韓国軽視論←韓国人の参加、大歓迎

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

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♪在日なんかないと想像してごらん

投稿者: ikkasaamaworldcup 投稿日時: 2004/02/22 03:14 投稿番号: [8556 / 49973]

  ♪在日なんかないと想像してごらん

投稿者: tea_pickinj_nitarinov (00歳/男性/競馬場の近く)


Imagine there's no zainichi (想像してみよう、在日なんて無いこと)

                     ☆
                    /
                  /     It's easy if you try (やってみればたやすいこと)
                 /       No chon below us (我等の足元にチョンなんて無く)
                       Abobe us only sky (我等の頭上にはただ青い空が広がる)
     ∧ ∧___              Imagine Japanese people (日本人みんなで想像してみよう)
    /(,‐)   /\
  /| ̄∪∪ ̄|\/
    |         |/
     ̄ ̄ ̄ ̄
Living for Japan... (日本のために生きているんだと)

>>>韓国と琉球

投稿者: c5525jp 投稿日時: 2004/02/20 12:32 投稿番号: [8555 / 49973]
m(_ _)m

いえいえ、あっしもこのやり取りのおかげで、冊封のランクが韓国より上だったということを知ることができましたし。


























にゃみだ

>>韓国と琉球

投稿者: j_ururu_xxx 投稿日時: 2004/02/20 00:02 投稿番号: [8553 / 49973]
教えてくださって、

ありがとうございます。

ほ〜

投稿者: c5525jp 投稿日時: 2004/02/19 12:06 投稿番号: [8547 / 49973]
難治の国は、敬遠されたんですかね。

ま、琉球は守礼の門に象徴されるように、

汝二心なし、よって守礼の邦である、って頭なでなでされる優等生でしたからね。

日清戦争の際は、日本派は自警団までつくって清国派の襲撃を警戒しなければならなくなりましたしね。

止めは、日露戦争の日本の勝利ですわい。完全に臣民になりました。

>>韓国と琉球

投稿者: kusuo1 投稿日時: 2004/02/18 23:54 投稿番号: [8545 / 49973]
中国の冊ほうで韓国は琉球より下席の扱いでした。

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/02/18 22:27 投稿番号: [8544 / 49973]

>韓国と琉球

投稿者: c5525jp 投稿日時: 2004/02/17 07:37 投稿番号: [8542 / 49973]
詳しいとはいえないあっしですが、万国津梁の鐘には、

琉球国者南海勝地
而○三韓之秀叺大明
為輔車叺日域唇歯在
此ニ中間湧出之蓬莱

※○部分は文字がでにゃい(にゃみだ

琉球国は南海の勝地にして
三韓の秀をあつめ、大明をもって補車となし
日域をもって唇歯となし
この二つの中間にありて湧出する蓬莱の島なり

………‥‥‥………‥‥‥………‥‥‥………‥‥‥………‥‥‥………

冊封仲間として睦まじかったかもしれませんね。中国には気を遣いすぎるほど遣うが、韓国なら気楽に接することができる♪って感じで。

被害者根性も似ているし♪

韓国と琉球

投稿者: j_ururu_xxx 投稿日時: 2004/02/16 23:10 投稿番号: [8540 / 49973]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1834677&tid=a4ia4a6a47a4fffckdcbfma4h4z9qbfma4oc ga4ac0ada4a4a4na1a9a1a9&sid=1834677&mid=74
>小学校の時に在日韓国人の友達がいた、アッシュです。

>沖縄が琉球だった頃、韓国と琉球は兄弟のような関係だったとずいぶん前に新聞のコラムで読みました。

>今の日本もいつかそんな関係になればいいのになと思っています。

本当ですか?

