担させる政策にシフトせざるを得なかった。ー転写ー

*当時の超大国、超軍事大国であるロシアによる朝鮮植民地化は日本にとって国家存亡の危機でした ロシアの南下に、日本が立ち上がったからロシアによる朝鮮植民地化は避けられたのです   宗主国ロシアだったら朝鮮は悲惨でしょう、一人残らずツンドラへ移住・・・

第一次日韓議定書(1904.2.23)第4条により

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/26 16:32 投稿番号: [9135 / 9207]
日韓議定書(1904.2.23)第4条で日本は軍略上必要な場所を収用することが出来ることになっていました。リアンコールト岩が朝鮮領だと日本が考えていたのなら、日韓議定書第4条を発動すれば良かったのです。

日韓議定書第四条は「第三国の侵害により若しは内乱のため、韓国の皇室の安寧或いは領土の保全に危険ある場合は、日本政府は、速やに臨機必要の措置を取らなければならない。そして、韓国政府は、その日本の行動を容易ならしめるため、十分便宜を与える事。日本政府は、その目的を達するため、軍略上必要の地点を臨検収用することができる事。 」というもの(from wikipedia)。〜転写〜

1906年3月島根調査団沈興澤を表敬訪問  

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/26 12:26 投稿番号: [9134 / 9207]
1905年 1月 日本政府が閣議決定で、竹島を日本領土に編入(28日)
2月 「島根県告示第40号」により、竹島の島根県編入を公示(22日) 11月 第2次日韓協約(韓国保護条約)締結

1906年 3月 島根県知事・松永武吉の命令を受け、県調査団が竹島へ出発。竹島を踏査後、天候が悪化したため、鬱陵島に避難し、欝島郡守・沈興澤を表敬訪問。翌日、沈は大韓帝国の中央政府に「独島が日本領土になった」と報告

竹嶋乃書附 小谷伊兵衛差出の書付  

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/25 12:29 投稿番号: [9133 / 9207]
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04_01/takeshima04c.data/4-3-04-02.pdf
5/9記
小谷伊兵衛差出の書付;   松島は何れの国にも属していないと承って候、
*だから松島は 幕府の直轄地域ですよと云っているのですね、

竹嶋乃書附 松島は竹嶋と同格に扱われ  

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/24 16:53 投稿番号: [9132 / 9207]
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04_01/takeshima04c.data/4-3-04-02.pdf
2/9記
幕府:竹島の他 鳥取藩に付属の島 有りや無しや
鳥取藩:竹嶋・松島其他鳥取藩え付属の島なきに御座い候

*   ここでは松島は竹嶋と同格に扱われていますよ 松島が竹嶋(欝陵島)の付属島だなんて とんでもはっぷんですね

竹島の日

投稿者: thirteen_satan 投稿日時: 2009/02/24 15:24 投稿番号: [9131 / 9207]
南鮮の屑ぶりをほとんどのマスコミはスルー。

Re: ★「竹島」は日本固有の領土です

投稿者: kamikami478 投稿日時: 2009/02/23 22:53 投稿番号: [9130 / 9207]
はじめまして、噛み噛みと申します。

上げさせていただきます。

随分下がっておりましたので。

なんと200年間 欝陵島西に于山島が・・

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/22 19:56 投稿番号: [9129 / 9207]
http://toron.chu.jp/jp/take/tizu/maphachidow.html
『八道総図』1481年の于山島   西に于山島

http://toron.chu.jp/jp/take/tizu/maptenka.html
朝鮮八道古今総図   1674   北に于山島

* 彼方に望める于山島に雲がかかってる   明日はこちらの半島 雨でしょな,半島の住人達には于山島が身近にあったのですねえ、

竹嶋乃書附   隠州乃内松島

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/22 18:33 投稿番号: [9128 / 9207]
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04_01/takeshima04c.data/4-3-04-02.pdf
8/9に記
幕府殿 竹嶋松島は鳥取藩所有にあらずして、隠州乃内松島は隠岐国に属します。

