竹島

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三峰島 VI

投稿者: Gaenara 投稿日時: 2004/02/01 00:12 投稿番号: [3510 / 18519]
同じ「岩」がオープンしたばかりの鬱稜島サイトの表紙の写真中央に見えるね。(笑)

http://www.ulleungdo.com/

>三峰島探索

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2004/01/31 23:41 投稿番号: [3509 / 18519]
>三峯島探索については、国王への正式な報告である「啓」で民間人が居住していないことが確認されています。居住していれば、危険を冒してでも民間人を連れ戻す必要があるので兵船を連ねて行ったのです。これは自国領土への司法権の行使に他なりません。

おそらく、それで正しいと思います。鬱陵島ですから。実録などに記された三峰島は、くり返しますが、鬱陵島にほかなりません。

防衛庁長官の発言

投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2004/01/31 23:35 投稿番号: [3508 / 18519]
ではないです。
http://namihei.zone.ne.jp/upup/up/6879.jpg

http://vortex.milkcafe.to/tokto.jpg

http://kun22.net/m/img02/558.jpg

三峰島 V

投稿者: Gaenara 投稿日時: 2004/01/31 23:33 投稿番号: [3507 / 18519]
ところで、「三峰島 II」での「玄圃(ヒョンポ)の近くに浮かぶ岩」とは、これ。 以下のページの下側のアイコンをクリックすれば見られる。

http://www.ulleung.go.kr/Ullung_Tourism/guide3_11.html

阿呆(AHO)へ

投稿者: Gaenara 投稿日時: 2004/01/31 23:22 投稿番号: [3506 / 18519]
お前が「日本の外務省は嘘吐きです」と言い出す時は、お前が窮地に陥って話題を変えようとする時なんだが。(笑)

>成宗実録

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2004/01/31 21:49 投稿番号: [3505 / 18519]
ソウル大学の奎章閣サイトにこんなに便利なのがあることは知りませんでした。これは大感謝です。ありがとうございます。ただ、確かに骨が折れますね…。巻数がはっきりしているものでないと、ぺらぺらめくって探すというのは無理でしょうね。

>成宗3年には難破して三峯島には至っていませんが、成宗7年には三峯島沿岸に到達しています。

先にご提示の引用文に「成宗二年有告別有三峯島者乃遣朴宗元往見之」とありましたので、それについてレスしました。もちろんこのとき三峰島には行っていません。

次の成宗7年のことですが、これはまず金漢京らが島に行って上陸せずに帰り、その後に金漢京および金自周らが調査に出かけましたが、この前者のことを仰っていらっしゃるのでしょうか。

前者も後者も鬱陵島でしょう。そもそも金漢京が以前に漂着したのは鬱陵島だったわけかと思います。

韓国グーグルに登録しました。

投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2004/01/31 21:32 投稿番号: [3504 / 18519]
まだHPは完成していませんが、自動登録なので未完成でもOKです。

http://www.google.co.kr/intl/ko/add_url.html

他に韓国ポータルサイトで自動登録サイトを知っている人がいましたらお教え下さい。

>>三峰島(金漢京部分)

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2004/01/31 21:24 投稿番号: [3503 / 18519]
>金自周の三峰島探索には幾度も鬱陵島を訪れている金漢京が同行しています。

金漢京が何を言っていたか言葉を引用して見ましょうか。
------ -
諭永安道観察使鄭蘭宗曰 金漢京言 在慶興 遇清明日 可望見三峯島 自会寧 向東舟行七昼夜而到 向北行四昼夜而還 前年遣人 往尋茂陵島 自蔚珍 向東舟行一昼夜而到 西行三昼夜而還. 其所言地勢 有可疑者 世伝茂陵島之北 有蓼島 無一人往還者 是亦可疑 卿 更訪問沿海古老舟人 詳究以啓 海路険悪 今若遣人尋求 宜募願行者 人言邊民 逃賦 往投 不可置而不問 亦不可以難信之言 渉険冒危 或致傾敗 卿其審情 度勢以啓 (成宗実録:成宗4年)
------ -
金漢京は咸鏡北道から「三峰島」が見えるとしていますが、果たして本当に見えるでしょうか。その程度の認識だったのでしょう。また彼は何度も「独島」へは行っていないでしょう。おそらく一度も。三峰島だと思って行ったのはほかでもなく鬱陵島だったことでしょう。

