南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘

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大量餓死で英霊を増産した皇軍の体質(15)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/02/06 20:25 投稿番号: [38655 / 41162]
太平洋の孤島や南方の密林とは違い、人口稠密で物資豊富な
中国戦線では、餓死者など   生じなかった   と思われやすい。
しかし、敗戦前2年間の   中国戦線では   戦死者数よりも
病死者数が上回っており、その死因は   栄養失調、もしくは
栄養失調と不可分の   マラリア、赤痢、脚気など   だった。

中国戦線でも、補給困難による飢餓と   栄養失調による体力
消耗で、病気が重症化して   多数の「英霊」   を発生させて
いったのだ。   ある軍医の記録を   以下に引用する。
「酷熱多湿なるうえ敵機の跳梁、道路の破壊等により補給は
予定の如く   行なわれず、敵味方の大軍により   現地物資は
消費し尽され、将兵の疲労   言語に絶するものがあった」
(長尾五一著『戦争と栄養』、西田書店1994年より抜粋)

中国戦線の「英霊」増加が   もっとも   集中したのは
最後の2年間であり、その多くが   戦死ではなく病死だった。
その状況は、45年に入って   さらに   深刻になっていた。
中国戦線で最後の作戦となった   第二十軍のシ江作戦の場合、
45年4月から6月の3ヶ月間の死者の内訳は次のとおりだ。

   戦   死      695人(22%)
   戦傷死      322人(10%)
   戦病死    2,184人(68%)
   合   計    3,201人(100%)

圧倒的に多い戦病死者の詳細な内訳は不明だが、その大部分が
長期間の不十分な給養で、栄養失調状態から病気への抵抗力を
失い、病死にいたったことは、軍医の記録から   判明している。
中国大陸では、45万の   戦没者が発生した。
その過半数が   戦病死、それも   給養不足による   栄養失調や、
それが原因での体力消耗による   広い意味での餓死だったのだ。

戦死者よりも   餓死した者が多い、これが   日本軍の特徴だ。
中国大陸でも   太平洋でも、その事態は   変わらない。
このような「近代軍」が   20世紀にも   存在したのだ。
しかし、その悲惨な実態は   「玉砕」や   「散華」という
大本営が作り出した   美しく勇ましい言葉で   覆い隠された。

第二次大戦における   日本軍の戦没者の総数、その中での
戦死・戦病死者などの   正確な割合は、残念ながら判らない。
日本軍の敗北に終わったこともあって、正確に数えることは
きわめて困難であり、多くの戦場が「玉砕」   つまり全滅し、
生存者の証言や記録が失われていることも   原因の一つだ。

また、降伏の直後に、戦争犯罪の追及を恐れて、組織的に
関連資料の大量焼却が実行され、陸海軍の各部隊、さらには
市町村役場の   兵事関係書類までが   焼かれてしまったのだ。
このため、戦後も日が経つにつれて   調査がすすみ
戦没者の数が   どんどん増えていく   という状況だった。
この点からみても、旧軍部の体質を窺い知ることができる。

大量餓死で英霊を増産した皇軍の体質(14)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/02/06 20:25 投稿番号: [38653 / 41162]
インパールから   敗退する道は、日本軍兵士たちによって
「靖国街道」、あるいは   「白骨街道」   と名づけられた。
悲惨な退却の様相について、前述した   将兵とは別の
一人の   将校の証言を、以下に   引用してみたい。

    兵隊達の姿は   既に骸骨に   等しかった。
    げっそり窪んだ眼が、伸び放題の無精髭と   尖り立った
    頬骨の奥に空ろに光っていた。顔色は日灼けのした上に
    泥濘をまぶしつけて、それでいて、その底に澱む
    不透明な蒼白さが   浮いて見えた。

    手先きは   僅かに皮膚を冠ったばかりの骨が、一本一本
    浮き立ち、その上を通る静脈がどす黒く不気味であった。
    足先きは   靴が脱げない程   ふくらんでいた。
    雨にふやけたのだ。   まるで豆腐糠のように光沢のない
    白さに腫れ上がっていた。靴を穿き潰した者が大勢いた
    が、そんな者の   足先きは   一層ひどかった。

    被服は   いうまでもなく   泥にまみれ切って   臀や肘の
    あたりがべろべろに破れていても修理など出来なかった。
    それを   ひらひらさせながら   歩いていた。
    もう   その頃になると、脚気で全身むくみあがった者は
    いなかった。   とっくに   落伍したのだ。   したがって、
    兵隊達は   一様に枯れ切った細い枯木に   ひとしかった。
     (中略)
    その頃、誰言うことなく、この街道を靖国街道と言った。
    その儘歩き続ければ、靖国神社に通じるという意味である
    (村田平次『インパール作戦―烈兵団コヒマの死闘』より)

1952年に   厚生省援護局の調査したビルマ方面の作戦兵力と
戦没者の数は、次のとおりだ。
    兵   力    303,501
    戦没者    185,149
    帰還者    118,351
戦没者は、じつに   61%にも   達したことが分かる。
これは、陸軍の陸上部隊のみで   航空部隊は   含まれていない。
つまり、海軍と航空部隊を加えれば、犠牲者数は   もっと多い。
この戦没者の中で、餓死・病死者の割合が   どうであるかは、
正確には判明しないのだが、多くの将兵の証言や記録によると
戦死者よりも   餓死・病死者が   はるかに多かったことが判る。

補給を無視した   無謀な作戦に駆り出され、飢餓地獄のなかで
歩く体力を失い、助けてくれ、連れて行ってくれ   と泣き叫び
友軍兵士の脚に   すがりついていた   重病患者たちの   無念さ、
悲しみを   思うとき、「玉砕」などという粉飾された言葉を並べ
偽りの戦果ばかりを発表し続けた大本営、そして日本軍自体に
怒りと   情けなさを   感じざるを得ない。

同時に、その当時の軍部が   垂れ流した   戦争の大義名分や
美しく   粉飾された   武勇談などを、いまだに疑うことなく
賛美礼賛して憚らない   愚かなヤスクニ派が存在することも、
同じ日本人として   恥ずかしいことであり嘆かざるを得ない。
これでは、平和を生きる   日本国民としては   無責任であり、
無念の死を遂げた大勢の戦争犠牲者に対し本当に申し訳ない。

大量餓死で英霊を増産した皇軍の体質(13)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/02/06 20:24 投稿番号: [38652 / 41162]
惨憺たる敗北を喫し、おびただしい数の「英霊」   を増産した
インパール作戦の実情について、もう少し   記述しておこう。
南方軍復員本部復員課が   1946年6月に作成した資料、
「ウ号作戦及次期態勢移行ノ作戦間ノ給與及衛生」を引用する。

    歩兵第六十七聯隊   大佐滝口一郎
    給與   終始後方補給皆無ニシテ主食米ハ現地物資ヲ利用
      セルモ、其他特ニ塩補給極メテ困難ニシテ全般的ニ
      極メテ不良ナリ
    衛生   給與ノ素悪、雨期、薬物補給ノ皆無等ニ依リ、
      栄養失調、マラリア、脚気多発シ、戦病死者多発
      スルノ止ムナキニ至リ、衛生状態極メテ不良ナリ

これは、報告の   ごく一部であり、他の聯隊長からの報告も
同様か、あるいは   それ以上に   悲惨な状況を報告している。
いずれも   作戦中は   糧秣の補給がなかったこと、
そのために   栄養失調やマラリア、脚気、赤痢などが多発し、
多数の死者が   出ていたことを   伝えている。

大本営が、作戦の失敗を   ようやく認めて、中止を命じたのは
7月3日のことだったが、ときすでに   遅かった。
兵士の体力は衰え、健康な者など   誰一人   いなかった。
兵士の命を第一に考えるなら、いさぎよく降伏すべきなのだが、
敵の捕虜になるなら死ぬべきだ   とする   皇軍においては
それは許されず、悲惨な退却が   試みられることになった。

飢餓に苦しみながら、雨期に入ったアラカン山系の密林の中を
退却中に力尽きた   将兵の死体が   退路を埋めた。
惨状は、生き残った兵士によって、次のように描かれている。

    遺棄された死体が横たわり、手榴弾で自決した負傷兵の
    屍があり、その数が   だんだん増えてきた。
    石ころの   難路を越え、湿地にかかると、動けぬ重症の
    兵たちが三々五々屯していた。水をくれ、連れていって
    くれと   泣き叫び、脚にしがみついて   放れないのだ。
    髪はのび放題のび、よくもこんなにやせたものだと
    思うほど、骨に皮をかけただけの、あわれな姿だ。
    息はついているが、さながら   幽霊だった。
    (中略)
    途中、潅木の中にひそんだ盗賊にやられた兵が、
    腹部を至近弾でやられ、雑嚢が散乱している姿を見た。
    戦争は生きることの全貌を一変させるものだ。
    生きるためには、味方さえ   殺しあうのだ。
    われわれも、恥もなく   屍についた雑嚢を探したのだが
    食い物はなにひとつはいっていなかった。   おぞましい
    非人の仕業もあきらめ、歩いては休み、休んでは歩き、
    体内に残る生命の焔をかきたて、生きようとする苦行だけは
    つづけた。   (志摩辰郎「地獄街道の戦い」より引用)

日本兵は、餓死寸前の状態で、インパールからの退却を続けた。
まさに   地獄であり、どこにも   美しい「散華」は存在しない。
このような   退却の様相は、ほかの将兵によっても語られている。

大量餓死で英霊を増産した皇軍の体質(12)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/02/06 20:23 投稿番号: [38651 / 41162]
ガダルカナル、ニューギニアなど   太平洋の島々のほかにも、
補給無視で   「英霊」を   増産した作戦として   有名なのは、
1944年に   ビルマ方面軍が強行した   インパール作戦だ。
戦力枯渇が目立つ44年になって、成算のないインド領への
大挙侵攻を実行するなど、無謀というほかない   作戦だった。
じつは、第十五軍司令官の   功名心から   実行されたものだ。

チンドウィン河を渡り、インド・ビルマ国境アラカン山脈を
越え、インド領内に侵入しようという   この作戦の経路には、
密林と   山脈があり、交通機関はなく、第十五軍の3個師団
10万の大軍の   兵站線確保の見込みは   最初からなかった。
すでに制空権は   連合国軍に移り、昼間の行動は   困難であり
道路を構築するための資材も土木機械も   日本軍にはなかった。

道路があっても、制空権がないため   物資を運ぶための
自動車を   走らせることはできず、また   走らせる自動車も、
ガソリンも欠乏していたのだから、土台   無理な計画だった。
なお、このときの   第十五軍   司令官は、盧溝橋事件の際の
支那駐屯歩兵第一聯隊長で、戦争のきっかけを作った人物だ。

軍司令官は、作戦に懸念を表明する補給担当の参謀を一喝し、
像や牛、馬、水牛の収集と   調教を命令した。
これらの動物に荷物を背負わせて運び、用が済んだら殺して
食べるのだといい、この作戦を   義経の「鵯越え」   や、
ハンニバルのアルプス越えに例えて得意になっていたという。

当時、大本営の作戦課長だった真田穣一郎大佐は、報告を受け
「第十五軍ノ案ハ徹底的ト云フヨリ寧ロ無茶苦茶ナ積極案ナリ」
と回想録に書いた。   (引用:『戦史叢書・インパール作戦』)
ところが、この“無茶苦茶な”作戦が、南方軍の認可を受けて
実行に移されてしまった。日本軍には構造的欠陥があったのだ。

