韓国ふざけんな
Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー
>>つらいアン・ジョンファン選手
投稿者: denpayunyun 投稿日時: 2002/07/30 21:50 投稿番号: [62522 / 99628]
さすがにイタリアには犬スープはねえんじゃねーの?(´Д`)y─┛~~
これは メッセージ 62516 (kanariyabaidesu さん)への返信です.
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>皆さんのあの瞬間
投稿者: dsnan71 投稿日時: 2002/07/30 21:39 投稿番号: [62521 / 99628]
もちろんパソコンに向かって
この板にかきこするために
スタンバってました。
おかげでちょっと見おくれたのでした。
たしか明日スカパーで最後の再放送あります。
見逃した方どうぞ。
これは メッセージ 62500 (kandaharurun さん)への返信です.
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<<皆さんのあの瞬間
投稿者: kandaharurun 投稿日時: 2002/07/30 21:37 投稿番号: [62520 / 99628]
うらやましい・・・・
韓国マンセー実況が予想されたので
音も最小に近くして、音楽かけながら見てたので、
本当にかなりの時間差で知った次第です。
>・・・日本が得点入れた時より嬉しかった|_-))))コソコソ
お気持ちわかります。
私はスペインの不当に取り消されたゴールデンゴールの時が一番発狂しました。
取り消されて、怒りも倍増!
これは メッセージ 62507 (maasa1112002 さん)への返信です.
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昨日の夜
投稿者: sidestack 投稿日時: 2002/07/30 21:31 投稿番号: [62519 / 99628]
ハイ、じつに大変でした。ダビ君がかわいく思えました。
あげくに、毟り取られるお年寄り扱いされてもうた。
これは メッセージ 62508 (nabekama55 さん)への返信です.
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日本人客激減?
投稿者: saigousan2002 投稿日時: 2002/07/30 21:31 投稿番号: [62518 / 99628]
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車ドゥリがデュイスブルクにレンタル移籍
投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/30 21:30 投稿番号: [62517 / 99628]
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>つらいアン・ジョンファン選手
投稿者: kanariyabaidesu 投稿日時: 2002/07/30 21:30 投稿番号: [62516 / 99628]
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オランダと日本との関係
投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/30 21:28 投稿番号: [62515 / 99628]
VIII 日本との関係
1600年4月19日(慶長5年3月16日)、オランダ船隊の1隻リーフデ号が九州豊後(ぶんご)の臼杵湾(うすきわん)に漂着した。日本とオランダとの交流はこのときからはじまる。110人いた乗組員のうちでわずかに命長らえた24人が、はじめて日本の地に足をふみいれた。徳川家康は彼らをあつくもてなし、船長カーケルナックに通商許可状をあたえた。09年、オランダ東インド会社は平戸に商館を設立した。首席航海士だったウィリアム・アダムズは日本にのこり、三浦按針と名のって家康につかえた。35年(寛永12)徳川家光は鎖国政策をはじめ、41年平戸のオランダ商館は長崎の出島にうつされた。これ以後出島は、鎖国時代の日本が欧州諸国の知識をえる唯一の窓口になった。
ヨーロッパの文化や学問、とくに科学に関する知識は蘭学(→ 洋学)として日本にはいってきた。青木昆陽、前野良沢、杉田玄白らは蘭学者として偉大な業績をのこし、幕末には緒方洪庵の適塾から日本近代化の一翼をになった大村益次郎、福沢諭吉らが輩出した。ケンペル、シーボルト、ポンペら来日した東インド会社の医師たちは、日本に西洋医学を広めるとともに、日本文化をヨーロッパへ紹介した。
明治期以降は、日本とオランダとの関係はうすれた。第2次世界大戦で日本はオランダと敵対し、オランダ領東インドを占領した。現在では日本企業もオランダに進出し、日本からの観光客も多くなっている。日本から自動車、テレビ、ラジオ、ビデオ・テープなどを輸入しており、オランダ側は輸入超過で貿易不均衡が問題になっている。1980年には文化協定がむすばれ、学問や芸術の交流も盛んになってきた。ライデン大学には日本学・韓国学センターがあり、日本語や日本研究の学生もふえつつある。2000年は日蘭交流400周年にあたり、両国でさまざまな記念行事がおこなわれた。5月、日本の天皇夫妻がオランダを訪問した。
これは メッセージ 1 (magekuri さん)への返信です.
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オランダの歴史4
投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/30 21:28 投稿番号: [62514 / 99628]
9 第2次世界大戦と戦後 1939年、第2次世界大戦がはじまるとオランダはふたたび中立を宣言したが、40年5月10日ドイツが侵攻を開始した。14日には空爆でロッテルダムのほとんどが破壊され、15日、オランダはドイツに降伏、女王と政権はイギリスに亡命した。しかしオランダの地にはその後、連合国軍によるドイツ占領地への空爆がたびたびくわえられた。45年5月、ドイツ軍が完全に駆逐されるまで、オランダは占領下にとどまった。
大戦後の数年は、国家再建と貿易・産業の復興にむけてすさまじい努力がはらわれた。1945年オランダは国際連合の発足メンバーとなった。48年にはアメリカのマーシャル・プランを通じて経済復興がスタートした。また同年にはベルギー、フランス、イギリス、ルクセンブルクとともにブリュッセル条約を締結し、52年欧州石炭鉄鋼共同体の創立メンバーとなった。49年NATO(北大西洋条約機構)、52年欧州防衛共同体条約、55年ロンドン・パリ協定にくわわり、西ヨーロッパ相互防衛体制の一員になった。
1940年代末〜50年代初めは物価高騰と貿易不均衡の時代でもあった。政治は48年から10年間、労働党を中心とした連立政権がつづいた。この間に、東インドではインドネシアが独立を宣言し、49年、オランダ領ニューギニア(現イリアンジャヤ)をのぞき、この地域の統治権をインドネシアに正式に委譲した。オランダ領ニューギニアは62年まで支配下においた。また54年、スリナムはオランダの自治領となるが、75年、完全に独立した。
10 近年の発展 1959年にはカトリック人民党が勢力を強め、63年と67年の下院選挙では過半数を確保したが、60年代の歴代政権は不安定だった。69年にはオランダ領アンティルの反オランダの動きが政府をなやませ、暴動を鎮圧するために海兵隊が派遣された。60〜70年代とつづいたインフレも大きな政治課題のひとつだった。70年には賃金と物価が統制され、翌年には税の引き上げがおこなわれた。この年の選挙では4党連立が過半数をとれず、2カ月間の努力の末、反革命党を主力とする連立内閣が成立した。しかしこの内閣は72年にたおれ暫定内閣となり、73年5月になって労働党の党首デン・アイルが5党連立内閣の首班の座についた。
1975年スリナムが完全に独立を達成したとき、スリナムからの数十万の移民が流入し、オランダ経済を圧迫した。77年春の議会選挙でデン・アイル連立内閣は改革をめぐって分裂し、その後キリスト教民主同盟(CDA)のファン・アフトが新たに首相となった。80年にはユリアナ女王が退位し、娘のベアトリックス王女が王位を継承する。81年ファン・アフト内閣は議会で過半数をわったが、新連合を形成し、82年9月の議会選挙の後ファン・アフトは突然党首を辞任した。ルベルスが後をひきついで党首になり、同年11月新連立政権を樹立し94年までつづく。この間にアルバ島はオランダ政府と合意に達しオランダ領アンティルから分離した。
1993年オランダは、法律で安楽死を条件付きでみとめた最初の国となった。94年5月の選挙では労働党が勝利をおさめ、77年以来久々に政権についた。95年、オランダは大洪水にみまわれた。大量の雨と雪解け水のため、ヨーロッパ北西部の河川は軒並み堤防からあふれた。政府は緊急事態を宣言し、約25万人が避難した。損害と避難にかかった費用は10億ドル以上とみられている。
1998年5月におこなわれた総選挙ではひきつづき労働党が第1党を確保し、94年からつづいていた自由民主人民党、民主66との3党連立を維持して、8月、第2次ウィム・コック政権が発足した。
これは メッセージ 62503 (ditgtedgbbdc さん)への返信です.
