竹島

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外務省パンフレットへの批判4、(1)

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/04/19 15:50 投稿番号: [16464 / 18519]
4.幕府の渡海禁止令

   1693(元禄6)年、大谷家の渡海船が竹島(欝陵島)で安龍福と朴於屯のふたりを拉致したことをきっかけに、日本と朝鮮の間で同島をめぐる領有権交渉「竹島一件」が始まりました。この交渉について外務省のパンフレットはこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   状況を承知した幕府の命を受けた対馬藩(江戸時代、対朝鮮外交・貿易の窓口であった。)は、安と朴の両名を朝鮮に送還するとともに、朝鮮に対し、同国漁民の鬱陵島への渡航禁制を要求する交渉を開始しました。しかし、この交渉は、鬱陵島の帰属をめぐって意見が対立し合意を得るに至りませんでした。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   意見の対立は当然でした。そもそも幕府の命令は当初から無理なものでした。その命令に対し、対馬藩ではすぐに疑問の声があがったくらいでした。前藩主である天龍院(宗義真)は幕府の真意をいぶかって、次のような疑義を提起しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   竹島の儀は磯竹島ともいう。先年、大献大君(徳川家光)の時代、その島へ磯竹弥左衛門、仁左衛門(ママ)と申す者が居住していたのを召し捕えて差し出されるようにと(公儀から)光雲院公(宗義成)へ仰せつけられ、すなわち此方より召し捕られて差し出したことがあった。
   しからば、竹島の儀は日本の伯耆にある島と公儀でお考えならば、伯耆藩主のほうで弥左衛門・仁左衛門を召し捕えて差し出されるようにと仰せつけられるはずであるのに、当国へ仰せつけられたのは、朝鮮の竹島とお考えであると見られる。
   この次第を一応、公儀へ伺うことを考慮するよう留意して、朝鮮へ申し入れるべきである(『竹島紀事』9月4日)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   天龍院の疑問はもっともなことでした。かれは、朝鮮とのいきさつから竹島(欝陵島)が朝鮮領であることを熟知していたので、幕府が潜商事件の弥左衛門親子を捕える仕事を鳥取藩でなく対馬藩へ命じたのは、幕府も同島を朝鮮領と考えているからではないかと疑っていたのでした。
   しかし、この時の藩論は、幕府の公命には背けないので、幕府へ事情を正すようなまねはできないという結論でした。その結果、対馬藩は幕府の真意がわからないまま、朝鮮領である竹島(欝陵島)へ朝鮮人が来ないように要求するという無理難題を朝鮮へふっかけることになりました。

   一方、幕府内では潜商事件が忘れ去られていたのか、あるいは組織の問題で受け継がれなかったのか、幕府は竹島(欝陵島)について改めて調査を始めました。1693年5月21日、勘定奉行の松平美濃守は江戸の鳥取藩邸へ竹島渡海に関する質問をおこないました。
   これに対して鳥取藩は、竹島は鳥取藩の支配地でないと明言し、「竹島は離れ島にて人の居住はありません。もっとも、伯耆守が支配する所でもありません」と回答しました(注1) 。
   この回答書により、幕府は竹島(欝陵島)が鳥取藩領でない、ひいては日本領でないことを悟ったのですが、そうかといって、対馬藩へ出した命令を取り下げたりはしませんでした。察するに、朝令暮改で幕府の威信に傷がつくことを懸念したのでしょうか。

   他方、対馬藩の要求を突きつけられた朝鮮政府は、欝陵島が官撰書『東国輿地勝覧』などに記載されていることから、同島の領有を確信していました。しかし、日本との摩擦を避けるため、一時的に宥和政策をとって交渉に臨みました。
   朝鮮政府は、欝陵島が日本でいう竹島であることを知りながら、欝陵島と竹島をあたかも別の島であるかのように扱い、形式上で朝鮮人の竹島への渡航禁止という日本の要求を受けいれました。その一方で「弊境の欝陵島」という原則的な立場は堅持し続けて対馬藩へ書簡をしたためました。
(つづく)

Re: なぜ他国の領土に口を出すのか?

投稿者: gp01_zephy 投稿日時: 2008/04/19 15:16 投稿番号: [16463 / 18519]
>逆に質問するが、対馬島が日本地であると証明する必要があるか?<
1.質問を質問で返さないでください。
2.論点をずらさないでください。

まぁ、アホな質問ですが、返答しておきましょうか。
係争対象になれば対馬も日本領と証明する必要があります。

Re: なぜ他国の領土に口を出すのか?

投稿者: park_sinyang_corea 投稿日時: 2008/04/19 14:26 投稿番号: [16462 / 18519]
>>独島は分明に韓国地なのに<
>まずはこれを証明してください

逆に質問するが、対馬島が日本地であると証明する必要があるか?
それと同じことだ。

Re: なぜ他国の領土に口を出すのか?

投稿者: gp01_zephy 投稿日時: 2008/04/19 13:32 投稿番号: [16461 / 18519]
>独島は分明に韓国地なのに<
まずはこれを証明してください。

re3)隠州視聴合記

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/04/19 12:40 投稿番号: [16460 / 18519]
隠州視聴合記は次のように要約されます。
   隠州は北海中にある。
   その南東にある地を島前と言う
   その東にある地を島後と言う
   南に雲州美穂関。南東に伯州赤碕浦。南西に石州温泉津。
   西北に松島竹島がある。
   よって、日本の北西の地は隠州である。


   冒頭にある隠岐島の説明を読んで、隠州が南東にある島前と東にある島後のみにより構成される、という解釈は不自然です。隠州を紹介するのに、南東と東にある地域のみを示して、これで全てだとする論法は無いからです。当然、西又は西北に残りの隠州があると推定されます。
   読み進めると、「西北に松島竹島がある」という文章に当り、納得できるのです。
   松島竹島という地名は、地域名が冠されていません。このことから、松島竹島が雲州・伯州・石州に属さないことが判ります。又、隠州視聴合記において、地域名を冠さない地名が表れた場合、それは全ての場合「隠州の地」を示しています。すると、この松島竹島が「隠州」の松島竹島であることに間違いありません。
   そして、松江藩預り領の隠州とそれ以外の隠州を、間に美穂関・赤碕浦・温泉津を入れることにより区別していることが判ります。


   尚、「此二島無人之地」「見高麗如自雲州望隠岐」は、松島竹島の現況を述べたに過ぎず、領土論を述べたとは考えられません。松江藩官僚が幕府の専管事項を論ずることはありえません。
   敢えて領土論とするならば、大谷村川両家以外の者が松島竹島に行かないのは、松島竹島まで徳川家の威光が行き届いているからである。そして、この威光は朝鮮にまで及んでいる。何故なら、朝鮮にこれほどまでに近い島であるにも関わらず、この40年間松島竹島で一人たりとも朝鮮人を見たことが無いからである。と。

なぜ他国の領土に口を出すのか?

