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Re: トウガラシ消費量と国民性

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2005/11/17 21:26 投稿番号: [3110 / 7270]
>タイと性格上の共通点はなにかあるのかなあ・・・

まったくないですね。(笑)
タイにはトウガラシの刺激をも退ける英知があるようです。
根本的に、韓国とは歴史も国民性も違い過ぎます。

イギリスが、インド、マレー半島、ミャンマー(ビルマ)を植民地にしていく。
一方、フランスはベトナム、カンボジア、ラオスを植民地にしていった時代、タイは・・・。
http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/asia/column/saiyuki/archive/news/2005/20050204org00m030045000c.html
>>英仏に挟まれるという、なんとも息の詰まるような政治環境の19世紀後半にチャクリ王朝の王様だったのが、チュラロンコン王(1853年〜1910年)でした。在位は、1868年〜1910年。ということは、15歳で国王になっているわけですから、未成年の王様にとって、この政治状況はしんどかったことでありましょう。しかし、チュラロンコン王は頑張った。カンボジアに持っていたタイの領土をフランスに譲渡するかわりに、フランス軍はメコン川から西には入ってこないことを確約させた。あわせて、英国にもメコン川の東に進出しないことを約束させたんです。その代わりに、タイの独立を守った。英国とフランスの双方の要求を仔細に検討して、タイのメンツである独立を守るような道を探り、実現したのであります。

「世界軍事学講座」松井茂著より抜粋。
『   七〇年代、南ベトナム、カンボジア、ラオスが共産化され、タイはメコン河を隔てるのみで、共産圏と接することになった。
  このメコン河に沿った東北タイは、タイのなかでも開発の遅れた貧乏な農村地帯であった。そこへ、首都バンコクなどの都市部から、社会主義に燃えた学生たちが大挙して乗り込み、農村に組織を張り、農民を味方にして、農村ゲリラを始めた。
  当初、タイ社会を動揺させたが、プミポン国王は英邁な君主であった。同国王は、ゲリラの学生に純真で知能が高く、本来ならタイの将来を担うべき人材が多いことを知っていた。そこで、学生たちに、「過去は問わない。帰順せよ」と呼びかけた。一方、学生たちも大きなジレンマに直面していた。貧しい農民たちに、マルクス・レーニン主義を説けば、直ちに応じると思っていたのに、一部の若者を除いて、同調してくれない。
  自分たちの世間知らずを、身を以って悟った学生たちは、「もう一度、大学に戻って勉強し直そう」と、ぼつぼつ帰順し出した。当初は、帰順の呼びかけを、罠だと思っていた多くの学生たちも、帰順者たちが罰せられず、大学へ復学して、ちゃんと学んでいることを知ると、争って帰順するようになった。

Re: トウガラシ消費量と国民性

投稿者: sampom337 投稿日時: 2005/11/17 02:37 投稿番号: [3109 / 7270]
10年以上も前の話ですが、草サッカーの試合で
タイ人のチームと対戦した事がありました。

サッカーの特性上、激しいぶつかりあい、罵りあい(?)がありましたが、
試合後は、笑顔で「お疲れ様」、「またやろうね」といった
感じでした。

まあスポーツですから当然ですが、さわやかな人達でした。

Re: トウガラシ消費量と国民性

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2005/11/17 00:28 投稿番号: [3108 / 7270]
>あと、タイ料理は確かに辛いものも多いのですが。
>日本人でも判るくらい、味わいと薫りが鮮烈で、風味は豊かです。

丁度、以下の記事を読んでおりました。orz

新西遊記:第41回   新タイ憂記6   食在タイ
http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/asia/column/saiyuki/archive/news/2003/20031226org00m030999000c.html
>>さて、ではタイメシはなぜうまいのか。まず考えられるのは、天然調味料が豊富なことだ。レモングラスや、パセリ、セージをよく使う。カレー系のスパイスや唐辛子は必需品である。屋台にはだいたい、こうした調味料が一つずつ小さなポットに入れられて、ズラッと並んでる。これを、好きなだけ入れてから食べるのだ。

>>しかし、タイメシが本当にうまい(と感じる)理由は、味の素ではないだろうか。タイ人はだいたい何にでも、この味の素を振りかける。
>>トムヤムクンはもとより、チャーハンにも掛けるくらいだ。チャーハンが真っ白になるくらい「味の素」を掛けて、それから真っ赤になるくらい唐辛子を掛けて、でおもむろにかき混ぜて食べるタイ人を私は、チェンマイの屋台で見たことがある。