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オランダの歴史3
投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/30 21:28 投稿番号: [62513 / 99628]
6 オランダ共和国の衰退 世界の2大海運国だったオランダとイギリスの争いはさけられなかった。1652〜54年と65〜67年のイギリス・オランダ戦争の結果、オランダは北米のニュー・アムステルダムをうしない、ギアナ(現在のスリナム)を手にいれた。その後もイギリスやフランスとの戦争がつづき、多大な兵力と戦費をついやした。
1701〜14年のスペイン継承戦争では、オランダはイギリスの同盟国としてフランスとたたかったが、その後、オランダの国力の衰退がはじまった。ネーデルラント連邦共和国は、力をたくわえてきたイギリスの海運力と大陸でのフランスの覇権の前に、影がうすくなっていった。
18世紀末にはオラニエ家を擁する党と民主的な改革をのぞむ愛国党との間に争いがおこった。前者が勝利をおさめたが、それも束の間、1795年にはフランス軍の侵攻によってネーデルラント連邦共和国は消滅し、かわってフランス共和制を手本としたバタビア共和国が成立した。
7 ナポレオン時代とベルギーとの連合 バタビア共和国はわずか数年つづいただけで、1806年にはナポレオンがこれをオランダ王国とし、10年にはフランス帝国の一部にくみこんだ。オランダがフランスの支配下にある間に、イギリスはオランダの植民地をうばった。ナポレオン失脚後、15年のウィーン会議でオランダは独立をとりもどし、オランダ王国が成立したが、この王国には現在のベルギーの領土もふくまれていた。
しかし、現在のオランダとベルギーにあたる両地域の政治的背景、伝統、宗教、言語、経済の相違はしだいにはっきりとあらわれてきた。1830年、ベルギーは反乱をおこし、独立した。ヨーロッパ列強によるロンドン会議が開かれ、31年、両国の分離が正式にみとめられたが、オランダがその条件をうけいれたのは39年になってからだった。
8 議会制民主主義の発展 19世紀後半のオランダでは、1840年代からヨーロッパに広がった革命の影響から、政治に自由主義がとりいれられた。改革の趣旨は48年の憲法改正に盛りこまれ、今日の民主主義の基盤となった。この改正は国王による専制政治を不可能とした。かつて国王が任命していた上院議員は、以後州議会から選出され、州議会議員と下院議員は一定額以上の納税者によってえらばれるようになった。カトリックの基盤が強い南部のリンビュルフ州やノールトブラバント州は、共和国時代は征服地としてあつかわれ、王国時代になってはじめて他の州と同等の地位をあたえられたが、宗教的制限が憲法によってとかれた。
こうして強力なカトリック政党が形成され、自由主義的な団体や新しく生まれた保守的なプロテスタント諸党と論争をくり広げることになった。19世紀後半を通じて、参政権は大幅に拡大し、社会改革をのぞむ世論がいちじるしく高揚した。強力な労働党の台頭と労働組合の結成によって社会改革がさらに進展した。植民地の統治もまた改革された。
1880年ごろから1914年までは経済成長の時代だったが、これは第1次世界大戦勃発(ぼっぱつ)とともにおわる。オランダはこの大戦で中立的立場を堅持したが、大陸封鎖の結果、貿易が大損失をうけ、経済は疲弊した。戦後最大の課題は経済の再建だったが、29年の世界大恐慌にはじまる30年代の不況が経済をさらに悪化させた。
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オランダの歴史2
投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/30 21:28 投稿番号: [62512 / 99628]
4 独立のための闘争
オランダ住民の反乱は、スペインの国教であるカトリックに対するプロテスタントの反乱でもあった。プロテスタントの一派であるカルバン派はこのころオランダに急速に広まり、信者たちは各地に教会をたてた。それはカトリック教会、とくに異端審問に対する明らかな挑戦だった。1566年の住民暴動で、群衆は国内のカトリック教会の聖像を破壊した。その報復としてスペインにいたフェリペ2世は、アルバ公ひきいるスペイン軍をオランダへ派遣した。アルバ公による圧政ときびしい異端審問の結果、スペインに対する公然たる反乱がおこった。
反乱軍を指揮したのはオラニエ公ウィレム1世であった。1572年、ウィレム1世の支持者がホラントのブリル港を占拠してから、反乱軍は北部のほとんどの都市を掌握、反乱の拠点にした。ウィレム1世は北部と南部の統合をはかろうとしたが、スペイン軍の巻き返しにあってはばまれた。
1579年に北部諸州と南部のいくつかの州はスペインに対抗してユトレヒト同盟を結成し、81年にはスペインからの独立を宣言した。だがその後、たび重なる敗北を喫し、84年にはウィレム1世の暗殺という痛手をおう。85年までにスペインは、重要な港であるアントワープをふくむ南部すべてをふたたび手にいれた。しかし、85〜87年にイギリス軍が反乱軍支援のため海峡をこえて大陸へはいり、88年にはスペイン艦隊をやぶった。この勝利で外国におけるスペイン勢力の弱体化に拍車がかかった。ユトレヒト同盟をむすんでいた北部7州では、1600年までにスペイン軍が一掃された。
1609年に12年間の休戦条約をむすんで戦いはおわったが、オランダとスペインとの抗争はスペインがミュンスター条約に調印する48年までもつれこんだ。この条約で正式にネーデルラント連邦共和国の独立が承認された。