3月上旬、携行食糧2週間分を持って、チンドウィン河を渡り、
攻撃を開始した   第十五軍の兵隊たちの運命は、悲惨だった。
左翼の第三十三師団は、3月下旬にインパール平地に達したが
食糧はなくなり、弾薬も不足して   攻撃続行が困難となった。
軍司令官は   これに憤って、師団長の柳田中将を罷免した。

中央を進んだ第十五師団も、インパール間近まで   迫ったが、
三十三師団と同様の状況から   攻撃が頓挫した。軍司令官は
消極的だとして、第十五師団長の山内中将も   罷免した。
右翼を進んだ第三十一師団の佐藤中将は、インパール北方に
進出していたが、「米一粒も補給がない」ため、独断で退却。

この佐藤中将の判断は当然であったが、日本軍という特殊な
組織では   許される行為ではなく、抗命の容疑で罷免のうえ、
軍法会議にかけられ、精神錯乱ということで   片付けられた。
軍司令官は   3人の部下師団長を全員罷免し、強引に攻撃を
督促したが、補給の途絶えた   部隊の状況は   地獄だった。

大量餓死で英霊を増産した皇軍の体質(11)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/02/06 20:23 投稿番号: [38650 / 41162]
補給無視の無謀な作戦で   大量の餓死者を出した例として
ガダルカナル戦と   ソロモン群島の戦闘状況を紹介したが、
これらは、大量の「英霊」   増産の   一例に   すぎない。
太平洋戦争の   各戦場で   餓死・戦病死が   多数発生した。
これは、日本軍の   近代軍にあるまじき欠陥に要因があった

無謀な侵攻作戦の例は、ガ島やソロモン群島の他にも数多い。
たとえば、42年の   ポートモレスビー攻略戦。
道なきジャングルを   踏破して、標高4千mの   山脈を越え、
ニューギニア東南岸を攻略するという無謀きわまりない作戦で
結果、日本軍は惨敗・退却したが、敗残兵の多くは補給もなく
餓死者を大量に発生させて   全滅に近い   状態となった。

このときの様子を、歩兵第百四十四聯隊の小岩井第二大隊長が
次のように述べている。

    食糧の欠乏は、敵弾以上の徹底的損害を   我が軍に与える
    ようになって来た。私の大隊の将兵もみんな飢餓で体力を
    消耗しきってしまい、頬は落ち   髪は伸び放題となり、
    眼球は深く   凹んで   底に異様な光が残った。
    そして顎はとび出し、首は一握りほどに細り、気力なく
    足を引きずってよぼよぼと歩き、着ているものは破れ、
    跣足で棒のように痩せた腕に飯盒をぶら下げ、草を摘み
    水を汲んで歩く姿にはどこにも二、三十才の年齢は見られず
    老いさらばえた乞食といった様子だった。

    栄養失調の衰弱した体に   一たび下痢が始まりマラリアが
    頭を擡げると、血便をくだし、四十度前後の高熱に襲われ
    キニーネ等の微温的な投薬では解熱どころか却って下痢を
    悪化し、発病までは一粒の米でも貪り食った者が、今度は
    戦友の心尽くしの一滴の粥すら   欲しないようになり、水
    ばかり飲んで喘いでいるのだった。
     (中略)
    患者はたいてい一週間も発熱を続けると   脳症を起こして
    うわ言を   いい始め、嘘のように脆く、
    ちょうど晩秋の落葉のように   飽気なく   死んで行った。
    三十才にもなろうかという男が   無意識に   母親の名を
    呼び続けて   死んで行くこともあった。
     (中略)
    この作戦の終ったあとで戦歿者の統計を調べると   三割が
    敵の弾による戦死、残る七割は病死だった。

戦場の実態は   このような惨状だったが、大本営はこれを「玉砕」
という   美しく華々しい戦闘死であったかのように   伝えている。
無謀な作戦に駆り出され、補給もないまま   やせ細って   死んだ
多くの犠牲者の無念、苦しみ、悲しみは   すべて覆い隠された。

大量餓死で英霊を増産した皇軍の体質(10)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/02/06 19:48 投稿番号: [38649 / 41162]
第十七軍と同じく、タロキナ作戦失敗後の   第六師団が
現地自活に移ってからの   状況の例として、「戦史叢書」は
第六歩兵団司令部   木下西舟少佐の   次の回想を掲げている。

   タロキナ作戦終了後の歩兵大隊の兵力は二〇〇〜三〇〇名
   であったと思うが、マラリアと栄養失調で   悲惨な状況で
   あった。   糧食の補給は   間もなく   全く   なくなった。
   現地自活に着手し、一人一畝を   耕作して、これによって
   一日   約一キログラムの芋を   収穫することにしたが、
   収穫までは   約三カ月かかるので、この間   毎日
   ジャングルの中の   野草を捜した。

   ひどい時には   飯盒の蓋一杯の   野草が食糧で、
   これに   時に澱粉椰子の団子が   加わる程度であった。
   塩は海岸で作った。
   ようやく   芋が出来始めると、今度は畑を荒す者が出た。
   畑を荒す者は   銃殺であった。
   人肉を食べた者がある   などという話も   あった。
   (引用史料:『戦史叢書・南太平洋陸軍作戦〈5〉』)

タロキナ作戦終了後   4万余の兵力は、方面軍の報告によれば
45年の   敗戦後には   23,053名にまで   減少しており、
「大部分このような事情に基づく戦病死者であると推定される」
と書かれている。

NHKの教育テレビで   「封印――脱走者たちの終戦」という
ドキュメント番組が   放送されたことが   ある。   その内容は、
ブーゲンビル島の第六師団のすさまじい飢餓の状況にかんする
旧日本兵たちの生々しい証言だったが、その中で   食糧を求め
離隊し、終戦後に戻った兵を   逃亡兵として、裁判にもかけず、
銃殺したというもので、終戦後60日もたってから30人もが
「処刑」   された   という証言もあった。

極限の飢餓状態の中で、食糧を求めて   隊を離れた   兵士を
「敵前逃亡」の罪名を被せて、軍法会議にかけずに殺害した
ということが事実であれば、当時の日本軍が   いかに
非人道的な強制を   行なっていたかが   示されている。

食糧は、わずかながら   自給できたとしても、栄養の偏りは
避けられず、将兵の体力は   低下していった。
さらに   補給の途絶によって、医薬品も   底をついた。
44年9月ごろには、マラリアの薬が   なくなり、全部隊の
人員の   じつに95%が   マラリア経験者だった   という。

なんらの戦果も期待できず、戦略的価値を   完全に失った島で
敵からさえも無視されまま、ただ餓死者を増やし続けた皇軍に
残された   唯一の道は、一人でも多くの生命を   救うために、
いさぎよく   敗北を認めて、ただちに   降伏を   すべきだった。
しかし、皇軍には   人権感覚や   近代軍としての   判断力が、
まったく   備わっていなかった。
その無謀な体質の背景には、「死」を   美しく   粉飾し続ける
靖国思想の侵淫が   少なからず存在していたと言えるだろう。

大量餓死で英霊を増産した皇軍の体質(9)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/02/06 19:47 投稿番号: [38648 / 41162]
44年1月、日本軍の軍事拠点ラバウルは   完全に孤立した。
ニューギニアとニューブリテン島の間の   ダンピール海峡が
米軍に突破され、さらに   北方の諸島を   占領されたからだ。
44年3月、日本軍は   タロキナの敵陣地への反撃を試みたが、
圧倒的な米軍の火力に阻まれ、戦力をまったく喪失してしまう。

以後、ブーゲンビルの   第十七軍約3万2千、第八艦隊約2万、
計5万の陸海軍将兵は飢餓と戦いつつ敗戦を迎えることになる。
タロキナ作戦失敗後の状況は、第十七軍残務整理部が作成した
「ブーゲンビル島の作戦」   という史料に、記録されている。

    タロキナ攻略作戦は全力を傾けて行はれた。
    残余の軍需品も戦力を培養する為
    無制限に使用されたのは当然である。
    そこでこの作戦が失敗に帰したときには
    食ふべき何物も   残って居らなかった。

    そして銃を捨てると鍬をとった。
    作戦間に荒れ果てた耕地はもとより
    密林を伐開して開墾につとめた。
     (中略)
    土民の所有しているものが多くあらう筈がないのに
    之も半ば強制的に徴発するものも出て来た。
    木の芽、草の根、食べられるものはすべて食した。

    海の魚はとりたくても   敵機が絶えず哨戒するし
    爆薬は将来の作戦を考へればこんなことに供用は
    出来なかった。  
    小川の魚は   すぐとり尽された。
    蛋白質の給源は「トカゲ」であり   蛇であり鼠、
    「バッタ」の類に   及ばざるを得なかった。
     (中略)    
    以上のような給養状態であるから負傷したものの傷は
    なかなか   癒らないし   病後の恢復は   むつかしく、
    マラリアの蔓延は   之を助長した。
    かくの如くして「タロキナ」   作戦にもまさる
    兵力の損耗を来した。   率直に云ふならば死ぬ前に
    一度、たった一度だけで良いから   腹一杯食べたい
    と思ったのは   死んでいった戦友だけではなかった。

戦線が   すでに   北太平洋に移行したので、連合軍側は  
この無力化した日本軍を無視し、あえて強攻を   加えることなく、
第十七軍は、もっぱら「飢餓」   という強敵とのみ   戦いながら、
おびただしい数の   「戦死者」ならぬ   「餓死者」を出しながら
惨めな敗戦を   迎えることになった。
「英霊」が   大量に増産された背景には、こうした惨状があった。

大量餓死で英霊を増産した皇軍の体質(8)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/02/06 19:47 投稿番号: [38647 / 41162]
惨めな   ガダルカナル敗退後の   ソロモン諸島方面の状況は、
その教訓を   生かせず、補給困難な離島に   兵力を送り込み、
「飢餓」大量発生の悲劇を   繰り返すばかりだった。
ガ島撤退の際、ラバウルの第八方面軍は、新来の第六師団を
北部ソロモンの   ブーゲンビル島に送り、第十七軍の収容と
同島の警備に   当たらせた。

また   従来から少数の陸軍部隊を配備していた中部ソロモン
ニュージョージア島ムンダや   サンタイサベル島のレガタに、
海軍陸戦隊を増強した。   陸軍も新たに南東支隊を編成した。
しかし、1943年当時   すでにソロモン群島方面の制空権は
米軍の手中にあり、島々への   補給輸送は   困難をきわめ、
ガ島の   二の舞になることは、必至の状況   となっていた。

米軍の   中部ソロモンへの攻撃は、ガ島撤退から   4ヶ月後、
43年6月30日に   始まった。   7月上旬には飛行場を奪い、
8月中旬には   北部の島にまで   上陸した。
各戦線では   残存部隊が   敵中に取り残され、撤退もできず、
また   降伏することも   許されず、「置き去り」   となった。

北部ソロモンの主島   ブーゲンビルには、各方面から
撤退してきた   部隊が   集まっていたが、11月1日、
米軍は   日本軍の予想をうらぎって   ブーゲンビル島
西海岸の   タロキナ岬に   上陸した。

ブーゲンビル島は   ラバウル防衛のための   要点だった。
海軍は   航空兵力の主力をあげ、タロキナへの反撃を行なった。
この   ブーゲンビル島沖航空戦について、大本営は、戦艦4隻、
航空母艦5隻、巡洋艦10隻撃沈などの   大戦果をあげた――
と   発表したが、これは   例によって、まったくの虚報だった。

第十七軍は、ジャングルを踏破して   タロキナ岬を攻撃したが、
圧倒的な火力の差で   反撃に失敗した。
米軍は、タロキナの橋頭堡と   飛行場を確保した後は、
日本軍を深追いせず、すでに   次の作戦に移っていた。
北部ソロモン群島の戦いが続いている間に、米軍は中部太平洋
方面での攻撃を進展させ、43年11月にはギルバート諸島の
マキン、タラワ両島に   上陸し、海軍守備隊は   全滅した。

