竹島

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禹用鼎の報告書

投稿者: tinopure 投稿日時: 2004/01/26 22:35 投稿番号: [3292 / 18519]
確かに見たこと無いですねぇ。
ぐぐってみたら

一九〇〇年(明治三十三年)四月、鬱陵島における日本人の雑居問題が起り、大韓帝国政府は禹用鼎を現地調査に差し向けた。その禹用鼎が六月に提出した報告書では、調査の対象は鬱陵島本島に限られ、現在の竹島には全く触れられていない。

http://ww1.enjoy.ne.jp/~koukokutenbo/takesima_waga_ryoudo.htmから抜粋

で、続いて
同一九〇〇年十月二十五日、鬱陵島を「鬱島」と改称して、その行政区域を確定した「勅令四一号」を発布し、郡守を常駐させる。
  一九〇七年(明治四十年)刊の張志淵の『大韓新地志』では、「鬱島」の位置を「一三〇度四五分から三五分に至る」と認識していたのである。
  鬱島郡守の沈興沢は「本郡所属の独島」としていたが、右に記したように、大韓帝国では自国の極東を東経一三〇度三、四〇分台としていたので、「東経一三一度五五分」に位置する竹島は、最初から大韓帝国には所属していなかったのである。
  それがどうしたことか、江原道観察使署理の李明来を介して、沈興沢の報告書が中央に上申されると、「独島領地の説はまったく無根に属す。該島の形便と日人の行動如何を更に査報せよ」と指示したのである。
  しかし、「本邦所属の独島」とした鬱島郡守沈興沢が、鬱陵島から九二キロも離れていた独島を本郡の「外洋百余里(約四〇キロ)許りに有り」とした点や、大韓帝国政府が「独島領地の説は全く無根に属す」とする一方で、「この島の形便」を報告せよと訓示した事実は、島根県の官吏一行が来訪する直前まで、独島を正確に認識していなかった証拠である。

先ほどと重複していますが、最後の一説に注目します。
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