>国と琉球は兄弟のような関係

詳しい方がいたら教えて下さい。

今、熱いトピ

投稿者: j_ururu_xxx 投稿日時: 2004/02/16 23:06 投稿番号: [8539 / 49973]
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どうして日本人と韓国人は仲が悪いの??
2004/ 1/22 22:29
メッセージ: 1 / 111

投稿者: sam3190123 (17歳/男性/京都府)
韓国トピを見ても相手の国の誹謗中傷がたくさん。。。あれって本当に思ってることなの??それともトピを荒らすためのネタ??ま、こんな質問しても誹謗中傷しか返ってこないだろうけど。
それはいいとして、ここでは仲良くしようよって思う人たちで話をしたいです。両国の人たちの仲の悪さに疑問を感じてる方書き込んでくださいね♪

あぶない

投稿者: age_age_man_2003 投稿日時: 2004/02/14 21:18 投稿番号: [8538 / 49973]
下がってますよ

とりあえずあげておきますね

あげ

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/02/11 21:45 投稿番号: [8537 / 49973]
あげ

マルチ

投稿者: seo_taiji1996 投稿日時: 2004/02/08 01:21 投稿番号: [8536 / 49973]
uzeeeeeeeee!!!!

煎ってよし。

あげ

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/02/08 00:03 投稿番号: [8534 / 49973]
てくださいまして有難うございますです。あい。。

動機

投稿者: j_ururu_xxx 投稿日時: 2004/02/07 18:41 投稿番号: [8533 / 49973]
> 警察の調べで、男は「28日午後、友人の見舞いに行った病院で日本語を話す男3人から暴行を受けたので、復しゅうしようとした」と、犯行の動機を明らかにした。

病院でいきなり日本人から暴行を受けるもんでしょうか?

もし本当なら、それそうとなことをしたから殴られたとか
(金品を奪おうとしてとか)・・・ならわかるけど。

この動機付けって本当のことなんでしょうか?

>男は99年に親の首を締めるなど暴行した後、精神病院に入院した経歴があり、00年にも精神分裂症で治療を受けていたことが確認された。

っていうから、きっと妄想なんでしょうけど。

u

投稿者: yamamototakeru2001 投稿日時: 2004/02/07 18:26 投稿番号: [8532 / 49973]
p

精神分裂症

投稿者: esoteric_02 投稿日時: 2004/02/04 02:02 投稿番号: [8531 / 49973]
モノホンのキ○ガイではね。「反日なんて気違い沙汰だ」と皆に思われるのがオチじゃないですか?

やはり反日の醍醐味とは、プロパガンダによって正気の人間が見せる狂気でしょう。ミューレックス氏などそんな感じでしたね。

ちょいと間が悪いのでは??

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/02/03 06:39 投稿番号: [8530 / 49973]
こう云う事があったばかりですから、、

http://japanese.joins.com/html/2004/0129/20040129204546400.html

ところでこれって、日本のニュースでやってましたっけ??

最近、さっぱりニュースを見てないもんで、、、イラクの件で、国会で乱闘騒ぎがあったくらいは知ってますが。

up

投稿者: esoteric_02 投稿日時: 2004/02/03 02:03 投稿番号: [8529 / 49973]
そういや最近は韓国人の反日もネタ切れでしょーかねえ、uさん。

>ぉお〜!!

投稿者: kenkan_hankan_iyabakaan 投稿日時: 2004/01/31 16:52 投稿番号: [8528 / 49973]
>日本の新幹線より数倍カッコイイ〜!!

受注先に喜んでもらえるよう妥協することなしにキッチリ仕事をする。
まさに台湾に言い伝えられている「日本精神」を遺憾無く発揮していますね。

ぉお〜!!

投稿者: chonkanchigaiyarodomo 投稿日時: 2004/01/31 15:48 投稿番号: [8527 / 49973]
  すごい未来型のフォルム!

  日本の新幹線より数倍カッコイイ〜!!

  やられたなこりゃ!

新幹線を韓国に輸出しなくてホント良かった

投稿者: clavoyan2002 投稿日時: 2004/01/31 15:45 投稿番号: [8526 / 49973]
鉄道技術の至宝、日本の新幹線。

40年間無事故、正確無比。

これをチョンが運営したらどういう事になるか、

考えるだけで恐ろしい。

火病民族、ヤケになると、何するか判らない。

“地下鉄火災事故”どころではない。

心から、受注契約しなかった事を祝う。

と共に、台湾新幹線の披露式を乾杯!。

ソウル地下鉄

投稿者: largeponpon 投稿日時: 2004/01/30 18:11 投稿番号: [8525 / 49973]
の完成式には資金・技術で全面援助したにも拘らず
えげつないチョンコロ精神を発揮し
日本側は一切招待されなかったことは有名です。