幼児向け施設登場

投稿者: theriyouma 投稿日時: 2009/02/22 12:37 投稿番号: [9127 / 9207]
こんな記事がありました。

竹島問題、韓国に幼児向け施設登場
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn/20090222/20090222-00000004-jnn-int.html

柳馨遠輿地志1656年は地図に反映されず

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/21 23:53 投稿番号: [9126 / 9207]
http://f.hatena.ne.jp/lunakko/20070506002226
『八道総図』1481年の于山島   西に于山島

http://toron.chu.jp/jp/take/tizu/maptenka.html
朝鮮八道古今総図   朝鮮燎宗14年(1674)   北に于山島

http://www.occidentalism.org/?s=ullengdo
東輿備攷1682   西南に于山島

*   柳馨遠の『輿地志』1656年の于山島認識つまり東南の于山島(倭の云う松島)はいずれの地図にも反映されてはいませんね、

東輿備攷1682の于山島

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/21 23:13 投稿番号: [9125 / 9207]
http://f.hatena.ne.jp/lunakko/20070506002226
『八道総図』1481年の于山島

http://toron.chu.jp/jp/take/tizu/maptenka.html
朝鮮八道古今総図   朝鮮燎宗14年(1674)

http://www.occidentalism.org/?s=ullengdo
東輿備攷1682
*   西南に于山島!

朝鮮八道古今総図(1674)の于山島

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/21 22:53 投稿番号: [9124 / 9207]
http://f.hatena.ne.jp/lunakko/20070506002226
『八道総図』1481年の于山島

http://toron.chu.jp/jp/take/tizu/maptenka.html
朝鮮八道古今総図   朝鮮燎宗14年(1674)
北に于山島!

『八道総図』1481年の于山島

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/21 22:34 投稿番号: [9123 / 9207]
http://f.hatena.ne.jp/lunakko/20070506002226
『八道総図』1481年の于山島

『世宗実録』地理志1454年   江原道蔚珍縣
于山・武陵の二島は県の東に・・

* 『世宗実録』地理志1454年   于山・武陵の二島は県の東の海・・の記述を地図にした物が『八道総図』1481年なのですね・・

韓国への金融支援反対

投稿者: fujiwara6419 投稿日時: 2009/02/15 22:31 投稿番号: [9121 / 9207]
韓国への金融支援反対の署名サイトです。

http://www.shomei.tv/project-208.html

竹島を堂々と不法占拠しておきながら一方でカネを貸してとは!?

プライドの欠片もない情けない民族だこと!

松島巡視要否 外務省公信局長 田邊太一

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/15 21:41 投稿番号: [9120 / 9207]
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/07/1877.html

1877年 - "松島"に関する様々な意見:「松島巡視要否ノ議」 外務省公信局長 田邊太一

次の文書は当時外務省公信局長だった田邊太一によるものです。この中で、武藤平学によって1876年に提出された"松島"の開拓を願い出る要望書、「松島開拓之議」についての省内での論議を要約しています。文中から分かるように、日本人は武藤の言う"松島"がどの島を指しているのか、明確には分からない状態でした。鬱陵島の于山島であると考える人たちや、記録局長の渡邊洪基の文書にまとめられたように、ある者はそれとは別の無人の島だと考える人たちもいました。

文書はおそらく1877年か1878年に書かれたものですが、1881年にこうした調査の経緯を記した北澤正誠の「竹島考証」の下巻に載っています。

「松島の儀」外務省記録局長 渡邊洪基

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/15 21:25 投稿番号: [9119 / 9207]
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/06/1878.html

1878年 - 「松島の儀」外務省記録局長 渡邊洪基

「松島の儀」は、外務省記録局長の渡邊洪基によって1878年に書かれました。その中で、武藤平学によって1876年に提出された"松島"の開拓を願い出る要望書、「松島開拓之議」についての省内での論議を要約しています。