5 黄金時代 オランダの独立が達成された17世紀初めは、商業繁栄の時代と画家レンブラントらに代表される文化の黄金時代の幕開きであった。17世紀中ごろまでオランダはヨーロッパ最大の海上貿易力をほこった。また、アムステルダムは金融の一大中心地になった。
5A 探検と植民地建設 1600年ごろ1人のオランダ商人が3隻の船をしたがえてアムステルダムからジャワへわたった。これがオランダの海外発展の発端となった。スピッツベルゲン(スバールバル諸島)からホーン岬へ、スターテン島からタスマニアへ、遠く海外に交易地をもとめて航海がくり広げられた結果、オランダはアフリカ、東南アジア、アメリカに多くの交易拠点を獲得した。
1602年、オランダ議会は、アフリカの喜望峰から東側、南米のマゼラン海峡から西側の諸国との貿易独占の特許状を連合東インド会社(→ 東インド会社の「オランダ東インド会社」)にあたえた。戦争遂行権や条約締結権をもふくむ数々の統治権もあたえられた。21年に創設されたオランダ西インド会社は、西インド諸島、ブラジル、北米に植民地をつくっていった。
東インド会社の商館は、はじめスパイスの島であるマルク諸島のアンボン島に、ついでジャワ島西部の現在のジャカルタにおかれたが、オランダ人はここをバタビアと改名して事業の拠点とした。交易と交易場の設置が事業のおもなねらいだったため、はじめは統治にはかかわらなかったが、その後先住民とのトラブルが生じたりしたことから、交易維持のために根拠地周辺の支配をはじめた。
これは メッセージ 62503 (ditgtedgbbdc さん)への返信です.
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>皆さんのあの瞬間
投稿者: dositebooyan 投稿日時: 2002/07/30 21:28 投稿番号: [62511 / 99628]
ビデオの予約を忘れてて、録画ボタンを押すか押さないかの時です。
だから録画されてません。【T_T】
これは メッセージ 62500 (kandaharurun さん)への返信です.
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韓国不戦勝?
投稿者: pup_poo_one 投稿日時: 2002/07/30 21:24 投稿番号: [62510 / 99628]
日本が日程的に合わなくて断っても「4位の大極戦士に恐れをなした」とか言いそうですね。
これは メッセージ 62436 (ketata さん)への返信です.
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>>旅行者
投稿者: maasa1112002 投稿日時: 2002/07/30 21:24 投稿番号: [62509 / 99628]
増えてるのは納得。
地上波しか知らないオバちゃん軍団が増えていそう。オバちゃんのたくましさは筋金入り。レイプ被害率も少なそうだし、韓国への旅費は安いし。。
これは メッセージ 62481 (matikanepoppea さん)への返信です.
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>昨日の夜中
投稿者: nabekama55 投稿日時: 2002/07/30 21:23 投稿番号: [62508 / 99628]
ハイ、なんか大変そうでした。
(他人事のよう…)
害は無いんだから楽しんでいて良かったのに、とは思いますが。
あの、「最後に笑う」という話にしても、
「騙されたな〜わっはっはv」
と言うくらいでしょ。
…どうと言う事も無かったような。
ただ、それより私は一つ、前から気になってたことがあって、その謎はまだ解けてなかったり…
ま、ど〜でもいいことですが。
これは メッセージ 62502 (takanehanakohana さん)への返信です.
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<皆さんのあの瞬間
投稿者: maasa1112002 投稿日時: 2002/07/30 21:22 投稿番号: [62507 / 99628]
うちは夫婦で気合い満々で見てたので、二人揃って見逃しませんでした( ̄ー ̄)ゞ
フフッ
夫婦で瞬きせずに見てたかも。
夫婦で飛び上がって喜んだことは言うまでもなし。
・・・日本が得点入れた時より嬉しかった|_-))))コソコソ
これは メッセージ 62500 (kandaharurun さん)への返信です.
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あ、だから
投稿者: nabekama55 投稿日時: 2002/07/30 21:19 投稿番号: [62506 / 99628]
前半戦の途中からなの…見たのは。
…少し悔しい…
これは メッセージ 62504 (nabekama55 さん)への返信です.
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>皆さんのあの瞬間
投稿者: nabekama55 投稿日時: 2002/07/30 21:17 投稿番号: [62504 / 99628]
ただいま〜ですv
さっき、仕事から帰って、ROMってました。
…凄い量だぁ〜…;
で。
トルコ、韓国戦のゴール。
………………ごめんなさい、彼女といちゃついてました///
彼女はあまりサッカー、興味ないんで…
半ば強引に「見せろ〜!」と騒いでTVつけた。
ラブラブ〜な思い出に繋がっとりまv
…すんません〜
これは メッセージ 62500 (kandaharurun さん)への返信です.