44年2月には、マーシャル群島のクェゼリン、ルオット両島で
上陸した米軍に   陸海軍の守備隊が敗北、全滅した。
大本営は、これを   例によって   「玉砕」   と発表した。
同月17日、海軍の根拠地   トラック島が空襲で大損害を被った。
その後、ニューブリテン島はるか北方のアドミラルティー諸島を
占領されたので、ラバウルは完全に敵中に孤立することになった。

この段階で、ブーゲンビル島はもちろん、ラバウルの戦略的価値は
完全に失われた。   にもかかわらず、日本兵は投降できなかった。
撤退も降伏も許されない戦場で、皇軍兵士たちは   敵兵ではなく
より苛酷な   飢餓という   強敵との戦いを   続けることになった。
タロキナ作戦失敗後の   第十七軍の状況については、後述したい。
どのようにして「英霊」が大量増産されたか、実態を知ることで
ヤスクニ神社が美化する   戦争の真実を、明らかにできるだろう。

大量餓死で英霊を増産した皇軍の体質(7)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/02/06 19:46 投稿番号: [38646 / 41162]
ガ島奪回作戦は、補給をまったく無視して   部隊を送り込み、
戦死者の3倍もの餓死者を出すという   悲惨な結果を迎えた。
大量の餓死者を出すというこの戦局で、何よりも問題なのは
補給が困難なのがわかっているのに   上陸作戦の強行を命じ、
長期間   撤退させず、持久戦を命じた   大本営の責任だろう。

その伏線は、すでに   ミッドウェー作戦にあった。
連合艦隊が   ミッドウェー作戦を   計画したとき、当初
大本営海軍部は   強行に反対した。   その反対理由のひとつは、
たとえ   ミッドウェーを攻略できたとしても、占領後の防備や
補給輸送が難しい   ということだった。
(参考文献:防衛研究所『戦史叢書・ミッドウェー海戦』)

じつは、陸軍部も当初は反対で、補給が難しかろうというのが
その理由だった。   しかし、海軍主体の   作戦なので、陸軍は
わずか歩兵一大隊主体の   一木支隊を派遣することにしたのだ。
一木支隊の兵力は   歩兵第二十八聯隊長一木清直大佐指揮下の
歩兵一大隊を基幹とする   約3,000名だった。

この   一木支隊が、ガ島の   奪回作戦に   振り向けられた。
制海権が失われていたために   輸送船は使えず、一木支隊は
駆逐艦で   ガ島に送り込まれた。   このため、重火砲などは
運ぶことができず、火砲や戦車をそろえて待ちかまえていた
米軍に   敵うはずはなく、わずか   半日の戦闘で   先遣隊は
全滅し、聯隊長は   自決した。

圧倒的な兵力の差はもちろん、武士道精神と   銃剣突撃で  
米軍の弾幕に   対抗できるはずは   なかった。
一木支隊惨敗の後も   大本営は、同じように   川口支隊、
第二師団、第十七軍と、兵力の逐次投入を   繰り返した。
補給は   輸送船が使えず、「鼠輸送」や「蟻輸送」に頼った。

「鼠輸送」とは、本来戦闘用の艦艇である高速の駆逐艦を使い、
「蟻輸送」とは、小型の発動艇を使って昼間は島の陰に隠れて
夜間に   少しずつ行なう   輸送のことだ。
どちらも   兵員や小火器を運ぶのがやっとで、重火砲や戦車を
運ぶことはできず、少人数の補充兵を   送るのがやっとだから、
大軍を支える補給品、弾薬や食糧を運ぶことは無理だったのだ。

そんなところに   陸軍兵力を   次々と送りこんだということは、
圧倒的に優勢な米軍の火力装備に   銃剣で勝てるという妄想を
軍上層部が   抱いていたからでは   ないだろうか。   さらには、
送り込んだ兵力への補給を無視し、持久戦を命じていたことは
精神力で飢餓を克服できると大本営は、本気で考えていたのだ。

歩兵の白兵突撃は、米軍の自動小銃と機関銃の圧倒的な弾幕に
なぎ倒され、ことごとく   全滅した。   ところが   日本軍は、
同じ失敗を、敗戦まで、他の島々でも   繰り返したのだ。
こうして、「玉砕」と称する   悲惨な全滅戦が全域で続けられ、
大量の   「英霊」が   生み出されていくことになった。

大量餓死で英霊を増産した皇軍の体質(6)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/02/06 19:45 投稿番号: [38645 / 41162]
補給もなく、飢餓と   栄養欠乏による疾病で、兵士が   次々と
倒れていく   惨状。   にもかかわらず、大本営は   ガ島作戦を
中断せず、11月16日には、持久戦をせよ   と命令した。
第十七軍参謀長   小沼治夫少将は、次のように   書いている。

    輸送、補給が続く状況に於ては   持久戦が成立するが、
    輸送補給が   途絶し   第一線将兵が飢え   杖をついて
    辛うじて歩行して居る「ガダルカナル」の第十七軍が
    持久任務を受けて   何時迄持久し得るやの回答は単に
    「敵の大攻勢を受ける迄持久し得」   といふに止まる。

    予が   大本営から持久任務を受領して   感じたことは
    「敵をして   大攻勢をとらしめないように   陣地特に
    アウステン山方面の陣地を   強化しつつ   進んで欺瞞、
    陽動及局部的積極行動を採り絶えず敵に危惧、圧迫感を
    抱かせる」   ことの必要であった。

つまり、補給が途絶えている状況で   持久戦を命じられたが、
見通しは立たず、結局のところ   敵に攻撃されるまで耐える
だけであり、できることとして   考えられるのは、局地的な
ゲリラ戦法等で   敵軍に   不安感、精神的圧迫感を   抱かせ、
攻撃を遅れさせるしかない、ということだ。
さらに   小沼参謀長の手記は   以下のように続く。

   第一線陣地の守兵中歩行に堪えない傷病者は   陣地の守備に
   任じ(壕内に寝て居り敵が近づいて来ると起き上って射撃し
   又は手榴弾を投ずる)。   杖に倚って歩行し得る者は後方の
   糧秣運搬及炊事を担任し   比較的元気の者は或は挺進斥候と
   なり(出発数日前から飯の配給量を増加し元気を回復させて
   出した)敵陣深く潜入して   後方撹乱を行なわせ   或は夜間
   敵陣地又は哨所を奇襲して   偉功を樹てる等上下一致、戦友
   相励まし終始積極的(局部的なるも)に行動し敵の大攻勢を
   遅らせるに役立った。
   
歩行できない兵士が陣地の守備、杖をついて歩く兵士は後方支援、
「比較的元気」   のある者が   夜間奇襲などを   試みていたのだ。
このように   寝たきり状態や   杖を頼りに歩く   兵士を抱えて、
ガダルカナル島の   持久戦が行われていた。   これでは自滅作戦だ。  

防衛省の   公判戦史が、各種資料から推計した   数によると、
陸軍の   ガダルカナル島に   上陸した人員は   31,400名、
そのうち、途中病気などで   離島した者は   740名、
撤収作戦で   収容されたのは   約9,800名   であるから、
じつに   20,860名   もの生命が   失われたことになる。

このうち、純戦死が   5,000名から   6,000名であり、
残りの   約15,000名が   栄養失調症、マラリア、下痢、
脚気などの悪化による餓死や   病死である   とされている。
(参考:防衛研究所『戦史叢書・南太平洋陸軍作戦〈2〉』)

つまり、純然たる戦闘死の   3倍以上が   広義の餓死者なのだ。
このような   悲惨な状況を自ら招いた「皇軍」   には、根本的に
近代軍としては   致命的な欠陥があった   と言えるだろう。

大量餓死で英霊を増産した皇軍の体質(5)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/02/06 19:28 投稿番号: [38644 / 41162]
降伏を許されず、死ぬまで戦うことを義務づけられた兵隊が、
戦うための体力を失い、密林の中で   次々と餓死・病死した。
そうした状況を   生き延びた将兵が   残した手記がある。
以下、小尾靖夫「人間の限界――陣中日記」   より引用する。

   12月27日(1942年)
    今朝もまた数名が昇天する。
   ゴロゴロ転がっている屍体に蝿がぶんぶんたかっている。
   どうやら俺たちは   人間の肉体の限界まで   きたらしい。
   生き残ったものは全員顔が土色で、頭の毛は産毛のように
   薄くぼやぼやになってきた。黒髪が、ウブ毛にいつ変った
   のだろう。
   体内にはもうウブ毛しか生える力が、養分がなくなったらしい。
     (中略)
   やせる型の人間は骨までやせ、肥える型の人間はブヨブヨに
   ふくらむだけ。   歯でさえも金冠や充填物が外れてしまった
   のを見ると、ボロボロに腐ってきたらしい。歯も生きている
   ことを初めて知った。

   この頃アウステン山に   不思議な生命判断が流行りだした。
   限界に近づいた肉体の   生命の日数を、総計の結果から
   次のように   わけたのである。
   この非科学的であり   非人道的である   生命判断は
   決して   外れなかった。

     立つことのできる人間は・・・寿命三十日間
     身体を起こして坐れる人間は・・・・三週間
     寝たきり起きられない人間は・・・・一週間
     寝たまま小便をするものは・・・・・三日間
     もの言わなくなったものは・・・・・二日間
     またたきしなくなったものは   ・・・・明日

これが、ガ島の第一線部隊の   食糧欠乏がもたらした   状況だ。
こんな惨状に陥っている第十七軍に対しても、なおも大本営は
11月16日付で、持久戦をせよ   という命令を   下している。
裸の人間を   毒蛇の巣に放り込んでおいて、そこで   耐えろ
と言っているに   等しい。   これでは   まるで、意図的に
「靖国の英霊」を、大量に増産しようとしていたかのようだ。

大量餓死で英霊を増産した皇軍の体質(4)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/02/06 19:27 投稿番号: [38643 / 41162]
補給が   不可能ならば、近代戦では   「敗北」   を意味する。
それでも   大本営は、ガダルカナル島奪回作戦を   打ち切る
という決断を下すことができず、前線の指揮官も作戦中止を
言い出すことができず、ずるずると   無謀な戦いが継続した。

この間の   海空の大消耗戦で生じた   艦船、航空機、兵員の
莫大な損害は、取り返しのつかない   戦力喪失となり、
その後の戦況にも   大きな影響を   及ぼすこととなった。
大本営が、やっとのことで   ガ島からの撤退を決めたのは、
42年12月31日に   なってからだった。

撤収作戦そのものは、米軍に   察知されずに   成功したが、
かろうじて救出された者は、上陸した全兵力の   3分の1、
その兵隊たちも   栄養失調で体力を失い、餓死寸前だった。
この   ガ島惨敗の責任は、まったく   大本営の作戦にある。

装備も優秀で   準備万端を整えて上陸してきた   米軍に対し、
情報収集もせずに、わずか1000名で軽装備の一木支隊を
銃剣突撃で飛行場を奪回しようという、およそ戦理に反した
無茶な攻撃を実行させ、その後も   同じ失敗を   繰り返した。

一木支隊先遣隊が、米軍の火力に阻まれ、戦車に蹂躙されて
一瞬にして全滅したのに、何回も同じ戦法を繰り返したのだ。
制海・制空権を失ったために   闇夜の中の鼠輸送しかできず、
重火器も運べず、白兵突撃戦法しか採れない――
これでは、優秀な火力装備に   勝てないことは明らかなのに、
大本営は、装備も補給も軽視して   亡国的怠慢を犯したのだ。