泣けてきますねぇ

投稿者: guiseinoyuu 投稿日時: 2004/01/30 17:51 投稿番号: [8524 / 49973]
川崎重工は一日にして成らず。

今はそのほかどの会社が関わってるのか知らずに書いてますが(苦)

朝鮮の連中がその労苦を甘く考え、同様のものを作っているかの様な尊大な発言を見聞きする度に
川崎重工・JRほかの皆さんの苦労を馬鹿にすんなと思ってます。

台湾のHPは言葉がよく分からないものの、朝鮮のそれに比べても謙虚に見えます。好感が持てますね。

日本同様これからも謙虚・実直・愚直に運営してもらい、無事故記録を競って欲しいものだと思います。

彼らならできると希望します。

台灣高鐡

投稿者: kenkan_hankan_iyabakaan 投稿日時: 2004/01/30 17:33 投稿番号: [8523 / 49973]
期待の高さが覗えます。
「播放影片」をクリックして見てね。

http://www.thsrc.com.tw/main/show/chap2/video_detail.asp?video=03

ツリ目の朝鮮電車と違ってセンスが良い

投稿者: guiseinoyuu 投稿日時: 2004/01/30 16:44 投稿番号: [8522 / 49973]
ですよね。

日本の新幹線がイメージに残っているとなかなかでてこないカラーリングですね。

なかなか良いですな。

電車ファンじゃないんですが、これに乗るために台湾に行ってもいいななんて思いました。

>祝「台湾新幹線車両披露式」

投稿者: menystars 投稿日時: 2004/01/30 14:32 投稿番号: [8521 / 49973]
オメデトー「台湾新幹線」。

それにつけても、南朝鮮に輸出しなくて、ホントによかった。

「日本技術の至宝」を馬鹿な朝鮮陣がメチャメチャにするからな。

祝「台湾新幹線車両披露式」

投稿者: kenkan_hankan_iyabakaan 投稿日時: 2004/01/30 12:46 投稿番号: [8520 / 49973]
台湾の方々に喜んでいただき、事故のないことを祈っております。
また、これがかの国でなくてよかったとつくづく思います。

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2005年開通「台湾新幹線」車両、川崎重工が初公開
2004 年 1 月 30 日

2005年の開通を目指す「台湾新幹線」向けに開発した車両が完成し、30日、神戸市兵庫区の川崎重工業兵庫工場で披露された。「700系のぞみ」がベースで、白地を基調に、側面に黒とオレンジ色のラインが入るのが特徴だ。

日本の新幹線が海を渡るのは初めて。最高時速は「500系のぞみ」と同じ300キロで、現在4時間半かかる台北―高雄間(約345キロ・メートル)を1時間半で結ぶ。

総事業費約1兆6000億円のうち、日本の企業連合が線路や運転管理システムなどを含め3割程度を受注した。車両は、三井物産などの共同出資会社「台湾新幹線」(東京)が360両を一括受注し、川崎重工が製造していた。

披露式には、台湾から発注元の「台湾高速鉄路」の劉国治総経理、日本側は「台湾新幹線」の横田義之社長、扇千景・元国交相らが出席した。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20040130ic04.htm

んなことぁ〜無いでしょう

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/30 00:27 投稿番号: [8519 / 49973]
>投稿意欲が前より増した

やはり継続して投稿していないと、ノリが悪くなってしまいますね。

>祖母の具合がよくない。

それは、ご心配で御座いますね。ご心痛お察し申し上げます。

>ま、天寿をまっとうしたといえる

そういえば、沖縄は日本一の長寿県ですよね。
亜熱帯の気候が、人間の生活には、最も適しているちゅうことでしょうか??
こちらは兎に角、今は寒〜〜い!!