投稿者: park_sinyang_corea 投稿日時: 2008/04/19 12:36 投稿番号: [16459 / 18519]
独島は分明に韓国地なのに、なぜ日本は他国の領土を自国地と強弁するのか?帝国主義的野心の強欲はもう時代錯誤だと思わないのか?

たとえば韓国が対馬島が韓国地と主張したらどう思うか?荒唐な主張だろう?日本の独島領有権主張はそれと同じ脈絡だ。

ロシアとも領土紛争、中国とも領土紛争。。。。終わりのない日本の領土強欲。。。周辺国への終わりない紛争欲心。

日本はいつまで19世紀的価値観で世界各国と葛藤するか。
アジアの孤児はいつまで続けるか?

re3)幕府と両家は公的・継続的な関係

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/04/19 12:25 投稿番号: [16458 / 18519]
   1999年の池内氏の論文「竹島渡海と鳥取藩」の続きです。

  その大谷・村川の公義御目見は、四、五年に一度ずつ阿部四郎五郎家が寺社奉行へ申入れることによって実現されたから、仲介者が継続の努力を払って初めて維特されるものであった(後述)。とすれぱ、幕府と大谷・村川両家との関係は、必ずしも公的・継続的なものではなく、代々の阿部四郎五郎家による仲介の努力によって維持された私的・不定期の関係であった。
    ・・・・・・・
  ところで、延宝9(1681)年3月29日日、阿部四郎五郎正重は小普請入りとなリ公務を離れることとなった。このためこの年から大谷・村川両家の公儀御目見は鳥取藩が取り持つこととなった。
    ・・・・・・
  これまで大谷・村川・阿部三家は、その代替りごとに竹島渡海に関わって相互に再確認しあい、密接な関係を継続・保持してきた。その関係を前提にして阿部の仲介による大谷・村川の公義御目見が実現し、竹島渡海の利権が護られてきた。それが、延宝9年7月の事態を境にして、公義御目見の取持ちが阿部四郎五郎家から鳥取藩に切り替わった。このとき、新任寺社奉行に対し御目見の先例について鳥取藩が説明しなおしたと同様な意昧合いで、大谷・村川家の側が竹島渡海の先例・由緒について改めて説明しなおす必要があると考えても当然である、それはいきおい由緒正しさを強調することとなったから、竹島渡海の歴史をより古く遡らせて説明することともなった。ここに寛永初年竹島渡海免許を元和四年のものと主張する根拠があった。
  ----------------------

   池内氏は、「幕府と大谷・村川両家との関係は、必ずしも公的・継続的なものではなく、私的・不定期の関係であった。」と言われます。
   (「後述」という部分に読み落としがあるのかも知れませんが、)
   しかし、大谷村川両家は日本の公共資産を排他的に独占使用しているのですから、日本の主権者が4・5年に一度その見直しをするのは当然です。その継続を申請できるのは公的機関だったようです。阿部家が公的機関である立場を失った時、替わって申請手続きを執ったのは公的機関たる鳥取藩でした。

   芹田健太郎の「日本の領土(中公業書)」153頁につぎのとおりです。
   「日本政府はこの領土編入行為を無主地に対する先占行為とは認めておらず、この点に関する日本の主張は、開国以前の日本には国際法の適用はないので、当時にあっては、実際に日本で日本の領土と考え、日本の領土として扱い、他国がそれを争わなけれぱ、それで領有するには充分であった、と認められる、というものである。」

   江戸幕府で竹島松島を担当したのは寺社奉行だったようです。この事から、「実際に日本で日本の領土と考え」「日本の領土として扱」っていたことが確認できます。又、竹島松島渡海事業を「他国がそれを争」った事実はありません。すると「それで領有するには充分であった、と認められる」。

re3)竹島渡海免許の目的

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/04/19 12:09 投稿番号: [16457 / 18519]
   1999年の池内氏の論文「竹島渡海と鳥取藩」に次の内容がありました。

   「多聞院日記」天正20(1592)年5月19日条に、伯耆人弥七が「いそたき入参」を持参して奈良興福寺多聞院英俊のもとを訪れたとする記事がある。中村栄考はこの記事から、磯竹島が薬草としての人参の産地として知られていたことを推測する[中村業幸460頁]。
   元和4(1618)年七月、出雲三尾関の住人馬多三伊ら7名が鬱陵島出漁中に漂流して朝鮮に至り、
   元和6(1620)年には、ひそかに竹島渡海を行っていた対馬人弥左衛門・仁右衛門が捕えられて処罰された、
   こうした事例からすれば、寛永1(1624)年竹島渡海免許が大谷・村川両名に発給される以前、偶然の漂着ではなく意識的な竹島渡海を行う者が既に存在した。
   ここで、元和4年に竹島渡海を行ったのは出雲三尾関の住人であった。大谷・村川が竹島渡海を行う際には、米子から出雲雲津を経由して隠岐島後福浦へ渡リ竹島へかったというから、出雲・隠岐の住人が独カで竹島渡海を行うこともありえた。
   そして寛文6(1666)年朝鮮に漂着Lた大谷船の場合、乗員22名の生国の内訳は、伯耆13名・隠岐9名であった(竹島考・大谷之船漂到朝鮮国)。
   万治3年〜延宝9(1660-81)年の間の時期には、材木伐採を目的に大谷・村川以外の「他所の者」が竹島に入り込み、「脇より訴訟人達の六ケ敷事出来」という(大谷家2-20.29)。
   また、享保7(1722)年、石見国安濃郡の3名が7年以前に竹島で潜商行為をはたらいたとして処分された(内藤正中1995、16頁)。
   さらに[史料8]に登場する鳥取城下の初期商人石井宗悦は何らかのかたちで竹島渡海に関与しようとした、
   おそらく因幡国も含めて山陰地域の人々には竹島渡海とその利益にあずかる可能性があり、大谷と村川が互いに競争者となりうる可能性すら皆無ではなかつた。
   このように藩領を越えた各地に潜在的に競合する勢カがあったから、大谷・村川は鳥取藩の免許ではなく幕府の免許をこそ求めた。それが「寛永初年竹島渡海免許」であった。そうして競合する勢カを排除しあるいは配下に収めながら、大谷・村川は竹島渡海の利権を排他的に確保Lていった。
   もっとも「竹島渡海免許」は寛永2年(又は元年)の一回限りに発給されたものであり、その後更新されることはなかった。そのため「竹島渡海免許」発給を機に始められた公義御目見と、そこに形成された幕閣とのつながりを誇る由緒が、競合者を排除する役割を補完した。

re3)御老中様へ得御内意申候

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/04/19 12:08 投稿番号: [16456 / 18519]
   池内氏の論文に「史料7」が示されており、そこには「来年より竹島之内松島へ貴様舟御渡之筈に御座候旨、先年四郎五郎御老中様へ得御内意申候」とあります。*1)
   http://take8591.web.fc2.com/06web/9100etc/080417/ss07.jpg
   この意味は、次のようなものであると考えます。
   既に竹島渡海免許は発布済みであるが、来年より「竹島之内松島」への渡海免許を得たいとの申出があったので、老中に伺いを立てたところ、「竹島之内松島であれば、新しく渡海免許を発行するまでも無く、竹島渡海免許の拡大解釈で松島に渡海できる」との御内意を得た。