渡邊は、武藤の要望書の中の"松島"が、もし鬱陵島であるならば、その島松島は朝鮮に属するものの、もし鬱陵島でなければ、それは日本に属する島であることと、Liancourt Rocksは日本の領土であることを明記しています。渡邊はこの謎を解くために、調査船を当該域へ派遣する事を促します。果たして明治政府は1880年に実際に調査船(軍艦天城)を派遣し、この1876年の武藤による要望書の中の"松島"が事実、鬱陵島である事を確認するのです。

武藤平学から『松島開拓之議』提案を受け

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/15 15:50 投稿番号: [9118 / 9207]
地籍編さんのため、内務省から一八七六年に島根県に照会

「内務省が島根県に照会する三カ月前、外務省では、武藤平学から『松島開拓之議』という提案を受け、検討を始めた。この松島とは現在の鬱陵島だ。同じ政府内で、鬱陵島について、内務省は竹島、外務省は松島と別の呼称を使っていた」

松島の開発を禁止しました(太政官指令)

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/15 15:01 投稿番号: [9117 / 9207]
http://www.occidentalism.org/?p=373

日本国内の松島に関する論議

日本政府は、1876年に“松島”開発の要望、「松島開拓之議」が出始めるまで、竹島と松島の位置についての謎を急いで解く必要が無い、と考えていたことは明らかです。それは、まさに松島が実際には何処に位置するのか、と言う論議をよびおこしました。外務省には“松島”が鬱陵島であると考える人と、鬱陵島に隣接する于山島だと考える人とがいました。最終的に、1877年の3月29日に日本政府は次のようなあいまいな表現の返答で“松島”の開発を禁止しました(太政官指令)。

“竹島ともう一つの島については、わが国と関係が無いものとする。”

論議の対象であるにもかかわらず、松島と言う名前がこの答弁に使われていないことにお気づきでしょうか。日本は既に竹島(鬱陵島)が朝鮮領だとみなしてきたので、その名称を決定の中に含めることは問題が無かったのです。しかし、“松島”に関する論議はまだ結論が出ておらず、そのため、”竹島ともう一つの島”と言う表現を使うことで、松島の帰属についてあいまいにし、最終的な決断を避けるために逃げ道を作ったことは明らかです。

竹島渡海一件  松島へ行くという口実で

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/12 12:07 投稿番号: [9116 / 9207]
当時の浜田藩は財政がひっ迫していました。そのことを知った八右衛門は浜田藩勘定方橋本三兵衛に、「竹島に渡って自然のまま放置されている竹木を伐採し、海産物を持ちかえれば藩の利益になります」、「私が今まで見た地図には竹島は白のままで朝鮮国の色も塗ってないので、島の所属はないと思われます」、「お国のためと思ってした事で命がなくなるのなら、喜んで死にましょう」と語ったと、森須和男氏はその著『八右衛門とその時代』に書かれています。この計画には、さらに浜田藩家老岡田頼母(おかだたのも)や年寄役松井図書(まついずしょ)も加わり、最終的には藩主松平周防守康任(まつだいらすおうのかみやすとう)の決裁を仰ぐことになりました。康任は当時幕府の筆頭老中という要職にあり、江戸住まいでした。まもなく江戸屋敷から「竹島は日の出の土地(日本)とは定め難いが松島なら良い」、「持ち帰った物は大坂以東へ流出させてはならない」と渡海を許可しているともとれる含みのある回答がありました。

  喜んだ八右衛門等は、松島へ行くという口実で実際には竹島へ行く計画を練り上げ、八右衛門と資金提供の淡路屋善兵衛、重助、新兵衛、久米蔵、音五郎、安吉、新作という水主の8人で、浜田を天保4(1833)年6月15日出港しました。直接竹島を目指しましたが、強風と悪天候で長州の見島へ流されてしまいました。やむを得ず海岸沿いに東上し、隠岐へ渡って大谷・村川家が70余年にわたって竹島渡海の基地にしていた福浦に到着しました。順風を待って7月17日福浦を出港、まず松島が見えてきましたが、岩礁だけの島であることを知っていましたので、上陸せず直接竹島を目指し同月21日到着しました。