装備が   運べないのだから、食糧も   運べない。
人間は   食糧がなければ   生きて行けない。
ましてや   戦闘に耐えうる   体力維持は   不可能だ。
大本営の作戦当局者たちは、前線に送り込んだ兵隊たちの
食糧補給を、いったい   どう考えていたのだろうか。

南太平洋方面の日本軍の   戦略基地であった   ラバウルと、
ガダルカナル島との間は   1100キロも   離れている。
制海・制空権を   奪われ、補給が困難なことは明白なのに、
3万を超す将兵が、身一つで   この島に送り込まれたのだ。
上陸した兵士たちは、背嚢に背負った   数日分の食料を
食いつくした後は、食糧の補給を   受けられなかった。

空腹に耐えかね、野生の植物を食べて   下痢をおこしたり、
有毒植物に当たる場合も   多かった。
栄養失調で   体力が衰えているため、赤痢や   マラリア、
その他の風土病への抵抗力もなくし、次々と   倒れていった。
そうした記録を   掘り起こしながら、太平洋戦争の実相と
玉砕という愚挙を繰り返した   日本軍の性質を   考えていきたい。

大量餓死で英霊を増産した皇軍の体質(3)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/02/06 19:26 投稿番号: [38642 / 41162]
1946年6月5日のミッドウェイの敗北によって、日本海軍は
主力空母   4隻を失い、太平洋戦線における   制海権を   失った。
それなのに、8月7日に   米軍がガダルカナルに上陸すると、
その時の前線基地ラバウルから、600カイリも前方にある
この島に、大本営は   次々と   兵力を送り込んでいったのだ。

米軍の上陸に   慌てふためいた大本営は、その奪回を決意し、
第十七軍を   その作戦に   当てることにしたが、とりあえず
急行させる   兵力としては、ミッドウェイ作戦用の   部隊で、
その中止後   グアムに待機していた一木支隊を送ることにした。

ところが   一木支隊を   急遽派遣するために、輸送船によらず
一木清直大佐以下1000名の先遣隊を駆逐艦6隻に分乗させ
急行させたのだ。   もともと   軽装備だった一木支隊先遣隊は、
駆逐艦輸送のため   重火器は持てず、食糧7日分だけを携行し、
戦車や重砲を持つ米軍から   飛行場を奪う任務を   負わされた。

一木大佐は、白兵突撃で   飛行場を奪回するつもりで、
8月1日夜   ガダルカナル島タイボ岬に上陸し、8月20日、
米軍陣地に突入したが、圧倒的な米軍の砲火によって全滅した。
一木支隊先遣隊の攻撃失敗後、第二梯団や海軍陸戦隊の輸送は、
制空権を握った   米軍機の妨害で   ことごとく   失敗した。

だが、大本営は   あくまでもガダルカナル奪回の意向を変えず、
パラオの川口支隊に続いて、ジャワから第二師団を第十七軍に
増加した。それらは   船団輸送ができず、「鼠輸送」とよばれる
夜陰に乗じての   駆逐艦による輸送に   頼らざるを得なかった。

辛うじてガ島にたどり付いた川口支隊は、9月11日と13日、
飛行場に   総攻撃を行なったが、強力な米軍の   砲爆撃を受け
携行食糧も尽きたため   失敗した。
10月24日、25日に第二師団主力による攻撃を行なったが、
これも   第一次攻撃と同じように   失敗した。

それでも   大本営は、奪回の方針を   変更しなかった。
11月中旬には   さらに 第三十八師団主力をガ島に送った。
こうした兵力輸送のたびことに、輸送に当たった 駆逐艦も、
これを援護する   海軍の航空兵力も 艦艇も   大損害を受け、
とどまることのない   消耗戦の様相を   深めていった。

ガ島における   陸上部隊の状況は、悲惨   の一言だった。
増援兵力を送るのさえ困難をきわめたのだから、補給物資を
送る余裕はなく、駆逐艦が   米などを   ドラム缶やゴム袋に
入れて、海岸の近くに投棄したりして、辛うじて   わずかな
補給をしているだけ   というありさまになっていたのだ。

大量餓死で英霊を増産した皇軍の体質(2)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/02/06 19:26 投稿番号: [38641 / 41162]
餓死という言葉で   まず思い浮かぶのは、ガダルカナルでの
餓死者の大量発生であり、ガ島は「餓島」と揶揄されるほど
これは   ひじょうに有名な   事実だ。
1942年8月から43年1月にかけてのガダルカナル戦は、
太平洋戦争での米軍反攻による戦局転換のきっかけになった。

ガダルカナル戦は、この島に日本海軍が建設した航空基地を、
上陸・急襲した   米軍の海兵   一個師団が占領し、
それを奪還しようとする日本軍との間で   戦われた攻防戦だ。
日本軍は、すでに制海・制空権を奪われていたにも係わらず、
飛行場奪回のために、次々と   陸軍の部隊を島に送り込んだ。

兵員・物資の輸送もままならず、かろうじて上陸した部隊も
補給が途絶している上に、利用すべき現地物資も皆無に近く、
餓死者続出の   惨状をもたらした。
半年後、装備を捨てて   生き残った人員だけを   かろうじて
撤退させることになった。   この敗退を   大本営は   国民に
「転進」   と発表したが、日本軍敗退の   第一歩となった。

ガダルカナル撤退を指揮したラバウルの第八方面軍司令官の
今村均大将は、その回顧録に   次のように   記している。

   五ヶ月以前、大本営直轄部隊として、ガダルカナル島に
   進められた   第十七軍の百武中将以下   約三万の将兵中、
   敵兵火により斃れた者は約五千、餓死した者は約一万五千、
   約一万のみが、救出されたのだ。

そして、自決して責任をとる   と申し出た百武軍司令官を
押し止めた言葉の中でも、次のように言ったと述べている。

   今度のガ島での敗戦は、戦によったのではなく、饑餓の
   自滅だったのであります。   この飢えはあなたが作った
   ものですか。   そうではありますまい。
   日本人の横綱に百日以上も食を与えず草の根だけを口に
   させ、毎日たらふく食ってる   かけだしの米人小角力に、
   土俵のそとに押しだされるようにしたのは、全くわが
   軍部中央部の過誤によったものです。

   これは、補給と関連なしに戦略戦術だけを研究し教育
   していた陸軍多年の弊風が累をなし、既に   制空権を
   失いかけている時機に、祖国からこんなに離れた、
   敵地に近い小島に、三万からの第十七軍をつぎこむ
   過失を、中央は   犯したものです。

今村大将による   この指摘は、まさにガダルカナル敗戦の原因、
餓死者大量発生の責任を   的確に衝く言葉ということができる。

大量餓死で英霊を増産した皇軍の体質(1)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/02/06 19:25 投稿番号: [38640 / 41162]
南京において   日本軍による組織的な虐殺行為があった事実は、
多数の証言や   軍関係資料の記録によって   既に証明されており
現在の日本政府も、公式見解として   その事実を   認めている。
犠牲者数については   諸説あるものの、虐殺事件そのものは
日本国内の一部勢力を除き   世界中が   事実として認識している。

事件があったか   なかったか   などという論議は、既に無意味だ。
否定派の多くも、南京事件そのものを   否定できなくなり、
犠牲者数を   極力少なく見積もろうと   「30万人はウソだ」
という   最大数を否定することに   必死になるか、あるいは、
「他国の軍隊にも残虐行為がある」式の   姑息な議論すり替えや
免罪論に頼り、実相から目を背けるほかに手段がなくなっている。

いま   本当に必要なことは、南京事件の原因が   どこにあったか、
なぜ、防げなかったのか、という   検証作業であり、
事件の背景を探り、根本原因を探求して
そこから   いかに   教訓を導き出すかが、より重要なのだ   と思う。

中国大陸に武力侵攻した   日本軍が、南京などで   捕虜にした
中国軍兵士を   組織的に   大量に殺害した事件の背景の一つに
食糧の補給軽視という体質が   大きな要因だった   と考えられる。
自軍の食料さえも   確保困難な状況で、大量の捕虜が   発生し、
殺害に及んだ   という証言記録が、それを   裏付けている。

日本軍の   補給軽視の戦略的欠点は、捕虜の殺害だけではなく
占領地において   略奪行為などが   多発する事態をも   招いた。
さらに、大戦の全般を通じて   日本軍兵士の   戦死者のうち
直接の戦闘での   死亡者数よりも   餓死者の数が上回るという
およそ   近代軍とは思えないような惨状を   招くものとなった。

第二次世界大戦における   日本人の戦没者は   約310万人。
そのうち、軍人軍属の   死者数は   230万人とされている。
特徴的なことは、その過半数が、餓死や病死だったという事実だ。
「英霊」   の多くが、華々しく   戦いに散った   のではなく、
飢餓地獄の中での   惨めな野たれ死に   だったのだ。

栄養学でいえば、飢餓には   食物を   一切摂取しないで起る
完全飢餓と、栄養不足または失調による   不完全飢餓がある。
日本軍の   戦闘状況の特徴は、補給の途絶によって、膨大な
不完全飢餓を発生させ、その結果、完全な餓死だけではなく、
栄養失調のために   病気に対する抵抗力をなくし、マラリア、
アメーバ赤痢、デング熱等よる多数の病死者を出したことだ。

戦死よりも   餓死や   病死者の方が多い――
それが一局面の特徴的な状況ではなく、戦場の全体にわたり
発生したことに、旧日本軍の   特質を   みることができる。
補給もせずに、占領地の死守を命じ、退却も   降伏も許さず、
自軍を次々と   全滅させた大本営は、それを「玉砕」と称し、
美しく粉飾した挙句、餓死者たちを「英霊」   と誉め讃えた。

近代国家間の戦争で、これほど   悲惨な結果を招いたうえに
反省も改革も怠り、自画自賛ばかりを   最後まで繰り返した
軍隊が、はたしてあるだろうか。  
近代戦において、補給途絶は   それだけで   敗北を意味する。
大和魂だけで勝てるはずがない。   惨めな敗戦は当然だろう。

大儀なき侵略戦争に駆り出され、無謀な作戦に投入され、
悲惨な死を   強いられた   若者たちの   無念さを思い、
大量餓死や   無謀な玉砕戦法をもたらした   日本軍の責任と
特質を明らかにして、それを   歴史に残す必要がある。

大量の餓死や「玉砕」と称する全滅は、人為的なものであり、
その責任を、死者に代わって   告発しなければならない。
それによって、二度と再び   あの悲劇を繰り返さないように
未来へ伝える「歴史の教訓」   とすることこそが、
先人たちの犠牲を   無駄にしない   唯一の道だろうと思う。

Re: 初等教育?防衛庁資料?

投稿者: mokneybrain123 投稿日時: 2012/02/06 17:33 投稿番号: [38639 / 41162]
>私の疑問に賛同していただけるどなたかが、秦氏に聞いてくださるだろう、
という気がしておりましたが。

やっぱり言い出した人が直接訊くべきじゃないですか。秦氏の連絡先がわからなければ手づるはいくらでもあるでしょう。もう退官しているようですが日本大学に問い合わせるとか、チャンネル桜にも出演していたらしいからチャンネル桜に問い合わせるとか。岡崎久彦氏と知り合いらしいから彼に聞くとか。

>富田メモを検証した秦の論拠は彼の推測・心証のみ#1

上記はリンクを貼れないのでグーグルで検索してください。

ただ、彼は自説が誤っていても認めないかもしれませんね↓。返事さえくれない可能性もあります(まあ渡部昇一氏もときどき事実誤認をやるらしいけど)。もっとも、自説に自信があれば反論してくるかもしれません。

>富田メモへの疑惑と秦郁彦の怪しさ#1

上記はリンクを貼れないのでグーグルで検索してください。

チャンネル桜で思い出しましたが、疑義の要点を簡潔に箇条書きにして水島社長あるいはその関係者に送ればおそらく反応してくれるでしょう。それから渡部昇一氏なんかも耳を傾けてくるんじゃないでしょうか。

どん百姓のikuyo_kuruyoへ

投稿者: fukagawatohei 投稿日時: 2012/02/06 13:39 投稿番号: [38638 / 41162]
>日本軍の病院も米国軍は攻撃したんだが〜?