   現代風にいうと、本庁の課長である阿部四郎五郎が老中の内意を得たと、係長の亀山が民間業者の大谷に渡した文書と考えられます。この様に考えると、立派な公文書であり、松島領有の有力な証拠となります。

   しかし、外務省や島根県が、この文書を示しコメントを加えた事実を知りません。
   「国による資料や認識と個人的なそれとは峻別したいものです*2)」と述べられておられる半月城さんは、「江戸時代の史料に、松島(竹島=独島)は「竹嶋之内松島」「竹嶋近辺松嶋」「竹嶋近所之小嶋」などと書かれました。[No.16447]」と言われています。上記「史料7」は間違いなく公文書なのでしょう。
   又、henchin_pokoider01さんが、「幕府の領有意思を推認できる史料である」というような事を言われていたと記憶しますが、投稿noが判らないので判然としません。


  *1)次の1999年の池内氏の論文「竹島渡海と鳥取藩」より抜粋
    http://www.kr-jp.net/ronbun/ikeuchi/ikeuchi1999.pdf
  *2)本掲示板[No.886]、及び歴史資料から考える独島論争(2007年3月発行)

Re: ソウルからヨボセヨ 韓国で“竹島”人

投稿者: kohshien21c 投稿日時: 2008/04/18 11:23 投稿番号: [16455 / 18519]
マヌケなレスだな。

火病を発症し、脊髄反射か。笑

逃げ回り、論理的思考の出来ぬバカチョン。

量産型雑魚の典型だな。

よって、お前はそろそろ放置だな。

Re: ソウルからヨボセヨ 韓国で“竹島”人

投稿者: park_sinyang_corea 投稿日時: 2008/04/17 12:41 投稿番号: [16454 / 18519]
>ま、良い。最後は武力行使しかないからな。

おまえが兵隊になって渡航して奪還してみろよ。
おまえが手本を見せてみろよ。おまえが率先してやってみろよ。
ネットのチキンボーイよ。

Re: ソウルからヨボセヨ 韓国で“竹島”人

投稿者: kohshien21c 投稿日時: 2008/04/17 12:38 投稿番号: [16453 / 18519]
対馬を持ち出し、問題すり替えかよ。

朝鮮人の思考回路は何本か断裂してるな。バカ丸出しだぜ。

>韓国領土に対する文句だけでなくロシアとも中国とも領土問題紛争を頻繁に起こす日本。

尖閣諸島は、古来より日本の領土。SF条約締結後米国から返還された。その時点では中国は異論をまったく唱えなかった。

しかし、尖閣諸島近海で石油など地下資源の埋蔵があると発表されたあと、覇権主義の支那が難癖つけてきたもの。支那は南沙諸島問題でもベトナム、フィリピン、マレーシアと紛争してるぜ。

北方4島は、戦後のどさくさに紛れロシアが不法占拠した日本の領土。それを返せというのが何処が悪い。

何も知らんバカの分際で卑劣なことを書くなよ。朝鮮人

おい、それよか、サッサと高裁司法裁判所で決着つけようじゃないか。

お前朝鮮人が、屁理屈つけて逃げ回ってるのは、裁判だと負けると内心で思ってるのだろ。

ま、良い。最後は武力行使しかないからな。

Re: ソウルからヨボセヨ 韓国で“竹島”人

投稿者: takigawamasuuji 投稿日時: 2008/04/17 11:44 投稿番号: [16452 / 18519]
>頭がおかしいのはお前だろう。たとえば、対馬島が韓国の地と主張したら日本人はどう思う?あまりに荒唐無稽だろう。それと同じくらい荒唐無稽を日本は韓国に主張していることが理解できないか?

アホか?対馬と同じで、竹島は日本領だっつうのwww
無知はだまっとれや?カスが
日本領なのに、竹島主張を抜かすから、だったら国際裁判でけりとつけろって言ってんだよ。ボケ
同様に、対馬の領有を韓国が言うなら、国際裁判で蹴りをつけてやんよ。それをしねえから貴様ら朝鮮人は、国際条約も守らないカス民族だって言われてんだろうがボケナス

Re: ソウルからヨボセヨ 韓国で“竹島”人

投稿者: park_sinyang_corea 投稿日時: 2008/04/17 11:17 投稿番号: [16451 / 18519]
>お前、頭おかしいのじゃないか。そんな証明はされてない。

頭がおかしいのはお前だろう。たとえば、対馬島が韓国の地と主張したら日本人はどう思う?あまりに荒唐無稽だろう。それと同じくらい荒唐無稽を日本は韓国に主張していることが理解できないか?
自国領土なのにそもそも証明する必要がない。当然のこと。

韓国領土に対する文句だけでなくロシアとも中国とも領土問題紛争を頻繁に起こす日本。
いったい他国の領土をどれだけ侵奪すれば満足するのか?
もう21世紀なのに帝国主義的野心は捨てたら?強欲すぎると思わないか?

このまますれば、本当にアジアの孤児に続けるだぞ。

Re: ソウルからヨボセヨ 韓国で“竹島”人

投稿者: kohshien21c 投稿日時: 2008/04/17 10:17 投稿番号: [16450 / 18519]
>そもそも自国の領土なのに、日本が文句を言うからといって裁判をする必要は全くない。

お前、頭おかしいのじゃないか。そんな証明はされてない。

日本が敗戦後、連合軍の統制下で主権を失っているときに

日韓併合の実態を知らぬ米国帰りの李承晩が勝手に李承晩ラインを引いて

日本領の竹島を組み込んだに過ぎない。

だから、領土問題になってるのだろ。

グダグダいわず、国際司法裁判所で決着つければよいだけじゃないか。

日本の外務省はそれを表明してきたが、逃げ回ってるのは韓国。

逃げ回る理由は、韓国政府が後ろめたく思ってるとしか断じようがないな。

おい泥棒やろう。さっさとお白州にでて決着をつけようぜ。

そうすりゃ、お前等朝鮮人が持ち出す下らん資料がいかさまかどうかはっきり判る。

自信があるならグズグズせず、サッサト行動しろ。

時間延ばしはお前等には不利、憲法改正すれば、武力にて竹島の主権を奪回できるようになる。

平和裏に解決したけりゃ、裁判で争え。バカな朝鮮人ども

Re: ソウルからヨボセヨ 韓国で“竹島”人

投稿者: takigawamasuuji 投稿日時: 2008/04/16 22:08 投稿番号: [16449 / 18519]
手前は、SF条約でも勉強してこい。とんだ無知野郎

>韓国戦争特需で経済成長した漁夫の利国家
大爆笑wwwなんも知らん典型的な在日か?