おまけ。唐辛子に関する日本の諺

「汁食い看経唐辛子熱湯順礼長左衛門」

のんびりと長い物のたとえ。また、ばかばかしいことのたとえ。越前地方の諺。(出典、「俚言集覧」)

汁食(く)いとは、何杯も汁をお替りすること。食事時間が長い。
看経(かんきん)とは、経文を黙読すること。
唐辛子熱湯(あつゆ)とは、あかぎれやしもやけの民間療法として、唐辛子を刻んだ熱湯に長時間浸した。
順礼(じゅんれい)とは、札番所や聖地を回り拝礼すること。何日もかかる。
長左衛門(ちょうざえもん)は名前で、単なる語呂合わせ。

Re: トウガラシ消費量と国民性

投稿者: hail_mary_0 投稿日時: 2005/11/16 23:45 投稿番号: [3107 / 7270]
こんばんわ。

>なにかと「苛」な印象を受けるご近所の国ですが、タイと性格上の共通点はなにかあるのかなあ・・・

読んだだけですが。
タイの人はけっこう「ケンチャナヨ」な所はあるそうです。
(・・でも日本人の目からだと、アジア系はたいていそう見えるかも)
ただ怒ったり、大声をあげる行為は馬鹿にされるとか・・。

あと、タイ料理は確かに辛いものも多いのですが。
日本人でも判るくらい、味わいと薫りが鮮烈で、風味は豊かです。
(↑   辛さが先に立ち過ぎる食べ物は、日本人の弱い=繊細な舌では判別しにくい。)

Re: >>平安貴族の日記

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2005/11/16 22:56 投稿番号: [3106 / 7270]
>ということも他家でしっかり日記に記録して・・・(あてずっぽうです。笑)

笑いごとじゃなーい。(笑)
今で言えば、決裁書類の承認印を持ちまわる順番を間違えて、係長より先に部長に書類を持っていったりするような失態です。
そら、もう、子孫のためにと必死で記録したことでしょう。

>当時の貴族政治は「儀式=政治(政務?)」だったのかもしれませんね。

政治イベントに伴う手続きなどが、形骸化して儀式のようになってしまったということでしょうね。
女真族の侵攻である「刀伊の入寇」を報告する文書が、天皇に対する奏状の形式であるべきなのに、太政官への報告書になっているのはけしからん、なんて言う公卿もいたくらいですし。

>「雅」な儀式・行事に忙殺されて武士の平家は滅亡(?)

kazahayataroさんが、

「高麗王朝で、崔氏の武臣政権が失敗に終わった(終わらざるを得なかった)のが、歴史を大きく分けたと思います。」

とおっしゃるように、同時期の武臣政権の違い(高麗は失敗、日本は平家のあと鎌倉幕府が成立)が一つの分岐点だったのかもしれませんね。

Re: >>平安貴族の日記

投稿者: kazahayataro 投稿日時: 2005/11/16 12:56 投稿番号: [3105 / 7270]
>貴族政治が続いていたら日本の政治体質も大陸や半島と同様の弊害を抱えることになったかもしれませんね。

そうですね。
高麗王朝で、崔氏の武臣政権が失敗に終わった(終わらざるを得なかった)のが、歴史を大きく分けたと思います。

>>平安貴族の日記

投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2005/11/16 02:01 投稿番号: [3104 / 7270]
  >たかが儀式と言う勿れ。

  >儀式の手順を間違えまくって物笑いになり、干されてしまった右大臣さえいますから。

  ということも他家でしっかり日記に記録して・・・(あてずっぽうです。笑)

  当時の貴族政治は「儀式=政治(政務?)」だったのかもしれませんね。

  「雅」な儀式・行事に忙殺されて武士の平家は滅亡(?)

   (でもって、源氏の大将は宮中から遠い鎌倉に幕府を置いたとか)

  貴族政治が続いていたら日本の政治体質も大陸や半島と同様の弊害を抱えることになったかもしれませんね。


トウガラシ消費量と国民性

投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2005/11/16 01:56 投稿番号: [3103 / 7270]

 

  一人当たりの消費量ではタイもかなり多いけれども、「穏やかな国」といわれています。

  なにかと「苛」な印象を受けるご近所の国ですが、タイと性格上の共通点はなにかあるのかなあ・・・

  (あったら、うれしいような、かなしいような・・・w)

>平安貴族の日記

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2005/11/13 19:19 投稿番号: [3102 / 7270]
トピズレですが、上げを兼ねて。

>平安貴族が日記で行事記録などを克明に書いていたのは、

>そういった記録は財産的価値になったからときいています。
  (宮中での身分の確保に威力があったとか)