>男の背広は、昔の武者の鎧兜と同じだよ。

なるほど、、、最も、あっしはいつもは、背広ではありませぬが、、
確かに出張などで、背広を着て出かけると、身が引き締まる感じがしますな。

>ある本の出版と店頭展示について

投稿者: c5525jp 投稿日時: 2004/01/28 14:53 投稿番号: [8518 / 49973]
>ま、批判を批判するのはいいけど、批判を封じ込めるのは、封じ込めるものが自信がないからともいえますね。

それを止めたら、朝鮮人はどうなるのでしょう(わくわく

『朝鮮人が朝鮮人を止めた日』なんていう本が出るんでしょうか(わくわく


『真実を受け容れた朝鮮人』副題、歪曲をやめた朝鮮人は朝鮮人ではない

なんて本が(わくわく

>投稿制限

投稿者: c5525jp 投稿日時: 2004/01/28 14:47 投稿番号: [8517 / 49973]
おそるべしですね   投稿制限。

zak師匠とたわむれすぎて、他にまともな相手にレスしようとする時、投稿制限に引っ掛かったりすると、zak師匠ではなくzak支障め!って思っちゃいますね。自爆ですが(笑

以前よりちょくちょく増えた・・・ふむ。。。あっしにはあまり実感がないです。もしや、uさんの投稿意欲が前より増したからではないですか。




もしかすると、あっしはしばらく投稿できない状態に陥るかも知れませぬ。祖母の具合がよくない。ま、天寿をまっとうしたといえる年齢ですから、一族郎党、覚悟はできていますが。

健在だった頃の祖母の名言も付記しておきます。

*   *   *   *   *

男の背広は、昔の武者の鎧兜と同じだよ。

*   *   *   *   *

昔の女性は働く男たちの姿を見て、そんな感慨を抱いたんでしょうね。

天皇の艦長、漢那憲和 第1章 (6

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/28 00:45 投稿番号: [8516 / 49973]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=2000549&tid=jf9qa4nbpa5fa5mc0oaha4k4xoa2a47a4f&sid=2000549&mid=1970

先ほど引用した箇所、

*   *   *   *   *

  「親孝行者でしたよ。学用品を買う10銭の金を貰うのにも10日前から告げ、残った金は1銭でも5厘でも返して、貧しい母親をいたわったものです」(『毎日新聞』、昭和14年1月21号より)。

*   *   *   *   *

のすぐ次の箇所をそのまま引用するが、そのまえに、先に引用した“『貧乏人が』云々と冷笑する者もいた”という部分を思い出しつつ次の下記引用部分を読んでいただきたい。



*   *   *   *   *

  当時、小学校高等科は4年制であった。そして2年生になると、中学校への入校準備が始まった。しかし、漢那の祖父憲敬が中学進学に反対した。

  「貧乏人は学問する必要はない。小学校で充分だ。県庁の給仕でもさせて、早く家を継がそう」

  こういって母オトに命令した。しかし、オトは反発した。

  「大和世(ヤマトユー)は、支那世(シナユー)とは違う。今からは学問の時代だ。どんなことがあっても、憲和を中学へ入れる」

  また、この話しを耳にした那覇尋常小学校校長の橘豊や、恩師の宮原一郎が憲敬を説得し、学資援助まで申し込んだのである。

  こうして漢那は、小学校高等科に在校すること2年、同年4年の卒業をまたずに、沖縄中学校へ進学した。ときに明治24年(1891)、漢那14歳の春であった。

  オトの気丈さと先見性は、歴史が作ったのであろう。

  彼女が生を受けた安政年間(1850年代)というのは、列強の艦隊が次々と沖縄に寄港し、武装した水兵たちが傍若無人に振舞っていたからである。少女オトの眼底には、この恐るべき西洋文明が、痛いほど焼きついていたに違いない。



*   *   *   *   *



著者は“気丈さと先見性”と形容しているが、その気丈さは後々大いに証明される。

それにしても、貧しいからといってめげるような人ではなかった。まさに賢母である。

著者はこの本を通じて、教育とは何ぞや、と強く訴えかけたいに違いない。


私事で恐縮ではあるが、私は例の『先の大戦で一木一草も残さず』云々という台詞が大嫌いである。ムシズが走る。

そのような言葉を吐く暇があるなら、ぶつぶつ言わずに植えればよい。

いつまでお涙頂戴の三文の値打ちもない女々しいことをホザクつもりか!

泣いている間に植えていれば、南部は今頃緑豊かな南国情緒溢れる森林が、素晴らしい景観を成していたであろう。ここは亜熱帯、さほど手を加えなくてもさっさと育つ。

繰返す、ぶつぶつ言って泣いている間に植えろ!



