竹島

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re3)竹島渡海免許の目的

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/04/19 12:09 投稿番号: [16457 / 18519]
   1999年の池内氏の論文「竹島渡海と鳥取藩」に次の内容がありました。

   「多聞院日記」天正20(1592)年5月19日条に、伯耆人弥七が「いそたき入参」を持参して奈良興福寺多聞院英俊のもとを訪れたとする記事がある。中村栄考はこの記事から、磯竹島が薬草としての人参の産地として知られていたことを推測する[中村業幸460頁]。
   元和4(1618)年七月、出雲三尾関の住人馬多三伊ら7名が鬱陵島出漁中に漂流して朝鮮に至り、
   元和6(1620)年には、ひそかに竹島渡海を行っていた対馬人弥左衛門・仁右衛門が捕えられて処罰された、
   こうした事例からすれば、寛永1(1624)年竹島渡海免許が大谷・村川両名に発給される以前、偶然の漂着ではなく意識的な竹島渡海を行う者が既に存在した。
   ここで、元和4年に竹島渡海を行ったのは出雲三尾関の住人であった。大谷・村川が竹島渡海を行う際には、米子から出雲雲津を経由して隠岐島後福浦へ渡リ竹島へかったというから、出雲・隠岐の住人が独カで竹島渡海を行うこともありえた。
   そして寛文6(1666)年朝鮮に漂着Lた大谷船の場合、乗員22名の生国の内訳は、伯耆13名・隠岐9名であった(竹島考・大谷之船漂到朝鮮国)。
   万治3年〜延宝9(1660-81)年の間の時期には、材木伐採を目的に大谷・村川以外の「他所の者」が竹島に入り込み、「脇より訴訟人達の六ケ敷事出来」という(大谷家2-20.29)。
   また、享保7(1722)年、石見国安濃郡の3名が7年以前に竹島で潜商行為をはたらいたとして処分された(内藤正中1995、16頁)。
   さらに[史料8]に登場する鳥取城下の初期商人石井宗悦は何らかのかたちで竹島渡海に関与しようとした、
   おそらく因幡国も含めて山陰地域の人々には竹島渡海とその利益にあずかる可能性があり、大谷と村川が互いに競争者となりうる可能性すら皆無ではなかつた。
   このように藩領を越えた各地に潜在的に競合する勢カがあったから、大谷・村川は鳥取藩の免許ではなく幕府の免許をこそ求めた。それが「寛永初年竹島渡海免許」であった。そうして競合する勢カを排除しあるいは配下に収めながら、大谷・村川は竹島渡海の利権を排他的に確保Lていった。
   もっとも「竹島渡海免許」は寛永2年(又は元年)の一回限りに発給されたものであり、その後更新されることはなかった。そのため「竹島渡海免許」発給を機に始められた公義御目見と、そこに形成された幕閣とのつながりを誇る由緒が、競合者を排除する役割を補完した。
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