当時の日記は、今のものと違い、個人のプライバシーな記述ではなく、公的な面の強い一種の記録ですね。
儀式尽くめの日常ですので、儀式・行事の手順や進行を記録したレポートは、子孫にとって価値のあるマニュアルとなったわけです。
たかが儀式と言う勿れ。儀式の手順を間違えまくって物笑いになり、干されてしまった右大臣さえいますから。

yusuraさんへ

投稿者: kuuboakagi00 投稿日時: 2005/11/09 09:13 投稿番号: [3101 / 7270]
例の白馬事件の件ですが、近々もう一度インドネシアの専門家に会って確認する予定です。会合の予定がのびのびになっています。

インドネシアの専門家といっても、向こうに20年ほど商社員として滞在し、日本でインドネシア語法廷通訳の辞書を出すほどインドネシア語のできる人でも、「八重汐」の歌の話は知らなかったですし、ある一定の分野のすべての詳細をカバーする専門家というのはいないですね。だからこそサブ(細部)専門家が必要となるのですが。

そんなに怒るなよ(笑)

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2005/11/09 08:07 投稿番号: [3100 / 7270]
僕はそんな下らない嘘はつかないぜ。そもそも掲示板で意識的に嘘を
書いたという記憶が無いよ。

キミが挙げたのは衣替え以前の姿だよね。服装を変えただけだぜ。
Ver.1 の存続時間は3時間程度しか無いのさ。いくらキミが熱心な
ユスラフェチだろうが、目にする機会は無かったと思うぜ(笑)

Re: >「記録魔」「調べ魔」

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2005/11/09 08:05 投稿番号: [3099 / 7270]
>そういった記録は財産的価値になったからときいています。
>   (宮中での身分の確保に威力があったとか)

なるほど。業績記録みたいなもんでしょうか。

海侵、海退の件ですが、言われてみれば確かにそうですね。各年代での
海岸線の変遷はかなり正確に明らかになっているはずですので、そういう
情報からの気候変動についての研究も行われてそうですね。

どんどんトピズレしていきます -- ;

>ところで、やっと初雪が降りましたね。(「路面凍結」は憂鬱ですが)

今週末辺りがタイヤの履き替え時でしょうか。
毎年ながら、ついに来たなあ、って感じです。

Re: >「記録魔」「調べ魔」

投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2005/11/09 06:22 投稿番号: [3098 / 7270]
  >中世武家社会の中で戦果と
   褒賞のシステムが確立


  平安貴族が日記で行事記録などを克明に書いていたのは、

  そういった記録は財産的価値になったからときいています。
  (宮中での身分の確保に威力があったとか)

  >鎌倉鎌倉時代は温暖化が叫ばれる

  >昨今よりも更に温暖だったらしいです


   海岸線も今よりは内陸にあったことになりますね。

  となるとその後の寒冷化で海退が起きたら使えなくなった港があったと思われますが、海運で盛っていた地域などは大打撃だったでしょう。

  で、朝鮮半島でも気候の変化で使えなくなった港があれば、国の盛衰になにか影響が出ていたりしそうな気がします。
  (海侵、海退があったと仮定しての話ですが)


  ところで、やっと初雪が降りましたね。(「路面凍結」は憂鬱ですが)

Re: >歴史の暗部

投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2005/11/09 05:43 投稿番号: [3097 / 7270]
>今では赤報隊が正当に評価されていますね。



  ↓ここの記述を読んだだけですが、226事件の青年将校となにか思想的に共通するところがありそうな気がしました。

http://www2.ocn.ne.jp/~aozora/ronbun/yoakemae/node9.html


  ↓鈴木氏のサイトも久しぶりにのぞいて見ました
   (岡本喜八作品「赤毛」、赤報隊が題材だったそうです)

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2207/2002/shuchou0225.html

________________________________

  〜略〜

  岡本監督はこの映画について、こんなことを言っている。

  〈「赤毛」は、私には「日本の一番長い日」につながる作品です。太平洋戦争は何故はじまり、何故あのような状態の終戦を迎えたのか。それは結局、明治維新にまでさかのぼってくるのではないか。明治維新政府のスタートは、岩倉具視が錦旗を頂いて、薩長連合勢力を強力な権威としたところからはじまっています〉(「キネマ旬報」69年10月下旬号

__________________________________

  「赤毛」、積録ビデオに入ってたような・・・すぐ観ないとだめですね。

Re: >参考に

投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2005/11/09 05:04 投稿番号: [3096 / 7270]
>現代の価値観、理想論から批判的に見るというのは、どうかと思います。

  数字などの資料が多いところはいいかなと思っています。

  ただ、情緒的な表現が強いのはどうも・・・「感情移入」を強要されてるようで用心してしまいます。


>奇兵隊、長州藩批判派ですか。(笑)