先の大戦で失ったのは数多の人命と数多くの文化財、その他に、漢那の母が持っていたような“気概”であろう。

天皇の艦長、漢那憲和 第1章 (5

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/28 00:45 投稿番号: [8515 / 49973]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=2000549&tid=jf9qa4nbpa5fa5mc0oaha4k4xoa2a47a4f&sid=2000549&mid=1969

先に引用したエピソードの次に、著者は下記のように当時の教育事情を記している。


*   *   *   *   *


  旧藩時代の教育機関には、「国学」というものがあった。これは、寛政10年(1798)、琉球王尚温によって首里に建てられたもので、教育の基本を朱子学に求めていた。そして「四書」や「五経」を教授する一方、シナの呈文や録文、論文等の作文も教授していたのである。しかし、ここの入学資格は、あくまで士族階級、特に門閥(トンチー)の子弟に限られていた。また、教育目的も、王府役人の養成のみにおかれていたのである。

  しかし、この「国学」で朱子学が講義されている頃、本土ではすでに陽明学などの朱子学に批判的な革新思想が誕生していた。また、蘭学などの西洋実証科学も普及しはじめていたのである。

  旧藩時代の教育制度をみると、「地方にも平等学校とか村学校などが設けてあった」とされているが、果たしてどの程度の教育がなされていたのだろうか。明治政府の官吏、河原田盛美は、廃藩置県直前の沖縄の教育状況を、その著『琉球備忘録』にこう記している。

  「従前コノ藩ノ学校ナルモノハ、首里ニ国学校、即チ、大学校ナルモノアレド、入学法、門閥ニアラザレバ、入ルヲ免サス、他首里ニ、24ケ所、那覇ニ、4ケ所、泊村ニ、3ケ所アリト雖モ、一字ヲモ学バザル慣習ナリ、故ニ、平民ト婦女ハ、読ムコト能ハズ、依テ、学校ノ方法ヲ改正シ、各校ニ、官有ノ書籍ヲ備ヘ、見聞ヲ博クナサシムルヲ以テ、第1トナスベシ」(原文のまま)

  ちなみに、本土では、旧藩時代、各地に「寺子屋」というものがあって、平民も読み書きを学ぶ機会があった。また、明治2年には、「四民平等」の太政官令が出され、5年には義務教育令が出されている。このため明治以降、平民の就学率は飛躍的に向上した。さらに近代化を急ぐ政府は、いち早く学校教育に算術、地理、物理などの実利的西洋科学教育を導入していたのである(明治8年、本土における就学率は男子50.8%)。

  しかし、沖縄は、この時流に乗り遅れた。

  明治12年(1879)3月、琉球王が藩籍を奉還したにも拘らず、旧王府役人の殆どが政府の施策に反抗し続けていた。そして人心は混乱し、従来の教育機関も一切、機能を停止していたのである。東恩名寛惇『尚泰候実録』には、当時の模様がこう記されている。

  人心の頽廃其極に達し、年少子弟、智徳の検束を脱して街路に放牧せらる。習終に性となるに至って、其害毒豈啻に刀筆の使役事を案上に見ざる如き比ならんや、県令此事を憂慮し、7月汎く訓令を発して鞭撻せしも俄に功なかりき」

  そこで政府はこの年の暮れ、緊急措置として旧藩時代の学校、国学などを復活させた。また、近代教育を実施すべく、翌13年、県下に師範学校、小中学校を開校した。さらに政府は同年2月、県庁内に会話伝習所を設け、旧国学の生徒の中から優秀な者を選抜して、標準語と小学校教科書を教授した。

  明治18年(1885)、沖縄教育史上、最初の女子教育が開始された。師範学校付属小学校に、女子3名が入校したのである。

  ちなみに、明治18年当時、本土における就学率は、男子65.8%、女子32%であった。しかし沖縄では、この就学率がなかなか伸びず、明治30年(1897)になって男子就学率がようやく30%に達した。


恵隆之介著『天皇の艦長』、第1章、23〜4Pより。


*   *   *   *   *



という具合に、なんともお粗末な教育事情だったようだ。


漢那家は父が亡くなり母は日本茶の行商で家計を支えている状態である。現代人の我々の感覚では、1日でも堪えられない状況だったであろう。

そんな状態の漢那家であったが、著者はこんなエピソードを紹介している。


*   *   *   *   *

  漢那兄弟には着物が2つしかなく、夜、洗って、交互に着ていたという。そして時には、半乾きのまま登校したこともあったようだ。またある時、夕食のイモをとりあって兄弟喧嘩してしまい、オトにこっぴどく叱られたこともあった。