なお、ここに出ている「前年遣人 往尋茂陵島 自蔚珍 向東舟行一昼夜而到 西行三昼夜而還」は朴宗元の探索のことでしょうか。

成宗実録

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2004/01/31 21:05 投稿番号: [3502 / 18519]
ソウル大の原文情報を閲覧するのは骨でしょうから、成宗二年に端を発する三峯島探査については下記サイトでも参照して下さい。

http://www.gbtour.net/Nadri/jpn_dokdohistory

成宗3年には難破して三峯島には至っていませんが、成宗7年には三峯島沿岸に到達しています。

ちなみにソウル大の原文情報は下記で閲覧可能です。

http://kyujanggak.snu.ac.kr/home/digital.htm

先の投稿で引用した部分については、東國輿地誌の江原道85ページ以降にも同様の記述を見ることが出来ます。

おやすみ。

>>>追加です

投稿者: dennpashounenn 投稿日時: 2004/01/31 20:59 投稿番号: [3501 / 18519]
先の私の投稿にある通り
>(松島も)竹島の通り支配御許し遊ばされ

でよろしいんですね?
渡海禁止が竹島のみなのか松島も含むのか、または朝鮮国が竹島のみに抗議したのか松島にも抗議したのかは別に議論が必要でしょう。ここでは松島(現竹島)に対して幕府が渡海許可を与えたことをAHOさんに確認できたと思っても宜しいですか?


2.赤水図の件
了解しました。ありがとうぞざいます。

3.4.
三峯島探索についてはあまりにも弱い証拠と言わざるをえません。贔屓目な推察が必要に感じます。

うぅ

投稿者: snowwhiteleader 投稿日時: 2004/01/31 20:50 投稿番号: [3500 / 18519]
なんか松島と竹島を混同してたかも。。。

>>>>三峰島(地理誌部分)

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2004/01/31 20:41 投稿番号: [3499 / 18519]
>三峯島探索以降は地理誌にも「成宗二年有告別有三峯島者乃遣朴宗元往県之因風濤不得泊而還同行一船泊鬱陵島只取大竹鰒魚回啓云島中無居民矣」と記されるようになるなど二島説が定着するのは明らかです。

ご紹介の地理誌は知りませんが『新筯東國輿地勝覽』に全くの同文が見られます。それを念頭においてレスします。「県」→「見」ですね。

まず、これは朴宗元に命じて三峰島にこれを見に行かせたが風濤が船をつけられるほどでなく戻ってきたという話でしょう。朴は三峰島を見ていないのです。ただ、探索に行ってそれに失敗したに過ぎません。根拠は以下の通りです。
------ -
三峯島敬差官朴宗元 與所領軍士 分乘四船 去五月二十八日 自蔚珍浦發去 即遇大風四散 朴宗元之船 東北去 二十九日平明 向東南望見武陵島 可十五里 復遇大風 船纜絶 漂流大洋中 不知東西者七晝夜 本月初六日午時 到杆城郡芿簡津 司直郭永江等三船 去五月二十九日 至武陵島留三日 搜索島中 不見居人 只有舊家址而已 島中有竹 其大異常(成宗実録:成宗3年)
------ -
朴は明らかに三峰島を見ていません。鬱陵島を東南に見て6kmの距離。そこから漂流したのであり、他船は鬱陵島で調査したに過ぎません。

二島説はちなみにこの時期からは定着したとは思いません。私は以下の資料をどう捉えるべきかよく知りませんが、いずれにしてもこの頃はまだ正確なことは何もわからず、結局三峰島という名称は鬱陵島を指すものとして理解されていったのではないでしょうか。
------ -
(三峰島…アヒル注)前者往来者 或云遥見 或云不得見 莫辨真偽 今也 遣人捜覓 如終無此島 則将初発言金漢京輩 明其 語惑衆之罪 置之極刑 伝屍一道 以示衆目 則愚民亦知三峯島之必無 而其胥動之惑 自解.(成宗実録:成宗12年、永安道監察使)
------ -

三峰島 IV

投稿者: Gaenara 投稿日時: 2004/01/31 20:34 投稿番号: [3498 / 18519]
駄目押しに、「独島」を真南から見ると、以下のように見えるんだが、韓国式に、こじ付けて見ると「四峰島」と言える事になる。(笑)

http://www.ullungdo.com/spboard/board.cgi?id=kch_photo&action=view&gul=271&page=1&go_cnt=

>いいえ

投稿者: snowwhiteleader 投稿日時: 2004/01/31 20:26 投稿番号: [3497 / 18519]
あなたの主張通りに奉書が最初から存在しないなら、「竹島渡海由来記抜書控」の筆者は、でたらめを書いたことになります。

>ごきげんよう。

ご返事をお待ちしております。

韓国語版「三国史記」 堂々完成!