  まだ批判派になれるほどには知っていることが乏しすぎますですよ。

  戊辰戦争については屯田兵との関連で会津はそうとうに大変だったんだなぁと「昔話」のレベルでのイメージはわきますが、西南戦争に関しては殆どだめです。
(屯田兵は鹿児島からも入植しているのですが、西南戦争についての話が伝わってないのはなぜなのかは気になるところです)

  戊辰戦争での「賊軍」の扱われかたと西南戦争でのそれと違いがあるのかないのか知らないことだらけで(不勉強でして)
  もし、明らかに変だと感じる扱いの差があれば、批判するかもしれません。


>幕府が倒れ、残額について〜
>にそれぞれ78万5千ドルを支払ったが〜

  倒れた政府の「借金」を返した「革命政府」って他にもあるのでしょうか?
  当時は列強の脅威がそれくらい大きかったということなのか、

  日本が契約というものについて生真面目だったのか・・(現在も真面目な国と感じます)

 
  ところで、№3094   kazahayataroさんの投稿、

  「日本のように文書が残っているのは西欧くらいなもので、どうも世界全体で
みれば、むしろ日本や西欧の方が例外のようです」

   これも日本と西欧が大文明の「辺境」にあったからかななどと思う「文明の生態史観」かぶれの兎亀です(笑)

バージョン1はコレ

投稿者: yusura_sbdk 投稿日時: 2005/11/08 21:23 投稿番号: [3095 / 7270]
絡まれるのが嫌で変えたくせに嘘を書くな。
お前ってホント感じ悪いよな。

Re: >「記録魔」「調べ魔」

投稿者: kazahayataro 投稿日時: 2005/11/08 01:38 投稿番号: [3094 / 7270]
伊原弘『中国開封の生活と歳事』(ISBN:4634641100)P.204 によれば、中国では
いわゆる「地方(じかた)文書」特に日記の類が欠乏していて、中国史研究では、
「社会史」というべき分野の発展が阻害されている由。

日本のように文書が残っているのは西欧くらいなもので、どうも世界全体で
みれば、むしろ日本や西欧の方が例外のようです。

Re: >「記録魔」「調べ魔」

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2005/11/07 08:36 投稿番号: [3093 / 7270]
>上はお公家さんから下は商家の隠居、地方の豪農まで各時代各層の日記や記録が残っていて各種の研究考証に利用されてます。

その話で思い出しましたが、平安時代以降毎年の、京都における桜の開花日
を調べた研究者がNHKラジオで対談していたのを聞いたことがあります。
全ての年に渡って、誰かしらが日記に記録を残しているのだそうで、こんな
資料が1000年以上の年月に渡って残っているのは世界中でも京都だけらしい
です。

で、その時の話題は温暖化に関する話で、鎌倉時代は温暖化が叫ばれる昨今
よりも更に温暖だったらしいです。今の僕たちが信じている「二酸化炭素に
よる温暖化の進行」というのは壮大な神話かもしれませんね。


投稿制限だ(涙)

>精神的にどうにかなってしまっています

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2005/11/07 08:10 投稿番号: [3092 / 7270]
確かにそんな気がしますねえ。ミッドウェーの敗戦で講和のタイミングが
全く見えなくなり、その後は大局的な戦略(講和に向けてのグラウンド
デザイン)が無いまま作戦を立てていたような感じです。

先日、「あの戦争は何だったのか」という本を読んだのですが、

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4106101254/qid=1131318137/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/249-6353515-3776303

この本でも、「昭和19年という年は霧に包まれているようによく見えない」
というような表現がされていました。

で、この本、書評を見ると意外と評価が高いですね。僕の感想としては、
一番興味が有る「どうして対米戦に至ったのか」あたりの分析に不満が残り
ます。詳しくは書きませんが、海軍が対米英戦を望んでいたからというよ
うな内容でした。何だかなあ、という感じです。「コミンテルンの陰謀説」
の方がよほど説得力が有る。

mary ちゃん、mary ちゃん、

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2005/11/07 07:58 投稿番号: [3091 / 7270]
そのアバター月がニセモノでっせ(笑)

>自分としては、ゆすら先生のアバターがなくなって寂しく思っておりましたので

実はそのアバター、バージョン2なんですよ。バージョン1は教育カテで
無理矢理作らされたものなんですが、根が真面目な性格なもので自分と
そっくりに作ってしまい、作成を強要した当人の酔いが覚めるくらいの
見事な出来栄えでした。

