>>三峰島
投稿者: tydkemvo 投稿日時: 2004/01/31 10:59 投稿番号: [3472 / 18519]
半月城さんによると
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成宗元年(1470)、朝廷に東海岸の永安(咸鏡)道観察使から、賦役逃れの
「背国情犯」が「三峰島」に入島する弊害がはなはだしいとの報告が入りまし
た。
朝廷は三峰島を蔚陵島(鬱陵島)と考え、島民を連れ戻すために三峰島敬
差官、朴宗元および軍隊を派遣しました。船は大風にあいましたが、4隻のう
ち3隻が蔚陵島にたどりつき、3日間島を捜索しました。かれらは住居跡を見
つけたものの、居住民を発見できませんでした。
蔚陵島に人がいなかったという報告を受けた朝廷は、三峰島と蔚陵島はち
がうのではないかと考えるようになり、その調査を永安道観察使に命じました。
観察使は、かつて1471年に三峰島に漂泊し、島民とじかに接したことのある鏡
城の金漢京たちを派遣しました。
1475年、金漢京たちは三峰島から7,8里(3km)のところで島を望見する
ことができましたが、風のため上陸しませんでした。これらの記録からすると、
蔚陵島を永安道では三峰島と呼んでいたようです。
しかし、この報告に疑問を払拭しきれない朝廷は、さらに三峰島のくわし
い調査を命じました(注2)。1476年、観察使は金自周に麻尚船5隻を与え、
さらに渡航歴のある金興や金漢京、李吾乙亡たちを加えて調査させました。金
自周たちは、この三峰島探索の過程で今日の竹島=独島を確認したようで、実
録にはこう記録されました。
『成宗実録』成宗7(1476)年10月丁酉條(注3)
・・・25日、島の西7,8里に碇泊し望見した。島の北には三石が列立し、
次に小島がある。次に巌石が列立し、次に中島がある。中島の西にまた小島が
ある。みな海水が通じて流れている。
また、海島の間に人形のように立っているものが30ある。おそろしさの
ため島に近づくことができなかった。島の形を絵にして帰った。
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三峰島とは蔚陵島(鬱陵島)のことか、それともまた別の島なのか、よくわかんない
(この時点でははっきり別の島があると断定している訳ではない、1島か2島かよくわからない)
から三峰島をよく調査してこいということのようですね。
漠然と1島でもあるような2島でもあるような認識だったということですよね?
このとき探索した三峰島が鬱陵島なのか現在いうところの竹島=独島なのかについてはいろいろ解釈があるのでしょう?
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成宗元年(1470)、朝廷に東海岸の永安(咸鏡)道観察使から、賦役逃れの
「背国情犯」が「三峰島」に入島する弊害がはなはだしいとの報告が入りまし
た。
朝廷は三峰島を蔚陵島(鬱陵島)と考え、島民を連れ戻すために三峰島敬
差官、朴宗元および軍隊を派遣しました。船は大風にあいましたが、4隻のう
ち3隻が蔚陵島にたどりつき、3日間島を捜索しました。かれらは住居跡を見
つけたものの、居住民を発見できませんでした。
蔚陵島に人がいなかったという報告を受けた朝廷は、三峰島と蔚陵島はち
がうのではないかと考えるようになり、その調査を永安道観察使に命じました。
観察使は、かつて1471年に三峰島に漂泊し、島民とじかに接したことのある鏡
城の金漢京たちを派遣しました。
1475年、金漢京たちは三峰島から7,8里(3km)のところで島を望見する
ことができましたが、風のため上陸しませんでした。これらの記録からすると、
蔚陵島を永安道では三峰島と呼んでいたようです。
しかし、この報告に疑問を払拭しきれない朝廷は、さらに三峰島のくわし
い調査を命じました(注2)。1476年、観察使は金自周に麻尚船5隻を与え、
さらに渡航歴のある金興や金漢京、李吾乙亡たちを加えて調査させました。金
自周たちは、この三峰島探索の過程で今日の竹島=独島を確認したようで、実
録にはこう記録されました。
『成宗実録』成宗7(1476)年10月丁酉條(注3)
・・・25日、島の西7,8里に碇泊し望見した。島の北には三石が列立し、
次に小島がある。次に巌石が列立し、次に中島がある。中島の西にまた小島が
ある。みな海水が通じて流れている。
また、海島の間に人形のように立っているものが30ある。おそろしさの
ため島に近づくことができなかった。島の形を絵にして帰った。
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三峰島とは蔚陵島(鬱陵島)のことか、それともまた別の島なのか、よくわかんない
(この時点でははっきり別の島があると断定している訳ではない、1島か2島かよくわからない)
から三峰島をよく調査してこいということのようですね。
漠然と1島でもあるような2島でもあるような認識だったということですよね?
このとき探索した三峰島が鬱陵島なのか現在いうところの竹島=独島なのかについてはいろいろ解釈があるのでしょう?
これは メッセージ 3470 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
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