申景濬の「彊界考」の三行
投稿者: okinawatorafu2005 投稿日時: 2006/01/19 16:23 投稿番号: [5794 / 9207]
http://toron.pepper.jp/jp/take/tizu/kaizan.html
引用:
申景濬の「彊界考」では、
<按ずるに、輿地志に云う、「一説に于山、鬱陵本一島。」
而るに諸図志を考えるに、二島なり。
一つは則ちその所謂松島にして、蓋し二島は倶に是れ于山国なり。>
ここでの問題は、申景濬の「彊界考」の三行が、
すべて柳馨遠の「輿地志」からの引用かどうか?である。
この柳馨遠の「輿地志」が、日本側の呼称「松島」という地名を知っていたかどうかが問題なのだ。
しかし、柳馨遠の『輿地志』は現存していない。
それゆえに引用された箇所を確認する事は出来ない。
そして、
『東国文献備考』の編纂期間が僅か5ヶ月と短いために、
『輿地志』から正確に引用されたかどうかも不明である。
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安龍福が拉致されたのは1693年(元禄六年)、
柳馨遠の『輿地志』は安龍福の証言よりも40年ほど早い1656年に成立
米子の大谷甚吉は、鳥取藩に竹島(鬱陵島)への渡海を願い出たのは1617年(元和三年)。
現時点では、朝鮮の史料で
「松島」という島名が出てくるのは、
安龍福に関する『粛宗実録』からである。
よって、現況では、柳馨遠の『輿地志』前後に、
「松島」と言う呼称が朝鮮に知られていたと言う事を示す史料はない。
であるから、2行目の而るに、、、以後の文は申景濬自身の考えを書き添えだったとなる。
>柳馨遠の「輿地志」が、日本側の呼称「松島」という地名を知っていたかどうかが問題なのだ。
Trafu:
柳馨遠の『輿地志』は安龍福の証言よりも40年ほど早い1656年に成立
,つまり柳馨遠は1656年以前に松島の名をしっていなければならない事に成る,ここがキーポイントに成るぞ,
これは メッセージ 5793 (okinawatorafu2005 さん)への返信です.
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