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オランダの歴史1
投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/30 21:17 投稿番号: [62503 / 99628]
VII 歴史
オランダの歴史は前1世紀にまでさかのぼる。前1世紀の中ごろ、カエサルひきいるローマ軍が現在のオランダ領の南部を征服した。当時、現在のオランダの地域にはフリース人などのゲルマン系の部族やケルト系の部族がすんでいた。
1 ローマ時代 ローマはやがてライン川をこえて現在のオランダの南東部にまで勢力をのばし、また現在よりも北にあったライン川の河口部を支配した。ローマの支配下で250年余り平和と繁栄がたもたれた。ローマの商人は自由にこの地域にはいり、イタリアやガリアからはこんできた品物で商売をした。寺院をたて、農場の基礎をつくり、ローマ文明をもたらした。
後300年ごろになるとローマの支配力は弱まり、ゲルマン民族が東方から勢力をのばしてきた。北部にすんでいたフリース人は自分たちの土地をまもったが、サクソン人が東部へ、フランク人が西部や南部へと移動してきた。
2 中世 フランク人は移動してきたゲルマン民族の中でももっとも勢力が強く、占領地域は南は現在の北フランスにまでおよんだ。フランク人はフリース人やサクソン人を次々に征服し、800年までに現在のオランダのほぼ全土がフランク王国のカール大帝の領土の一部となった。その間にこの地域のキリスト教化もすすんだ。カール大帝の死後、フランク王国は分裂し、843年のベルダン条約でオランダはロタリンギア領となり、さらに、925年には神聖ローマ帝国の一部にくみこまれた。
9〜10世紀にはバイキングとよばれる北方からの侵入者がしきりに海岸地方をおそい、略奪品をもとめて川をのぼってきた。こうした襲撃に対抗するため、地方の支配者や彼と主従関係をむすんだ貴族は勢力を強め、また職人や商人のすむ都市も防衛力を高めた。12〜14世紀のオランダの歴史の中で、有力都市の発展は注目すべきものがある。こうした都市はしだいに重要な貿易の拠点になっていった。
中世初頭には、フランドル伯領、ホラント伯領、ユトレヒト司教領、ブラバント公領、ヘルデルラント公領などが形成されていたが、北部のフリース人はいずれの領主の支配下にもはいらなかった。神聖ローマ帝国との関係は中世を通じて名目上にとどまった。東のブレーメンやハンブルクなど今日のドイツの都市との交易もわずかにおこなわれたが、文化の面ではフランスの影響を強くうけた。
3 ルネサンス 15世紀前半、ホラント、ユトレヒト、ノールトブラバント、ヘルデルラントなどの地域は、結婚、戦争、政略を通じてブルゴーニュ家のフィリップ善良公の支配下にはいった。その後、ブルゴーニュ公国となったオランダはハプスブルク家領となり、1519年まではスペイン王でもあったハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール5世の穏和な支配下におかれた。しかし、55年、息子のフェリペ2世がスペインとオランダを継承すると、新教徒を弾圧するなど圧政を重ねた。その結果、68年から1648年にかけての80年間にわたって、オランダの住民は当時ヨーロッパ最強のスペインを相手に、独立へむけての戦いをくり広げることになった。
これは メッセージ 1 (magekuri さん)への返信です.
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昨日の夜中(ヨコ)
投稿者: takanehanakohana 投稿日時: 2002/07/30 21:15 投稿番号: [62502 / 99628]
ですよね?ここのトピ、何だか大変な騒ぎだったんですね…
なんかちょこっと読んだけど、う〜ん、馬鹿馬鹿しいっていうか。
こういった掲示板なんてどこのだれだとか
説明できっこないのにさ。
そういう私も自分で言わなきゃ「富山の女」って
わからないし。
第一方言使ってカキコするわけじゃないし。
むむむ…
これは メッセージ 1 (magekuri さん)への返信です.
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>皆さんのあの瞬間
投稿者: matikanepoppea 投稿日時: 2002/07/30 21:13 投稿番号: [62501 / 99628]
くしゃみしていて見れませんでした。
と、乗ってみます。
これは メッセージ 62500 (kandaharurun さん)への返信です.
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皆さんのあの瞬間
投稿者: kandaharurun 投稿日時: 2002/07/30 21:11 投稿番号: [62500 / 99628]
トルコ×韓国戦、トルコ一点目ゴールの瞬間を見れなかった不幸な皆さんは、
何をしていて見れなかったのでしょう?
と、ふってみます。
これは メッセージ 62495 (sidestack さん)への返信です.
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オランダの政治
投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/30 21:08 投稿番号: [62499 / 99628]
VI 政治
オランダは議会制の立憲君主国で、1815年に制定され、その後数度にわたって改正された憲法のもとに政治がおこなわれている。
1 行政・立法・司法 元首は世襲の国王だが、1848年以来の数度の憲法改正で国王に政治上の実権はない。行政府の長は首相で、憲法上、国王に任命されるかたちをとる。議会の多数党から首相と各省大臣を選出し、内閣は議会に対して責任をおう。
議会は上下両院からなり、上院は州議会から選出される任期4年の75名の議員、下院は比例代表制による普通選挙で選出される任期4年の150名の議員で構成される。どちらの議会も国王が解散を告示し、40日以内に選挙がおこなわれる。下院のほうが強い権限をもち、上院には法案の修正権、発議権がなく、拒否権だけがあるが、行使されることはまれである。選挙権は18歳以上のすべての国民にあたえられている。
司法組織は4つのレベルの裁判所からなりたっている。ハーグにある最高裁判所、控訴院、地方裁判所、区裁判所である。裁判官は終身制で国王が任命する。
2 地方自治 オランダは12の州からなり、各州の政治組織の基盤は中世にまでさかのぼることができる。立法機関としては、国王が任命した州知事と普通選挙で選出された議員からなる州議会があり、行政機関としては知事と6名の州議会議員からなる参事会がある。このほかに大都市から小村落までふくむ約650のヘメーンテとよばれる地方自治体があり、それぞれ州と同様な議会と行政機関をもっている。