投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2004/01/31 20:22 投稿番号: [3496 / 18519]
2ちゃんねらーの皆様にお願いです。

下記のHPを韓国の主要BBSに行って貼り付けて下さい。
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/Takeshima/

今までは全文章をGIF形式にしていましたが、どの大きさのモニター
にも対応させるために、漢文は一フレーズごとに区切りました。

日本語(漢字)と韓国語を混合させると文字化けが起き易くなりますが、
このHPは文字化けせずに日本人の皆さんにもご覧頂けると思います。
しかもハングルは漢文と違ってGIF形式ではないので、コピー&ペースト
も可能になり、使い勝手が格段に良くなっています。

次回は「三国遺事 in 13世紀」を作成します。

三峰島 III

投稿者: Gaenara 投稿日時: 2004/01/31 20:16 投稿番号: [3495 / 18519]
追って、韓国側の主張の矛盾に言及すると、「西距島七八里許到泊 望見」を「独島」の西、七八里の位置から望見と無理して読んでも、今の「独島」の地形から「於島北 有三石列立 次小島 次巌石列立 次中島 中島之西又有小島」は現実と矛盾しているのは明白。 「独島」の「西島」を「中島」まではいいが、「独島」の「東島」に対する表記がないからだ。

逆に「西距島七八里許到泊 望見」を「独島」の東、七八里の位置から望見と読む場合は、「中島之西又有小島」と言っても「西に小島が有る」のは見えないし、ここでも「独島」の「東島」に対する記述が見当たらない。

拠って、「三峰島」は韓国側が主張する「独島」ではなく鬱稜島であると言える。(笑)

http://www.tokdo.co.kr/kor/tokdo/tokdo_geograph.htm

改訂版「日本外務省の妄言」

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2004/01/31 20:11 投稿番号: [3494 / 18519]
日本外務省の妄言

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/

『1650年代に伯耆藩(鳥取)の大谷、村川両家が「松島」を幕府から拝領し経営していたという記録があり』とあるが、これは大嘘。
幕府が町民である大谷・村川両家に領地を与えた記録は存在しない。松島に渡海する免許すら与えていない。

『1905年(明治38年)2月には、閣議決定及びそれに続く島根県告示により、日本政府は近代国家として竹島を領有する意志を再確認。』も嘘。
明治政府発足当初の地籍編纂では版図外とされたので「再確認」はできない。

日本の外務省は嘘吐きです。

いいえ

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2004/01/31 20:09 投稿番号: [3493 / 18519]
単に貴殿の意見を全否定しているだけです。

ごきげんよう。

>>追加です

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2004/01/31 20:07 投稿番号: [3492 / 18519]
1.「竹島渡海由来記拔書控」の件
ここで変化球を投げるならば、松島へ渡海するのに竹島渡海免許だけで事足りるのならば話は簡単で、元禄時代の「竹島一件」で松島も同時に放棄したことになりかねませんので、他の日本領派諸君ともよく相談して下さい。

2.赤水図の件
これは指摘のとおり、無彩色である地方は外にもあるようです。
愚生の外務省批判のうち、この部分に関してのみ撤回します。

3.4.
国家によらなくとも、地方政府の領有であっても有効でしょう。
現代の民主主義社会以前には、領土は領主の財産でした。
このことを承知の上で議論して頂きたいものです。
経営云々については、領土問題とは別議論ですね。

三峯島探索については、国王への正式な報告である「啓」で民間人が居住していないことが確認されています。
居住していれば、危険を冒してでも民間人を連れ戻す必要があるので兵船を連ねて行ったのです。
これは自国領土への司法権の行使に他なりません。