*   「竹島は日の出の土地(日本)とは定め難いが松島なら良い。喜んだ八右衛門等は、松島へ行くという口実で実際には竹島へ行く計画を練り上げ、

1870年 佐田白芽ら朝鮮を調査

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/12 02:23 投稿番号: [9115 / 9207]
http://www.occidentalism.org/?p=373

http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/kaiteishinsenchosenzenzu-1875/03.jpg
佐田の朝鮮全図にリヤンコ島(松島)記載無し

日本の調査団が韓国(当時の朝鮮)を調査

1870年、日本の調査団(明治政府外務省出仕の佐田白芽ら)は、鬱陵島の隣に“松島(ソングド)”と呼ばれる島がある、と知らされました。このことが現在の竹島(Liancourt Rocks/独島)を当時松島と呼んでいた日本人に、混乱を与えたことは想像に難くありません。下の文章は日本の報告(朝鮮国交際始末内探書)のうち、関係箇所の翻訳です。

“竹島と松島が朝鮮の附属になった経緯について
松島は竹島(現在の鬱陵島)の隣の島で、松島に関するこれまでの記録がない。竹島に関しては、元禄期(1688-1704)に暫らくの間、朝鮮から人が居留していたが、現在は以前と同じく無人島となっている。その島は竹や竹より太い葭(アシ・ヨシ)が生えている。人参なども自生しており、また海産物も豊富であると聞いている。”

韓国人はしばしば、上記の報告の題名を指して、日本が松島(Liancourt Rocks)を朝鮮領として認識していた事を証明する、と主張しますが、報告の内容を読めばそれが誤りであることが分かります。この題名から、日本が何故日本領である松島(Liancourt Rocks)のことを朝鮮領と言う人がいるのか、と言う謎が解けたと考えていることが、私には伺えるのです。この謎に対する答えは、朝鮮人がいう”松島(ソングド)”は鬱陵島に隣接する付属島で、日本人が同じく“松島(マツシマ)”と呼ぶLiancourt Rocksではない、ということです。この日本の報告は、1882年に高宗と李奎遠が述べた、「“松島(ソングド)”は鬱陵島に隣接する松竹島の別名の一つである」との内容と一致します。

この日本の報告には、日本側には鬱陵島の“松島”についての記録が無い、と記述されていますが、このことからも、この報告に述べられている“松島”は、Liancourt Rocksの示しているのではないことが分かります。日本は、“松島(マツシマ)”と言う島嶼に関する記録を確かに持っていたからです。それだけではなく、鬱陵島を“松島(マツシマ)”と呼んでいた日本人さえもいたらしく、それは恐らく、1789年の英国の地図が事実誤認に影響されたのだと思われます。

島嶼放置は無主地になりますね

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/09 21:08 投稿番号: [9114 / 9207]
浙江省か福建省に所属なのか不明、島嶼をどこにも所属させなかったら放置とみなされ無主地になりますよ、今後の検証が必要。

島嶼、所属させた先の省が不明瞭

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/09 20:59 投稿番号: [9113 / 9207]
1562年 浙江総督胡宗憲は本書の巻一「沿海山沙図」で「鶏籠山」、「彭加山」、「釣魚嶼」、「化瓶山」、「黄尾山」、「橄欖山」、「赤嶼」「古米山」「馬歯山」   那覇へ   これらの島嶼を海防区域内に入れたと云う。
現中国は海防区域内に釣魚嶼を入れたから先に先占し、実効支配していると主張しております。しかし   これら島嶼を所属させた先の省が不明瞭です。

島嶼、所属させた先の省が不明瞭

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/09 20:50 投稿番号: [9112 / 9207]
1562年 浙江総督胡宗憲は本書の巻一「沿海山沙図」で「鶏籠山」、「彭加山」、「釣魚嶼」、「化瓶山」、「黄尾山」、「橄欖山」、「赤嶼」「古米山」「馬歯山」   那覇へ   これらの島嶼を海防区域内に入れたと云う。
現中国は海防区域内に釣魚嶼を入れたから先に先占し、実効支配していると主張しております。しかし   これら島嶼を所属させた先の省が不明瞭です。

