台湾引き揚げの瞬間まで
投稿者: suzuteri2515 投稿日時: 2005/05/02 13:15 投稿番号: [6942 / 10346]
lee_tin_ting;taiwanboomご両人様:
引き揚げ時のルールを指令したのは財力のない国府ではありません。アメリカ進駐軍でわれわれも持参できる荷物の再確認はアメリカ軍が決めました。それにはほとんど国府軍は遵守したのです。ですから蒋介石の恩恵はほとんどありませんでした。
日本人で台湾在住人が蒋介石の恩恵云々しますが彼は軍隊と日本人がすぐに帰ればよかったのです。この時アメリカ船のLiberty号で人数一杯でかえすには荷物の最大制限を指示したのです。光福節で無茶に中華民国兵(?)を歓迎した台湾人はやはり半分もいたでしょうか・インテリは文化の高い(日本式は西洋式でもあった)人々が文化の低い中華人におさめられるでしょうか?とうわさが立ちました。このインテリ達はやはり中華人を見下している態度も少し見えました。何せ小学校の出ていない中国少年には不便そのものでして、早く大陸に帰りたい気持ちもあったでしょう。
この空白時期の行政にもっとGHQ(アメリカ占領軍事務所)が中にはいり活躍するべきでした。すれば陳儀も無茶な行動が取らずにすんだでしょう。ここがアメリカ軍(マッカーサー)の失敗です。少なくとも2−3000人の一聯隊でも駐屯すればよかったと思いますが。
アメリカ軍の駐屯は早く台湾在の連合軍捕虜収容所のアメリカ空軍飛行士虐殺反人などの発見でしたが、14人の飛行士銃殺執行者の兵を練山総参謀長が事前ににがしてしまいました。B.C級戦犯の現地での裁判は証拠なし、しょうにんもいい加減で一時間裁判といいました。
もう大きな都市をとおるのは危ない状態でした。国民学校の担任に預けた1000円は内地でもどりませんでした。でも母の教え子(本島人のご両親に預けた大金(贈答したのですが)は私や姉達が台湾訪問するたびに費用を持ってくれます。満州や中国から引き上げた日本人とはかなり恵まれた引き揚げでした。船の上で居眠りした15分間の間に羊羹二個がきえていました。日本の食糧事情がよくわかりました。台湾は砂糖やお米は豊富でしたからね。台湾は日本の宝の島になっていました。潜んでいた鳥松の家では枕元にシャベルなど置いて夜はねたものです。
中華の役人が鳥松の官舎にきて個人財産没収をめいじました。国や企業の没収はいいでしょう。でも個人の財産没収はひどいと痛感しました。中華の役人の顔は父もしりませんので、往年の土木課長も反論できません。売り上げた領収書を父に渡しましたが、破り捨てました。涙がひかっていました。窓から放り投げる仕草は情けないものでした。その中にも母は姉の着物をせがんでもちかえりました。鳳山を避けて裏山から行きなさいという、高雄中学の先輩の言で静かにリヤカーで官舎をさりました。その時の母の顔は一生わすれえません。苦しい時はこの時の母の顔を思いだします。昭和21年3月1日でした。高雄市内の大和国民学校に入り3日後、中華軍の憲兵(制服のよく似合った)の身体検査の折、父のタバコがポケットからでてきました。6ヶ月習った中国語がやくたちました。夕方最後の港と岸壁を見つつ出港した船は南下して「バシー」海峡を東に走り、機雷を避けつつ北上して4日目に宇品港にやっと入りました。この企画一切は全部アメリカ軍の手配でした。中華にはぜんぜん財力がありませんでしたし、技術もありませんでした。
勤労奉仕で死んだ友にも補償がありません。高砂義勇隊と同じ正規兵ではありません。ご存知のごとく台湾総督府の安東中将は上海に護送されて戦犯として裁判になる直前セイサンカリを飲んで自殺しました。終戦処理の職責は見事でありました。
帰国後一年ばかりして戦乱の2−28事件がおきました。そのニュースはだいぶしてから(中華が情報を管理統制したので)日本につたわりました。官服姿の父と、袴姿の訓導の母の写真がのこります。屏東飛行場の前に立つ(父が飛行場拡張工事の責任者)父の写真も宝となりました。両親に言います。「私を台湾に連れて行ってくれて有難う」。
真実の台湾歴史を語ってくださいよ。