で、ここまで似てるのではこれは個人情報に属するんじゃないか、と思い
直し、似てないように作り直したのがそのアバターです。

え”・・・

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2005/11/07 07:49 投稿番号: [3090 / 7270]
>お帰りなさいませ、ユスラさん。(って言っていいんですよね)

そんなにご無沙汰してましたっけ(大汗)
実は掲示板から漸次撤収を考えているのですが、ここは例外の予定です。

>あの時点では、「戦果を厳密に管理する」以前に「戦果を厳密に確認する」能力が欠けていた、というのもあるでしょうね。

連合軍側は、戦果確認を専門とする航空機を編隊に追従させていたらしい
ですね。「石油の一滴は血の一滴」の帝国海軍には有り得ない航空機の
使用法だと思います。

でもなあ、石油が最も消費されるのは、撃沈された瞬間なんだよなあ、

なんて後知恵を考えながら戦記を読んだりしてますが。

>『大英図書館』

投稿者: kuuboakagi00 投稿日時: 2005/11/07 03:18 投稿番号: [3089 / 7270]
図書館ではなくて、博物館のはなしです。

ロンドン人も大英博物館の場所くらいは知っているかもしれないが、ロンドン博物館の場所など知りはしない。イギリス婦人に、ロンドン博物館のことを聞いたら、それがどこにあるかなどしらないし、もちろん行ったこともないとの返事・・・
英国人は、珍しいものを集めて保存するのが好きだ。英国人はこのような偉大な博物館を誇りにおもっているけど、特別に身近に感じているわけではない。大英博物館にいってみなさい。英国人はほとんどいない。外国人ばかりだ・・・(THEがよく分かる本)

図書館もそうかもしれません。本を集めることと、それを読んで勉強するのは別のことかも。イギリス人はあまり勉強しない。夏目漱石もそれでノイローゼになった。下宿の婆さんに、なんでここに来たと聞かれ、イギリス文学、シェークスピアを勉強するため、といったところ、シェークスピアってなんけー、と聞かれうつ病になったそうですが。

記録することが好きかどうかの話からは離れてしまいましたが。

Re: >「記録魔」「調べ魔」

投稿者: qitiandashen03 投稿日時: 2005/11/07 02:44 投稿番号: [3088 / 7270]
日本人がせっせと日記を書くのは持って産まれた習癖でしょうか。
上はお公家さんから下は商家の隠居、地方の豪農まで各時代各層の日記や記録が残っていて各種の研究考証に利用されてます。
ところがこの日本人の習癖に目をつけたのが米軍で、戦死者の手帳を集めると中に事細かに日記をつけているのがあって部隊の行動、補給状況、兵隊の戦意等々が判ったようです。この点米軍は一般兵士が日記を所持するのは禁止だったようです。

Re: >参考に

投稿者: hail_mary_0 投稿日時: 2005/11/07 00:53 投稿番号: [3087 / 7270]
>ヲタク度で言えば、ワタシは欧米人の方が、日本人以上ではないかと、常々思ってきました。

求道係数で言えば、凄まじいものがありますね。
アメさんとか欧州さん。

ただ数の問題で、日本人は総ヲタクというか・・。
ヲタク心を宿した方のパーセンテージが高いと思うのです。
数寄モノとでもいいましょうか。

ユスラさん

投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2005/11/07 00:39 投稿番号: [3086 / 7270]
お帰りなさいませ。

>で、ちょっと話がずれますが、この辺の「戦果を厳密に管理する」という
習慣を厳密に守っていれば、台湾沖海戦での戦果過大評価もフィリピン沖
海戦での惨敗も無かったかもしれません。

あれはもう、つまりは精神的にどうにかなってしまっています。
もう、「希望的観測」なんですよね。あれは。
もともと、日本の「大本営発表」は、海外でも信頼されていたぐらい、正確なものでした。
やがて、ミッドウェーから、「事実は知っているが隠蔽」し出し、次に、ブーゲンビル島沖航空戦、ギルバート諸島沖航空戦あたりから、「事実を把握せず、帰還搭乗員の報告を鵜呑み」となり、やがて台湾沖航空戦でドカーンと空騒ぎとなります。
しかし、台湾沖の時でも、中枢部ではおおよそは把握できていたみたいで、「撃沈したとしてもせいぜい2隻程度、それも空母かどうかは怪しい」という、ほぼ正確な憶測が出来ていました。

やはり、精神状態が、普通ではなかったのでは、と。

実施部隊の指揮官からの報告を疑うと、「何だと? それじゃあ、こっちの報告が間違っている事を証明して見せろ。もしそっちの言うとおりなら、オレは腹を切ってやる」と、半ば脅しとも取れる「報告」が多数なされていたようです。(元参謀によれば。)