>そもそも自国の領土なのに、日本が文句を言うからといって裁判をする必要は全くない。
>いちゃもんをつけるのはやくざと一緒でしょう。
国際常識すらない愚か者には、理解出来まい?ww

笑わせる

投稿者: takigawamasuuji 投稿日時: 2008/04/16 21:57 投稿番号: [16448 / 18519]
お前のその理論で行くなら、当然韓国領土だと言う根拠もないわけだ?さすがだな?お前たちの理論は?滑稽だ

外務省パンフレットへの批判3、(2)

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/04/16 21:11 投稿番号: [16447 / 18519]
   かつて、外務省は江戸時代における領有権の根拠として必要な要件を次のように主張していました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   開国以前の日本には国際法の適用はないので、当時にあっては、実際に日本の領土として取り扱い、他の国がそれを争わなければ、それで領有するには十分であったと認められる(注5)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   ここに書かれた「実際に日本の領土として取り扱い」という要件を満たすためには、竹島=独島が官撰書や官撰図などの公文書にしかるべく記載されていることが必要です。しかし、そのような公文書は存在しません。
   公文書では、次節にみるように、史料『竹島之書附』などで竹島=独島は日本領でないとされます。さらに、官撰図でいえば、幕府の絵図や伊能忠敬などの地図に竹島=独島が記載されていないことは周知のとおりです。一方、鳥取藩の一部の地図に竹島=独島が記載されていますが、これは次節にみるように、当の鳥取藩が竹島=独島は自藩領でないと明言しているので問題外です。
   なお、長久保赤水の「日本輿地路程全図」を堀和生氏は官撰地図としていますが、赤水図はたとえ幕府の許可を得たとしても、幕府が発行したものではないので官撰地図とは呼べません。

   結局、日本は17世紀に竹島=独島を「日本の領土」ではないと考えていたことが明らかです。それでは、日本は同島をどこの領土と考えていたのでしょうか?

   江戸時代の史料に、松島(竹島=独島)は「竹嶋之内松島」「竹嶋近辺松嶋」「竹嶋近所之小嶋」などと書かれました。松島は竹島(欝陵島)の属島として扱われたことが明らかです(注6)。
   松島は、松の木が一本もないにもかかわらず松島と呼ばれたのは、竹島とペアで考えられ、縁起物の松竹という発想から命名されたようです。外務省が強調する赤水図でも両島はペアないしは一体に表記され、両島間に「見高麗猶雲州望隠州」などの書き込みがなされました。同図で松島・竹島は密接不可分の関係です。

   つぎに、ペアの一方である竹島(欝陵島)が朝鮮領と考えられていたことは幕府の外交文書を収めた『通航一覧』から明らかです。同書の巻129に「元和六庚申年、宗對島守義成、命によりて、竹島[朝鮮國屬島]に於て潜商のもの二人を捕へて、京師に送る」と書かれ、竹島は朝鮮国の属島とされました。。
   同書にいう潜商とは鷺坂弥左衛門・仁右衛門親子ですが、かれらが磯竹島(欝陵島)で材木を伐っていることが朝鮮に知られ、それを朝鮮通信使から指摘されたので、幕府としてはかれらを捕えざるを得なかったのでした。
   また、かれらを捕えた対馬藩は、かつて欝陵島へ移住したいと朝鮮へ申入れ、それを朝鮮から拒否されたことがありました。このように当時の幕府および対馬藩は欝陵島を朝鮮領と認識していたのでした。

   そのような欝陵島の属島である松島(竹島=独島)で大谷・村川両家が漁獲を行うことは、朝鮮国での密漁ないし略奪行為になることはいうまでもありません。そうした密漁や略奪を重ね、それを根拠に「領有権を確立した」と主張するのは、空き巣犯の居直りではないでしょうか。

(注1)塚本孝「竹島領有権をめぐる日韓両政府の見解」
   『レファレンス』2002.6月号,P52
(注2)池内敏<「隠州視聴合記(紀)」の解釈をめぐって>
   『大君外交と「武威」』2006,P323
(注3)大西俊輝『続日本海と竹島』東洋出版,2007
(注4)塚本孝「竹島領有権問題の経緯」『調査と情報』第289号、1996,P2
(注5)外務省情報文化局「竹島の領有権問題の国際司法裁判所への付託につき韓国政府に申入れについて」『海外調査月報』1954年11月,P70
(注6)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』(復刻版)古今書院、1996、P74,78,80

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

外務省パンフレットへの批判3、(1)

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/04/16 21:08 投稿番号: [16446 / 18519]
3.(江戸時代の領有権)
  外務省曰「日本は、鬱陵島に渡る船がかり及び漁採地として竹島を利用し、
   遅くとも17世紀半ばには、竹島の領有権を確立しました」

   外務省の「竹島」パンフレットは日本が17世紀半ばに「竹島の領有権」を確立した根拠として、大谷・村川両家が竹島=独島を下記のように利用したと記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   隠岐から鬱陵島への道筋にある竹島は、航行の目標として、途中の船がかりとして、また、あしかやあわびの漁獲の好地として自然に利用されるようになりました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   驚いたことに、パンフレットで外務省のいう根拠はこれがすべてです。一体、以前の公式見解はどうなったのでしょうか?   かつての外務省は下記のように主張していました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   欝陵島への往復の途次、船がかりの地として、またアワビ等の魚採地として利用されていたのが当時松島の名でよばれていた今日の竹島であり、この島に対して大谷、村川両家が、さきの鬱陵島と同じく幕府から渡海免許を受けるようになったのは、明暦2年(1656年)またはそれ以降のことであった。
  ・・・
  『隠州視聴合紀』(1667年)も、松島(今の竹島)及び竹島(鬱陵島)をもって日本の西北の限界と見ている(注1)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   もし、かつての外務省がいうように、大谷・村川両家が幕府から「松島渡海免許」を受けていたのなら、幕府は竹島=独島に領土意識をもっていたことになり、領有の有力な根拠になります。
   また 1667年当時、隠岐国を管轄する雲州松江藩の命により編纂された『隠州視聴合紀』に竹島・松島が日本の西北の限界であると書かれていたのなら、これも竹島=独島に対する領有の強力な根拠になります。

   しかし、なぜかパンフレットはそうした有力な「根拠」を満載した過去の主張には一切ふれませんでした。特に『隠州視聴合紀』の解釈に関していえば、その解釈をめぐって韓国政府から日本の西北の限界は隠岐であるとの指摘を受けたにもかかわらず、それに対する反論がないばかりか、その後も『隠州視聴合紀』に関して沈黙したままでした。
   これは韓国政府がいうように、やはり日本の西北の限界を竹島・松島とするのは無理だと判明したからではないでしょうか。『隠州視聴合紀』で竹島(欝陵島)は御朱印を受けた船が行く場所と認識されていたのでした。
   外務省に追いうちをかけるように、池内敏氏は日本の西北の限界は竹島・松島でなく、隠岐島であることを論証しました(注2)。また、『隠州視聴合紀』を徹底分析した大西俊輝氏も同様の論証をしました(注3)。