3 政党 20世紀の初め以来、オランダでは小党乱立がつづいている。たとえば1994年の下院選挙では12の政党が議席を獲得した。連立政権の成立はしばしば困難に直面している。90年代では、中道のキリスト教民主同盟(CDA)、左翼政党の労働党、リベラル勢力の自由民主人民党、政治への市民の直接参加をめざす比較的新しい政党である民主66がおもな政党。ほかの小政党の多くは極端にリベラルか極端に保守的である。
4 社会福祉 オランダはヨーロッパでもひじょうに福祉がゆきとどいた国として知られる。税金と社会保障費とで政府は国民所得の約半分を支配しており、歳入の大半は教育、保険、雇用促進、社会福祉にあてられている。しかし、増大する財政赤字の解消のため、近年、政府は社会福祉予算を削減した。人口の約70%を占める一定額以上収入のある者には保険制度への加入が義務づけられている。失業手当、傷病手当、身体的に労働が困難な者への所得税軽減、寡婦や孤児や老人への手当、最低賃金制度、家族手当などの保障も充実している。
5 防衛 オランダは陸、海、空軍ともにNATO(北大西洋条約機構)への参加によって、防衛の要としている。従来、徴兵制と志願制が併用されてきたが、1996年、志願制に一本化された。97年の兵力は、陸軍2万7000人、海軍1万3800人、空軍1万1980人。
6 国際機構 オランダはかねてからヨーロッパ統合と国際協力をとなえており、1949年にヨーロッパ議会、57年にEEC(ヨーロッパ経済共同体。現EU:ヨーロッパ連合)、60年にベネルクス経済同盟などに加盟した。国際連合の一員で、発展途上国の経済発展にも大きく貢献している。NATOとOECD(経済協力開発機構)の創設メンバーでもある。
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オランダの経済2
投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/30 21:08 投稿番号: [62498 / 99628]
7 外国貿易 オランダは外国との貿易にひじょうに開放的である。入港してくる物資のほとんどは他国、とくにEU諸国へむけての貨物である。1980〜90年代半ばにかけて、輸出額は輸入額をうわまわった。おもな輸出品は果物、野菜、卵、肉などの食品、機械類、化学製品、輸送設備、石油製品、天然ガス。またおもな輸入品は、紙製品、布地、金属、食料品、家畜、化学製品、輸送設備、石油、石油製品である。貿易の大半はEU諸国が相手で、とくにドイツとの貿易は全体の27%以上を占めている。おもな輸出相手国は、ベルギー=ルクセンブルク、フランス、イギリス、イタリア、アメリカ、スペイン。輸入相手国はドイツ、ベルギー=ルクセンブルクのほか、イギリス、フランス、アメリカ、イタリア、日本である。天然ガスの輸出や観光客の増加によって外貨取得額も増大した。毎年およそ390万人の外国人がおとずれるが、オランダ人も旅行好きで、外国人がオランダでつかう額の少なくとも倍の額を外国で消費している。
8 交通
オランダは貿易立国だったため、すぐれた港湾設備が不可欠だった。こうして世界有数のロッテルダム港やアムステルダム港が建設された。運河や大河川があるため、どちらの港からも簡単に外国やヨーロッパ内陸へすすむことができる。船舶が航行できる運河や河川はほぼ全土におよんでいる。
オランダの隅々にいたるまで鉄道網がしかれ、列車の運行数も多いが、船があるため鉄道は第1の輸送機関になっていない。高速道路、橋、トンネル、フェリーなど自動車交通網も整備され、およそ3人に1人が自動車を所有している。自転車も地方旅行などの大切な手段で、自転車専用レーンをもうけている道路も多い。
オランダ最大の空港はスキポール国際空港で、アムステルダム近郊にある。KLMオランダ航空はオランダ第1の国際的な航空会社である。
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オランダの経済
投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/30 21:07 投稿番号: [62497 / 99628]
V 経済
オランダは何世紀にもわたってヨーロッパ経済中で特別な役割をはたしてきた。16世紀以降は、船舶、漁業、貿易、銀行業が経済を先導してきた。19〜20世紀前半は植民地との貿易が重要だったが、1940年代末のインドネシア独立以降、オランダ経済は植民地貿易からヨーロッパ諸国間の貿易へと方向転換した。農業人口の減少につれて、各種製造業の基礎がきずかれた。また、豊富な埋蔵量をほこる天然ガスの発見で、オランダはエネルギー輸出国のひとつになった。ほとんどの企業は民間企業だが、政府の経済計画の影響力は絶大なものがある。
1 国民生産 1995年のGNP(国民総生産)は3955億ドル、1人当たりでは1万9401ドルにのぼった。1980〜92年の実質成長率は年平均2.2%。製造、建設、エネルギー関連の生産がGDPに占める割合は約30%、農業は4%である。サービス業も経済成長に大きく貢献している。
2 労働 約660万人の労働者のうち、およそ60%が商業やサービス業、4分の1が工業、11%が金融関係、4%が農林業や漁業に従事している。労働者の3分の1は労働組合に所属し、オランダ労働組合連盟とオランダ・キリスト教労働組合連合が2大組織である。団体交渉による取り決めが国の経済計画にそうように、団体交渉には政府が組織的にかかわっている。
3 農林業と漁業
オランダの農業は生産性が高く、輸出の大きな原動力になっている。肉類、花、野菜、バターやチーズなどの乳製品の輸出総額は輸入される穀類、熱帯の産物、家畜の飼料などの総額をこえている。農業は、おもに家族経営の小規模農場でいとなまれている。耕地が国土の27%であるのに対し、牧草地は約32%を占める。主要な農産物はジャガイモ、テンサイ、その他の野菜、果物、コムギをはじめとする穀類、牛、豚、ニワトリなどの家畜だが、18世紀にチューリップ栽培が有名になり、今日では花や球根が重要な輸出品となっている。かぎられた土地で収穫量をふやすために化学肥料が大量に使用されてきたため、現在、水の汚染が問題となっており、政府は汚染物質をへらす政策をすすめている。
森林が少ないため林業はふるわない。一方、漁業は伝統的な産業のひとつで、北海の水質汚染などのため漁業資源が減少してきているが、今なお重要な産業である。おもな水産物はマグロ、ニシン、カレイ、ムール貝、サバ、シタビラメ、タラ、エビである。
4 工業 工業の業種はいろいろあるが近年にはじめられたものがほとんどである。第2次世界大戦前までは工業はあまりふるわなかった。鉄鋼、輸送設備、大型機械などの重工業は近隣諸国にくらべて低調だったが、1945年以降、化学産業や電気産業が急速に発達した。食品加工、タバコ、機械、船舶などの輸送設備、金属製品、印刷機械の生産も盛んになってきた。
5 エネルギーと鉱業 オランダの産業構造はエネルギー資源と深く関係している。何世紀もの間、エネルギーは風車や泥炭にたよってきたが、これらが時代遅れになると石炭がつかわれるようになった。リンブルフ州の石炭だけではたりず、大量に輸入された。第2次世界大戦後は石油と天然ガスが主力となったが、これも輸入にたより、ロッテルダム港は石油受け入れと精製の中心基地となった。1950〜60年代にフローニンゲン州で埋蔵量が豊富な天然ガスが発見され、生産が開始されると、最後にのこった炭鉱が73年閉山となり、オランダは天然ガスの主要輸出国になった。90年代初めの年間産出量は原油1950万バレル、天然ガス820億m3で、世界第5位である。最大発電能力は2220万kW、発電量は635億kWhである。