  しかし、こうした日々の間も、漢那は、できるだけ母親に負担をかけないよう気を配っていた。たとえば、教科書代を節約するため、友人の教科書を手写ししたり、古本を先輩から求めていたという。

  そうした漢那を、母オトはこう回顧している。

  「親孝行者\xA4

天皇の艦長、漢那憲和 第1章 (4

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/28 00:41 投稿番号: [8514 / 49973]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=2000549&tid=jf9qa4nbpa5fa5mc0oaha4k4xoa2a47a4f&sid=2000549&mid=1968

漢那が幼少の頃、父が結核で亡くなり、母オトは日本茶の行商でなんとか生計を立てていたが、貧しいってもんじゃない生活であったことには容易に想像できるであろう。

だが、母オトは生活の苦しさに負けて、子供の教育を怠るような女性ではなかった。そんな母オトを著者は下記のようなエピソードをまじえて紹介している。


*   *   *   *   *

  漢那が6歳のときである。

  県庁のガラス窓が突然割れた。と同時に、付近で遊んでいた少年たちが、クモの子を散らすように逃げた。この中の誰かが石を投げたのである。

  運悪く、逃げ遅れた漢那が県庁職員に捕まってしまった。

  そこでオトは、漢那が犯人でないことを知りながら、高価なガラス代を弁償し、職員に丁重に誤ったのである。

  「自分はやっていないのに、なぜだ」

  漢那はくってかかった。

  母はそのとき、こう諭したのである。

  「自分のやったことに責任をもてない者は、男でない。まして、逃げるということは、もってのほかだ。しかし、そういう連中と遊んでいたオマエも同罪だ」

  悔しさのあまり、漢那は声をあげて泣いた。

  かつて沖縄では、イモを洗うとき、まとめて桶に入れ、足で洗うという習慣があった。しかしオトは、我が子の将来を祈って、1つ1つ丹念に手で洗ったという。

  昭和14年、漢那が平沼内閣の内務政務次官に就任したとき、オトは、毎日新聞の記者に当時をこう語っている。

  「モウサー(漢那の幼名)は、幼いころから賢く腕白者でした。那覇一番の腕白者と喧嘩して勝ったこともありましたよ。年上の者に負けるな、負けたら承知せぬ、しかし、年下の者と喧嘩するな、男の恥だ、というのが私の口癖でした」(同紙、昭和14年1月21日号)。

恵隆之介著『天皇の艦長』、第1章、20〜1Pより。


*   *

さらに、下記に引用する部分は母の教育に関連するものではないが、「貧乏人が勉強してなにをする」という部分が、後に母の賢母ぶりを強調することになるので引用しておく。そして、他のトピで教育関連の話しが出ているので、当時の教育者の心意気を示す1つのエピソードとして引用します。


*   *   *


  漢那の勉強ぶりを、西村で知らない者はなかった。

  「漢那の息子は、畳にヒザの跡がつくくらい勉強する」

  こういう風聞がたつようになってきた。しかし、中には、「貧乏人が勉強してなにをする」と冷笑する者もいた。

  尋常小学校4年の終り頃、全島の学校から生徒2名を選抜して、算術の競争試験が行われることになった。那覇2区からは漢那と照屋宏が選ばれた。しかしこのとき、2人とも2,3等賞に終わってしまったのである。そこで担任の家村教諭は2人を呼びつけた。

  「那覇の学校から2人も選抜されて、1人も1等になれないとは何事か。昔の武士なら切腹でもすべきところだ」

同掲書、22Pより。

天皇の艦長、漢那憲和 第1章 (3

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/28 00:40 投稿番号: [8513 / 49973]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=2000549&tid=jf9qa4nbpa5fa5mc0oaha4k4xoa2a47a4f&sid=2000549&mid=1965