鶏籠山は明国領土だったのか・実は琉球国

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/09 00:48 投稿番号: [9111 / 9207]
馬英九総統は二〇〇三年に行った講演で次のように述べている。

「国際法上重要なのは、中国が釣魚台を有効に支配してきた事実だ。有名なのは一五六二年、明の倭寇討伐の最高統帥である胡宗憲の書いた『籌海図編』にある「沿海山沙図」と言う海図に釣魚台が描かれていることだ。これを日本の学者に見せたら、『倭寇の侵略路線図であって海防を意味しない』と言うので、私は『もちろん海防だ』と答えた」

そこではたしかに東支那海に「釣魚嶼」が浮かんでいる。そしてその右側には「鶏籠山」とある。この鶏籠山は釣魚嶼と同様、琉球―福建間海域での航海指標となっていた台湾島北端の山である。そしてその山の麓は当時、明国の海防拠点ではなく、倭寇の根拠地だったのだ。
なぜならこの最果ての島であれば、明国の討伐軍が追って来なかったからだ。鄭舜功が一五六五年に書いた『日本一鑑』にもその地に倭寇がいることを書いている。

*   倭寇討伐最高統帥胡宗憲の参謀である鄭若曽が書いた『籌海図編』にある「沿海山沙図」には「鶏籠山」も描かれている。この「鶏籠山」を明国も鄭若曽も琉球国の領域と認めていた。馬英九総統は「沿海山沙図」と言う海図に釣魚台が描かれているをもってして明国領土だと主張しています、それでは「沿海山沙図」に「鶏籠山」も描かれているが、その「鶏籠山」も明国領土であったと馬英九総統は主張するのだろうか。

胡宗憲が鄭若曽に命じ編纂させた籌海図編

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/08 23:32 投稿番号: [9110 / 9207]
1562年   中国:倭寇対策に手を焼いてきた明の浙江総督胡宗憲が地理学者の鄭若曽に命じて編纂させていた「ちゅう海図編」全13巻が、このほど完成した。鄭若曽は前年、倭寇関係者から直接収集した情報なぢにより「日本図ちゅう」を著していたが、本書にも同じ情報が全面的に活用されている。

内容は、世界図や、明の沿岸地方図などの地図を中心とし、日本との交通・貿易の沿革、日本の事情、明の沿海における防備施設の状況、倭寇の歴史や被害、その動静などを総括的に記述したもの。このころの日本人が明から生糸100斤を銀50〜60両で買い、帰国後約10倍の値段で売りさばいていたことなど、日明貿易の実情にも詳しい。海防のための倭寇研究書として著された本書は、以後、中国の日本研究に多大な影響を与える。

鄭若曽琉球国図の台湾は琉球国領域

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/08 23:17 投稿番号: [9109 / 9207]
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3816/heisyo/12.htm
http://akebonokikaku.hp.infoseek.co.jp/page109.html#境界は既に画定していたのではないか
鄭若曽は我が国(中国)の海防研究の創始者で、彼の海防の専門書『籌海図編』『海防図論』『江南経略』は明王朝後期の倭寇に抵抗する戦争とその後の海防についての計画に対して、ともに模範としての働きをしました。
鄭若曽の琉球国図をみてもわかるとおり、琉球、東番、台湾という三つの地域すべてを琉球国の領域と明はかつてみなしていた。

* 鄭若曽の琉球国図は琉球、東番、台湾という三つの地域すべてを琉球国の領域としていた。彼の海防の専門書『籌海図編』海図にある島列内の東番、台湾は琉球国の領域としていた。そうなると・・・?