本日は、思いの外楽しませて頂きました。
ごきげんよう。

>いいえ

投稿者: snowwhiteleader 投稿日時: 2004/01/31 19:52 投稿番号: [3491 / 18519]
タイトルにある「いいえ」が、私の質問に対するあなたの返答ですか?もしそうならあなたは奉書があったと認めたことになるのですが。

>追加です

投稿者: dennpashounenn 投稿日時: 2004/01/31 19:40 投稿番号: [3490 / 18519]
1.「竹島渡海由来記拔書控」の件
私、中身を読んだことがありません。AHOさんは読まれてるみたいですので、そのソースを示していただければありがたいです。

ただし、ここに
>由来記には「その後大猷院(徳川家光)様御代、竹島海道にて松島と申す島を見出し、御注進申奉り候えば、竹島の通り支配御許し遊ばされ、右両島へ渡海仕り来り・・・」と記されている。
http://ww1.enjoy.ne.jp/~koukokutenbo/asahi-sinnbunn.htm
支配を許すとあることを指摘しておきます。

2.赤水図の件
日本列島の中にも無彩色である地方は多くあります。これをもって竹島が朝鮮領との認識は詭弁としか感じられません。

3.4.
国家による意思のみが領有とはならないと思われます。民族による長い間の経営こそが最終的にその民族が作る国家の領有になって行くのだと思います。

最後に三峯島探索の件では、上陸していないようですね。探索した島が竹島かどうかも推察の域を出ない上に上陸もしていないのであれば竹島の領土問題での価値は低いと考えております。
よしんば三峯島が竹島としても経営をしていないのであれば無主地のままだと判断するべきでしょう。

いいえ

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2004/01/31 19:37 投稿番号: [3489 / 18519]
大谷家で大切に保管されてきた「竹島渡海由来記抜書控」には奉書を受け取った記録でもあるのでしょうか。
是非お示し願いたいものですが、愚生の知る限り、そのような記録は存在しません。

>最初から存在しない

投稿者: snowwhiteleader 投稿日時: 2004/01/31 19:16 投稿番号: [3488 / 18519]
では、あなたは「竹島渡海由来記抜書控」の筆者は、ありもしない「奉書」を控えたといいたいのですか?

松島渡海免許

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2004/01/31 19:06 投稿番号: [3487 / 18519]
そもそも外務省HPでは、「記録が存在する」と大嘘を吐いているわけです。

念のため再度指摘しておきます。

最初から存在しない

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2004/01/31 19:04 投稿番号: [3486 / 18519]
「竹島渡海由来記拔書」はどこまでも私文書です。
記述を裏付ける幕府発行の「奉書」が存在しなければ可笑しいでしょう。
幕府から承った奉書であれば大切に保管するでしょうし、事実鬱陵島(竹島)については奉書が存在しますが、獨島(松島)については何も存在しません。
そもそも初めから無かったのでしょう。

>安永八年

投稿者: snowwhiteleader 投稿日時: 2004/01/31 18:55 投稿番号: [3485 / 18519]
>「松島渡海免許」は存在しません。
>有るものなら拝見したいですね。

焼失してしまったから存在しないのと、最初から存在しないのとでは大違いですが、あなたはどちらの意味で存在しないと言っているのですか?

追加です

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2004/01/31 18:54 投稿番号: [3484 / 18519]
9-72-1,9-72-2も赤水図のようです。

1.「竹島渡海由来記拔書控」の件

よい所に着目しました。
確かに松島について言及されておりますが、松島渡海を免許する奉書は発行されておりません。
何某かの関与があった傍証にはなるであろうと思われますが、外務省のHPにあるような「拝領し経営していた」証拠にはなり得ないでしょうね。

2.赤水図の件
正確には、手彩色の図にあって朝鮮国同様に無彩色である点を指摘しておきましょう。

3.領有意志について
愚生が問題にしている国家による領有の意志です。

4.三峯島探索の件
こちらは国家による探索事業です。
また、国法を徹底させるために、民間人が居住しているのならば連れ帰る使命も帯びていました。

返事どうもです。

投稿者: dennpashounenn 投稿日時: 2004/01/31 18:41 投稿番号: [3483 / 18519]
>「松島渡海免許」は存在しません。
そのようですね。焼失してるようです。
しかし、「竹島渡海由来記拔書控」なるものが存在しているようですがいかがでしょうか?