ほらほら、アメリカの事より、おめ〜は石原慎太郎氏の発言に
対する反論をしてみたらど〜だい。

できねぇ〜だろ、おめ〜は無教養な田舎者のどん百姓だもんなぁ〜
(大笑い)

Re: 日本兵の餓死者

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/02/06 13:35 投稿番号: [38637 / 41162]
東ニューギニア

イルセ   准士官以上   二名   下士官兵   八七名

リワタノマ   准士官以上   二三名   下士官兵   二一七名

ウナ     准士官以上    一一名   下士官兵   八三名

テナルテ   准士官以上    一名   下士官兵    四六名

レゴナ    准士官以上    三名   下士官兵    九三名

ンセソ    准士官以上    七名   下士官兵   一四四名

↑上記の兵隊の内何名が餓死でしょうか?

上記は昭和十八年十一月現在です。

Re: 日本兵の餓死者

投稿者: konoyo_anoyo 投稿日時: 2012/02/06 13:33 投稿番号: [38636 / 41162]
日本軍の病院も米国軍は攻撃したんだが〜?

何でもカンでも日本悪しの反日日本人だわいの〜。

Re: 日本兵の餓死者

投稿者: fukagawatohei 投稿日時: 2012/02/06 13:25 投稿番号: [38635 / 41162]
第2次世界大戦(日本にとってはアジア太平洋戦争)において、
日本人の戦没者数は310万人、その中で、軍人軍属の戦没数は230万人とされている。

敗戦直後の1945年9月、東久邇内閣が発表した陸海軍人の戦没者数は50万7,000人にすぎなかったが、調査がすすむとともにその数が増えつづけ、1977年に厚生省が明らかにした数字では、「軍人・軍属・准軍属」の戦没者230万人、外地での戦没、一般邦人30万人、内地での戦災死者50万人、計310万人となっている。

なお調査や遺骨収集はつづいており、正確な数は依然として明らかにされていないが、現在では、日本軍人の戦没者230万人というのが、政府が明らかにしている概数である。

この戦争で特徴的なことは、日本軍の戦没者の過半数が戦闘行動による死者、いわゆる名誉の戦死ではなく、餓死であったという事実である。

「靖国の英霊」の実態は、華々しい戦闘の中での名誉の戦死ではなく、
飢餓地獄の中での野垂れ死にだったのである。

栄養学者によれば、飢餓には、食物をまったく摂取しないで起こる完全飢餓と、栄養の不足または失調による不完全飢餓があるとされている。

この戦争における日本軍の戦闘状況の特徴は、補給の途絶、現地で採取できる食物の不足から、膨大な不完全飢餓を発生させたことである。そして完全飢餓によって起こる餓死だけでなく、不完全飢餓による栄養失調のために体力を消耗して病気にたいする抵抗力をなくし、マラリア、アメーバ赤痢、デング熱その他による多数の病死者を出した。

この栄養失調に基づく病死者も、広い意味で餓死といえる。
そしてこの戦病死者の数が、戦死者や戦傷死者の数を上回っているのである。

戦死よりも戦病死の方が多い。

それが一局面の特殊な状況でなく、戦場の全体にわたって発生したことが、
この戦争の特徴であり、そこに何よりも日本軍の特質をみることができる。

Re: 日本兵の餓死者

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/02/06 12:48 投稿番号: [38634 / 41162]
餓死者の推定は出来るが、その根據が何処にも示していないよね、脳死君。

Re: 強姦は10件?

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/02/06 11:50 投稿番号: [38633 / 41162]
告発された兵の所属と階級と氏名を教えて頂戴ね、脳死君。

日本兵の餓死者

投稿者: fukagawatohei 投稿日時: 2012/02/06 09:45 投稿番号: [38632 / 41162]
「ガダルカナル島の場合、方面軍司令官は死者二万、戦死五〇〇〇、餓死一万五〇〇〇と述べている。ブーゲンビル島では、タロキナ戦以後の死者約二万はほとんど餓死であったと推察される。……ソロモン諸島の死没者の四分の三にあたる六万六〇〇〇名が餓死したと考えられる」。

「厚生省の調査では、東ニューギニアの戦没者は一二万七六〇〇となっている。各部隊の報告や回想では、いずれも死者の九割以上が餓死だったとしている。仮に九割として計算すると、実に一一万四八四〇名が餓死したことになる」。

インパール作戦をふくむビルマ方面軍でも死者の七八%、十四万五千人かそれ以上が餓死者であったと推定される。

中部太平洋では、マキン、タラワ、クェゼリン、サイパン、グアム、テニアン、ベリリューなどの諸島では日本軍は上陸した米軍と戦って「玉砕」したが、米軍にとって不必要なために無視され、戦線の背後に取り残されたため、補給も途絶え、餓死の運命が待ち受けていた島も多い。

中部太平洋の諸島全体を見たとき、戦死者と餓死者の割合は半々と見ている。つまりここでは十二万以上が病死・餓死していたと見られる。

アジア太平洋戦争の戦場別で、日本軍が最も多くの死者を出したのは五十万人に上ったフィリピン戦線であった。

ここでは八割の四十万人が餓死と推定される。一九三七年の日中戦争開始以来、中国戦線での死者はフィリピンに次いで多く四十五万五千七百である。

その中で、栄養失調に起因するマラリア、赤痢、脚気などによる病死者は死因の三〜四割を占める。とりわけ最も多くの犠牲者を出した一九四四年の大陸打通作戦では過半数が病死とされる。

これらの例から、中国戦線での全死者の約半数が栄養失調にもとづく病死であり、その数はしたがって二十二万以上としている。

こうした地域別調査を集計した結果、「戦地栄養失調症による広い意味での餓死者は、合計で一二七万六二四〇名に達し、全体の戦没者二一二万一〇〇〇名の六〇%強という割合になる。

これを七七年以後の戦没軍人軍属二三〇万という総数に対して換算すると、そのうちの一四〇万前後が戦病死者、すなわちそのほとんどが餓死者ということになる。

なぜ、戦死者の過半数が餓死者であるという悲惨な事態が作りだされたのか。

「補給無視の作戦計画」、「兵たん軽視の作戦指導」、「作戦参謀の独善横暴」という大量の犠牲者を必然化させた軍事作戦上の欠陥がある。

「白兵戦」中心の精神主義とそれと不可分の関係にある、上級に対する徹底した服従規律の強制と兵士の人権の無視がある。

(wikipedia参照)

Re: 強姦は10件?

投稿者: shoujouji 投稿日時: 2012/02/06 09:41 投稿番号: [38631 / 41162]
第二三二件   一月二十九日、陳王(訳音)氏、二十八歳が帰宅するところだった。その途中、三名の兵が彼女ともう一人の女性を
呼び止め、ついて来いと命じた。ひざまずいて嘆願したにもかかわらず、彼女たちは一軒の店に引っ張り込まれた。陳夫人は三度
強姦された。

第三五三件   一月二十九日、蔡児巷(訳音)に住んでいる黄陳(訳音)氏、三十九歳は日本兵に一〇回以上も輪姦された。

第二二二件   一月三十日、収容所を出るようにと命令されたので、ある一家は金陵大学養蚕所収容所を出て二条巷三〇号二五の
家に戻った。その夜、日本兵三名が裏の垣根を壊して侵入し、玄関の戸をたたいた。誰も兵隊たちをなかに入れようとしなかったので、
彼らはドアをたたきこわして侵入し、明かりをつけ、家人に起きよと命令した。そして、日本兵は「巡察隊」だと名乗った。一人の
男は刀をもっており、一人は小銃をもち、三人目は丸腰であった。何も心配する必要はないし、危害を加えるつもりはないからまた
床に入って寝るようにと、こまごまいうので、家人はそれに従った。彼らは家探しをして金のありかを捜し、それから刀を持った
兵隊は十二歳の少女を強姦し、他の二人は老婦人一人を強姦した。兵隊は夜中に帰って行った。そういうわけで、一家は三十一日に
収容所へ戻ってきた。〔リッグズ〕

第二九〇件   一月三十日午前十一時、金陵女子文理学院収容所内の一少女は黄&#40477;巷朝天宮一九号の自宅に立ち寄った。突然、日本兵
四名がやって来て、十歳をこえたばかりのこの少女を輪姦した。

第三七八件   一月三十日、陳(訳音)夫人が帰宅して石山街(訳音)の通りを歩いていると、日本兵三名に会ったが、彼らは
彼女を恒茂醤園(訳音)(商店)に引きずり込み輪姦した。強姦が終って、彼女は放免された。(夫人の右手の人差指にて捺印)

第二二三件   二月一日。今朝六時半、ベイツ博士が大学を出る時、また一団の婦人が集ってきて博士にあいさつをした。彼女たち
は帰宅することはできないと博士に述べた。ほかの数件の暴行事件の中に一婦人の件があるが、この婦人は収容所が封鎖されたら
寝具類を失うのではないかと思って、二人の娘を連れて昨日、西華門の家に戻ったのである。昨晩日本兵がやって来て少女たちを
強姦させよと要求した。二人の娘が拒絶すると、兵隊たちは銃剣で刺殺した。その婦人の言うところでは、家に帰ったところで
仕方がないとのことである。もし自宅に行ってもそこで殺されるのであれば.彼女たちを収容所から追い出そうとするさいに兵隊に
殺される方が、ずっとましだというのである。〔ベイツ〕

第三二七件   二月一日午後一時、日本兵三名が鼓楼五条巷に来て十歳をこしたばかりの少女を連れ去った。一月二十八日にも
同家に日本兵三名が立ち寄り'婦人二人を強姦していた。

第三八二件   二月一日呉長生(訳音)が光華門外の自宅に戻ったところ、日本兵七名が老婆を連れて来て、二人に性交をするよう
強要した。日本兵は傍で笑っていた。

第三七五件   二月三日馬(訳音)夫人が帰宅して同仁街のある家の前を歩いている時、日本兵三名に出会ったところ、彼らは彼女を
空屋に引きずり込み輪姦した。(彼女の右手の人差指による捺印)

第四三六件   二月五日、三牌楼に住む六十過ぎの陳(訳音)という老女のところに日本兵三名が立ち寄った。二人が老女を輪姦
している間、一人は外で見張りをしていた。兵隊の一人が彼女に口で彼のペニスをきれいにするよう要求した。彼女の孫息子は
泣きやまなかったので、二度も刺された。

第四二八件   二月七日、十二歳の少女が真夜中に強姦された。彼女の両親は彼女と前日、大方巷の自宅へ戻ったばかりであった。
父親は少女を収容所へ送り返した。彼女は苦痛のあまりいまだに歩くことができず、彼女の父親の言によると、陰部がはれ上って
いるそうである。

Re: 強姦は10件?

