島名の混乱と太政官決定
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2004/01/04 19:50 投稿番号: [2806 / 18519]
半月城です。
ahirutousagi2さん、RE:2797
>このように竹島・松島を日本の領土としないというのが内務省・太政官の判断でした。しかし、私が問題としたのはこの「松島」が内務省・太政官においてどこまで「地理的に」正確に理解されていたかです。
>仮に松島を鬱陵島附属の于山であり日本領土でないと内務省が規定したとしても、その「松島」が実質上、地図のどの島を指して意識されたのかは不明だと申し上げたのです。
内務省や太政官が放棄した松島の地理的位置は、島根県が内務省に提出した伺書および内務省から太政官に提出した伺書から判断することになります。それらの伺書のなかで松島、竹島の位置を知る資料としては、島根県が提出した「由来の概略」があります。そこで松島、竹島の位置はこう記されました。
「磯竹島、あるいは竹島と称する。隠岐国の北西120里(480km)ばかりのところにある。・・・
次に一島あり。松島と呼ぶ。周囲30町(3.3km)である。竹島と同じ船路にある。隠岐をへだてる80里(320km)ばかりである」
http://www.han.org/a/half-moon/hm082.html#No.565
「由来の概略」の記述が簡単なのは、島根県の竹島外一島に関する認識が「北海百余里を隔て船路もはっきりせず、ふつうの帆船ではよく往復できないので、上記の大谷、村川家の伝記など詳細もあわせてそえます」というレベルであり、地理学的な正確さを欠いていたためでした。
そこで島根県は「由来の概略」に加え「大谷家に伝わる享保年間(1716-30)の製図を縮写」、「両家所蔵の古文書などは後日、謄写されるのを待って全備」した資料を内務省に提出したようでした。
それらの資料は国立公文書館ではみあたらないようです。しかし、そうした資料が伝わっているのかどうかにかかわらず、上記の文脈および江戸時代の資料から伺書の松島が今日の竹島=独島をさすのは疑問の余地がありません。そのためか、前に書いたように伺書の松島が竹島=独島であることに異議をとなえる研究者はだれもいないようです。
ahirutousagi2さん、RE:2795
>当局では当然に可能な資料をすべてあたったことでしょう。西洋地図も同時に参考にしたことはいうまでもありません。半月城さんは西洋地図による混乱の可能性はみじんもないとされますが、私はあったと思っています。
もちろん当局では可能な資料をすべてあたったことでしょう。それらは付属書類として伺書に添付されました。そのなかにもちろん西洋地図はありません。そもそも自国の領土を関係国以外の国の地図で決定するような国はまず存在しないことでしょう。
島根県が内務省に伺書を提出する3か月前から、竹島(鬱陵島)を目的とする「松島」開拓願いが外務省に出され始め、島名の混乱が少しずつ起きましたが、外務省は内務省や太政官の決定の際してカヤの外で無関係でした。そのためもあってか政府内で外務省を中心とした混乱が内務省、太政官の決定に影響した形跡はまったくみられません。ahirutousagi2さんは、可能性が「あった」と思う根拠は何でしょうか?
要約すると、島根県は竹島外一島の領有問題にかんする調査をおこない、島名の混乱や誤った地図などに影響されず、隠岐の沖合には松島(竹島=独島)、竹島(鬱陵島)の二島しか存在しないと認識したうえで、内務省に伺書を提出しました。
それをもとに内務省や太政官は「版図の取捨は国家の重大事」という認識をもって慎重に松島、竹島を放棄する決定を行ったのでした。この決定で内務省や太政官は、隠岐の沖合にある二島、すなわち鬱陵島と竹島=独島の領有権を放棄したといえます。この決定は明治政府としての決定であることはいうまでもありません。
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
ahirutousagi2さん、RE:2797
>このように竹島・松島を日本の領土としないというのが内務省・太政官の判断でした。しかし、私が問題としたのはこの「松島」が内務省・太政官においてどこまで「地理的に」正確に理解されていたかです。
>仮に松島を鬱陵島附属の于山であり日本領土でないと内務省が規定したとしても、その「松島」が実質上、地図のどの島を指して意識されたのかは不明だと申し上げたのです。
内務省や太政官が放棄した松島の地理的位置は、島根県が内務省に提出した伺書および内務省から太政官に提出した伺書から判断することになります。それらの伺書のなかで松島、竹島の位置を知る資料としては、島根県が提出した「由来の概略」があります。そこで松島、竹島の位置はこう記されました。
「磯竹島、あるいは竹島と称する。隠岐国の北西120里(480km)ばかりのところにある。・・・
次に一島あり。松島と呼ぶ。周囲30町(3.3km)である。竹島と同じ船路にある。隠岐をへだてる80里(320km)ばかりである」
http://www.han.org/a/half-moon/hm082.html#No.565
「由来の概略」の記述が簡単なのは、島根県の竹島外一島に関する認識が「北海百余里を隔て船路もはっきりせず、ふつうの帆船ではよく往復できないので、上記の大谷、村川家の伝記など詳細もあわせてそえます」というレベルであり、地理学的な正確さを欠いていたためでした。
そこで島根県は「由来の概略」に加え「大谷家に伝わる享保年間(1716-30)の製図を縮写」、「両家所蔵の古文書などは後日、謄写されるのを待って全備」した資料を内務省に提出したようでした。
それらの資料は国立公文書館ではみあたらないようです。しかし、そうした資料が伝わっているのかどうかにかかわらず、上記の文脈および江戸時代の資料から伺書の松島が今日の竹島=独島をさすのは疑問の余地がありません。そのためか、前に書いたように伺書の松島が竹島=独島であることに異議をとなえる研究者はだれもいないようです。
ahirutousagi2さん、RE:2795
>当局では当然に可能な資料をすべてあたったことでしょう。西洋地図も同時に参考にしたことはいうまでもありません。半月城さんは西洋地図による混乱の可能性はみじんもないとされますが、私はあったと思っています。
もちろん当局では可能な資料をすべてあたったことでしょう。それらは付属書類として伺書に添付されました。そのなかにもちろん西洋地図はありません。そもそも自国の領土を関係国以外の国の地図で決定するような国はまず存在しないことでしょう。
島根県が内務省に伺書を提出する3か月前から、竹島(鬱陵島)を目的とする「松島」開拓願いが外務省に出され始め、島名の混乱が少しずつ起きましたが、外務省は内務省や太政官の決定の際してカヤの外で無関係でした。そのためもあってか政府内で外務省を中心とした混乱が内務省、太政官の決定に影響した形跡はまったくみられません。ahirutousagi2さんは、可能性が「あった」と思う根拠は何でしょうか?
要約すると、島根県は竹島外一島の領有問題にかんする調査をおこない、島名の混乱や誤った地図などに影響されず、隠岐の沖合には松島(竹島=独島)、竹島(鬱陵島)の二島しか存在しないと認識したうえで、内務省に伺書を提出しました。
それをもとに内務省や太政官は「版図の取捨は国家の重大事」という認識をもって慎重に松島、竹島を放棄する決定を行ったのでした。この決定で内務省や太政官は、隠岐の沖合にある二島、すなわち鬱陵島と竹島=独島の領有権を放棄したといえます。この決定は明治政府としての決定であることはいうまでもありません。
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 2795 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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