Re: 国連が慰安婦制度を認定
投稿者: chattppy2001 投稿日時: 2012/02/23 02:16 投稿番号: [25 / 31]
1987年7月7日の毎日新聞では昭和12年12月13日に開始された南京攻略戦に参加、一般市民をも巻き込んだ日本軍の大量虐殺を体験したという京都第16師団、福知山二〇連隊の元兵士13人が六日京都府中郡峰山町(現在は京丹後市)杉谷の丹後織物福祉センターで会見し、当時つづった従軍日記を公開するとともに、上官の命令で民間人をむごく殺したという生々しい事実を証言した。
証言したのは、京都府竹野郡丹後町間人、東史郎さん(七五)同町遠下、益田六助さん
(七六)同町成願寺、上羽武さん(七一)「平和のための京都の戦争展実行委員会」
(寿岳章子代表)が南京攻略戦兵士の調査を進める中で三人の存在がわかり証言を要請、
記者会見が実現した。
「中略」「会見に臨んだ三人は兵隊でもない民間人を虐殺したなど思い出すのも恐ろしい。
今、平和のために役立つのなら包み隠さず発表しようと決意した」と動機を語った。
南京攻略の翌日、敗残兵掃討に参加した
増田さんは「城内難民区から敗残兵を狩り出し、全員を裸にして取り調べ、城壁に並べ、機関銃を据えて一斉射殺。血を吹き出しながら逃げる者は銃剣で突き刺されて殺された。その数は、私の隊だけでも五〇〇人にのぼっただろう」と証言
東さんも「北支へ転戦するため揚子江で船に乗る時、丸太のようにはれ上がった遺体の山が川に浮き、それを踏み越えて船に乗った」「遺体で川が埋まった」と揚子江の数キロはある広い川が埋まったと生々しい証言を行った。
一方、今回公開された資料は、証言者三人のほか、亀岡市旭町、射場善夫さん(七六)の
四人が昭和12年〜20年の間に、戦地で書き残した陣中日記二一点とそれを後日まとめた手記の計三二点南京攻略後の城内で「一人の中国人が引っ張り出され戦友の提案で袋詰めにして、ガソリンをかけ、火をつけると悲鳴を上げて火の玉のようにころげ回った。
冷たくしてやろうと手りゆう弾をくくり、沼に放り込むと、水中で炸裂し、遊びが終わった」など当時の兵士の理不尽な殺りくが克明に記載されている。
東史郎さんの講演を聞きに行った。(1988年京都新聞、世界人権宣言40周年を引用と講演内容より)
南京大虐殺を実名で証言と当時、話題になった記事を紹介したい。
1940年から「私がいたころの軍規は厳正ではなかった。
というよりも虐殺、放火、略奪は三光作戦として命令で行った。
将校は捕虜を試し切りにし、兵士は銃剣で刺し殺した。住民も殺した。強姦も輪姦もした。
強姦した後はたいてい殺した。暖を取るために放火もした。役にたつものは略奪した。
ある少年は「試し切り」といって農民を斬り殺していた。
殺す時初年兵に「度胸付けるために突け」という上官もいた。人間と見ていなかった。
殺すのに一匹、二匹…といって殺した。支那兵のいた集落の住民は老人や女子供も殺した。
殺人をニワトリを殺すほどにも思っていない。
支那人の死体は豚の死体を見るほどにしか感じていない。
強姦し証拠隠滅するために殺害していた。これを誰一人として不道徳と、責めた者はいない。東史郎さんは自分も南京ではなかったが斬首したこともあるし、反対に女性や老人を逃がしたこともあるが、ずっと戦争の話はしなかった。従軍日記を読み返すまでは罪悪感は感じていなかった。という。
戦友と七月六日に記者会見をしてから東史郎さんの生活は一変した。
その日にテレビ放映され七日の新聞にも出た。
昼頃から次々に電話がかかってきた。全国各地からで、電話の80%は脅迫、非難、攻撃だった。「おまえは日本人ではない」、「なんぼ金をもらっている」、「英霊にすまない、英霊を冒とくしている」、「死んだものに相すまないではないか」、「覚悟せい」、「家に火をつける」、「一家の不幸を祈る」などの内容だ。
その翌日は朝七時ごろから電話が鳴った。朝食は一一時ごろまで食べられなかった。
夜中の一時、二時にもかかる。三日間続いた。全部対応したが脅迫の電話は三日続いた。