東番の野蛮人は領民では無い 清国拒否

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/08 14:11 投稿番号: [9108 / 9207]
鄭若曽の琉球国図をみてもわかるとおり、琉球、東番、台湾という三つの地域すべてを琉球国の領域と明はかつてみなしていた。清代になってから、花綵列島の一部である台湾島の西南部を清は領域の中に組込んだ。十九世紀後期においても、まだかなり支配の及んでいない地域が東部に存在していた。台湾、東番、琉球と いう「国」が花綵列島のこの地域に存在していたのである。

*台湾島は西の台湾地域と東の東番地域に二分されていたのです。清国による台湾領有は1683年だが、この時の獲得領域は西半分の台湾地域だけと云う事になりますね、東地域の東番までには及ばなかった。清国としては台湾の西半分が領域認識でしたので、明治期宮古島の漁民が東番地域で原住民に虐殺された事件で、明治政府は清国に抗議したが、東番の野蛮人は領民では無いと清国に拒否されたいきさつがある、考えてみれば、もっともな話ではある。

清代になってから台湾島の西南部を領域に

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/07 21:15 投稿番号: [9107 / 9207]
☆   今(清代になって)、版図に入っているのは……台湾島の西南部のみ、

  台湾通志は清末台湾にて編纂されたものである。清の官僚郭起元による「慎防守議」が収録されている。要約する
と「全台湾三千余里、版図に入っているのは二千余里近くでそれ以外は生蕃が雑居し、状態は予測を許さないもの
がある」と報告されている。日本側の認識と一致している。

  鄭若曽の琉球国図をみてもわかるとおり、琉球、東番、台湾という三つの地域すべてを琉球国の領域と明はかつ
てみなしていた。ただ実際には当時も澎湖島や台湾島には琉球国の力は及んでいなかった。そこへ明代に進出して
じわじわと漢民族が領域を広げていったという形になっている。しかし東番はずっと存在していたのである。

  台湾島の東部は、清国から東番と呼ばれ、長らく別の国であるとみなされていた。琉球と「台湾府」の間には東番
という国があったのである。だからこそ琉球と中国は接壌の状態にあるとは相互に認識されなかったのである。

  しかし明代にも徐々に漢民族の居住地域が拡大しつつあった。

  清代になってから、花綵列島の一部である台湾島の西南部を清は領域の中に組込んだ。そして次第に漢民族が
先住民族を圧迫し、あるいは同化し、その支配領域を拡大して行きつつあった。漠然と開拓が進んでいくのを清国政
府はむしろ長らく押しとどめようとしていた。蕃界への立入りを禁じたのであった。しかし開拓は進んでいった。花綵列
島のすべての地の分割がやがて完成するはずである。

  だが十九世紀後期においても、まだかなり支配の及んでいない地域が東部に存在していた。台湾、東番、琉球と
いう「国」が花綵列島のこの地域に存在していたのである。清国が台湾島のこの曖昧な領域をなんとかしなければな
らないと思うようになったのは、勿論、列強の進出に対抗せねばならなくなったときである。そして東番の存在を否定
するようになった。明治新政府は、東番を存在するとみなした。西から手を伸そうとしたのである。清国と日本はこの
領域で争った。台湾島原住民居住地域の取合いが起きることになる。列強は日本を支持しなかった。大陸に列強が
勢力を拡大することを考慮してみると、日本の臺灣獲得は明らかに計画の邪魔となるからである。琉球諸島が日本
に帰属するのさえ、実はかなり邪魔であった。ましてそれ以上南に日本の力が伸びることは好ましくないのであっ
た。臺灣そのものにも列強は関心をもっていた。中国のものとしておけば、はいりこむ機会が将来あるかもしれない
のである。

  明治初期はまだ先住民支配地域は確固として存在していた。だから周辺にある無人島の帰属も曖昧なままだっ
た。しかしやがてこの帰属曖昧な土地の帰属も完全に定るはずであった。清国と琉球は隣接することになるはずであ
る。だが清国と琉球は隣接することなく、終ったのである。両国の間にある帰属曖昧な土地は、分割されずじまいで
あった。間に先住民地域がある状態で、やがて日清戦争が起きる。

