オランダの歴史3
投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/30 21:28 投稿番号: [62513 / 99628]
6 オランダ共和国の衰退 世界の2大海運国だったオランダとイギリスの争いはさけられなかった。1652〜54年と65〜67年のイギリス・オランダ戦争の結果、オランダは北米のニュー・アムステルダムをうしない、ギアナ(現在のスリナム)を手にいれた。その後もイギリスやフランスとの戦争がつづき、多大な兵力と戦費をついやした。
1701〜14年のスペイン継承戦争では、オランダはイギリスの同盟国としてフランスとたたかったが、その後、オランダの国力の衰退がはじまった。ネーデルラント連邦共和国は、力をたくわえてきたイギリスの海運力と大陸でのフランスの覇権の前に、影がうすくなっていった。
18世紀末にはオラニエ家を擁する党と民主的な改革をのぞむ愛国党との間に争いがおこった。前者が勝利をおさめたが、それも束の間、1795年にはフランス軍の侵攻によってネーデルラント連邦共和国は消滅し、かわってフランス共和制を手本としたバタビア共和国が成立した。
7 ナポレオン時代とベルギーとの連合 バタビア共和国はわずか数年つづいただけで、1806年にはナポレオンがこれをオランダ王国とし、10年にはフランス帝国の一部にくみこんだ。オランダがフランスの支配下にある間に、イギリスはオランダの植民地をうばった。ナポレオン失脚後、15年のウィーン会議でオランダは独立をとりもどし、オランダ王国が成立したが、この王国には現在のベルギーの領土もふくまれていた。
しかし、現在のオランダとベルギーにあたる両地域の政治的背景、伝統、宗教、言語、経済の相違はしだいにはっきりとあらわれてきた。1830年、ベルギーは反乱をおこし、独立した。ヨーロッパ列強によるロンドン会議が開かれ、31年、両国の分離が正式にみとめられたが、オランダがその条件をうけいれたのは39年になってからだった。
8 議会制民主主義の発展 19世紀後半のオランダでは、1840年代からヨーロッパに広がった革命の影響から、政治に自由主義がとりいれられた。改革の趣旨は48年の憲法改正に盛りこまれ、今日の民主主義の基盤となった。この改正は国王による専制政治を不可能とした。かつて国王が任命していた上院議員は、以後州議会から選出され、州議会議員と下院議員は一定額以上の納税者によってえらばれるようになった。カトリックの基盤が強い南部のリンビュルフ州やノールトブラバント州は、共和国時代は征服地としてあつかわれ、王国時代になってはじめて他の州と同等の地位をあたえられたが、宗教的制限が憲法によってとかれた。
こうして強力なカトリック政党が形成され、自由主義的な団体や新しく生まれた保守的なプロテスタント諸党と論争をくり広げることになった。19世紀後半を通じて、参政権は大幅に拡大し、社会改革をのぞむ世論がいちじるしく高揚した。強力な労働党の台頭と労働組合の結成によって社会改革がさらに進展した。植民地の統治もまた改革された。
1880年ごろから1914年までは経済成長の時代だったが、これは第1次世界大戦勃発(ぼっぱつ)とともにおわる。オランダはこの大戦で中立的立場を堅持したが、大陸封鎖の結果、貿易が大損失をうけ、経済は疲弊した。戦後最大の課題は経済の再建だったが、29年の世界大恐慌にはじまる30年代の不況が経済をさらに悪化させた。
1701〜14年のスペイン継承戦争では、オランダはイギリスの同盟国としてフランスとたたかったが、その後、オランダの国力の衰退がはじまった。ネーデルラント連邦共和国は、力をたくわえてきたイギリスの海運力と大陸でのフランスの覇権の前に、影がうすくなっていった。
18世紀末にはオラニエ家を擁する党と民主的な改革をのぞむ愛国党との間に争いがおこった。前者が勝利をおさめたが、それも束の間、1795年にはフランス軍の侵攻によってネーデルラント連邦共和国は消滅し、かわってフランス共和制を手本としたバタビア共和国が成立した。
7 ナポレオン時代とベルギーとの連合 バタビア共和国はわずか数年つづいただけで、1806年にはナポレオンがこれをオランダ王国とし、10年にはフランス帝国の一部にくみこんだ。オランダがフランスの支配下にある間に、イギリスはオランダの植民地をうばった。ナポレオン失脚後、15年のウィーン会議でオランダは独立をとりもどし、オランダ王国が成立したが、この王国には現在のベルギーの領土もふくまれていた。
しかし、現在のオランダとベルギーにあたる両地域の政治的背景、伝統、宗教、言語、経済の相違はしだいにはっきりとあらわれてきた。1830年、ベルギーは反乱をおこし、独立した。ヨーロッパ列強によるロンドン会議が開かれ、31年、両国の分離が正式にみとめられたが、オランダがその条件をうけいれたのは39年になってからだった。
8 議会制民主主義の発展 19世紀後半のオランダでは、1840年代からヨーロッパに広がった革命の影響から、政治に自由主義がとりいれられた。改革の趣旨は48年の憲法改正に盛りこまれ、今日の民主主義の基盤となった。この改正は国王による専制政治を不可能とした。かつて国王が任命していた上院議員は、以後州議会から選出され、州議会議員と下院議員は一定額以上の納税者によってえらばれるようになった。カトリックの基盤が強い南部のリンビュルフ州やノールトブラバント州は、共和国時代は征服地としてあつかわれ、王国時代になってはじめて他の州と同等の地位をあたえられたが、宗教的制限が憲法によってとかれた。
こうして強力なカトリック政党が形成され、自由主義的な団体や新しく生まれた保守的なプロテスタント諸党と論争をくり広げることになった。19世紀後半を通じて、参政権は大幅に拡大し、社会改革をのぞむ世論がいちじるしく高揚した。強力な労働党の台頭と労働組合の結成によって社会改革がさらに進展した。植民地の統治もまた改革された。
1880年ごろから1914年までは経済成長の時代だったが、これは第1次世界大戦勃発(ぼっぱつ)とともにおわる。オランダはこの大戦で中立的立場を堅持したが、大陸封鎖の結果、貿易が大損失をうけ、経済は疲弊した。戦後最大の課題は経済の再建だったが、29年の世界大恐慌にはじまる30年代の不況が経済をさらに悪化させた。
これは メッセージ 62503 (ditgtedgbbdc さん)への返信です.
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