>赤水図
ご指摘の地図を見ても、先の貴殿の投稿の
>この図では獨島は朝鮮国(当時)と同色で表現されている。
とは理解できませんがいかがでしょうか?

>領有意志の再確認問題
江戸時代に日本人が何度も上陸したことは明白とおもわれますが、領有とは関係ないとのご指摘なので、
先の話題である朝鮮人の三峰島探索で上陸(こちらは多分に推測の域ですが)したかどうかも領有に関係ないとの確認でよいでしょうか?

安永八年

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2004/01/31 18:22 投稿番号: [3482 / 18519]
即ち1779年。

日本人なら、日本の年号くらいは自分で確認して下さい。

この時代の赤水図は9-72-3,9-72-4,9-72-5

その余の根拠
1.大谷家の問題
「松島渡海免許」は存在しません。
有るものなら拝見したいですね。

2.領有意志の再確認問題
1905年よりも前にリャンコ島を領有した事実はありません。
これも、有るのならば拝見いたしましょう。

それら3つの意見の

投稿者: dennpashounenn 投稿日時: 2004/01/31 17:53 投稿番号: [3481 / 18519]
根拠となるデータなり資料なりを提示していただけませんか?

例えば指摘の「改正日本輿地路程全図」を見れるWEBはありますか?

ここに一杯ありますがご指摘の色うんぬんはここでは確認できませんでした。
http://www.lib.meiji.ac.jp/perl/ashida/display_images?sea_param=loc,9,64,32

京都でも「不法占拠」しいるそうです。

投稿者: kaminokunidayo 投稿日時: 2004/01/31 15:16 投稿番号: [3480 / 18519]
http://www007.upp.so-net.ne.jp/aohyon/frame.html

大変な民族だなあー。

そりゃ〜

投稿者: takigawamasuuji 投稿日時: 2004/01/31 12:32 投稿番号: [3479 / 18519]
証拠出して自爆してるようなところにまともな議論が成り立つわけない。

三峰島 II

投稿者: Gaenara 投稿日時: 2004/01/31 12:26 投稿番号: [3478 / 18519]
「西距島七八里許到泊 望見則 於島北 有三石列立 次小島 次巌石列立 次中島 中島之西又有小島 皆海水通流 亦海島之間 有如人形」の中で、「三石列立」、「小島」、「巌石列立」、「中島」、「小島」とあるが、これらは今の鬱稜島北側の「三仙岩」、「タン岩」、「竹岩」、「空岩」と空岩に付属する「岩」か、又は玄圃(ヒョンポ)の近くに浮かぶ「岩」と考えられる。

何故なら、「小島」と其れより大きい「中島」そして「小島」の順であるからだ。 どこからどう見ても、この順序は「独島」には当てはまらない。

ここにも、韓国側の苦しいこじ付けが見受けられると思うな。(笑)

mdk様

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2004/01/31 12:25 投稿番号: [3477 / 18519]
ご挨拶拝読いたしました。
現在、愚生の興味は所謂島根県告示の虚妄性に移っております。
ご承知のように我が国は一時期日帝の統治するところになりましたが、その期間内であっても獨島が慶尚南道の所管であったことは広く知られているところであります。
であるならば、日帝統治期間中は島根県は所管していないことになりますまいか。
或いは、島根県は全く所管せず、日本側が出鱈目な主張をして居るのではと疑っております。

オブラートで包む

投稿者: tachstone 投稿日時: 2004/01/31 11:57 投稿番号: [3476 / 18519]
  そのとおりですね。今は韓国の方がいきり立ってますね。韓国が静まるのを待って、お互いに互角で組み合ったまま時間を流す事ですね。国境というものはそれが一番いいですね。それ以外方法はないですね。

  ヨーロッパのように取ったり取られたりした経験があれば割と解決しやすいのですが・・・・。日本も韓国もそんな経験はありませんから。

Am_I_AHO_1stさん、

投稿者: mdklee69 投稿日時: 2004/01/31 11:44 投稿番号: [3475 / 18519]
はじめまして。
韓国人(ソウル在住)のmdkです。
以後の活躍をも楽しみにしています。
取り急ぎ、ご挨拶まで。

分かり易く云うと

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2004/01/31 11:40 投稿番号: [3474 / 18519]
三峯島からの帰路に鬱陵島に立ち寄っているのに、どうして三峯島と鬱陵島が同じと考えられるのでしょうか。