* 台湾島の東部は、清国から東番と呼ばれ、長らく別の国であるとみなされていた。清代になってから、花綵列島の一部である台湾島の西南部を清は領域の中に組込んだ。

琉球と日本は共に扶桑(世界樹)であ る

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/07 19:42 投稿番号: [9106 / 9207]
http://akebonokikaku.hp.infoseek.co.jp/page109.html#境界は既に画定していたのではないか
senkaku−note・尖閣諸島問題   Ⅳ

☆   弱水             

***************************************

弱水とは、崑崙山を取り巻いて流れ、水に浮力がなく、生身の人間にはそれが渡れないことから、神性を持たぬもの
が崑崙山に近づくことを防いでいる川であった。山海経海内南経では建木は弱水のほとりに生えているとされてい
る。(-165)

――西王母と七夕伝承   小南一郎   1991年   平凡社

***************************************

  建木とは天地をつらぬく世界樹である。崑崙山は世界の中心とされた。台湾には南崑崙山という地名もある。建木
≒若木≒扶桑という関係が成立する。扶桑の側に弱水があるわけである。

  台湾府志には、鶏籠のすぐ北側には弱水があると恐れられていることが再三書かれている。乗りだせば生きて帰
れないという。台湾府が琉球を非常に遠く感じていることがよくあらわれている。これを思えば、半架諸島さえ台湾府
志の領域図に入らないのも当然である。弱水は扶桑の国を取巻いているものであった。それが台湾島の北をひたす
ほど迫っているというのはどういうことか。考えてみればわかることである。琉球の人々が我と日本は共に扶桑であ ると述べたことも思い出される。

* 台湾府志には、鶏籠のすぐ北側には弱水があると恐れられていることが再三書かれている、乗りだせば生きて帰 れないという。琉球と日本は共に扶桑である。

Re: 独島を守る聖母マリア像を作ったニダ!

投稿者: fujiwara6419 投稿日時: 2009/02/06 22:28 投稿番号: [9105 / 9207]
>民族の共存と平和を祈る「独島(訳注:竹島のこと)を守る聖母像」が、鬱陵島にそびえ立った。

こんなしょうもないもんを作っている暇があるということはよっぽど経済危機への備えがあって余裕しゃくしゃくということかい、バカチョンさんたちよ!?(冷笑)

金テハン神父というのも相当怪しいやっちゃな!?

独島を守る聖母マリア像を作ったニダ!

投稿者: aopbnwat 投稿日時: 2009/02/06 10:06 投稿番号: [9104 / 9207]
  ■「独島を守る聖母像」奉献

  民族の共存と平和を祈る「独島(訳注:竹島のこと)を守る聖母像」が、鬱陵島にそびえ立った。

  大邱大教区・道洞教会(主任:金テハン神父)は2月1日午前10時30分、ミサの後に現地(慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑道洞270)で「独島を守る聖母像」の奉献式を行なった。

  繰り返される日本の独島領有権主張に苦しむ韓民族の時代的痛みを共にし、独島守護と民族繁栄を祈るために奉献された「独島守る聖母像」は、高さ2.3m、幅 60cmの大理石像で、李グァンス(ヤコブ)さんが製作・寄贈した作品だ。

  2010年の教会設置50周年記念事業の一つとして奉献された聖母像は聖堂から23m上にあり、独島を眺めて祈る姿をしていて、鬱陵島を訪れる信者のみならず一般の人たちにも観光名所となる見込みだ。

  金テハン主任神父は、「独島に神様の平和が根付き、民族の正しい相生の道を開いて繁栄の枠組みを確固たるものにすることに貢献するために、この行事を用意した。これから毎年、聖母被昇天の祝日である同時に光復節である8月15日に『独島守る聖母様の日』行事を用意する計画だ」と語った。