引き揚げ時のルールを指令したのは財力のない国府ではありません。アメリカ進駐軍でわれわれも持参できる荷物の再確認はアメリカ軍が決めました。それにはほとんど国府軍は遵守したのです。ですから蒋介石の恩恵はほとんどありませんでした。
日本人で台湾在住人が蒋介石の恩恵云々しますが彼は軍隊と日本人がすぐに帰ればよかったのです。この時アメリカ船のLiberty号で人数一杯でかえすには荷物の最大制限を指示したのです。光福節で無茶に中華民国兵(?)を歓迎した台湾人はやはり半分もいたでしょうか・インテリは文化の高い(日本式は西洋式でもあった)人々が文化の低い中華人におさめられるでしょうか?とうわさが立ちました。このインテリ達はやはり中華人を見下している態度も少し見えました。何せ小学校の出ていない中国少年には不便そのものでして、早く大陸に帰りたい気持ちもあったでしょう。
この空白時期の行政にもっとGHQ(アメリカ占領軍事務所)が中にはいり活躍するべきでした。すれば陳儀も無茶な行動が取らずにすんだでしょう。ここがアメリカ軍(マッカーサー)の失敗です。少なくとも2−3000人の一聯隊でも駐屯すればよかったと思いますが。
アメリカ軍の駐屯は早く台湾在の連合軍捕虜収容所のアメリカ空軍飛行士虐殺反人などの発見でしたが、14人の飛行士銃殺執行者の兵を練山総参謀長が事前ににがしてしまいました。B.C級戦犯の現地での裁判は証拠なし、しょうにんもいい加減で一時間裁判といいました。
もう大きな都市をとおるのは危ない状態でした。国民学校の担任に預けた1000円は内地でもどりませんでした。でも母の教え子(本島人のご両親に預けた大金(贈答したのですが)は私や姉達が台湾訪問するたびに費用を持ってくれます。満州や中国から引き上げた日本人とはかなり恵まれた引き揚げでした。船の上で居眠りした15分間の間に羊羹二個がきえていました。日本の食糧事情がよくわかりました。台湾は砂糖やお米は豊富でしたからね。台湾は日本の宝の島になっていました。潜んでいた鳥松の家では枕元にシャベルなど置いて夜はねたものです。
中華の役人が鳥松の官舎にきて個人財産没収をめいじました。国や企業の没収はいいでしょう。でも個人の財産没収はひどいと痛感しました。中華の役人の顔は父もしりませんので、往年の土木課長も反論できません。売り上げた領収書を父に渡しましたが、破り捨てました。涙がひかっていました。窓から放り投げる仕草は情けないものでした。その中にも母は姉の着物をせがんでもちかえりました。鳳山を避けて裏山から行きなさいという、高雄中学の先輩の言で静かにリヤカーで官舎をさりました。その時の母の顔は一生わすれえません。苦しい時はこの時の母の顔を思いだします。昭和21年3月1日でした。高雄市内の大和国民学校に入り3日後、中華軍の憲兵(制服のよく似合った)の身体検査の折、父のタバコがポケットからでてきました。6ヶ月習った中国語がやくたちました。夕方最後の港と岸壁を見つつ出港した船は南下して「バシー」海峡を東に走り、機雷を避けつつ北上して4日目に宇品港にやっと入りました。この企画一切は全部アメリカ軍の手配でした。中華にはぜんぜん財力がありませんでしたし、技術もありませんでした。
勤労奉仕で死んだ友にも補償がありません。高砂義勇隊と同じ正規兵ではありません。ご存知のごとく台湾総督府の安東中将は上海に護送されて戦犯として裁判になる直前セイサンカリを飲んで自殺しました。終戦処理の職責は見事でありました。
帰国後一年ばかりして戦乱の2−28事件がおきました。そのニュースはだいぶしてから(中華が情報を管理統制したので)日本につたわりました。官服姿の父と、袴姿の訓導の母の写真がのこります。屏東飛行場の前に立つ(父が飛行場拡張工事の責任者)父の写真も宝となりました。両親に言います。「私を台湾に連れて行ってくれて有難う」。
真実の台湾歴史を語ってくださいよ。
これは メッセージ 6924 (lee_tin_ting さん)への返信です.
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