投稿者: shoujouji 投稿日時: 2012/02/06 09:39 投稿番号: [38630 / 41162]
第一七八件   一月三日、日本軍将校の洗濯婦という名目で&#37911;銀巷六号から十二月三十日に連行ざれた婦人たち六人のうちの一人が
鼓楼医院に来院した。彼女の言うところによれば、日本兵に市の中央部の西寄りにある家へ連れて行かれたが、彼女の考えでは日本軍の
軍用病院に違いないということである。婦人たちは昼間は衣類を洗濯したが、あとは夜通し強姦された。年かさの婦人は一晩に一〇回
から二〇回強姦され、若く美しい婦人は四〇回も強姦された。一月二日、二人の日本兵が来院した婦人を人気のない学校の校舎へつれて
行き、一〇回も銃剣を突き立てた。そのうち四回はうなじに突き立てて、脊柱の方にゆく筋肉を切断し、手首へ一回、顔へ一回、背中へ
四回、切りつけた。おそらくこの患者は回復するであろうが、首が自由にまわらなくなるであろう。兵隊たちは彼女が死んだものと
思って置き去りにした。他の日本兵が彼女を見つけ、その様子を見たうえで知り合いの所へ連れてきたので、そこから病院へ担ぎこんだ
のであった。(現にこの患者は髄膜炎で死亡した。)〔ウィルソン〕

第一七九件   一月三日、発育不全の十四歳の少女が強姦され、きわめて重傷を負ったので、かなりの手術をしなければならなかった。〔ウィルソン〕

第一八二件   一月七日、二人の日本兵が一人の若い娘を強姦しょうとした。張福熙(訳音)は兵隊を阻止しようとして、慈悲社七号で刺殺された。

第一八〇件   一月八日、五、六人の日本兵が沈拳人巷二二号で強姦をおこなった後、住人たちに発砲し、李(訳音)という名の三十二歳の
婦人に負傷させた。

第一八一件   一月八日、四名の日本兵が昨夜、高家酒館四九号の袁(訳音)氏の宅に押入り三人の婦人(二十一歳・二十五歳・二十九歳)を強姦した。
婦人たちがぐずぐずして言うなりにならなかったので、日本兵はピストルで婦人たちを射ったのである。
 
第一八三件   一月八日午後六時、三名の日本軍飛行士が華僑路四号の高(訳音)という姓の娘(十八歳)を強姦し、ピストルを乱射した。

第一八六件   一月九日午後三時頃、ミルズ師   (Rev. Mills)とスミス博士が、雙塘へ出かけた。その辺の様子を見て、市の西南部に
住民が帰れる状態かどうか知りたいと思ったのである。そこへ着いたところ、赤ん坊を抱いた一人の婦人が、今しがた三人の日本兵に
強姦されたところであった。〔スミス、ミルズ〕

第一八七件   一月九日夜、一人の憲兵が漢口路二五号のスミス博士の家から一人の婦人を連行し、別の家からも一人を運行した。
憲兵は、リッグズ氏が浜口路二三号の自宅へ帰るところに出会うと、銃剣で脅かした。

第二一九件   ジョン・マギー氏のきくところでは、十二月十三日から十四日にかけて、城南に住む一家の家族一三人のうち一一人が
日本兵に殺され、婦人たちは強姦され、手足を切断されたとのことである。生き残った二人の小さな子供が話してくれたのである。〔マギー〕

第一九〇件   一月十四日、ある一家が金陵大学附属中学から帰宅した。彼らは途中で新しい登録証を入手したが、それを門にはって
おけば兵隊に困らされることもないと言うことだった。そうしたところ、三時間とたたないうちに日本兵三名が来て男たちを追い出して、
婦人たちを五度も強姦した。そんなわけで、彼らは一月十五日に中学へ戻って来て住んでいる。〔ベイツ〕

第一九五件   一月十七日、金陵大学附属中学にいるある一家の婦人が同家の男と共に帰宅した。彼らの家は市の南の新開地にある。
一人の日本兵がやって来て婦人に同衾せよとせまった。それを拒否すると、兵隊は銃剣で彼女を殺した。〔ベイツ〕

第二一一件   一月二十五日午後、一中国婦人が鼓楼医院に来院した。彼女は夫とともに安全地区へ移ってきて、聖書師資訓練学校の
近くのわらぶきの小屋に住んでいた。十二月十三日に日本兵にょって夫は運行され、妻すなわちこの婦人は城南へ連れてこられ、
それ以来そこに住んでいる。以後、彼女は毎日七回から一〇回強姦されていたが、いつも夜には眠ることを許された。彼女は最も
悪性の三種の性病−梅毒・淋病・軟性下疳−にかかっていた。彼女は病気のため五日前に釈放された。それで安全区へ戻ってきた
のである。〔ウィルソン〕

第二三〇件   一月二十九日、二十二歳になる婦人が自宅に戻った。彼女の夫は日本兵に銃剣で突かれ、数日前に死亡した。一月
二十九日に三牌楼二号の自宅に帰った時、彼女の方は三度も日本兵によって強姦された。

Re: 強姦は10件?

投稿者: shoujouji 投稿日時: 2012/02/06 09:37 投稿番号: [38629 / 41162]
第一四六件   十二月二十三日午後三時、日本兵二名が漢口路小学収容所にやって来て金目の物を物色した後、職員の黄(訳音)嬢
を強姦した。このことを日本軍特務憲兵隊に急報したところ、日本兵逮捕のために憲兵をよこしたが、日本兵は逃げたあとだった
ので憲兵は黄嬢を証人として憲兵詰所に同行させた。同夕、別の日本兵が来て、王夫人の娘を強姦した。午後七時頃、また別の
日本兵三名がやって来て、二人の婦人を強姦したが、うち一人はわずか十三歳であった。〔岑達臻(訳音)、漢口路小学難民収容所長〕

第一四八件   十二月二十五日夜、七名の日本兵が聖書師資訓練学校難民収容所にやって来て、一晩中そこにいた。日中は、午前九時
に四名、午後二時には三名の日本兵が来て、衣類・現金を物色し、婦人二名を強姦した。強姦された婦人のうち一人はわずか十二歳
だった。〔聖書師資訓練学校〕

第一五三件   十二月二十五日、鼓楼新村一四号に住む十五歳になる李(訳音)嬢が、日本の将校一名・兵二名によって連行された。〔C・Y・徐(訳音)〕

第一五四件   十二月二十六日四時、陳家寨〔訳音〕において、十三歳の少女が日本兵三名に輪姦された。〔王〕

第一六七件   十二月二十七日午後一時、日本兵五名と用務員一名が漢口路小学に来て、娘二人を連行しょうとした。娘たちがひきずり
出されようとしていた時、幸いに数名の憲兵が巡察に来た。憲兵はこの事件を目撃すると、日本兵三名および用務員一名を逮捕した。
〔岑達臻〔訳音〕、漢口路小学難民収容所長〕

第一六九件   十二月三十日午後、北平路八四号にある、イタリア大使館員某の住宅に日本兵がやってきて、現金一〇〇ドル以上と娘二人
をさらって行った。われわれが懇願した末、一人は釈放されたが、もう一人の方はいまだに連行されたままである。連れて行かれた
のは項思沢(訳音)という名の十六歳の娘で、毛皮の裏地のついた服を着ている。日本兵三名が侵入したが、その間、別の二人が門の
ところで見張りをしていた。〔スパーリング〕

第一七一件   一九三八年一月一日午後三時、スパーリング氏が寧海路と広州路の角にさしかかると、一人の老婆が家の中から飛びだし
てきた。スパーリング氏が中に入ると、一人の日本兵が逃げだしていった。しかし、寝室にはもう一人、素裸の日本兵と強姦された
ばかりの半裸体の中国人の娘がいるのが見られた。スパーリング氏は兵隊に出て行けと命じたが、衣服を着る時間を与えた。〔スパーリング〕

第一七二件   一月一日午後九時、日本兵がトラックで小桃源のラーべ氏の住宅前に乗りつけ、トラック一台分の娘を出せと要求した。
ラーべ氏は門を閉めて入れなかったので、彼らは金陵大学付属中学の方へ行った。〔ラーべ〕

第一七三件   一月一日午後、三名の日本兵が金陵女子文理学院に入ってきた。その中の一人は一人の娘を追い回し、庭の竹薮に入った。
ヴォートリン女史(Miss Vautrin)が呼び出されて、強姦寸前の娘を救い出した。残り二名の日本兵は憲兵であることを自認した。〔ヴオートリン〕

第一七四件   一月一日午後一時四十分、二人の日本兵が珞珈路一七号のフォースター師(Rev. Forster)の住宅内に侵入して、一人の
娘を強姦し、抵抗して強姦を拒否したもう一人の娘を殴打した。フォースター師はフィッチ氏と食事をするため外出していた。フィッチ氏
・マギー氏・フォースター氏は車で現場へ駆けつけ、二人の娘を鼓楼医院で手当てするために連れて行った。〔フィッチ〕

第一七五件   一月一日午後四時、三名の日本兵が漢口路一一号金陵大学附属の住宅(アメリカ人所有の建物)で十四歳の少女を強姦した。
その家の婦人が校門にやって来て憲兵を呼んだが、憲兵のくるのが遅すぎて間に合わなかった。〔ベイツ〕

第一七七件   一月二日午後三時、スパーリング氏とフィッチ氏が呼ばれて寧海路三号にいってみると、四人の日本兵が略奪したり、強姦
したりしているところだった。日本兵はスパーリング氏の黒いカギ十字の腕章を見ると、「ドイツ、ドイツ」と大声で叫んで逃げていった。
〔スパーリング〕

Re: 強姦は10件?

投稿者: shoujouji 投稿日時: 2012/02/06 09:34 投稿番号: [38628 / 41162]
はて、安全区委員会が日本軍に送った報告書だけでも、10件とは
とても思えないねえ。例によって「嘘」だとか「伝聞」だというなら、
最初から安全区委員会報告なんぞ自分の主張の根拠として出しても
無意味だろう。

続き

第六〇件   十二月十九日午前一一時三〇分、ハッツ氏(Mr・Hats)が報告するところでは、寧海路にあるわれわれの本部の隣家の
待避壕で日本兵が数名の婦人を犯そうとしているのを見つけた。その待避壕には二〇名の婦人がいた。婦人たちが助けを求めて
叫んでいるのが聞こえたので、ハッツ氏は待避壕に入り日本兵を追い出した。〔ハッツ〕

第七二件   十二月十九日、金陵大学の一部である農村師資訓練学校で日本兵はわれわれの勤務員から一〇ドルをとったが、
昨日も同一人から二ドル五〇セントを奪っている。午後には二名、夜にはさらに五名の婦人が構内で日本兵に強姦された。〔高(訳音)〕

第七七件   十二月十九日午後六時頃、ベイツ博士、フィッチ氏(Mr.Fitch)、スミス博士(Dr. Smythe)の三人は漢口路一九号の
金陵大学職員住宅に呼ばれたが、そこで婦女を強姦している日本兵を追い出すためであった。三人は婦人たちが隠れていた地下室に
日本兵がいるのを発見した。

第八一件   十二月二十日午前三時頃、金陵女子文理学院五〇〇号に日本兵二名が入り込み、日本領事館の警官一名が警備していた
にもかかわらず、二人の婦人を強姦した。〔マッカラム〕

第九八件   十二月二十日午後七時半、妊娠九カ月の十七歳の幼妻が日本兵二名に輪姦され、九時に陣痛が始まり、午前零時に出産した。
夜間、街を通行することができないため、彼女は今朝になって鼓楼医院にかつぎこまれた。母親はヒステリー症状を呈しているが、
赤ん坊には異常がない。〔ウィルソン〕

第九九件   十二月二十日午後、日本兵は漢口路五号にある鼓楼医院長J・H・ダニエルズ博士(Dr.J. H. Daniels)の住宅に侵入した。
なお、同家の門には日本大使館の布告がはってあった。日本兵は二階の部屋に押入り、二名の婦人を中に連れ込んで強姦し、三時間
もそこにいた。日本兵は地下室から自転車三台をとっていった。この家はダニエルズ博士の留守中、ウィルソン博士(Dr. Wilson)
が使用していた。〔ウィルソン〕