三峯島を鬱陵島と言い張る諸君は、こうした重要な事実を見落として居るのです。

>>>三峰島

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2004/01/31 11:17 投稿番号: [3473 / 18519]
はい、確かに三峯島探索以前は一島説も存在しました。
しかし三峯島探索以降は地理誌にも「成宗二年有告別有三峯島者乃遣朴宗元往県之因風濤不得泊而還同行一船泊鬱陵島只取大竹鰒魚回啓云島中無居民矣」と記されるようになるなど二島説が定着するのは明らかです。
漠然とした認識など、何処にもありません。
同行した船の一隻が鬱陵島に立ち寄っているのに、どこをどう読んでも三峯島を鬱陵島と勘違いするなんて有り得ません。

>>三峰島

投稿者: tydkemvo 投稿日時: 2004/01/31 10:59 投稿番号: [3472 / 18519]
半月城さんによると

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  成宗元年(1470)、朝廷に東海岸の永安(咸鏡)道観察使から、賦役逃れの
「背国情犯」が「三峰島」に入島する弊害がはなはだしいとの報告が入りまし
た。
   朝廷は三峰島を蔚陵島(鬱陵島)と考え、島民を連れ戻すために三峰島敬
差官、朴宗元および軍隊を派遣しました。船は大風にあいましたが、4隻のう
ち3隻が蔚陵島にたどりつき、3日間島を捜索しました。かれらは住居跡を見
つけたものの、居住民を発見できませんでした。
   蔚陵島に人がいなかったという報告を受けた朝廷は、三峰島と蔚陵島はち
がうのではないかと考えるようになり、その調査を永安道観察使に命じました。
観察使は、かつて1471年に三峰島に漂泊し、島民とじかに接したことのある鏡
城の金漢京たちを派遣しました。
   1475年、金漢京たちは三峰島から7,8里(3km)のところで島を望見する
ことができましたが、風のため上陸しませんでした。これらの記録からすると、
蔚陵島を永安道では三峰島と呼んでいたようです。
   しかし、この報告に疑問を払拭しきれない朝廷は、さらに三峰島のくわし
い調査を命じました(注2)。1476年、観察使は金自周に麻尚船5隻を与え、
さらに渡航歴のある金興や金漢京、李吾乙亡たちを加えて調査させました。金
自周たちは、この三峰島探索の過程で今日の竹島=独島を確認したようで、実
録にはこう記録されました。

『成宗実録』成宗7(1476)年10月丁酉條(注3)
・・・25日、島の西7,8里に碇泊し望見した。島の北には三石が列立し、
次に小島がある。次に巌石が列立し、次に中島がある。中島の西にまた小島が
ある。みな海水が通じて流れている。
   また、海島の間に人形のように立っているものが30ある。おそろしさの
ため島に近づくことができなかった。島の形を絵にして帰った。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

三峰島とは蔚陵島(鬱陵島)のことか、それともまた別の島なのか、よくわかんない
(この時点でははっきり別の島があると断定している訳ではない、1島か2島かよくわからない)
から三峰島をよく調査してこいということのようですね。
漠然と1島でもあるような2島でもあるような認識だったということですよね?
このとき探索した三峰島が鬱陵島なのか現在いうところの竹島=独島なのかについてはいろいろ解釈があるのでしょう?

juwan様

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2004/01/31 10:57 投稿番号: [3471 / 18519]
日本外務省の妄言

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/

『1650年代に伯耆藩(鳥取)の大谷、村川両家が「松島」を幕府から拝領し経営していたという記録があり』とあるが、これは大嘘。
幕府が町民である大谷・村川両家に領地を与えた記録は存在しない。松島に渡海する免許すら与えていない。

また、『経緯線投影の刊行日本図として最も代表的な長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」(1779年)では現在の竹島を位置関係正しく記載。』とあるが、この図では獨島は朝鮮国(当時)と同色で表現されている。

『1905年(明治38年)2月には、閣議決定及びそれに続く島根県告示により、日本政府は近代国家として竹島を領有する意志を再確認。』も嘘。
明治政府発足当初の地籍編纂では版図外とされたので「再確認」はできない。

日本の外務省は嘘吐きです。
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