脅迫の電話は誰も名前を言わない名乗ったのは「赤報隊」と「愛国青年連合」というのだけだったと記憶している。
証言したのは、京都府竹野郡丹後町間人、東史郎さん(七五)同町遠下、益田六助さん
(七六)同町成願寺、上羽武さん(七一)「平和のための京都の戦争展実行委員会」
(寿岳章子代表)が南京攻略戦兵士の調査を進める中で三人の存在がわかり証言を要請、
記者会見が実現した。
「中略」「会見に臨んだ三人は兵隊でもない民間人を虐殺したなど思い出すのも恐ろしい。
今、平和のために役立つのなら包み隠さず発表しようと決意した」と動機を語った。
南京攻略の翌日、敗残兵掃討に参加した
増田さんは「城内難民区から敗残兵を狩り出し、全員を裸にして取り調べ、城壁に並べ、機関銃を据えて一斉射殺。血を吹き出しながら逃げる者は銃剣で突き刺されて殺された。その数は、私の隊だけでも五〇〇人にのぼっただろう」と証言
東さんも「北支へ転戦するため揚子江で船に乗る時、丸太のようにはれ上がった遺体の山が川に浮き、それを踏み越えて船に乗った」「遺体で川が埋まった」と揚子江の数キロはある広い川が埋まったと生々しい証言を行った。
一方、今回公開された資料は、証言者三人のほか、亀岡市旭町、射場善夫さん(七六)の
四人が昭和12年〜20年の間に、戦地で書き残した陣中日記二一点とそれを後日まとめた手記の計三二点南京攻略後の城内で「一人の中国人が引っ張り出され戦友の提案で袋詰めにして、ガソリンをかけ、火をつけると悲鳴を上げて火の玉のようにころげ回った。
冷たくしてやろうと手りゆう弾をくくり、沼に放り込むと、水中で炸裂し、遊びが終わった」など当時の兵士の理不尽な殺りくが克明に記載されている。
東史郎さんの講演を聞きに行った。(1988年京都新聞、世界人権宣言40周年を引用と講演内容より)
南京大虐殺を実名で証言と当時、話題になった記事を紹介したい。
1940年から「私がいたころの軍規は厳正ではなかった。
というよりも虐殺、放火、略奪は三光作戦として命令で行った。
将校は捕虜を試し切りにし、兵士は銃剣で刺し殺した。住民も殺した。強姦も輪姦もした。
強姦した後はたいてい殺した。暖を取るために放火もした。役にたつものは略奪した。
ある少年は「試し切り」といって農民を斬り殺していた。
殺す時初年兵に「度胸付けるために突け」という上官もいた。人間と見ていなかった。
殺すのに一匹、二匹…といって殺した。支那兵のいた集落の住民は老人や女子供も殺した。
殺人をニワトリを殺すほどにも思っていない。
支那人の死体は豚の死体を見るほどにしか感じていない。
強姦し証拠隠滅するために殺害していた。これを誰一人として不道徳と、責めた者はいない。東史郎さんは自分も南京ではなかったが斬首したこともあるし、反対に女性や老人を逃がしたこともあるが、ずっと戦争の話はしなかった。従軍日記を読み返すまでは罪悪感は感じていなかった。という。
戦友と七月六日に記者会見をしてから東史郎さんの生活は一変した。
その日にテレビ放映され七日の新聞にも出た。
昼頃から次々に電話がかかってきた。全国各地からで、電話の80%は脅迫、非難、攻撃だった。「おまえは日本人ではない」、「なんぼ金をもらっている」、「英霊にすまない、英霊を冒とくしている」、「死んだものに相すまないではないか」、「覚悟せい」、「家に火をつける」、「一家の不幸を祈る」などの内容だ。
その翌日は朝七時ごろから電話が鳴った。朝食は一一時ごろまで食べられなかった。
夜中の一時、二時にもかかる。三日間続いた。全部対応したが脅迫の電話は三日続いた。
脅迫の電話は誰も名前を言わない名乗ったのは「赤報隊」と「愛国青年連合」というのだけだったと記憶している。
これは メッセージ 1 (リュウ さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022057/9qoa2a4ac0v0bixc0a9eya4rga7dj_1/25.html