第一〇二件   十二月二十日、国際委員会の委員の一人であるシュルッ・パンティン氏(Mr.Schultze Pantin)の住宅に日本兵が押入り、
マギー師と一緒にそこに住んでいる中国人の友人の目の前で数人の婦人を強姦した。〔董(訳音)、中央神学院長〕

第一〇四件   十二月二十日午後四時、日本兵四名は江蘇路二三号にある本部の隣家で、銃を突きつけ男たちを別室に押し込めた後、
三人の婦人を強姦した。婦人たちは本部構内で一夜を過ごすためにやって来たが、今朝、前の日本兵が来て女を一人出せと要求した。
二十一日午後四時半、二人の日本兵がまたやって来て別の婦人一人を強姦した。男一名がこれを制止しょうとすると、一人の日本兵
が彼に発砲したが弾丸は外れた。〔王〕

第一〇五件   十二月二十一日、今日の午後、本部には、さらに約一〇〇人の婦人が来ているが、彼女たちは本部のごく近くに住んで
いる者たちであり、昨夜以来、暴行を受け、保護をもとめてやって来たのである。(前に来た婦人たちは金陵大学に送られた。)〔ウィルソン〕

第一五一件   十二月二十二日、日本兵二名が金陵大学養蚕所で十三歳の難民の少女を強姦した。彼女の母親はこれを止めようとして
傷を負わされた。他に二十八歳の婦人一名も強姦された。二十三日午前四時、二人の娘が日本兵に拉致されたが、憲兵に出会うと、
その日本兵は逃げて行った。〔〔H・K・呉、警視副部長〕

第一四四件   十二月二十三日、日本兵はひき続き略奪を重ねており、酔った日本兵一名が難民の頭部を殴打し、一人の婦人を強姦した。
日本兵が三、四回やって来て、何人かの女をさらっていった。〔五台山小学難民収容所〕

第一四五件   十二月二十三日午後八時一五分、日本兵七名が四人の娘を拉致した。〔聖書師資訓練学校収容所〕

Re: 初等教育?防衛庁資料?

投稿者: nannkainosima 投稿日時: 2012/02/06 09:16 投稿番号: [38627 / 41162]
秦氏と質疑ですか?

それ、実現したら公開したいですよね。

個人でコンタクトして、その質疑を、公開してもいいのでしょうか。

そもそも、私個人に返事などいただけるものでしょうか。

私の疑問に賛同していただけるどなたかが、秦氏に聞いてくださるだろう、
という気がしておりましたが。

自分の質問をぶつける前に、ネットではない、具体的な人か集団が、
私の疑問の趣旨に賛同して、秦氏に聞く、

というのが、普通ではないかと思ってました。

新聞社も雑誌社もテレビ局も政治家も政党も行政も、
あちこち出しているのです。

文章が悪いのか、出し方が悪いのか、当たりが悪いのか、

井家又一日記写真版だけではわからないのかもしれないし、
手紙講座も、全くUPされていなかったこともあるでしょうし、

「あなたの意見はもっともだ。調べてみます。」とか、
「聞いてみますよ」とか。

そういう反応はゼロです。

私がこの状態で、直接秦氏に聞くのですか?

『手紙講座』が全部UPできた頃には、考えてみましょう。

下手なやり方ですと、南京事件のように議論の激しいものは、
出版社は、取り次ぎもしてくれません。

Re: 父島人肉事件とジョージブッシュ

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/02/06 08:54 投稿番号: [38626 / 41162]
然者粕谷外次郎帰着に付村上迄之様子御承知被成候旨其後は小島逸八鈴木蕃戦地の模様見分罷帰候間追々御承知可被成賊兵は国境海山の要地に拠防戦候故攻撃不利当時持場所相固居機会に乗じ致進撃度昼夜苦心罷在候事に候十一日は中継より攻撃に相成候處開川へ討入候薩長高鍋は雷村を攻破り開川迄都合・・・云々

↑この様に戦闘詳報が残っているんだよ、噂話などを面白く書き立てるのは良いが、事実を調べてからにすることだね。

因みに上記の記録は明治元年九月十一日の戦闘記録だよ。

Re: konoyo_anoyo様へ

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/02/06 08:27 投稿番号: [38625 / 41162]
兵隊が兵站を切られるのは当然、敵の戦略であり、日本軍の戦略だから、脳死君。

之をしない軍隊は何処にも居ないよ。

Re: 初等教育?防衛庁資料?

投稿者: mokneybrain123 投稿日時: 2012/02/06 08:06 投稿番号: [38624 / 41162]
>私には、秦著の1枚だけで、ショックを受けるのに十分でした。

秦郁彦さんに直接コンタクトして質疑しましたか。彼が掲載したのだからまず彼に直接コンタクトすべきだと思いますが。雲の上の人じゃないんだから連絡取れるでしょう。

Re: 初等教育?防衛庁資料?

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/02/06 07:50 投稿番号: [38623 / 41162]
持っている兵隊の日記には、其の日の何時、何処で誰が命令をしだれがその命令を実行したかと言うことが書いてあるよ。

非常に簡潔にね。

細々したことは書いてないよ、スペースがないからね。

Re: 強姦は10件?

投稿者: unhoo 投稿日時: 2012/02/06 05:30 投稿番号: [38622 / 41162]
ソ連軍がドイツ領に侵入し、ついにベルリンになだれ込んだ。ドイツ人女性
が、ソ連兵に強姦された人数は200万とかソ連に占領された地域のドイツ女性
の全部と言われている。現在この話は誰かが言い出しても、ふうんそうかい
という返事しか戻ってこないそうだ。

ソ連軍がドイツに攻め込んだときの総司令官は、ノモハン事件のときのソ連
軍指揮官ジューコフで、ドイツに攻め込むときは、殺人、強姦勝手次第との
布告を全軍に出したと言われているが、後世このことでジューコフを非難す
る者はいない、単に歴史上の一事実といして語られるだけである。

しかるに日本人は、日本兵がやったとされる不法行為を重箱の隅をほじくる
ように談論して、日本兵だけが悪質の兵隊であると吹聴して偉がっている。

Re: 強姦は10件?

投稿者: shoujouji 投稿日時: 2012/02/06 02:10 投稿番号: [38621 / 41162]
はて、安全区委員会が日本軍に送った報告書だけでも、10件とは
とても思えないねえ。例によって「嘘」だとか「伝聞」だというなら、
最初から安全区委員会報告なんぞ自分の主張の根拠として出しても
無意味だろう。

第四一件   十二月十七日、司法院(Judicial Yuan)附近で一人の若い娘が強姦された後、銃剣で下腹部を突き刺された。〔王〕
&#160;
第四二件   十二月十七日、相富瓦〔訳音〕で四十歳の女が連行され、強姦された。〔王〕
&#160;
第四三件   十二月十七日、建三円路附近で二名の娘が多数の日本兵に輪姦された。〔王〕

第四五件   十二月十七日、五台山にある小学から多数の婦人が連行され、一晩中、強姦され、翌朝になって釈放された。〔王〕
                      
第四六件   十二月十七日、呉家花園内で男子三名が殺され、二名の婦人が運行され、行方不明となっている。〔王〕
&#160;
第五三件   十二月十七日午後三時、大方巷一〇号にある難民住宅内の娘三名は日本兵に輪姦された。また一人の婦人は射たれて
重傷を負った〔大方巻一〇号難民住宅〕
&#160;
第五八件   ラーベ氏はドイツ人であって自宅にはカギ十字のナチス旗を四本も掲げていたにもかかわらず、六時頃ラーベ氏が
帰宅してみると、ちょうど二名の日本兵が侵入してきた。そのうち一名は衣服を脱ぎ娘を強姦しょうとしているところであった。
&#160;
第八六件   十二月十七日、Y・H・邵(訳音)氏(YMCAの書記)の家族の三人の娘が日本兵により陸軍大学から連行された。
被女らは身の安全を計るため陰陽営七号からそこに移って来ていたのである。日本兵は彼女たちを国府路に連れて行き、
強姦した後、夜半になって釈放した。〔曾時雨(訳音)、YMCA事務員〕

第九四件   十二月十七日夜、日本兵は二名の難民の婦女を金陵女子文理学院から連行した。その間、捜索班を指揮していた
将校は一時間以上も職員を正門のところに整列させておいた。その将校は、建物が捜索済みであるということを証明する
書類を破りすてた。
&#160;
第九五件   十二月十七日、金陵女子文理学院構内に住んでいた某難民家族の妻は自分の部屋で強姦された。教員の娘一人が
日本兵によって拉致された。〔ヴオートリン〕
&#160;
第五五件   十二月十八日晩、恐怖にかられた四五〇名の婦人が保護を求めてわれわれの事務所に避難して来て、庭で夜明しをした。
彼女たちの多くは暴行を受けていた。〔フィッチ〕
&#160;               
第八九件   十二月十八日、(金陵大学農場内には一〇〇名以上の難民がいるが)日本兵が婦人四名を連れ去り、終夜暴行を加えた。
四人とも翌朝になって戻った。十九日、二名の婦人が連行され、うち一名は今朝(二十日)戻ったが、他の一名は未だ戻って来ない。
〔第六区難民住宅一号〕

第六三件   日本兵は頤和路一二号で、そこに難民として住んでいた男子をすべて追い出した後、娘数人を強姦した。ある喫茶店主の
娘(十七歳)は七名の日本兵に輪姦され、十八日死亡した。昨夜六時から一〇時の間に日本兵一二名が娘四人を強姦した。莫千路
五号に住む老人が報告するところでは、娘が数名の日本兵に輪姦されたとのことである。昨夜、金陵女子文理学院から三名の娘が
拉致され、今朝、陶谷新村八号に戻ったが、ひどいありさまである。平安巷に住む娘一名が三名の日本兵に輪姦され死亡した。
陰陽営では強姦・強奪・家探しがおこなわれている。〔十二月十八日報告〕〔馬西華(訳音)〕

第六四件   十二月十八日に報告をうけたもの -- 広東路八三号と八五号には約五四〇名の難民がひしめき合っている。今月十三日
から十七日までに、日本兵は三人から五人の集団でそこにやって来て、日に幾度となく捜査・強奪を重ねた。今日も日本兵は
上記の場所で略奪を続けている。現在、日本兵は毎夜トラックを迎えによこしては若い娘たちを無理矢理に連行している。
娘たちは翌朝になると釈放される。三〇名以上の婦女が強姦された。婦女子は一晩中泣き続けている。収容所内の状態は筆舌に
つくしがたいほど悲惨である。〔翻訳文に罕湘麟(音訳)の署名あり〕
&#160;

強姦は10件?

