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オランダの歴史2

投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/30 21:28 投稿番号: [62512 / 99628]
4 独立のための闘争
オランダ住民の反乱は、スペインの国教であるカトリックに対するプロテスタントの反乱でもあった。プロテスタントの一派であるカルバン派はこのころオランダに急速に広まり、信者たちは各地に教会をたてた。それはカトリック教会、とくに異端審問に対する明らかな挑戦だった。1566年の住民暴動で、群衆は国内のカトリック教会の聖像を破壊した。その報復としてスペインにいたフェリペ2世は、アルバ公ひきいるスペイン軍をオランダへ派遣した。アルバ公による圧政ときびしい異端審問の結果、スペインに対する公然たる反乱がおこった。

反乱軍を指揮したのはオラニエ公ウィレム1世であった。1572年、ウィレム1世の支持者がホラントのブリル港を占拠してから、反乱軍は北部のほとんどの都市を掌握、反乱の拠点にした。ウィレム1世は北部と南部の統合をはかろうとしたが、スペイン軍の巻き返しにあってはばまれた。

1579年に北部諸州と南部のいくつかの州はスペインに対抗してユトレヒト同盟を結成し、81年にはスペインからの独立を宣言した。だがその後、たび重なる敗北を喫し、84年にはウィレム1世の暗殺という痛手をおう。85年までにスペインは、重要な港であるアントワープをふくむ南部すべてをふたたび手にいれた。しかし、85〜87年にイギリス軍が反乱軍支援のため海峡をこえて大陸へはいり、88年にはスペイン艦隊をやぶった。この勝利で外国におけるスペイン勢力の弱体化に拍車がかかった。ユトレヒト同盟をむすんでいた北部7州では、1600年までにスペイン軍が一掃された。

1609年に12年間の休戦条約をむすんで戦いはおわったが、オランダとスペインとの抗争はスペインがミュンスター条約に調印する48年までもつれこんだ。この条約で正式にネーデルラント連邦共和国の独立が承認された。

5 黄金時代 オランダの独立が達成された17世紀初めは、商業繁栄の時代と画家レンブラントらに代表される文化の黄金時代の幕開きであった。17世紀中ごろまでオランダはヨーロッパ最大の海上貿易力をほこった。また、アムステルダムは金融の一大中心地になった。

5A 探検と植民地建設 1600年ごろ1人のオランダ商人が3隻の船をしたがえてアムステルダムからジャワへわたった。これがオランダの海外発展の発端となった。スピッツベルゲン(スバールバル諸島)からホーン岬へ、スターテン島からタスマニアへ、遠く海外に交易地をもとめて航海がくり広げられた結果、オランダはアフリカ、東南アジア、アメリカに多くの交易拠点を獲得した。

1602年、オランダ議会は、アフリカの喜望峰から東側、南米のマゼラン海峡から西側の諸国との貿易独占の特許状を連合東インド会社(→ 東インド会社の「オランダ東インド会社」)にあたえた。戦争遂行権や条約締結権をもふくむ数々の統治権もあたえられた。21年に創設されたオランダ西インド会社は、西インド諸島、ブラジル、北米に植民地をつくっていった。

東インド会社の商館は、はじめスパイスの島であるマルク諸島のアンボン島に、ついでジャワ島西部の現在のジャカルタにおかれたが、オランダ人はここをバタビアと改名して事業の拠点とした。交易と交易場の設置が事業のおもなねらいだったため、はじめは統治にはかかわらなかったが、その後先住民とのトラブルが生じたりしたことから、交易維持のために根拠地周辺の支配をはじめた。
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