6 通貨と銀行 通貨単位はギルダー(グルデン)。通貨はオランダの中央銀行ネーデルラント銀行(1814年設立)で発券、統制されている。ギルダーの為替レートは西欧諸国の通貨、とくにドイツ・マルクの為替レートと密接に連動している。アムステルダムはオランダの銀行業や保険業の中心で、証券取引の中心地でもある。ロッテルダムには石油の国際取引所がある。
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オランダ2
投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/30 21:06 投稿番号: [62496 / 99628]
III 住民
住民の大多数はフランク人、フリース人、サクソン人などの系統の白人である。フリースラント州の住民の多くはかつてのフリース人で、独自の言語フリース語と文化をもっている。政府は人口過密になるのをおそれ、第2次世界大戦以降移民を奨励し、その結果、およそ50万人が国をはなれた。しかし、それ以上に人口が流入した。かつてオランダ領だったインドネシアからヨーロッパ系やアジア系の人々が、トルコやモロッコなどの地中海沿岸の国々から労働者が、最近では旧オランダ領スリナムやオランダ領アンティルから新住民がはいってきたのである。現在、とくに大都市では、さまざまな人種の人たちがくらしている。
1 人口
オランダの人口は1573万1112人(1998年推計)。人口密度は379人/km2で、世界でも有数の人口密度の高い国である。かなり都市化がすすみ、人口の約89%は市街地にすんでいる。大都市には、首都のアムステルダム(人口71万7304人(1998年))、世界有数の港湾都市ロッテルダム(59万436人(1998年))、政治の中心ハーグ(44万1561人(1998年))、産業の中心ユトレヒト(23万2983人(1998年))があり、ほかの16の大都市は人口10〜20万人である。そのほとんどが西部のノールトホラント州、ゾイトホラント州、ユトレヒト州にあって、ラントスタットとよばれる一大複合都市地帯をつくっている。
2 言語と宗教 公用語はオランダ語で、全国でつかわれているが、フリースラント州ではかなりの住民が第1言語としてゲルマン系の言語フリース語を話している。カトリック教徒は人口の33%、プロテスタントは23%。3%がイスラム教徒で、ユダヤ人の小コミュニティもある。国民の39%が宗教団体に属していない。カトリックは南部に集中している。プロテスタントはいくつかの宗派にわかれ、その中ではオランダ改革派教会がもっとも大きい。国教はないが、改革派教会はオランダ共和国建国以来、オランダの歴史と密接にむすびついてきた。オランダの君主は代々改革派教会に属している。
IV 教育と文化
オランダ人の文化活動や社会生活は、組織的な面で1960年代にいちじるしく変化した。それまでは、社会生活のほとんどがピラーとよばれる集団の中で整然と組織化されていた。教育、政治、報道機関、医療、労働組合、その他生活にかかわるさまざまな分野ごとに、プロテスタント、カトリック、非改革派諸宗派のピラーがあり、政府のあらゆるレベルと対応していた。しかし時代の変遷とともに、社会主義者のピラーや宗派に属さない自由主義者のピラーが改革派諸宗派のピラーといっしょになるなどして、ピラー体制から独立する組織もでてきた。80年代までに、人々のピラーとの結び付きは弱まった。
1 教育 16世紀の宗教改革の時代以降、オランダは高度な基礎教育で比較的高い識字率をほこってきた。19世紀には、教育の体系化と学校への財政援助が重ねられた。国が教育に深くかかわるにつれて、公立でない学校、おもに教会関連の学校をどうするかという論争がもちあがった。この論争は政治的な大問題に発展し、1917年にようやく解決した。この年の憲法改正で公立学校にも教会の学校にも同等に税金からの財政援助がうけられることになった。
高等教育機関へすすむ学生は1960年代に激増した。90年代初めで、大学生は約18万人、その他の高等教育機関の学生は20万4400人にのぼる。おもな大学は、アムステルダム大学(1632年創立)、フローニンゲン大学(1614)、ライデン大学(1575)、ユトレヒト大学(1636)。工業大学や美術学校も数校ある。
2 文化 16世紀にはオランダの人文主義者エラスムスの影響が広くおよんだが、全体としてオランダの文化が国際的名声をえたのは17世紀で、17世紀はオランダの黄金時代とよばれる。法学者のグロティウス、数学・物理学者のホイヘンスや博物学者のレーウェンフック、地図学者のブラウやホンディウス、詩人のホーフトやフォンデル、哲学者のスピノザや数多くの神学者らが当時の中心人物だった。このほかにも自由な雰囲気をこのんでオランダにすんだ外国人がいた。フランスの哲学者で数学者でもあったデカルトや、イギリスの哲学者ジョン・ロックがとくに有名である。
画家のレンブラント、フェルメール、ハルス、ステーンらもこの黄金時代の主役だった。オランダ絵画の伝統は近代にも脈々とうけつがれ、ゴッホ、モンドリアン、アペルなどの偉大な画家を生んでいる。現在でもアムステルダムではさまざまな国からきた芸術家たちが活躍している。→ バロック美術:オランダ文学:ルネサンス美術
現代の音楽の世界では、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団が国際的に名高い。ロッテルダムにも有名な交響楽団がある
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私の場合
投稿者: sidestack 投稿日時: 2002/07/30 21:04 投稿番号: [62495 / 99628]
セレモニー終わったかなと思ってテレビつけたら入ってました。
でも、2点目でしたかFW2人でディフェンダーぶち抜いたシュートに、背筋がゾクゾクしましたけど。
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オランダ関係ついでに
投稿者: matikanepoppea 投稿日時: 2002/07/30 21:02 投稿番号: [62494 / 99628]
僕がサッカーに興味を持つきっかけになったのは
1990年のトヨタカップでした。
ACミランがオリンピア相手に3対0で圧勝したゲームでした。
ミランのフーリット・ファンバステン・ライカールト
のオランダ人トリオが大活躍しました。
無得点だったけどファンバステンのあの急激な切り替えしで
相手DFをかわすプレーに驚いた。
サッカー無知だったけど
彼はすごいストライカーだなぁと強く印象に残りました。
あまりにびっくりして慌てて途中から録画しました。
今でも保存しております。
