盧溝橋事件54 参謀本部処理案を作成
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/08/28 15:02 投稿番号: [551 / 2250]
戦史叢書 『支那事変
陸軍作戦1』
156〜157p
作戦班の大部の者は、八日夜、第一部長の指示により参謀本部に泊り込んで、
事件に緊急対処できる態勢で待機していたが、
九日早朝に次のような第三課案 「北支時局処理要領」 を作成した。
方 針
事件ヲ努メテ 平津地方ニ限定シ 速 (すみやか) ニ同地方ヲ 確保シ 之カ 安定ヲ企図ス
要 領
一 事件不拡大ノ方針ヲ以テ進ムモ 支那側ニシテ我軍ニ対シ 挑戦的態度ニ出ツルニ
於テハ 支那駐屯軍ニ 所要ノ兵力ヲ増加シ 我ニ敵対スル支那軍ヲ
平津方面ヨリ駆逐シ 北支那ノ安定ヲ企図ス
外交交渉亦此ノ方針ニ準拠ス
二 若シ抗日実力行為カ 中南支ニ波及スルコトアルモ 陸軍ノ出兵ヲ行ハサルヲ
主義トス 但シ所要ニ応シ 山東方面ニ出兵シ 居留民ヲ保護シ我権益ヲ確保ス
これは八日の 「時局処理要綱」 案とほとんど同文で、若干の字句を修正した
ものである。しかし所要兵力量は異なる。作戦班は
「北支ニ在ル 第二九軍 並 (ならび) ニ中央軍ノ北上スル場合 之ニ対応スル兵力トス
後方ハアマリ推進セス 概ネ永定河、白河ノ線ヨリ遠ク 前進セサル場合ヲ 基礎トス」
として検討した。
八日の案では、関東軍から独立混成旅団二、飛行中隊四、鉄道大隊、自動車中隊等を、
朝鮮軍から歩兵四大隊基幹の混成部隊、内地から飛行中隊一六、野戦重砲兵旅団、
山砲兵聯隊、戦車大隊等の腹案であった。しかし、第三課としては、
事件の早期現地解決に疑問を抱いていたことや武藤課長が武力行使も
やむをえないのではないかとの積極的意図を有していたので、
一夜の検討により所要兵力量は増大した。
すなわち、前記関東軍の部隊は変わらず、朝鮮軍からは一コ師団、
内地から三コ師団をもって平津地方の中国軍を駆逐、
状況により山東方面に二コ師団を充当する腹案であり、
中・南支には派兵しないという強い考えであった。
航空兵力については、作戦班長寺田済一中佐(28期)の強い意見により、なるべく
強大な兵力をもって一挙に敵航空の撃滅を図るという考えで兵力量が算定された。
この 「北支時局処理要領」 に連帯を求められた第二課は、兵力の派遣に強く
反対していたので相当の問題があったが、ついにこれに同意した。
第三課はまた陸軍省軍務、軍事両課とも検討し同意を得た。しかし文面はともかく
として、そのねらいや解釈については硬軟柔剛が対立し甲論乙駁の論争があった。
この討議の際、田中軍事課長は 「この際徹底的に禍根を芟除 (さんじょ) するため、
梅津・何応欽協定を第二九軍に適用するか、または永定河を去る二〇支里の地区に
支那軍を退ける」という意見、つまり満州国に隣接して緩衝地帯を作ることを主張した。
武藤作戦課長も同様の希望を有していた。
これに対し柴山軍務課長は、極めて局限した小範囲の条件を主張し 「この際領土的
もしくは満州国の拡張というような意見は持つべきでない」 と主張している。》
注 「平津地方」 とは北京・天津地方の事。
当時、中国の首都は南京だったので、北京は北平とされていた。
そこで北平・天津地方 略して 平津地方 となる。
芟除 (さんじょ) : 刈り取り 除く こと
156〜157p
作戦班の大部の者は、八日夜、第一部長の指示により参謀本部に泊り込んで、
事件に緊急対処できる態勢で待機していたが、
九日早朝に次のような第三課案 「北支時局処理要領」 を作成した。
方 針
事件ヲ努メテ 平津地方ニ限定シ 速 (すみやか) ニ同地方ヲ 確保シ 之カ 安定ヲ企図ス
要 領
一 事件不拡大ノ方針ヲ以テ進ムモ 支那側ニシテ我軍ニ対シ 挑戦的態度ニ出ツルニ
於テハ 支那駐屯軍ニ 所要ノ兵力ヲ増加シ 我ニ敵対スル支那軍ヲ
平津方面ヨリ駆逐シ 北支那ノ安定ヲ企図ス
外交交渉亦此ノ方針ニ準拠ス
二 若シ抗日実力行為カ 中南支ニ波及スルコトアルモ 陸軍ノ出兵ヲ行ハサルヲ
主義トス 但シ所要ニ応シ 山東方面ニ出兵シ 居留民ヲ保護シ我権益ヲ確保ス
これは八日の 「時局処理要綱」 案とほとんど同文で、若干の字句を修正した
ものである。しかし所要兵力量は異なる。作戦班は
「北支ニ在ル 第二九軍 並 (ならび) ニ中央軍ノ北上スル場合 之ニ対応スル兵力トス
後方ハアマリ推進セス 概ネ永定河、白河ノ線ヨリ遠ク 前進セサル場合ヲ 基礎トス」
として検討した。
八日の案では、関東軍から独立混成旅団二、飛行中隊四、鉄道大隊、自動車中隊等を、
朝鮮軍から歩兵四大隊基幹の混成部隊、内地から飛行中隊一六、野戦重砲兵旅団、
山砲兵聯隊、戦車大隊等の腹案であった。しかし、第三課としては、
事件の早期現地解決に疑問を抱いていたことや武藤課長が武力行使も
やむをえないのではないかとの積極的意図を有していたので、
一夜の検討により所要兵力量は増大した。
すなわち、前記関東軍の部隊は変わらず、朝鮮軍からは一コ師団、
内地から三コ師団をもって平津地方の中国軍を駆逐、
状況により山東方面に二コ師団を充当する腹案であり、
中・南支には派兵しないという強い考えであった。
航空兵力については、作戦班長寺田済一中佐(28期)の強い意見により、なるべく
強大な兵力をもって一挙に敵航空の撃滅を図るという考えで兵力量が算定された。
この 「北支時局処理要領」 に連帯を求められた第二課は、兵力の派遣に強く
反対していたので相当の問題があったが、ついにこれに同意した。
第三課はまた陸軍省軍務、軍事両課とも検討し同意を得た。しかし文面はともかく
として、そのねらいや解釈については硬軟柔剛が対立し甲論乙駁の論争があった。
この討議の際、田中軍事課長は 「この際徹底的に禍根を芟除 (さんじょ) するため、
梅津・何応欽協定を第二九軍に適用するか、または永定河を去る二〇支里の地区に
支那軍を退ける」という意見、つまり満州国に隣接して緩衝地帯を作ることを主張した。
武藤作戦課長も同様の希望を有していた。
これに対し柴山軍務課長は、極めて局限した小範囲の条件を主張し 「この際領土的
もしくは満州国の拡張というような意見は持つべきでない」 と主張している。》
注 「平津地方」 とは北京・天津地方の事。
当時、中国の首都は南京だったので、北京は北平とされていた。
そこで北平・天津地方 略して 平津地方 となる。
芟除 (さんじょ) : 刈り取り 除く こと
これは メッセージ 536 (kireigotowadame さん)への返信です.