  明治10年、漢那が生まれたこの年、政府は琉球使節の東京退去を命じた。そして、西村に内務省出張所(後の沖縄県庁)を開設。また、明治12年1月、内務官松田道之が再度来琉し、琉球王の上京を促すが王府は拒絶。このとき松田は止むなく引揚げるが、2ヵ月後、3度目の来県をするが、兵員・警官を伴っていた。狼狽した王府は首里城を明渡した。こうして明治12年(1879)3月25日、沖縄県が誕生。漢那が2歳のときである。

  明治11年、漢那の弟、憲英が誕生した。しかしこのとき、県内にはコレラが蔓延し、患者は1万2千人にも達している(実に当時の人口の3%にあたる)。そこで政府は急遽、内務省出張所にあった医局を拡張し、沖縄県医院(後の県立病院)を開設した。これが、沖縄県における西洋式医学治療の開始であった。従来の沖縄医療は、呪術的な色彩が強かった。そのため住民は、さまざまな風土病になすすべがなかったのである。

  医院開設後、県内人口は着実に増加した。明治12年31万人、明治21年37万人、そして明治35年には45万人にも達している。さらに、明治12年天皇は、皇室内幣金から衛生費として金2千円を下賜された。そして18年には、県下医師養成機関として医学講習所が開校されたのである(大正元年閉校、その間、172名の医師を養成)。これは、沖縄の衛生事情を政府に訴え、その救済を呼びかけた初代医局長、陸軍軍医補、脇屋端元の尽力によるところが大きい。

  ところで、このころ沖縄住民の生活はどうだっただろうか。

  琉球王朝の身分制度はたいへん厳しかった。

  王府、首里の士族が豊かな生活をしていたころ、農民はひたすら彼らに搾取されていた。そればかりか、王府は農民の土地所有を認めず、一定年限でその耕地さえ替えさせていたのである(地割制、後述「沖縄経済の破綻」、125P参照)。

  明治14年、沖縄県令(県知事)として赴任した上杉茂憲は、彼ら農民の生活をこう記している。

  「その家屋は小丸太を柱にし、茅ぶきで風雨を防ぐのに苦しみ、冬も夏も一枚の粗悪な芭蕉布を着て、食事はイモとソテツだけである。居るに席なく、食事の食器もなく、鶏豚牛羊は家中に雑居して、人と畜類と少しの区別もない。人々は生きているあいだ、ただひたすら男は畑を耕し、女は布を織るだけである」

  とりわけ、琉球王朝が離島農民に課した税制はひどかった。いわゆる「人頭税」である。

  青年男女が成長し、「ぶがい石」という石材に身長が達したら(約143センチ)、自動的に本島農民の3倍という税が課せられた。そして、搾取された離島農民の悲話は、今なお、さまざまな形で語り継がれている。

  まさに、沖縄農民にとって廃藩置県とは、これら圧制からの解放であったにちがいない。

  事実、明治26年(1893)、宮古農民代表は人頭税廃止請願のため上京、翌年、政府はこれを受諾し、沖縄の実情調査を開始した。また、明治34年(1901)、北条侍従が八重山列島を視察した。そして翌年、離島全域の人頭税が廃止されたのである。

  さらに、明治40年(1907)、八重山が暴風雨で壊滅的な打撃を受けた際、北条侍従が来島視察し、天皇からの救恤金を下賜した。そのとき、これを伝え聞いた農民は、感涙にむせんだという。

*   *   *

全然圧縮されていない。めぐみさん、ごめんちょ   m(_ _)m


それにしても・・・朝鮮の歴史を叙述しているかのような・・・

天皇の艦長、漢那憲和 第1章 (2

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/28 00:39 投稿番号: [8512 / 49973]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=2000549&tid=jf9qa4nbpa5fa5mc0oaha4k4xoa2a47a4f&sid=2000549&mid=1964

漢那が生まれた時代の沖縄を著者が叙述している箇所を、あっしの独断と偏見で圧縮します。

*   *   *

西欧列強のアジア進出に危機を抱いた青年志士が明治維新を断行、   明治4年(1871年)、廃藩置県の太政官令が沖縄にももたらされ、沖縄は当初鹿児島県の管轄となり、外務省管轄を経て明治7年、内務省の管轄にはいった。翌明治8年、松田内務官が沖縄に派遣され『琉球王の上京と冊封の禁止』を命じた。ちなみに冊封は1860年以来途絶していた。

