8月9日 川越大使 石射和平案を不発にさす
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/02/05 15:48 投稿番号: [732 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 文春文庫
63〜65p
《 この時期に文官側の指導的役割をはたしたのは、外務省東亜局長石射猪太郎である。
石射局長は、陸海軍当局者とも連絡したうえで、
八月七日、 「日華停戦条件」 と 「日支国交全般的調整案要綱」 を、
四相会議 (首相、陸相、海相、外相) で決定させた。
内容は、石原構想ほどに劇的ではなく、 「在支権益」 も放棄せず、
「非武装地帯ノ設定」 も条件にしていた。
しかし、塘沽、 土肥原・秦徳純 、梅津・何応欽協定など、北支にかんする
これまでの協定を解消し、北支の行政も南京に返還することにする。
また、中国に 「日支防共協定」 の締結、排日取締りを要求するかわりに、
満州国については、直截 (ちょくせつ) に承認をもとめず、
「今後問題ニセズ トノ約束ヲ 隠密ノ間ニナス」 だけでよい、とした。
石射局長は、これらの条件をまず私的に中国側につたえ、そのごに正式に
外交ルートにのせることを考え、在華紡績同業会理事長船津辰一郎 (元上海総領事) に
出馬を要請し、国民政府外交部亜州司長高宗武との会見を工作した。
内地から派兵される第五、第六、第十師団は、八月二十日ごろに集結を完了する。
そうなれば、より一層に中国側を刺戟 (しげき) する可能性もあるので、その前に
「何トカ 話合ヲ 付ケ」 たい、というのが、政府首脳者たちの希望でもあった。
船津理事長は、四日、未決定の条件案の内示をうけて東京を出発し、
七日、上海に着いた。 亜州司長高宗武との会見は、九日に準備されていた。
ところが、同じ日、駐支大使川越茂も上海に帰任した。
川越大使は、事変が発生すると天津に腰をおちつけ、
外相広田弘毅からのたびたびの帰任訓令にも応じなかったが、
ようやくいったん大連を訪れたのち、上海にもどったのである。
そして、上海に帰着して、船津工作を知ると、自身が交渉する旨を主張し、
広田外相もやむなく同意して、条件案をふくむ訓電を発した。
このため、船津理事長は、予定どおりに九日朝、亜州司長高宗武に会見したものの、
肝心の〝用件〟はきりだせず、そのごの川越・高会談にゆだねなければならなかった。
もともと、お互いに 「断乎贋懲」 「徹底抗戦」 を叫びあっているときに、
いきなり停戦、国交調整を公式に提議するのはまずい、
根回しが必要だ、との判断から生まれたのが、船津工作である。
川越大使の出馬は、その 「妙味」 を消すわけであり しかも、
大使は 第一回会談のためか条件案の内容を告げずにすごした。
それと知った石射局長は、無念の想いをこめて日誌に記述した。
「川越大使、高宗武氏と会見……船津を阻止して高との話をハグラカしてしまった
のは、まことに遺憾だ。スキを見せねば (相手は) ウチ込んでこぬ……」
− だが、
この外務省の船津工作も、陸軍の各種の 「希望的観測」 と同じく、
これまでにくり返して述べた如く、
すでに 「全面戦争」 を決意している中国側には通じなかったにちがいない。》
つづく
63〜65p
《 この時期に文官側の指導的役割をはたしたのは、外務省東亜局長石射猪太郎である。
石射局長は、陸海軍当局者とも連絡したうえで、
八月七日、 「日華停戦条件」 と 「日支国交全般的調整案要綱」 を、
四相会議 (首相、陸相、海相、外相) で決定させた。
内容は、石原構想ほどに劇的ではなく、 「在支権益」 も放棄せず、
「非武装地帯ノ設定」 も条件にしていた。
しかし、塘沽、 土肥原・秦徳純 、梅津・何応欽協定など、北支にかんする
これまでの協定を解消し、北支の行政も南京に返還することにする。
また、中国に 「日支防共協定」 の締結、排日取締りを要求するかわりに、
満州国については、直截 (ちょくせつ) に承認をもとめず、
「今後問題ニセズ トノ約束ヲ 隠密ノ間ニナス」 だけでよい、とした。
石射局長は、これらの条件をまず私的に中国側につたえ、そのごに正式に
外交ルートにのせることを考え、在華紡績同業会理事長船津辰一郎 (元上海総領事) に
出馬を要請し、国民政府外交部亜州司長高宗武との会見を工作した。
内地から派兵される第五、第六、第十師団は、八月二十日ごろに集結を完了する。
そうなれば、より一層に中国側を刺戟 (しげき) する可能性もあるので、その前に
「何トカ 話合ヲ 付ケ」 たい、というのが、政府首脳者たちの希望でもあった。
船津理事長は、四日、未決定の条件案の内示をうけて東京を出発し、
七日、上海に着いた。 亜州司長高宗武との会見は、九日に準備されていた。
ところが、同じ日、駐支大使川越茂も上海に帰任した。
川越大使は、事変が発生すると天津に腰をおちつけ、
外相広田弘毅からのたびたびの帰任訓令にも応じなかったが、
ようやくいったん大連を訪れたのち、上海にもどったのである。
そして、上海に帰着して、船津工作を知ると、自身が交渉する旨を主張し、
広田外相もやむなく同意して、条件案をふくむ訓電を発した。
このため、船津理事長は、予定どおりに九日朝、亜州司長高宗武に会見したものの、
肝心の〝用件〟はきりだせず、そのごの川越・高会談にゆだねなければならなかった。
もともと、お互いに 「断乎贋懲」 「徹底抗戦」 を叫びあっているときに、
いきなり停戦、国交調整を公式に提議するのはまずい、
根回しが必要だ、との判断から生まれたのが、船津工作である。
川越大使の出馬は、その 「妙味」 を消すわけであり しかも、
大使は 第一回会談のためか条件案の内容を告げずにすごした。
それと知った石射局長は、無念の想いをこめて日誌に記述した。
「川越大使、高宗武氏と会見……船津を阻止して高との話をハグラカしてしまった
のは、まことに遺憾だ。スキを見せねば (相手は) ウチ込んでこぬ……」
− だが、
この外務省の船津工作も、陸軍の各種の 「希望的観測」 と同じく、
これまでにくり返して述べた如く、
すでに 「全面戦争」 を決意している中国側には通じなかったにちがいない。》
つづく
これは メッセージ 711 (kireigotowadame さん)への返信です.