昭和19年の後半からは、やはり「異常」な状態になっていたと、私には思えます。

Re: >参考に

投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2005/11/07 00:30 投稿番号: [3085 / 7270]
ヲタク度で言えば、ワタシは欧米人の方が、日本人以上ではないかと、常々思ってきました。

以前、2、3年間、アメリカの、日本の軍用機専門のサイトに参加していましたが、その調査の徹底ぶりたるや、日本人でもここまで調べるのは戦史研究家ぐらいではないかと思ったぐらいです。

まあ確かに、アメリカですと、ネイヴァル・ヒストリカル・センターのサイトとか、調査に便利なツールもありはしますけど。

Re: 相変わらずいや〜な感じの私

投稿者: hail_mary_0 投稿日時: 2005/11/07 00:30 投稿番号: [3084 / 7270]
>これからも嫌な感じオーラを出しまくります。

・・・なンですか?(笑)

自分としては、ゆすら先生のアバターがなくなって寂しく思っておりましたので。
復活させて下さって嬉しく思います。

Re: >参考に

投稿者: hail_mary_0 投稿日時: 2005/11/07 00:26 投稿番号: [3083 / 7270]
>日本人は「記録魔」「調べ魔」が多いんでしょうか?

>ここまで調べ上げる「やる気」はどこから来るのかなあ・・と思いますです。

日本人の多くが、広義の意味での『ヲタク』なのでは・・と思います。orz

記録魔・博覧強記というと、とりあえずミーハーに『大英図書館』をイメージいたしますが・・。
・・島国のシトって、ナンカシラ正確に記録するのが好きなんかしらん・・と。
英国にしても偽悪的というか、自分に都合の悪い資料でも比較的変造せずに記録するのを旨としている気が。

相変わらずいや〜な感じの私

投稿者: yusura_sbdk 投稿日時: 2005/11/06 23:24 投稿番号: [3082 / 7270]
ヴスラにからかわれて消したアバター復活させました。
これからも嫌な感じオーラを出しまくります。

Re: >「記録魔」「調べ魔」

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2005/11/06 20:45 投稿番号: [3081 / 7270]
お帰りなさいませ、ユスラさん。(って言っていいんですよね)

>調べようにも記録が無いことにはどうしようも無いですから、少なくとも
記録を充分に残していたということですよね。中世武家社会の中で戦果と
褒賞のシステムが確立していたのが大きいのではないかと思います。

その基本となる識字率の高さというのもあるでしょうね。

1463年備中国新見荘で殺害された東寺代官の世話をしていた、現地荘官の妹が作成して東寺に送った遺品目録(漢字ひらがな交じり)や、戦国時代天正年間に島津家重臣上井覚兼がつけていた日記(和風漢文)などのように、記録をする能力を持った階層が広かったというのもあるんですね。

>で、ちょっと話がずれますが、この辺の「戦果を厳密に管理する」という
習慣を厳密に守っていれば、台湾沖海戦での戦果過大評価もフィリピン沖
海戦での惨敗も無かったかもしれません。

あの時点では、「戦果を厳密に管理する」以前に「戦果を厳密に確認する」能力が欠けていた、というのもあるでしょうね。(それらをひっくるめて『管理』という言い方をされているとおもいますが。さらにずれますが、ドイツ空軍で敵艦船の攻撃結果がきちんと確認できないことに業を煮やしたゲーリング司令官が、戦果確認のため新しいカメラの開発をさせた、という話もあるくらい、裸眼による戦果確認は難しかったようです。)

>「記録魔」「調べ魔」

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2005/11/06 19:51 投稿番号: [3080 / 7270]
>日本人は「記録魔」「調べ魔」が多いんでしょうか?

調べようにも記録が無いことにはどうしようも無いですから、少なくとも
記録を充分に残していたということですよね。中世武家社会の中で戦果と
褒賞のシステムが確立していたのが大きいのではないかと思います。

海外遠征である朝鮮出兵でも、戦果の証拠として耳を持ち帰ったりして
ましたし、その辺の習慣が近世まで残ってたんじゃないでしょうか。

で、ちょっと話がずれますが、この辺の「戦果を厳密に管理する」という
習慣を厳密に守っていれば、台湾沖海戦での戦果過大評価もフィリピン沖
海戦での惨敗も無かったかもしれません。

一水会の

投稿者: kuuboakagi00 投稿日時: 2005/11/06 18:10 投稿番号: [3079 / 7270]
鈴木に聞いてみるといいだろう。

赤報隊の容疑者にされたということを嬉しそうに書いている。

>至極当たり前のこと

投稿者: kuuboakagi00 投稿日時: 2005/11/06 18:07 投稿番号: [3078 / 7270]
この部分が暗部・黒点であることはそれでいいんですよね。
それを否定する日本人は「ほとんど」いない。