   他方、外務省が「松島渡海免許」についても沈黙しているのは、やはりその主張も無理だと判断したからではないでしょうか。国会図書館の塚本孝氏も渡海免許は「恐らく出されなかった」と記しました(注4)。下條正男氏ですら「松島渡海免許」を主張していないようです。

   日本におけるこのような研究の結果、外務省のかつての主張は音もなく崩れさったようです。それは砂上の楼閣のような存在でした。その結果、外務省はパンフレットに書かれていることくらいしか領有権の根拠を見出せないようですが、それが不十分であることは明らかです。

南洋諸島及濠洲航海報告 &長野五輪

投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2008/04/16 21:04 投稿番号: [16445 / 18519]
通常聖火リレーは祝福されるのが普通なのですが、今回ばかりは違いますね。長野の聖火リレーまでちょうど10日後となりました。そこで来週土曜日までの尖閣掲示板エンディングテーマが決まりました。

さて、掲題の件ですが、下記に『軍艦金剛南洋諸島及濠洲航海報告』を掲載します。
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/kongo-1900/

http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/
(後日掲載予定)

next, coming up
『朝鮮半島図』陸地測量部刊(S19)
『大東新報』 1905年9月
『大韓毎日申報』 1905年9月22日
『大韓毎日申報』 1906年5月1日
シリーズ「竹島の車窓から」米子編〜北九州編まで
『地学雑誌』の文章起こし開始(継続中)
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/chigakuzasshi/
次回は「出雲丸が沖縄県庁に報告書提出」の文章起こしをします。
『琉球国図』
『朝鮮国全図』(木村文造)
『韓国水産業調査報告』
『軍艦金剛南洋諸島及濠洲航海報告』(本日アップロード完了!)
『最近朝鮮事情要覧』
『Korea and Her Neighbours』
『遊歴日本図経』
『大日本輿地図』
『韓国地理』


今週の尖閣掲示板エンディングテーマ
「長野オリンピック ゴールドメダルラッシュ」
http://www.youtube.com/watch?v=UxjA_3hS6oY&feature=related

「スキージャンプ団体 感動の金メダル」
http://www.youtube.com/watch?v=0Cbb3MPqIR0&feature=related
「船木〜」って原田が言っていたのが印象的でしたね。

Re: 察するに

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/04/16 11:44 投稿番号: [16444 / 18519]
  目的意識の違うもの同士ですから、ある程度話がかみ合わないのは仕方のないところです。
  領有権の所在しか眼中にないような(韓国人にせよ、日本人にせよ)方たちは、どっちに有利とか不利とか、そういう話に持って行きたがる傾向が見受けられますが、問題の性質上致し方ない面はありますが、いい加減うざったいのも事実です。

  さて、于山島=獨島だという認識は必ずしも一般的ではないのは、そのとおりでしょう。
  特殊な時代背景を勘案すれば、なおのことでしょうね。

Re: 察するに

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2008/04/16 10:54 投稿番号: [16443 / 18519]
ようするに于山島というものがどこなのか当時は意見の一致を見ていなかったということですよ。

私は何回も「于山島=竹島」という論が併合当時の世論の中にないと言いましたが、逆のアリバイが存在したわけですよ。
だめ押しってやつですね。

于山島は倭の松島なりという記述がいくら文書にあっても、そこから于山島=獨島だという認識は一般的ではなかったということです。

どうと言うこともない話しじゃないですね。

Re: 察するに

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/04/16 09:24 投稿番号: [16442 / 18519]
  「韓国側」が具体的に何を特定した用語なのか良く分かりませんが、倭政(併合時代)当時、民間人が于山島の在処を的確に把握していなかったのは確かでしょうね。
  こういう歴史の破片は大変貴重なもので、一つの側面だけでなく、他の様々な事象と結びついて立体的な解明に役立つものです。単に領有権云々に猪突猛進するのは(気持ちは理解しますけれども)その人の勝手ですけどね(笑)

Re: 察するに

投稿者: chaamiey 投稿日時: 2008/04/15 22:02 投稿番号: [16441 / 18519]
  1913年当時、鬱陵島の住民も毎日申報も于山島がどこにあるのか知らなかったことは、歴史上の事実の問題としては特にどうということもない話です。しかし、この事実は、竹島問題をめぐる韓国側の主張のうちの一つ、すなわち、独島は古くから于山島と呼ばれ朝鮮はその存在を知り領有してきた、という類の主張が事実ではないことを示しているわけで、現代における竹島問題論争においては、韓国側の主張の虚構性を示す極めて価値ある良い史料になっています。

朝鮮変乱詳細地図 & 台湾論と日本論

投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2008/04/15 20:58 投稿番号: [16440 / 18519]
凄く良い本を今日見つけました。ズバリ「台湾論と日本論」です。謝さんの本は文章に温かみがあります。韓国人が書いた「イルボヌン・オプタ」とは全然違いますね。第一章の「私の日本好きの原点」で「父の思い出」「母の思い出」の小見出しがありますが、まさに台湾人の親日は親の影響を過分に受けていると思います。

あと41ページの「日本人は、台湾人の親日を信じたくない?」を読んでいて、むかしの朝生を思い出しました。金美齢さんが日本人を評価する発言をした後、大島監督が怒鳴って「俺は台湾人が親日だとは信じない。そういうこと言うから日本人は台湾人の親日に甘えてダメになるんだ!」的な発言をしていました。金さんはその発言に憤慨して「好きなものを好きと言ってなにがいけないの?」と言っていました。

我々日本人は、かの国の国民から「馬鹿野郎・この野郎」発言を嫌というほど聞かされ、身に染みておりますから、台湾人の親日発言を聞くと、ある種の日本人は「そんなことない。俺たちはやはり馬鹿野郎この野郎の国民なんだ」とパブロフの犬のように条件反射(ここでは自己下卑)してしまうのでしょう。

さて、掲題の件ですが、下記に『朝鮮変乱詳細地図』を掲載します。
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/chosenhenran-1894/
(韓国人の捏造主張を防ぐため、鬱陵島拡大図はコメント挿入予定)

http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/
(後日掲載予定)

next, coming up
『朝鮮半島図』陸地測量部刊(S19)
『皇城新聞』1900年9月23日
『皇城新聞』1906年5月9日
『皇城新聞』1906年7月13日
『大東新報』 1905年9月
『大韓毎日申報』 1905年9月22日
『大韓毎日申報』 1906年5月1日
シリーズ「竹島の車窓から」米子編〜北九州編まで
『地学雑誌』の文章起こし開始(継続中)
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/chigakuzasshi/
次回は「出雲丸が沖縄県庁に報告書提出」の文章起こしをします。
『琉球国図』
『朝鮮変乱詳細地図』(本日アップロード完了!)
『朝鮮国全図』(木村文造)
『韓国水産業調査報告』
『軍艦金剛南洋諸島及濠洲航海報告』
『最近朝鮮事情要覧』
『Korea and Her Neighbours』
『遊歴日本図経』
『大日本輿地図』
『韓国地理』