>聖母マリアを持ち出してまで竹島の領有を主張する糞ウリども。
無茶苦茶である。

3年経過後はロシアへカラフト放棄義務ナシ

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/03 16:44 投稿番号: [9103 / 9207]
二国間の平和条約に間しては、日本の義務は、この条約の最初の効力発生ののち三年で満了する。ロシアとの平和条約はSF条約で義務づけられていたカラフトチシマの放棄は白紙に戻りますね、つまりカラフトチシマをロシアに譲渡する義務はなくなります、しかし それどころか カラフトチシマをロシアに譲渡した平和条約を締結すると、調印国日本だけが第26条にのっとり批准連合国に同等の利益を供与しなければならない義務が生じます。非調印国ロシアにとっては、なんら義務は生じないので、痛くも痒くもない事になります。

3

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/03 16:33 投稿番号: [9102 / 9207]
二国間の平和条約に間しては、日本の義務は、この条約の最初の効力発生ののち三年で満了する。ロシアとの平和条約はSF条約で義務づけられていたカラフトチシマの放棄は白紙に戻りますね、つまりカラフトチシマをロシアに譲渡する義務はなくなります、しかしカラフトチシマをロシアに譲渡した平和条約を締結すると、調印国日本だけが第26条にのっとり批准連合国に同等の利益を供与しなければならない義務が生じます。

Re: これから 桁違いの戦後賠償額もありう

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2009/02/03 09:33 投稿番号: [9101 / 9207]
第二十六条

  日本国は、千九百四十二年一月一日の連合国宣言に署名し若しくは加入しており且つ日本国に対して戦争状態にある国又は以前に第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていた国で、この条約の署名国でないものと、この条約に定めるところと同一の又は実質的に同一の条件で二国間の平和条約を締結する用意を有すべきものとする。但し、この日本国の義務は、この条約の最初の効力発生の後三年で満了する。日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行つたときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼさなければならない。

↑3年経てば日本の義務はなくなると言うことでは?

これから 桁違いの戦後賠償額もありうる

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/01 13:14 投稿番号: [9100 / 9207]
SF講和条約によれば、大鶏籠山までの台湾を放棄したのですから、3嶼は台湾領では無い事になります。つまり3嶼を台湾に返還する必要は無いのです、
過分な領土を返還すると、二国間平和条約第26条に基づき、日本はSF条約調印国に対し同等の利益を与える義務が生じます。調印各国は日本の惨状を見て、仕方なく賠償放棄したのでしょうから、経済大国になった日本をみて、第26条に基づき同等の権利要求を当然して来るだろうから、覚悟しなければならない事になります。

日華平和条約  署名 1952年4月28日台北

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/01 12:22 投稿番号: [9099 / 9207]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%8F%AF%E5%B9%B3%E5%92%8C%E6%9D%A1%E7%B4%84
日華平和条約 1952年8月5日に発効。1972年9月29日、日中国交回復のために廃止。

海防管轄線は元の白紙にもどったのか?

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/01 11:05 投稿番号: [9098 / 9207]
1562年、明の倭寇討伐の最高統帥である胡宗憲の書いた『籌海図編』にある「沿海山沙図」と言う海図に釣魚台が描かれていることだ.    その3年後の1565年に書いた『日本一鑑』にもその地(鶏籠山等)に倭寇がいることを書いている。

*   1562年から釣魚台等の島々を倭寇対策として、警戒水域内に入れて設定したそうだが、倭寇が衰退すれば、警戒水域線も解除となり、元の白紙に戻る事になる、これは   あくまでも倭寇対策として設定された海防線ですから
倭寇がいなくなれば倭寇討伐最高統帥である胡宗憲も解任となるでしょう、
つまり   現中国が主張する明の領域からは、外された事になる。その後 明は釣魚台を領有宣言はしてはいない。

海防管轄の線内に入れたから先占に成ると

投稿者: hamakaze_matukaze 投稿日時: 2009/02/01 00:29 投稿番号: [9097 / 9207]
>釣魚島は「無主地」だったが、中国の海防管轄の範囲内にあった
下関講和条約締結直前に、日本は釣魚島を窃取した。<

*われの推測の範囲内ですが   釣魚島等を海防管轄線の内側に入れた時点から、その事が領有根拠に成ると中国は主張しているのかな、その時点で領有意思もあるし、先占した事にも成るとふんでるのかな、そうとしか思えんが。
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