このような情勢下で、開化党(日本派)と頑固党(支那派)が抗争を開始し日清戦争で頂点に達する。その部分を先の箇所から全文引用する。

  明治24年(1891)、清国の北洋水師の大艦隊が品川港に入港した。この中には、「定遠」「鎮遠」という巨大艦があった。これは、第2次大戦時の「大和」「武蔵」にも匹敵する、当時の世界的な巨大艦である。日本国民は震撼した。   既に彼らは、明治19年(1886)にも長崎に寄港していた。そればかりか、このときには、清国水兵が長崎市民に暴行を加えたのである。(中略)日清戦争が勃発したとき、漢那は中学4年生で、沖縄は猛暑の真っ只中にあった。沖縄でもこのとき、日清両国の勝算をめぐって頑固党と開化党が衝突し、乱闘事件さえ起こしていた。頑固党は、「黄色い軍艦が沖縄へ救援に来る」といい、徒党を組んで神社仏閣に詣でて清国の勝利を祈った。このため、県庁職員や寄留商人は、外的に備えると同時に、この内敵にも備えなければならなかった。そして彼らは、自警団を組織し、子女を本島中部の多幸山に疎開までさせていたのである。

さて、時代を廃藩置県時代に戻す。

  明治5年(1872)、王府は、伊江王子を明治維新の慶賀使として東京へ派遣。しかし、王府内は頑固党の勢力が圧倒的に強かった。琉球王も、この勢力に「絶対に明治政府につくな」と恫喝されていたのである(『松山王子尚順遺稿』より引用)。

  明治8年、王府は陳情特使を政府に派遣、「現状維持」を嘆願。さらに、明治10年、在京の清国公使や、米、英、蘭の公使にも愁訴した。一方、明治6年、王府は進貢使を北平(現在の北京)に派遣、北平駐在の日本公使に叱責されていたのである。

  明治4年、台湾に漂着した沖縄漁民54名が原住民に殺害されたが、清国はこの補償問題を解決しなかったため日本政府は台湾出兵を断行。補償金を清国に支払わせた。ちなみに、この出兵の際、日本軍には米の顧問がついていた。

  台湾出兵の翌年、王府は今帰仁王子を謝恩使として東京に派遣、政府に感謝の意向を示した。

このような情況を筆者はこう断言する。『要するに、琉球は独立国とは名ばかりで、日清両国に隷従し、何ら外交力を有していなかったのである』。(この見解に私には異論がない。)


つづく(余り圧縮されていないことに懸念を抱きつつ

>早速の転載

投稿者: u26699jp 投稿日時: 2004/01/28 00:27 投稿番号: [8511 / 49973]
もっと、進む予定だったのですが、投稿制限に引っかかってしまいました。

以前より、ちょくちょく増えたような気がしますが、何かご存知で御座いますか??

保存版!?

投稿者: dylake2r5j1 投稿日時: 2004/01/27 15:48 投稿番号: [8510 / 49973]
http://bbs.enjoykorea.naver.co.jp/jaction/read.php?id=enjoyjapan_16&nid=302257&work=list&st=&sw=&cp=3

他トピで見てあまりの自爆ぶりに思わず涙が・・・・・・・笑いすぎて。
やはり韓国は漢字教育を復活させた方が良いのでは?
せめてこんな恥をさらさないためにも。

> >くだらなすぎますが

投稿者: acura95_87 投稿日時: 2004/01/26 20:14 投稿番号: [8509 / 49973]
>>朝鮮で、柔道の「一本」のとき
>>「イルボン!」って審判は叫ぶのでしょうか?

>"ハンパン"と言います.

  ハン   チョッパリ   って言わないんだー。

>くだらなすぎますが

投稿者: juwan416jp 投稿日時: 2004/01/26 20:03 投稿番号: [8508 / 49973]
"ハンパン"と言います.

まったくのトピずれで恐縮ですが

投稿者: guiseinoyuu 投稿日時: 2004/01/26 19:45 投稿番号: [8507 / 49973]
朝鮮で、柔道の「一本」のとき

「イルボン!」って審判は叫ぶのでしょうか?

くだらなすぎますが、どなたかご存知の方よろしくお願いします。
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