今週の尖閣掲示板エンディングテーマ
「"独島=韓国の独島"立証する日本古地図発見」
http://www.youtube.com/watch?v=6Ke2NpT6m4w
日本古地図発見…保坂祐二教授   その①
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=96397&servcode=A00§code=A10
日本古地図発見…保坂祐二教授   その②
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=96398&servcode=400§code=420
独島を韓国領と記した日本地図発見、保坂世宗大教授
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080222-00000012-yonh-kr

Re: ソウルからヨボセヨ 韓国で“竹島”人

投稿者: park_sinyang_corea 投稿日時: 2008/04/15 15:21 投稿番号: [16439 / 18519]
>というよりは、確固たる国家観でなく、下らん民族主義による反日の材料に過ぎない。だからハーグ国際法廷で白黒つけるのが怖いのが本音だろう。

そもそも自国の領土なのに、日本が文句を言うからといって裁判をする必要は全くない。
いちゃもんをつけるのはやくざと一緒でしょう。

韓国戦争特需で経済成長した漁夫の利国家はロシアとも中国とも領土問題を抱えている。
いい加減強欲を抑制したほうがいいと思うが。
欲張るにも程度があるのでは?

Re: 察するに

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/04/15 13:26 投稿番号: [16438 / 18519]
  ほほう、どうということもない話ですか。
  なるほど。

  ご指摘の通り、金元俊なる人物は独島が于山島とは考えなかったようですが、同時に竹島(日本名:竹嶼)や観音島が于山島とも考えなかった、当時の意識も窺い知ることが出来ました。
  このことで、現地人の感覚では竹島(日本名:竹嶼)や観音島を于山島に比定するのは相当な無理があるとの感を一層強くしました。おかげさまで、よい史料を拝見させていただきました。

re3)徳川初期の鬱陵島領有意識

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/04/15 01:28 投稿番号: [16437 / 18519]
  通航一覧129巻に次のとおりです。
  http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka49/tukoichiran-1853/3-06.jpg
   元和六庚申年、宗對馬守義成、命によりて、竹島(朝鮮國屬島)に於て潜商のもの二人を捕へて京師に送る(その罪科いま所見なし)、 -- 以下省略 --
  ----------------------------
   この様に、鬱陵島に対する警察権を徳川幕府が有していたことが明らかです。
   ここにおいて、「竹島(朝鮮國屬島)」の部分のみを捉えて、初期の徳川政権が鬱陵島を朝鮮領と認識していたと主張する人がいますが、この按記は幕末の徳川政権がしたものであり、この認識の変化に合理的理由があるのですから、かかる主張は成立しません。


  又、万機要覧に次のとおりです。
  http://toron.pepper.jp/jp/take/tizu/mankiyouran.html
   倭人が言うには 「鬱陵島が貴国の領土であったことはよく分かるが、壬辰の乱の後には、日本の所になり、人が占拠していると貴国の 《芝峯類説》に書いてあるのではないか?」と言った。
   首席歴官・朴再興が言うには、「芝峯類説の中には誠にその言葉がある。しかし、あるこれにあるからといって、それを絶対にそのように見てはいけない。壬辰の乱の時に、日本兵が我が境の中に深く入って来て、西方では平安道に至ったし、北では咸境道まで至った。大小の海岸地方の郡邑たちは、皆、乱の兵に占領されたところ、鬱陵一島もそうではない。どうして壬辰乱の時に乱の兵たちが占拠したことをもって言うのか?   類説の所論を援用することはできない。さらに文士の一時的な漫筆で何を明らかに証明するになるか」と言った。
  ----------------------------
   この様に、徳川初期において、鬱陵島は「征服」によって日本領となっていたと、朝鮮政府が認めているのです。朝鮮政府が言っているのは、「併合」とか「割譲」による領有権の移転が無いというものに過ぎません。


  世界2005年6月号に、内藤氏の論文が載っています。
   朝鮮政府は15世紀以来、島に人がいたら倭寇が攻めてくるといって、鬱陵島を無人にする空島政策をとってきていたが、もちろん領有権を放棄したわけではない。米子町人は無人島であるために渡海事業をつづけることができたが、それは空家に持主の了解なしに入り込み、宝物を奪って帰るに似た行為といわねばならず、そうした泥棒行為を外務省のホームページのように、「我が国は、遅くとも17世紀半ばには、実効的支配に基づく竹島の領有権を確立していた」というわけにはゆかないのである。
  ----------------------------
   この様に、国家権力が個人財産を保護している論理を、国家間の領有権問題に適用して我論を維持する学者がいます。鬱陵島開発が「泥棒行為」でないことは上のとおりです。仮に、この論理が許されるとして、「空家に持主の了解なしに入り込み、宝物を奪って帰る・・・行為」を平穏に70年間ものあいだ継続した場合、「時効」による取得が成立するのが普通です。
   尚、元禄期の竹島の話をしていて、結論だけ現竹島の話にしてしまうのは、よく取られる詐術です。

Re: 察するに

投稿者: chaamiey 投稿日時: 2008/04/14 23:03 投稿番号: [16436 / 18519]
鬱陵島に住む金元俊なる人物は竹島が于山島だとは考えなかったと同時に、このことを報道した毎日申報も于山島の所在について格別の知識は無かったわけですが、これらのことは、歴史上の事実としては別にどうということもない話ですね。

察するに

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/04/14 21:15 投稿番号: [16435 / 18519]
  1913年頃の様子が良く分かります。

1.日本海軍の発行する海図を民間人が入手できた(これは以前指摘したとおり、市販されている)
2.民間にも絵図が伝承されており、欝陵島から相当な距離(北東に4〜50里)に于山島があるとの認識があった。

  その民間人は、海図に記載された獨島(日本名竹島)を于山島だとは考えなかったと同時に、竹嶼とも考えなかったわけですか。
  ふむ

Re: 于山島はどこ? in 1913

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/04/14 20:47 投稿番号: [16434 / 18519]
  興味深い記事ですね。

  欝島郡が慶尚南道から慶尚北道へ移管されるのが丁度その頃です。移管後、時を置かずに「郡」から「島」へ格下げになりますので、1914~15年頃には欝島郡の名称は消滅します。
  1915年の職員録には欝陵島島司茶谷榮治郎の記載があります。
  また、その頃の海図には、勿論「于山島」の記載はなく(「石島」もない)冒険心旺盛な島民が海図にない島を探検したくなったのでしょうか。

Re: 外務省パンフレットへの批判2、(3)

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/04/14 19:45 投稿番号: [16433 / 18519]
  Am I AHOです。