白壁の黒点を見て、この壁は黒いというのがサヨというのは、こっちがよく言っていました。

Re: >歴史の暗部

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2005/11/06 14:21 投稿番号: [3077 / 7270]
>光の当る暗部というのは形容の矛盾ですが。

ご指摘の通りですね。(笑)

>最近では歴史修正学批判に批判の動きがあり、「暗部」に光をあてるな、などという運動に反対の運動が起きているのはいいことです。

少し抽象的なので、私の頭脳では理解できない所がありますが(笑)、隠すべき部分や恥部など、日本史にはありませんね。

奇兵隊の場合、最下級身分者の部隊を編成し犠牲者も出たが、明治になったら身分制を改めてやると約束したから奇兵隊に参加したのに、それも反故にされたという抗議があるらしく、それが学校の授業の教材に使用されているらしいのです。
ただ当時の身分制では仕方のない所で、明治維新には猥雑な部分もあり、夢のような市民革命でなかった証明の一つだという至極当たり前のことなのですが。
私としては、あっそうか、そういう一面もあったのだなという感想です。
しかし、その一部を全部かのように捉える、また、現在までイデオロギー的な争いのネタになっている点に、少し不愉快を感じております。
この方面の知識が余りありませんので、私の誤解かも知れませんが。

昔赤報隊と言う右翼が活動してた

投稿者: kiyoakl 投稿日時: 2005/11/06 13:44 投稿番号: [3076 / 7270]
赤報隊は今どうしてるのかな。

表現訂正

投稿者: kuuboakagi00 投稿日時: 2005/11/06 00:30 投稿番号: [3075 / 7270]
反歴史修正学の動き→歴史修正学批判に批判の動き

>歴史の暗部

投稿者: kuuboakagi00 投稿日時: 2005/11/06 00:18 投稿番号: [3074 / 7270]
新政府による赤報隊粛清事件などもその1つでしょうが、今では赤報隊が正当に評価されていますね。

日本では歴史の暗部などと称されるものはほとんど日の目にさらされて、批判の機会は提供されていると思います。光の当る暗部というのは形容の矛盾ですが。むしろ問題は、ある種の歴史の暗部と言われるものに光を当てようとすると、歴史修正学派などという批判がなされることです。最近では反歴史修正学の動きがあり、「暗部」に光をあてるな、などという運動に反対の運動が起きているのはいいことです。

Re: >参考に

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2005/11/05 23:42 投稿番号: [3073 / 7270]
>日本人は「記録魔」「調べ魔」が多いんでしょうか?
>ここまで調べ上げる「やる気」はどこから来るのかなあ・・と思いますです。

日本には身近な所に膨大な史跡や史料が残されていて、「山があるから登りたくなる」研究者がワンサカいるからでしょう。
何処の市町村に行っても、歴史記念館や資料館というのがあって、研究者が沢山います。
かの国に比較して、我々が歴史の実像を簡単に知ることができるのは、そうした文化的な豊かさですね。

歴史の暗部を知る必要はありますが、「第二奇兵隊」サイトのように、現代の価値観、理想論から批判的に見るというのは、どうかと思います。
かの国のこうあって欲しい民族史のように、虚像が暴走する危険があります。

第七次韓国・中学歴史教科書を批評する
http://toron.pepper.jp/jp/text/index.html

あっ、兎亀さんは奇兵隊、長州藩批判派ですか。(笑)
それでは次のサイトを紹介します。
戊辰戦争百話
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/6618/index0.html

>当時の「帝国主義」ってのは国が海賊やってたんですね。

先の四カ国艦隊との戦争でも、300万ドルの償金を「幕府」が支払うことになりました。
償金の内容は、連合軍の軍費と下関市街を焼かなかったことというのですから、お笑いです。
しかし、150万ドル支払ったところで、幕府が倒れ、残額について岩倉使節団が交渉し、明治7年イギリスに64万5千ドル、米・仏・蘭にそれぞれ78万5千ドルを支払ったが、アメリカは明治16年に全額返還しています。

>参考に

投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2005/11/04 02:18 投稿番号: [3072 / 7270]
>やる気さえあれば互角の戦い方ができるように思います。

  地の利もやる気がなければ有効に使えませんですものね。

  ところでご紹介の資料の「奇兵隊」で思い出したんですけども、

  日本人は「記録魔」「調べ魔」が多いんでしょうか?