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オランダ
投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/30 21:02 投稿番号: [62493 / 99628]
I プロローグ
オランダ
Netherlands
ヨーロッパ北西部にある立憲君主国。正式国名はオランダ王国。国名の「オランダ」は国の政治、経済の中心地である「ホラント州」のホラントがなまったもの。ベルギー、ルクセンブルクとともにベネルクス三国の一員。カリブ海のオランダ領アンティルとアルバ島も領土の一部である。国土面積はヨーロッパの領域は4万1526km2、そのうち3万3939km2が陸地である。人口は1573万1112人(1998年推計)。首都はアムステルダム。
16世紀、オランダ(ネーデルラント)の人々はスペイン王フェリペ2世に対して反乱をおこした。北部諸州はユトレヒト同盟をむすんで独立運動をつづけ、1581年、スペインからの独立を宣言した。オランダ共和国(ネーデルラント連邦共和国)は1648年にウェストファリア条約で正式に成立し、フランス革命軍が親フランス派の政府を樹立した1795年に崩壊した。その後オランダはバタビア共和国となり、1806年にはナポレオンによってオランダ王国にかえられ、10年にフランスに併合された。13〜15年のナポレオンの敗北により、15年にウィレム1世が即位して現在のオランダ王国が生まれた。ベルギーはもともとこの新王国の一部だったが、30年に分離して独立国家となった。
II 国土と資源
オランダはネーデルラントともよばれるが、ネーデルラントとは低い土地の意味で、その名のとおりオランダは低地の国である。国土のうち陸地のおよそ半分は海面下にある。西部のほとんどは海面より低く、粘土と泥炭の土壌におおわれ、運河や川や入り江があちこちにある。東部は海面より高く、なだらかな起伏をともなった平地である。標高が50mをこえる土地はほとんどない。陸地の大部分では農業をおこなっている。森や荒野はわずかしかない。
1 地形
北海に面する海岸線はほとんどが砂丘である。南西部の砂丘はライン川の河口のデルタ地帯でとぎれる。北部では海が砂丘の上部をおおい、ワッデン海と西フリージア諸島(→ フリージア諸島)を形成している。狭く細長い砂丘の内側は海面より低いため、堤防がきずかれ、たえず機械で排水がおこなわれている。かつては大きな湾だった旧ゾイデル海は現在も干拓中である。ここと北海とをへだてる大堤防は1932年に完成し、ポルダーとよばれる干拓地が約22万5000haつくられることになった。80年代初めには約4分の3の干拓がおわり、残りの部分はライン川から水をひいて淡水湖のアイセル湖となっている。
1953年2月1日、南西部のデルタ地帯は大潮が原因で大洪水にみまわれ、約1800人が死亡した。58年に始動し86年に完了したデルタ計画はダム、橋、水門、運河などの水路システムを発展させて、こうした洪水をふせぐものであった。この計画が実現して、海岸線は約700km短縮した。
オランダの東半分は、氷河や川の作用で堆積(たいせき)した砂質土壌の低地である。アルデンヌ山地につらなる小高い丘陵とローム質の土壌はリンビュルフ州南部だけにみられ、ここに国の最高地点ファールセルベルフ山(321m)がある。
2 河川と湖沼 主要河川は、ドイツからながれこむライン川と支流のワール川やレク川、ベルギーからながれてくるマース川(ムーズ川の支流)とスケルデ川である。河川や支流は多数の島からなるデルタをつくり、数多くの運河や河川のおかげで船舶はヨーロッパの内陸まで航行できる。
北部と西部には小さな湖が多数ある。天然の大きな湖のほとんどは干拓されてなくなったが、デルタ再開発計画とゾイデル海干拓で、数多くの新しい淡水湖が誕生した。その最大のものがアイセル湖である。
3 気候 オランダはヨーロッパ北部や西部によくみられる温暖な海洋性気候である。海岸地方のフリシンゲンの平均気温は1月は1〜5°C、7月は14〜21°C。人口密度が高い中央部のデ・ビルトでは、1月は-1〜4°C、7月は13〜22°C。年降水量はフリシンゲンで平均690mm、デ・ビルトで平均770mm。快晴の日はめったにない。オランダには高い山のような自然の障壁がないので、地方による気候の変動はほとんどない。
4 植生と動物 オランダの自然景観は、住民によって何世紀にもわたりさまざまにかえられてきた。陸地がとぼしく、干拓が強力におこなわれたため、自然の植生はわずかしかのこされていない。
砂丘に生える背の高い草や荒野のヒースのため今もウサギは生息しているが、シカのような大型の野生動物は姿をけした。オーク、ブナ、トネリコ、マツなどの樹林はてあつく管理されている。干拓計画で、多種類の渡り鳥に新たな生息地が用意された。
これは メッセージ 1 (magekuri さん)への返信です.
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> >恐怖のH−Hライン
投稿者: chootabang 投稿日時: 2002/07/30 21:01 投稿番号: [62492 / 99628]
私なんざ、テレビの前にいたのに、よそ見しているうちに入っちゃいました。
つくづく目が離せない国です。
これは メッセージ 62491 (kandaharurun さん)への返信です.
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>恐怖のH−Hライン
投稿者: kandaharurun 投稿日時: 2002/07/30 20:50 投稿番号: [62491 / 99628]
私はビールを取りに台所に行って
戻ってきたら点入ってました。
その後しばらく、既に1点入っていることに気づかず見ていました。
ところで(H−H)が顔文字に見えてしまう私はかなり重症のようだ・・・
これは メッセージ 62483 (chootabang さん)への返信です.
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はじめまして
投稿者: asasa201 投稿日時: 2002/07/30 20:48 投稿番号: [62490 / 99628]
ずっとROM専門でした。
たしかイネは蔵六の弟子(医学の)だったような気がするのですが・・・。で、お互いに好意をもちながらも、結ばれなかったと思います。
うら覚えでごめんなさい。
これは メッセージ 62487 (khk350 さん)への返信です.
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大村益次郎でしたよね?
投稿者: chootabang 投稿日時: 2002/07/30 20:44 投稿番号: [62489 / 99628]
村田蔵六って
刺客に襲われて死ぬわけですが、確か看護をしてたのがイネさんだったと記憶してます。
司馬遼太郎の花神で書かれてたんじゃないかな?
未読なんではっきりしなくてすみません。
これは メッセージ 62487 (khk350 さん)への返信です.