  半月城さん
>   おわりにパンフレットは『新増東国輿地勝覧』の付属絵図を批判しましたが、そもそも絵図は地図と違って、不正確なのが特徴です。しかも『東国輿地勝覧』のように16世紀の絵図とあっては、離島などはその位置や大きさなど、ほとんどデタラメに近くて当然です。

  確かに仰るとおり、16世紀頃の絵図を無理無理地図に重ね合わせれば、位置や大きさなどは、ほとんどデタラメに近くて当然です。
  しかし17世紀から18世紀にかけての「欝陵島図形」では、于山島は「大于山」と「小于山」として記されるなど、現実の独島(東島と西島)に近い表現がされているようです。
  これは三峰島探査の結果、島の中央部に通水していることが判明した結果が、絵図に反映しているものと思われます。

10)竹島紛争の平和的解決を

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/04/14 18:06 投稿番号: [16432 / 18519]
10   日本は竹島の領有権に関する問題を国際司法裁判所に付託することを提案していますが、韓国がこれを拒否しています。

   10-1   我が国は、韓国による「李承晩ライン」の設定以降、韓国側が行う竹島の領有権の主張、漁業従事、巡視船に対する射撃、構築物の設置等につき、累次にわたり抗議を積み重ねました。そして、この問題の平和的手段による解決を図るべく、1954(昭和29)年9月、口上書をもって竹島の領有権問題を国際司法裁判所に付託することを韓国側に提案しましたが、同年10月、韓国はこの提案を拒否しました。また、1962(昭和37)年3月の日韓外相会談の際にも、小坂善太郎外務大臣より崔徳新韓国外務部長官に対し、本件問題を国際司法裁判所に付託することを提案しましたが、韓国はこれを受け入れず、現在に至っています。

   10-2   国際司法裁判所は、紛争の両当事者が同裁判所において解決を求めるという合意があって初めて動き出すという仕組みになっています。したがって、仮に我が国が一方的に提訴を行ったとしても、韓国側がこれに応ずる義務はなく、韓国が自主的に応じない限り国際司法裁判所の管轄権は設定されないこととなります。

   10-3   1954年に韓国を訪問したヴァン・フリート大使の帰国報告(1986年公開)には、米国は、竹島は日本領であると考えているが、本件を国際司法裁判所に付託するのが適当であるとの立場であり、この提案を韓国に非公式に行ったが、韓国は、「独島」は鬱陵島の一部であると反論したとの趣旨が記されています。

9)韓国による不法占拠

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/04/14 18:01 投稿番号: [16431 / 18519]
9   韓国は竹島を不法占拠しており、我が国としては厳重に抗議をしています。

   9-1   1952(昭和27)年1月、李承晩韓国大統領は「海洋主権宣言」を行って、いわゆる「李承晩ライン」を国際法に反して一方的に設定し、そのライン内に竹島を取り込みました。

   9-2   1953(昭和28)年3月、日米合同委員会で竹島の在日米軍の爆撃訓練区域からの解除が決定されました。これにより、竹島での漁業が再び行われることとなりましたが、韓国人も竹島やその周辺で漁業に従事していることが確認されました。同年7月には、不法漁業に従事している韓国漁民に対し竹島から撤去するよう要求した海上保安庁巡視船が、韓国漁民を援護していた韓国官憲によって銃撃されるという事件も発生しました。

   9-3   翌1954(昭和29)年6月、韓国内務部は韓国沿岸警備隊の駐留部隊を竹島に派遣したことを発表しました。なお、同年8月には、竹島周辺を航行中の海上保安庁巡視船が同島から銃撃され、これにより韓国の警備隊が竹島に駐留していることが確認されました。

   9-4   韓国側は、現在も引き続き警備隊員を常駐させるとともに、宿舎や監視所、灯台、接岸施設等を構築しています。

   9-5   韓国による竹島の占拠は、国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠であり、韓国がこのような不法占拠に基づいて竹島に対して行ういかなる措置も法的な正当性を有するものではありません。このような行為は、竹島の領有権をめぐる我が国の立場に照らして決して容認できるものではなく、竹島をめぐり韓国側が何らかの措置等を行うたびに厳重な抗議を重ねるとともに、その撤回を求めてきています。

8)日米行政協定に竹島あり

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/04/14 18:01 投稿番号: [16430 / 18519]
8   竹島は、1952年、在日米軍の爆撃訓練区域として指定されており、日本の領土として扱われていたことは明らかです。

   8-1   我が国がいまだ占領下にあった1950(昭和25)年7月、連合国総司令部は、連合国総司令部覚書(SCAPIN)第2160号をもって、竹島を米軍の海上爆撃演習地区として指定しました。

   8-2   1952(昭和27)年7月、米軍が引き続き竹島を訓練場として使用することを希望したことを受け、日米行政協定(注:旧日米安保条約に基づく取極。現在の日米地位協定に引き継がれる。)に基づき、同協定の実施に関する日米間の協議機関として設立された合同委員会は、在日米軍の使用する爆撃訓練区域の一つとして竹島を指定するとともに、外務省はその旨を告示しました。

   8-3   日米行政協定によれば、合同委員会は「日本国内の施設又は区域を決定する協議機関として任務を行う。」とされていました。したがって、竹島が合同委員会で協議され、かつ、在日米軍の使用する区域としての決定を受けたということは、とりも直さず竹島が日本の領土であることを示しています。

7)SF条約で竹島領有権を維持した

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/04/14 17:59 投稿番号: [16429 / 18519]
7   サンフランシスコ平和条約起草過程で、韓国は、日本が放棄すべき領土に竹島を含めるよう要請しましたが、米国は竹島が日本の管轄下にあるとして拒否しました。

   7-2   1951(昭和26)年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約は、日本による朝鮮の独立承認を規定するとともに、日本が放棄すべき地域として「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定しました。

   7-3   この部分に関する米英両国による草案内容を承知した韓国は、同年7月、梁(ヤン)駐米韓国大使からアチソン米国務長官宛の書簡を提出しました。その内容は、「我が政府は、第2条a項の『放棄する』という語を『(日本国が)朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、独島及びパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を1945年8月9日に放棄したことを確認する。』に置き換えることを要望する。」というものでした。

   7-4   この韓国側の意見書に対し、米国は、同年8月、ラスク極東担当国務次官補から梁大使への書簡をもって以下のとおり回答し、韓国側の主張を明確に否定しました。
     「 ・・・合衆国政府は、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が同宣言で取り扱われた地域に対する日本の正式ないし最終的な主権放棄を構成するという理論を(サンフランシスコ平和)条約がとるべきだとは思わない。ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない。・・・・」
     これらのやり取りを踏まえれば、竹島は我が国の領土であるということが肯定されていることは明らかです。

   7-5   また、ヴァン・フリート大使の帰国報告(10.参照)にも、竹島は日本の領土であり、サンフランシスコ平和条約で放棄した島々には含まれていないというのが米国の結論であると記されています。