  ここまで調べ上げる「やる気」はどこから来るのかなあ・・と思いますです。

  ↓「第二奇兵隊の悲劇」(ここまで細部にわたっといると私の頭じゃ追いつきませんですー苦笑)

http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/bakumatsu/bakansenso/bakan2.htm

http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/index.htm


>連合軍の大半は戦利品の長州藩の大砲の運び〜

  ズレますが、当時の「帝国主義」ってのは国が海賊やってたんですね。
(そういえば、大航海時代のイギリスなんかは「海賊」で勢力拡大してたような記憶が・・)

Re: >仏軍との戦い

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2005/11/03 12:54 投稿番号: [3071 / 7270]
東亜さん、ご指摘ありがとうございます。

>江華島というのは、海から見れば前線基地ですが、北方から見れば避難所に相当するんですよ。

なるほど。
元や清の攻撃を受けたとき、江華島に篭るというのはそういう意味だったんですね。

>そう考えると、戦闘期間の割には、守備側より不利なはずの攻撃側の損害が多くないと思われることや(力攻めは拙劣ですし)、戦闘自体が多くなかったのではないかということ、王室財産が略奪されたというのも一応納得はいくような気がします。

同意です。
艦隊の炸裂弾を打ち込まれ、近代式ライフル銃の猛射を浴びれば、府城から脱兎のごとく逃げ出して当然かも知れませんね。
でも、そうすると、仏軍の被害が大きすぎるように思います。
やはり近接戦になると、武器の優劣が小さくなるため仏軍にもそれなりの損害があったということか、朝鮮側の記録が過大なのか。
いま少し分かりませんね。

というところで、兎亀さんから、仏軍の被害は、「戦死」ではなく、「死者」だから、「戦病死」も含まれるのではないかという推理。
これは、充分に考えられますね。

>>人々は小井戸あるいは溜め水を用いるのみで、本年のように旱天の時にもなお手を拱いて、ただ渇水を憂えるだけで、自ら労力して水を得る方法をする者が無い。

>>帰国する頃には、京城に行った者は半数が病人である。

別の意味ですごいですねえ。面白い資料ありがとうございます。

参考に、1864年四カ国艦隊の攻撃を受けた長州藩の二日間の戦い。
四カ国連合軍の戦略目的は、下関砲台の破壊に尽きるので、比較にはなりませんが。
一日目、午後3時40分頃、17隻の艦隊の片舷100門の砲撃開始。長州軍応戦。薄暮一部陸戦隊が上陸し、長州軍70門の大砲を破壊。長州軍戦死2名。
二日目、イギリス軍陸戦隊800、海兵・軽歩兵1200、フランス軍海兵・水兵・陸戦隊350、オランダ軍200、アメリカ軍海兵隊50、計2600の兵員が上陸。
対する長州軍の主力は奇兵隊など600(他に藩兵1400余がいたが、戦死傷者ゼロからみて、戦闘には参加していない)。
連合軍の大半は戦利品の長州藩の大砲の運び出し作業に当たっていたが(その辺りの住民が協力しているのはノドカです)、引き揚げを守るため連合軍の一部が街道を侵攻。それを長州軍が迎え撃って戦闘となる。
地上戦はこの戦いだけです。
諸隊のうち、奇兵隊の戦いぶりは、「街上の戦闘は尤も烈しく、彼小銃の弾丸地上に撃し砂烟を揚ぐ、真に驟雨の劇に至るが如し」
「山県少(ママ)輔は機を見て突撃し、肉弾戦を決行しようとし、槍隊を促して敵中に乱入せしめた。隊長林半七は既に重創を被り、爾余の槍兵も亦負傷して用いる能はず、遂に総督赤根武人は命じて火を陣屋に放たしめ、戦の未だ酣(たけなわ)なる時、隊兵を率いて清水越に退いた」
(英軍ジョン・T・カマフォードの日記)「我が軍の2人の兵士が矢でやられるのを見た。一人は胸を突き刺されて矢は背中から突き出ていた。敵の兵舎に近づいたとき、鎧その他の武具を見つけた。鎖の鎧は見事に出来ていて恐らく彼らのマスケット銃に対しては安全であったろうが、我々のライフル銃からの円錐型弾に対してはあまり役に立たなかった」
二日間の損害合計。長州軍戦死13、負傷27。英軍戦死8、負傷51、仏軍戦死4、負傷5というものです。
長州軍70門余りの青銅製大砲も数時間の艦砲射撃で破壊され、持ち去られたことから、完敗です。
しかし地上戦では、損害からみると、武器の優劣を越えて、やる気さえあれば互角の戦い方ができるように思います。
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