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オランダ語
投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/30 20:44 投稿番号: [62488 / 99628]
オランダ語
オランダご
Dutch Language
オランダ王国と南米のスリナム共和国の公用語で、ベルギー王国でも公用語のひとつになっている。オランダのほかベルギーの北半分、フランスのノール県北部、スリナムなどで話される。ベルギーとフランスでは一般にフラマン語とよばれている。ゲルマン語派の西分派ネーデルラント・ドイツ語群に属する。南アフリカ共和国のアフリカーンス語はオランダ語からわかれたものであるが、現在では別の言語とみなされている。
ベルギーでもオランダでも現代標準オランダ語とよばれる共通の文語をもちいているが、地方の口語方言は、標準語とはひじょうにことなることが多い。方言は村から村へと少しずつかわっていき、北ドイツの低地ドイツ語と融合する。現代標準オランダ語は、フランドル、ブラバント、ホラントの諸州が、それぞれ政治、経済的に優位だった時期に、その方言の影響を次々とうけて発達した。その歴史は、古期、中期、現代の3つの主要時期にわけられる。
古期オランダ語は1100年ごろまでで、この時期の文献は聖書の「詩編」の翻訳がのこっているだけである。中期オランダ語は、1100年から1550年までで、音と屈折にさまざまな変化をうけた。標準的文語は最初は存在せず、作家は地方語で書いた。13世紀に、詩人のマールラントが中心となって文語オランダ語を確立しようと努力したが、方言の使用はつづいた。
現代オランダ語は1550年から現在までである。この時期のもっとも重要な出来事は、1619年から37年にかけての欽定訳聖書の刊行で、このオランダ語の形が低地帯諸国へひろがった。この翻訳の影響は、言語と正書法の権威ある規範を確立したという点で、ルターによる高地ドイツ語への聖書の翻訳が与えた影響と似ている。この標準語はまず17世紀のオランダ共和国にひろがった。
ベルギーのオランダ語地域は、1516〜1814年の間、スペイン、オーストリア、フランスに次々に支配されていたため、オランダ語は、19世紀のフランドルの国家主義運動によって復権されるまで、文化の担い手としての地位をうしなった。1898年、オランダ語はベルギー政府によってフランス語とならんで公式の地位をあたえられたが、現在のフランドル地方の唯一の公用語としてみとめられたのは1938年からである。
第2次大戦後、ベルギー、オランダ両政府の支援で、オランダ語正書法をあらため、両国における用法の統一をはかる施策がとられた。
なお、江戸時代に貿易をしていた関係から、オルゴール、ズック、ビールなど日本語にはいったオランダ語は多い。
これは メッセージ 62485 (khk350 さん)への返信です.
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追記
投稿者: khk350 投稿日時: 2002/07/30 20:37 投稿番号: [62487 / 99628]
シーボルトの娘イネと村田蔵六のもどかしい恋の物語って、なんだか知ってる人います。
ど忘れしてしまい出てきません。
これは メッセージ 62485 (khk350 さん)への返信です.
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どうもです
投稿者: chootabang 投稿日時: 2002/07/30 20:36 投稿番号: [62486 / 99628]
昨夜も同タイムにいたんですが、まあ、疑い深い人へのレスしてて、脳みそもそちらモードにしてたんで、maasa1112002さんにはレスしませんでした。
あらためてよろしくお願いしますm(_ _)m
あっつい日が続いてますので、お体にはお気をつけて。
これは メッセージ 62484 (maasa1112002 さん)への返信です.
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この帽子ドイツんだ”オランダ”
投稿者: khk350 投稿日時: 2002/07/30 20:34 投稿番号: [62485 / 99628]
さむ〜い。
少しは皆さんにすずしんでいただけたのではないでしょうか?
●「ビール」や「コップ」もオランダ語
オランダ語から日本語に取り入れられた言葉には、ビール(bier)、コップ(kop)、ゴム(gom)など、日常生活にすっかり浸透しているものが多い。ガラス(glas)やインキ(inkt)のように、発音が日本語化したものも多い。「ランドセル」も、もとはオランダ語の ransel[ランセル](リュック)だったが、発音しやすいように「ド」の音が加わった。
「博多どんたく」の祭りも、オランダ語の zondag[ゾンダッハ](日曜日)が変化したもの。「半ドン」もこれを語源とする。面白いのは「ポン酢」。もともとは pons[ポンス]という飲み物で、お茶・酒・砂糖・レモンなどを混ぜて作り、江戸時代の長崎・出島のオランダ人の好物だった。それを当時の蘭学者がまねて飲み始めたが、いつのまにか酢入りの調味料となり、語末の「ス」が「酢」と誤解されてしまった。
ほかにも、東京駅近くの「八重洲(やえす)」の地名も、オランダ人ヤン・ヨーステンの名に由来する。彼は通訳として徳川家康に雇われ、ここに屋敷を構えた。なお、赤レンガで知られる東京駅の駅舎は、アムステルダム中央駅をモデルに建築されたものである。
わりと組み込まれてます。
それで翻訳サイトです。
使いづらいのですが、どうかご参考に!
http://homepage2.nifty.com/m_kamada/l_translation.htm10各国はいける!
警鐘をならすか、同情するかは、皆様の御判断にお任せです。
これは メッセージ 62482 (maasa1112002 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1834688/4z9qa4ua46a41a4sa4j_1/62485.html
chootabangさん
投稿者: maasa1112002 投稿日時: 2002/07/30 20:24 投稿番号: [62484 / 99628]
どうもー!(⌒∇⌒)ノフリフリ
リアルタイムでははじめましてかな??
>その発生のメカニズムと動力源はミステリーサークルよりも謎だとか。
謎ですネ。。。
これは メッセージ 62479 (chootabang さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1834688/4z9qa4ua46a41a4sa4j_1/62484.html
恐怖のH−Hライン
投稿者: chootabang 投稿日時: 2002/07/30 20:22 投稿番号: [62483 / 99628]
開始11秒で失点するラインですから、応援する人たちは怖くて怖くて
これは メッセージ 62414 (net_bios_07 さん)への返信です.
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布石
投稿者: maasa1112002 投稿日時: 2002/07/30 20:20 投稿番号: [62482 / 99628]
私なら、てっとり早く入国禁止民族に指定することをアドバイスします。
これは メッセージ 62480 (khk350 さん)への返信です.
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