6b)石島への観念的領有意思

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/04/14 17:26 投稿番号: [16428 / 18519]
6   大韓帝国は、1900年、石島が鬱陵郡の管轄下にあると宣言しましたが、石島の位置を明らかにせず、又石島への行政行為を行いませんでした。

   6-5   朝鮮では、1900年の「大韓帝国勅令41号」により、鬱陵島を鬱島と改称するとともに島監を郡守とする旨公布した記録があるとされています。そして、この勅令の中で、鬱陵郡が管轄する地域を「鬱陵全島と竹島、石島」と規定しており、この「竹島」は鬱陵島の近傍にある「竹嶼(ちくしょ)」という小島であるものの、「石島」はまさに現在の「独島」を指すと指摘する研究者もいます。その理由は、韓国の方言で「トル(石)」は「トク」とも発音され、これを発音どおりに漢字に直せば「独島(トクド)」につながるためというものです。

   6-6   しかし、「石島」が今日の竹島(「独島」)であるならば、なぜ勅令で「独島」が使われなかったのか、また、韓国側が竹島の旧名称であると主張する「于山島」等の名称が使われなかったのか、また、「独島」という呼び名はいつからどのように使われるようになったのか、という疑問が生じます。

   6-7   いずれにせよ、仮にこの疑問が解消された場合であっても、同勅令の公布前後に、朝鮮が竹島を実効的に支配してきたという事実はなく、韓国による竹島の領有権は確立していなかったと考えられます。

6a)竹島領有意思の再確認

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/04/14 17:24 投稿番号: [16427 / 18519]
6   日本政府は、1905年、竹島を島根県に編入して、竹島を領有する意思を再確認しました。

   6-1   今日の竹島において、あしかの捕獲が本格的に行われるようになったのは、1900年代初期のことでした。しかし、間もなくあしかの捕獲は過当競争の状態となったことから、島根県隠岐島民の中井養三郎は、その事業の安定を図るため、1904(明治37)年9月、内務・外務・農商務三大臣に対して「りやんこ島」(注)の領土編入及び10年間の貸し下げを願い出ました。
    (注)「りやんこ島」は、竹島の洋名「リアンクール島」の俗称。当時、ヨーロッパの探検家の測量の誤りなどにより、鬱陵島が従来の「竹島」に加え「松島」とも呼ばれるようになり、現在の竹島は従来の「松島」とともに、「りやんこ島」と呼ばれるようになっていました。

   6-2   中井の出願を受けた政府は、島根県の意見を聴取の上、竹島を隠岐島庁の所管として差し支えないこと、「竹島」の名称が適当であることを確認しました。これをもって、1905(明治38)年1月、閣議決定によって同島を「隠岐島司ノ所管」と定めるとともに、「竹島」と命名し、この旨を内務大臣から島根県知事に伝えました。この閣議決定により、我が国は竹島を領有する意思を再確認しました。

   6-3   島根県知事は、この閣議決定及び内務大臣の訓令に基づき、1905(明治38)年2月、竹島が「竹島」と命名され隠岐島司の所管となった旨を告示するとともに、隠岐島庁に対してもこれを伝えました。なお、これらは当時の新聞にも掲載され広く一般に伝えられました。

   6-4   また、島根県知事は、竹島が「島根県所属隠岐島司ノ所管」と定められたことを受け、竹島を官有地台帳に登録するとともに、あしかの捕獲を許可制としました。あしかの捕獲は、その後、第二次世界大戦によって1941(昭和16)年に中止されるまで続けられました。

5)安龍福の供述に疑問あり

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/04/14 17:22 投稿番号: [16426 / 18519]
5   韓国が自国の主張の根拠として用いている安龍福の供述には、多くの疑問点があります。

   5-1   幕府が鬱陵島へ渡航を禁じる決定をした後、安龍福は再び我が国に渡来しました。この後、再び朝鮮に送還された安龍福は、鬱陵島への渡航の禁制を犯した者として朝鮮の役人に取調べを受けますが、この際の安龍福の供述は、現在の韓国による竹島の領有権の主張の根拠の一つとして引用されることになります。

   5-2   韓国側の文献によれば、安龍福は、来日した際、鬱陵島及び竹島を朝鮮領とする旨の書契を江戸幕府から得たものの、対馬の藩主がその書契を奪い取ったと供述したとされています。しかし、日本側の文献によれば、安龍福が1693年と1696年に来日した等の記録はありますが、韓国側が主張するような書契を安龍福に与えたという記録はありません。

   5-3   さらに、韓国側の文献によれば、安龍福は、1696年の来日の際に鬱陵島に多数の日本人がいた旨述べたとされています。しかし、この来日は、幕府が鬱陵島への渡航を禁じる決定をした後のことであり、当時、大谷・村川両家はいずれも同島に渡航していませんでした。

   5-4   安龍福に関する韓国側文献の記述は、同人が、国禁を犯して国外に渡航し、その帰国後に取調べを受けた際の供述によったものです。その供述には、上記に限らず事実に見合わないものが数多く見られますが、それらが、韓国側により竹島の領有権の根拠の一つとして引用されてきています。

4)元禄期に竹島への渡航を禁止せず

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/04/14 17:19 投稿番号: [16425 / 18519]
4   日本は、17世紀末、鬱陵島への渡航を禁止しましたが、竹島への渡航は禁止しませんでした。

   4-1   幕府より鬱陵島への渡航を公認された米子の大谷・村川両家は、約70年にわたり、他から妨げられることなく独占的に事業を行っていました。

   4-2   1692年、村川家が鬱陵島におもむくと、多数の朝鮮人が鬱陵島において漁採に従事しているのに遭遇しました。また、翌年には、今度は大谷家が同じく多数の朝鮮人と遭遇したことから、安龍福、朴於屯(パク・オドゥン)の2名を日本に連れ帰ることとしました。なお、この頃の朝鮮王朝は、同国民の鬱陵島への渡航を禁じていました。

   4-3   状況を承知した幕府の命を受けた対馬藩(江戸時代、対朝鮮外交・貿易の窓口であった。)は、安と朴の両名を朝鮮に送還するとともに、朝鮮に対し、同国漁民の鬱陵島への渡航禁制を要求する交渉を開始しました。しかし、この交渉は、鬱陵島の帰属をめぐって意見が対立し合意を得るに至りませんでした。

   4-4   対馬藩より交渉決裂の報告を受けた幕府は、1696年1月、朝鮮との友好関係を尊重して、日本人の鬱陵島への渡航を禁止することを決定し、これを朝鮮側に伝えるよう対馬藩に命じました。この鬱陵島の帰属をめぐる交渉の経緯は、一般に「竹島一件」と称されています。

   4-5   その一方で、竹島への渡航は禁止されませんでした。このことからも、当時から、我が国が竹島を自国の領土だと考えていたことは明らかです。
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