「日本の固有領土」説の検証1
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2004/09/20 22:53 投稿番号: [5705 / 18519]
半月城です。
日本の外務省は「竹島は、歴史的事実に照らしても国際法上も明らかに日本の固有領土である」というのを常套句にしていますが、これは本当に根拠があるのでしょか? 今回はその根拠を検証したいと思います。
かつて、日本政府は韓国との竹島=独島論争で「固有領土」らしき根拠をこう説明しました。
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元和4年(1618年)の大谷、村川両家に対する幕府の竹島(鬱陵島)渡海免許以後は、両家が同島において独占的に漁採を行うようになったので、両家はもとより、一般も竹島(鬱陵島)をもって幕府から拝領したものと考えるに至った。
『隠州視聴合紀』(1667年)も、松島(今の竹島)及び竹島(鬱陵島)をもって日本の北西部の限界と見ている。
韓国側では、元和4年(1618年)の大谷、村川両家に対する幕府の竹島(鬱陵島)渡海免許をもって朱印状とみなし、朱印は外国貿易の許可であるから、竹島が韓国の主権下にあったことを十分承知していたといい、また、両家が許可されたのは鬱陵島方面への遠洋に出漁することだけで、日本政府が主張するような「竹島の支配」を許可されたものではなかったとも述べている。
しかしながら、大谷、村川両家に幕府から与えられたのは朱印状ではなく竹島(鬱陵島)に対する渡海免許で、両家は右免許に基づき、将軍家の葵の紋を打ち出した船印を立てて竹島(鬱陵島)に航して、アワビ、アシカ等の採捕、木材の伐採等に従事し、特にアワビは竹島アワビと称して将軍家をはじめ閣老に献上するのを常としていたのであって、いわば同島の独占的経営を免許されたものに他ならなかった。
竹島(鬱陵島)について、すでにこのようであった以上、その渡航の途中にあって明歴2年(1656年)またはそれ以前に、同じく幕府から渡海を免許された松島(今日の竹島)について、人々が日本領土と考えていたことは申すまでもない。
しかも松島(今日の竹島)の場合は、元禄9年(1699年)の幕府の竹島(鬱陵島)渡海禁止措置とは関係がないので、後に至るまで、この考え方は変わっていない。
たとえば『竹島図説』(1751−63年)には「隠岐国松島」と書かれており、また、『長生竹島記』(1801年)では松島をもって「本朝西海のはて也」としている。
これは、幕府の竹島(鬱陵島)渡海禁止以前の『隠州視聴合紀』をもって日本の西北部の限界とみなしているのと比べて、興味深いものがある(注1)。
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この文からすると、竹島=独島を日本の「固有領土」とする日本政府の根拠は次の古文献によるようです。
(1)『隠州視聴合紀』
(2)『竹島図説』
(3)『長生竹島記』
これら史料の性格ですが、『隠州視聴合紀』は隠岐を管轄する出雲藩の特命により藩士の斉藤豊仙が、竹島渡海事業の最中である1667年にまとめた調査報告書であり、地方政府の公式見解書ともいえます。
したがって領有権問題にとってはきわめて重要な史料であり、もし同史料で竹島=独島が日本領と解釈されるのなら、日本政府にとってはまたとない有利な史料になります。そのため、日本政府は同書にある「日本之乾地 以此州為限」の此州を「この島」と読みかえ、日本の西北の限界は松島、竹島であるとして外交文書を作成したようでした。
日本の外務省は「竹島は、歴史的事実に照らしても国際法上も明らかに日本の固有領土である」というのを常套句にしていますが、これは本当に根拠があるのでしょか? 今回はその根拠を検証したいと思います。
かつて、日本政府は韓国との竹島=独島論争で「固有領土」らしき根拠をこう説明しました。
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元和4年(1618年)の大谷、村川両家に対する幕府の竹島(鬱陵島)渡海免許以後は、両家が同島において独占的に漁採を行うようになったので、両家はもとより、一般も竹島(鬱陵島)をもって幕府から拝領したものと考えるに至った。
『隠州視聴合紀』(1667年)も、松島(今の竹島)及び竹島(鬱陵島)をもって日本の北西部の限界と見ている。
韓国側では、元和4年(1618年)の大谷、村川両家に対する幕府の竹島(鬱陵島)渡海免許をもって朱印状とみなし、朱印は外国貿易の許可であるから、竹島が韓国の主権下にあったことを十分承知していたといい、また、両家が許可されたのは鬱陵島方面への遠洋に出漁することだけで、日本政府が主張するような「竹島の支配」を許可されたものではなかったとも述べている。
しかしながら、大谷、村川両家に幕府から与えられたのは朱印状ではなく竹島(鬱陵島)に対する渡海免許で、両家は右免許に基づき、将軍家の葵の紋を打ち出した船印を立てて竹島(鬱陵島)に航して、アワビ、アシカ等の採捕、木材の伐採等に従事し、特にアワビは竹島アワビと称して将軍家をはじめ閣老に献上するのを常としていたのであって、いわば同島の独占的経営を免許されたものに他ならなかった。
竹島(鬱陵島)について、すでにこのようであった以上、その渡航の途中にあって明歴2年(1656年)またはそれ以前に、同じく幕府から渡海を免許された松島(今日の竹島)について、人々が日本領土と考えていたことは申すまでもない。
しかも松島(今日の竹島)の場合は、元禄9年(1699年)の幕府の竹島(鬱陵島)渡海禁止措置とは関係がないので、後に至るまで、この考え方は変わっていない。
たとえば『竹島図説』(1751−63年)には「隠岐国松島」と書かれており、また、『長生竹島記』(1801年)では松島をもって「本朝西海のはて也」としている。
これは、幕府の竹島(鬱陵島)渡海禁止以前の『隠州視聴合紀』をもって日本の西北部の限界とみなしているのと比べて、興味深いものがある(注1)。
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この文からすると、竹島=独島を日本の「固有領土」とする日本政府の根拠は次の古文献によるようです。
(1)『隠州視聴合紀』
(2)『竹島図説』
(3)『長生竹島記』
これら史料の性格ですが、『隠州視聴合紀』は隠岐を管轄する出雲藩の特命により藩士の斉藤豊仙が、竹島渡海事業の最中である1667年にまとめた調査報告書であり、地方政府の公式見解書ともいえます。
したがって領有権問題にとってはきわめて重要な史料であり、もし同史料で竹島=独島が日本領と解釈されるのなら、日本政府にとってはまたとない有利な史料になります。そのため、日本政府は同書にある「日本之乾地 以此州為限」の此州を「この島」と読みかえ、日本の西北の限界は松島、竹島であるとして外交文書を作成したようでした。
これは メッセージ 5594 (hangetsujoh さん)への返信です.
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