Re: 城内・安全区外 2)
投稿者: ja2047 投稿日時: 2006/01/22 09:26 投稿番号: [8534 / 41162]
>貴方の言うように、ラーベがローゼンと城壁内・安全区外を巡察している
途中に難民の集団を見ていないのであれば、これはラーベの逆算的な推定です。
安全区外に難民を観測した結果ではないのです。
そうですよ。 このときには廃墟になった部分にはすでに人がいないのですから、
これは、廃墟になった部分には元々人がいたのだというラーベの認識を示している
だけであって、「廃墟の中に人を見た」わけではないのです。
陥落直後に安全区外にまだ人がいたという当時の記録は数々残されており、
陥落後も難民収容所には人が押し寄せ続けたという記録もあります。
陥落後も多くの、あるいは若干の人々が難民区へ避難し続けたということは
事実なのです。
誰も数を把握できなかっただけなのです。
ダーディン・インタビュー
日時: 一九八六年九月十五日 午後二時三〇分−五時三〇分
場所: カリフォルニア州、ラホーヤのダーディン氏の自宅
質問者: 笠原十九司
通訳: 八木良子・伊原陽子
英語テープ起こし者: シャール・ウエストランド
「他にも市内には大勢の人が残っていました。戸締まりをして、みな家に籠もっていました。私はわずか三日間しかいなかったので、正確な情報は得られませんでしたが、車で市内を回った時、家の中から中国人が出てくるのを見掛けましたし、通りを歩いている中国人も何人か見ました。ですから、皆がみな安全区に入ったのではありません。」
ヴォートリン日記 一ニ月一五日 水曜日
たしか、きょうは一二月一五日、水曜日だと思う。一週間をつうじた規則的なリズムがないので、何日であるかを覚えているのは容易でない。
昼食の時間を除いて朝八時三〇分から夕方六時まで、続々と避難民が入ってくる間ずっと校門に立っていた。多くの女性は怯えた表情をしていた。
一二月一七日 金曜日
疲れ果て怯えた目をした女性が続々と校門から入ってきた。彼女たちの話では、昨夜は恐ろしい一夜だったようで、日本兵が何度となく家に押し入ってきたそうだ。
一二月ニニ日 水曜日
現在、キャンパスには避難民がおよそ一万人いるとみる人もいるが、わたしは、あえて人数を推計しようとは思わない。理科棟では、二つの部屋とホールと屋根裏だけを開放して、およそ一〇〇〇人が収容されている。そうしてみると、文科棟には二〇〇〇人を収容しているにちがいない。文科棟の屋根裏だけで一〇〇〇人近くがいるそうだ。夜間には渡り廊下に一〇〇〇人ほどがいるにちがいない。
今夜フィッチ氏がやってきて、収容しきれない人たちのために文史資料棟を開放してもらいたいかどうか、わたしたちに尋ねてくれたので、もちろん、そうしてもらいたい、と答えた。
このように、陥落直後には安全区外には人がまだおり、陥落後に安全区の人口は
増え続けているのです。
当然、後世の日本側研究者もこの点には気付いています。
秦郁彦
「問題は、難民区以外の市内にどのくらいの市民がいたかです。「全員が難民区に逃げ込んでいたから、空っぽのはずだ」という議論がありますが、私はそうは思わない。例えば神戸の大地震の時に思ったのですが、避難住宅を用意しても、壊れた自分の家がいいからと動かない人は少なからずいた。南京は日本軍の砲爆撃をほとんど受けていませんから、家はあまり壊れていない。したがって、自分の家に留まっていた人はかなりいただろうと思います。」
(東中野修道編著「南京「虐殺」研究の最前線 平成十四年版」P21)
途中に難民の集団を見ていないのであれば、これはラーベの逆算的な推定です。
安全区外に難民を観測した結果ではないのです。
そうですよ。 このときには廃墟になった部分にはすでに人がいないのですから、
これは、廃墟になった部分には元々人がいたのだというラーベの認識を示している
だけであって、「廃墟の中に人を見た」わけではないのです。
陥落直後に安全区外にまだ人がいたという当時の記録は数々残されており、
陥落後も難民収容所には人が押し寄せ続けたという記録もあります。
陥落後も多くの、あるいは若干の人々が難民区へ避難し続けたということは
事実なのです。
誰も数を把握できなかっただけなのです。
ダーディン・インタビュー
日時: 一九八六年九月十五日 午後二時三〇分−五時三〇分
場所: カリフォルニア州、ラホーヤのダーディン氏の自宅
質問者: 笠原十九司
通訳: 八木良子・伊原陽子
英語テープ起こし者: シャール・ウエストランド
「他にも市内には大勢の人が残っていました。戸締まりをして、みな家に籠もっていました。私はわずか三日間しかいなかったので、正確な情報は得られませんでしたが、車で市内を回った時、家の中から中国人が出てくるのを見掛けましたし、通りを歩いている中国人も何人か見ました。ですから、皆がみな安全区に入ったのではありません。」
ヴォートリン日記 一ニ月一五日 水曜日
たしか、きょうは一二月一五日、水曜日だと思う。一週間をつうじた規則的なリズムがないので、何日であるかを覚えているのは容易でない。
昼食の時間を除いて朝八時三〇分から夕方六時まで、続々と避難民が入ってくる間ずっと校門に立っていた。多くの女性は怯えた表情をしていた。
一二月一七日 金曜日
疲れ果て怯えた目をした女性が続々と校門から入ってきた。彼女たちの話では、昨夜は恐ろしい一夜だったようで、日本兵が何度となく家に押し入ってきたそうだ。
一二月ニニ日 水曜日
現在、キャンパスには避難民がおよそ一万人いるとみる人もいるが、わたしは、あえて人数を推計しようとは思わない。理科棟では、二つの部屋とホールと屋根裏だけを開放して、およそ一〇〇〇人が収容されている。そうしてみると、文科棟には二〇〇〇人を収容しているにちがいない。文科棟の屋根裏だけで一〇〇〇人近くがいるそうだ。夜間には渡り廊下に一〇〇〇人ほどがいるにちがいない。
今夜フィッチ氏がやってきて、収容しきれない人たちのために文史資料棟を開放してもらいたいかどうか、わたしたちに尋ねてくれたので、もちろん、そうしてもらいたい、と答えた。
このように、陥落直後には安全区外には人がまだおり、陥落後に安全区の人口は
増え続けているのです。
当然、後世の日本側研究者もこの点には気付いています。
秦郁彦
「問題は、難民区以外の市内にどのくらいの市民がいたかです。「全員が難民区に逃げ込んでいたから、空っぽのはずだ」という議論がありますが、私はそうは思わない。例えば神戸の大地震の時に思ったのですが、避難住宅を用意しても、壊れた自分の家がいいからと動かない人は少なからずいた。南京は日本軍の砲爆撃をほとんど受けていませんから、家はあまり壊れていない。したがって、自分の家に留まっていた人はかなりいただろうと思います。」
(東中野修道編著「南京「虐殺」研究の最前線 平成十四年版」P21)
これは メッセージ 8499 (nmwgip さん)への返信です.