投稿者: shoujouji 投稿日時: 2012/02/06 02:05 投稿番号: [38620 / 41162]
>日本軍が南京で把握した強姦件数は、10件程度だった。
>(南京安全地帯の記録より強姦の事例を紹介)
>このように日本軍に通報された件数は、合計7件であった。

はて、安全区委員会が日本軍に送った報告書だけでも、10件とは
とても思えないねえ。例によって「&#22099;」だとか「伝聞」だというなら、
最初から安全区委員会報告なんぞ自分の主張の根拠として出しても
無意味だろう。
http://nanjinggenpatsu.com/timperleyjappendixa.html

事件番号
  第五件   十二月十四日の夜、日本兵の中国人住宅への侵入や婦女の強姦および
連行事件が相次いで起った。そのため大混乱が生じ、昨日数百名の婦人が金陵女子
文理学院の構内に移って来た。それで、三人のアメリカ人が構内の三〇〇〇名の
婦女子を保護するため、昨晩は同校で夜を過ごした。

第一〇件   十二月十四日正午、&#37911;銀巷路の中国人住宅に日本兵が侵入し、四人の娘を拉致、強姦し、二時間後に帰した。
            
第一二件   十二月十四日夜、&#37911;銀巷路の中国人住宅には日本兵二名が侵入し、四名の婦女を強姦した。
               
第一五件   十二月十五日、浜口路の中国人住宅に押入った日本兵は若妻一名を強姦、さらに三名の婦女を拉致した。
そのうちの二人の夫が日本兵を追いかけたが、二人とも射殺された。
                &#160;
第四件   十二月十五日夜、七名の日本兵が金陵大学図書館に侵入し、難民の婦人七名に襲いかかり、うち三名はその場で犯された。
&#160;
&#160;
第一八件   十二月十五日夜、多数の日本兵が桃源にある金陵大学の建物に侵入し、その場で三〇名の婦女を強姦した。その中の
数名は六名によって輪姦された。〔ソーン〕
             
第四四件   十二月十五日晩、三条巷の住宅に多数の日本兵が押入り、多くの婦女を犯した。〔王(訳音・以下同)〕
&#160;
第二〇件   十二月十六日夜、七名の日本兵が窓を破って押入り、難民から略奪をおこなった。大学の職員一名は日本兵に時計も
女も差し出すことができなかったので、銃剣で傷を負わされた。兵士たちは婦女を構内で強姦した。〔ベイツ〕
&#160;
第二二件   十二月十六日夜、日本兵は金陵大学付近で安全区民警数名を殴打し、難民の中から兵隊のために女を出せと要求した。〔ベイツ〕
                                           
第二八件   十二月十六日午後四時、日本兵が莫千路二号の住宅に侵入し、そこで婦女を強姦した。〔フィッチ〕
&#160;
第四七件   十二月十六日夜八時、日本軍の将校・兵各二名が乾河沿一八号に侵入した。彼らは家の中にいた男たちを追い出した。
近所の婦人数名は逃げたが、(逃げられないで)屋内にいた婦女は強姦された。日本兵の一人はシャツを室内におき忘れていった。〔王〕
   &#160;
第五七件   十二月十六日、七名の娘(年齢は十六歳から二十一歳)が陸軍大学内の自宅から連れ去られた。うち五人は帰宅した。
十二月十八日に報告されたところでは、彼女たちは各人毎日六、七回ずつ強姦されたということである。十二月十七日午後十一時、
日本兵が塀を乗り越えて侵入し、二名の娘を連れ去ったが、三〇分後に返してよこした。〔詹圓管(訳音)〕
&#160;
第三三件   十二月十七日、日本兵が珞珈路五号に侵入し、四名の婦女を強姦し、自転車一台・寝具その他を持ち去った。私とハッツ
(Hatz)が現場に行くと、兵隊はいそいで姿を消した。〔クレーガー〕
&#160;
第三七件   十二月十七日、小桃源にある私の家の裏手の小さな家で一人の婦人が強姦されたうえ刺された。今日治療を受ければ
多分助かるだろう。その婦人の母親は頭部を強打された。〔ラーべ〕
  
第四〇件   十二月十七日、瑯&#29706;路(珞珈路二五号の向い)で一名の若い娘が民家に連れ込まれ犯された。〔王〕

Re: 父島人肉事件とジョージブッシュ

投稿者: forever_omegatribe 投稿日時: 2012/02/06 01:08 投稿番号: [38619 / 41162]
永井村二巨、浅貝の古老たちの口碑

  ある朝、霧で周囲が暗いのを幸いに久吉は長槍を提げて飛び出し、当たるを幸いに18人を血祭りにあげた。周囲からの一斉射撃で、久吉は膝をついて倒れた。その時、久吉は「この首を渡すから出て来い」と叫んだ。近寄った3人は槍で突き伏せられてしまった。久吉を撃った永井村の猟師広吉は「久吉が来る、怖い」と叫んで、死んだ。
  久吉の遺体は官軍の兵士や村人が争って肉をそぎ、取って食べた。それは英雄崇拝の迷信からで、勇者の肉を食うと腕力が増し、健康な子孫に恵まれるという言い伝えからだった。猟師広吉も肉を食べた一人だった。 (星亮一著『会津戦争全史』P161)

戊辰戦争では、私が調べた限り、人肉を食った話がもう一つある。栃木県と境を接する福島県南会津郡田島町の『田島町史第六巻・下   近世史料Ⅱ』に記載されている事例だ。
  「水無の田無沢の□□□□□□出生の者にして、□□に来りムコになる、それが砲で殺すや直様(すぐさま)腹をさき肝を食った」
  [田島組粟生沢村西軍敗残兵始末]という章の、「粟生沢村名主湯田久右衛門聞書」の一節である。日付は、明治元年九月十一日(八日に、慶応四年が明治元年と改元された)となっている。

http://www.mumyosha.co.jp/ndanda/05/bakumatu03.html

Re: 南京虐殺事件の被害者数について(3)

投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2012/02/06 00:01 投稿番号: [38618 / 41162]
>そのさい、第十軍参謀長は、12月20日付で次のような通牒を所属諸部隊に発している。
>…
>同軍の「婦女暴行のみに」限っても、「百余件」にものぼる   「忌むべき事態」が発生した、と述べているのだ。


「丁集参一第一四五号」1937年(昭和12年)12月20日
【杭州占領に伴う秩序維持と配宿等に関する丁集団(第十軍)の命令】の中に

「婦女暴行ノミニテモ百餘件ニ上ル」

と述べられていたことを以って、「日本軍は12月20日時点において既に強姦だけでも100件以上発生していたことを認識していた」と主張する者がいるが、これには「からくり」があって、12月20日までに日本軍が100件の強姦を行なった事実はない。


日本軍が南京で把握した強姦件数は、10件程度だった。
――――――――
(南京安全地帯の記録より強姦の事例を紹介)

そこで、記録者名のある強姦(未遂)事例61件のうち、日本軍に通報された事例を挙げると、それは次のように分類される。

①日本兵逮捕の事例は、右の「事例167」の1件のみであった。
②日本兵が憲兵に引き渡されて事例は、右の「事例227」の1件のみであった。
③憲兵に連絡された事例は、「事例426」の1件のみであった。
④日本兵が連行された事例は、「事例168」と、「事例220」の、2件であった。
⑤被害者が証人として同行を求められたのは、右の「事例146」の1件のみであった。
⑥日本兵と被害者(未遂)が連行されたのは、「事例216」の1件のみであった。

このように日本軍に通報された件数は、合計7件であった。右の計算には、あるいは見落としがあるかも知れない。そこで、東京裁判に出廷した塚本浩次法務部長の証言をも紹介しておく。
法務部とは軍関係の裁判を司る部門であった。塚本法務部長は上海派遣軍法務官として、1937年12月から1928年8月まで南京に在勤した。その間に、何件の事件を扱ったのか。サトン検察官から、そう尋問されて、彼は次のように答えた。
  《10件内外であつたかと思います。(略)10件と申しましたのは1人1件ではございません。1件の中には数人を含む場合も相当あります。》

P261
『「南京虐殺」の徹底検証』東中野修道著
――――――――


では、どうして、12月20日付の第十軍参謀長命令に、「婦女暴行ノミニテモ百餘件ニ上ル」などと述べられていたのか?

実は、外国との折衝をしていた上海日本大使館参事官の日高信六郎が、12月17日・18日に南京を訪れたとき、参謀長や朝香宮司令官や憲兵隊長や警備司令部などを訪ねて、暴行の多発などあること・ないことを説いてまわっていた。(「広田弘毅」   広田弘毅伝記刊行会   1966   P311〜P315)
――――――――
日高信六郎氏は、南京事件当時、大使館参事官として上海におりました。南京には、1937年12月17・18日、12月25・26日など、四回にわたり出向いています。
「南京大虐殺事件資料集1   極東国際軍事裁判関係資料編」P180
――――――――

安全区国際委員会のデマ宣伝が、日本の外務省関係者に伝わり、そのデマ宣伝を真に受けた上海日本大使館参事官の日高信六郎などによって、南京に居た第十軍参謀長や朝香宮司令官などに伝わったのだ。


南京安全区国際委員会メンバーで支那国民政府の外人宣伝工作員→(デマ宣伝)→上海の各国領事館や海外→日本外務省→上海日本大使館参事官の日高信六郎→第十軍参謀長など

したがって、「12月20日時点において既に強姦だけでも100件以上発生していた」と言うのは事実ではない。
丁集参一第一四五号(第十軍参謀長命令)1937年(昭和12年)12月20日は、日本軍による強姦100件以上の証拠には成り得ない。

現場に居た日本軍憲兵隊に通報された事件は、強姦がせいぜい10件程度で掠奪も似たようなもの。
虐殺に至っては0件だった。

Re: konoyo_anoyo様へ

投稿者: shoujouji 投稿日時: 2012/02/06 00:00 投稿番号: [38617 / 41162]
「兵を餓死させるような軍が悪い」という主張と、「兵が餓死する
のは当たり前だから軍は悪くない」という主張を比較して、どっちが
餓死した兵士を愚弄しているかは明らかだわな。

井家又一日記が偽作であることは明白

投稿者: unhoo 投稿日時: 2012/02/05 22:57 投稿番号: [38616 / 41162]
戦前、戦時中に書かれたと称する文書に「いる」「います」があれば、それ
だけで戦後の偽作であることの明白な証拠である。終戦以前の文書は必ず
「ゐる」「ゐます」と書いた。「居る」「居ます」は戦前戦後ともに使われ
ている。

敗戦の虚脱中にあった日本国民に、戦前からカナモジカイの闘士で、漢字廃
止運動に熱中していた松坂忠則という人の策動で、「昭和21年11月16日内閣
訓令および内閣告示」が発表され、国民が何の反応も示さないうちに、新聞
社、本屋、学校が受け入れた。上記政令には、現代かなづかいの規則と当用
漢字1850字の表が付属していた。この二つ表は松坂忠則が漢字全廃の最終目
標に達する前の途中の手段として作ったものである。現代かなづかいの表に
は、ゐ、ゑがなかった。そのために、「ゐる   ゐます」が「いる   います」
になった。

新聞社、本屋が早速21.11.16.の政令にしたがって、漢字1850字、ゐ、ゑなし
で新聞、本を印刷し、全国民が毎日その印刷物を読んだ。全国の小、中、
高、大の各級学校の教科書も、政令どおりの文字で印刷された。

かくて昭和30年ごろになると、学生や学校を出たての若者は、「ゐる   ゐま
す」という表記があったことを知らず、大人は「ゐる   ゐます」を完全に忘
れた。文書偽作者も「いる   います」の陥穽に落ち込んだ。

戦前及び終戦以前の教科書には、人や動物には「ゐる   ゐます」を使い、
植物や物体には「ある   あります」を使えと教えた、これは極めてわかりや
すい規則であって、戦前は小学生でも決して間違えなかった。

戦前は「ゐる   ゐます」を「居る   居ます」と書くことが許された。今も
「いる、います」を「居る   居ます」と書くことが許容されている。

ところで、松坂忠則氏がびっくりしたであろうことは、1850字の漢字が国民
の中に根をおろしてしまい、目標の漢字廃止の方向へ押し進めることが不可
能になっていることである。カナモジカイがどんなにがんばっても、1850字
よりへらすことができないのである。

↓これは書き終えない投稿です。取り消し

投稿者: unhoo 投稿日時: 2012/02/05 20:49 投稿番号: [38615 / 41162]
本文なし
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