島名の混乱2
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2004/01/04 18:32 投稿番号: [2805 / 18519]
「いま、理由もなく人を派遣して松島を巡視する、これは他人の宝を数えるというものである。いわんや、隣境を侵越するするようなもので、日本と韓国との交わりがその緒についたといっても、猜疑や嫌悪がまだまったく除かれていないとき、このように一挙に再び隙間を開くことは外交官のもっとも忌み嫌うところである」
ちなみに田辺の考えは、開拓願いの「松島」は鬱陵島であり、江戸時代の外交交渉で朝鮮領であると確定したと記すとともに、古来の松島は鬱陵島に属する于山であると理解し、松島開拓願いに反対意見の付箋をつけました。田辺は下記のように記しました。
「聞く、松島はわが邦人の命じた名前で、じつは朝鮮鬱陵島に属する于山である。于山が朝鮮に属するのは、旧政府(江戸幕府)のとき、葛藤を生じ、文書を往復した末に、永く公文書で我々は有しないと約束、記載した両国の史書にある」
鬱陵島(開拓願いの松島)、于山島(古来の松島)をともに朝鮮領であると理解しました。
以上のように外務省は隠岐の沖合にある二島をおおむね正しく把握していたのですが、しかしだれもそれに確信がもてないままでした。そのため結局は一時保留になっていた「松島」の調査を1880年に軍艦・天城を用いて実施することになりました。
軍艦・天城は、開拓願いの「松島」東岸近辺を測量し、その付近で目についた小島の竹嶼や北亭嶼を含めた地図を作成し水路報告としました(注2)。その報告書をもとに当時の外務省取調官・北澤正誠はこう結論づけました。
「松島は鬱陵島にして、その他竹島なる者は一個の岩石たるに過ぎざるを知り、事始て了然たり。然るときは今日の松島は即ち元禄十二年称する所の竹島にして、古来我版図外の地たるや知るべし(注3)」
北澤は、開拓願いの松島はやはり江戸時代の竹島であり、日本の版図外であると正しく結論づけました。しかし「竹島なる者は一個の岩石」という結論は疑問です。その当時「竹島」はその名が消えかかっていたとはいえ、北澤が自身が『竹島考證』で引用した戸田敬義の「竹島渡海願」にみられるように、古来の認識どおり鬱陵島をさす場合が根強くありました。
その一方で「竹島」を鬱陵島近辺の島に比定した例は他に見いだされていません。北澤のいう「一個の岩石」とははっきりせず、あるいは竹嶼を想定したのかもしれませんが、当時はahirutousagi2さんがいうように、竹島を竹嶼などに比定した例はほかに皆無だったようです。
結局、軍艦・天城の報告書がダメ押しになったのか、鬱陵島は次第に「松島」と称されるようになり、古来、鬱陵島をさした竹島の名は消えていきました。それと同時に竹島=独島をさした古来の松島の名は竹島=独島と無関係になっていきました。何とも影の薄い島です。
名前を転用されてしまった竹島=独島は、外国名のホーネットあるいはリアンクール、略してリャンコ島などと呼ばれるようになりました。当時、竹島=独島は日本の島であるという認識がほとんどなかっただけに、島名が外国名で呼ばれるようになっても何の違和感もなかったようです。
(注1)川上健三『竹島の歴史地理的研究』(復刻版)古今書院,1996
(注2)水路報告第三十三號
此記事ハ現下 天城艦 乗組員 海軍少尉 三浦重郷ノ略畫 報道スル所ニ係ル
日本海
松島[韓人之ヲ鬱陵島ト稱ス]錨地ノ発見
松島ハ我隠岐國ヲ距テル北西四分三約一百四十里ノ處ニアリ該島 従来 海客ノ精檢ヲ経ザルヲ以テ其假泊地ノ有無ヲ知ルモノナシ 然ルニ今般 我天城艦 朝鮮ヘ廻航ノ際 此地ニ寄港シテ該島 其東岸ニ假泊ノ地ヲ發見シタリ 即左ノ圖面ノ如シ
右報告候也
明治十三年九月十三日 水路局長 海軍少将 柳楢悦
([ ]内は原文で注釈風に2行に分けて書かれている)
(注3)北澤正誠『竹島考證』(復刻版)エムテイ出版,1996
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
ちなみに田辺の考えは、開拓願いの「松島」は鬱陵島であり、江戸時代の外交交渉で朝鮮領であると確定したと記すとともに、古来の松島は鬱陵島に属する于山であると理解し、松島開拓願いに反対意見の付箋をつけました。田辺は下記のように記しました。
「聞く、松島はわが邦人の命じた名前で、じつは朝鮮鬱陵島に属する于山である。于山が朝鮮に属するのは、旧政府(江戸幕府)のとき、葛藤を生じ、文書を往復した末に、永く公文書で我々は有しないと約束、記載した両国の史書にある」
鬱陵島(開拓願いの松島)、于山島(古来の松島)をともに朝鮮領であると理解しました。
以上のように外務省は隠岐の沖合にある二島をおおむね正しく把握していたのですが、しかしだれもそれに確信がもてないままでした。そのため結局は一時保留になっていた「松島」の調査を1880年に軍艦・天城を用いて実施することになりました。
軍艦・天城は、開拓願いの「松島」東岸近辺を測量し、その付近で目についた小島の竹嶼や北亭嶼を含めた地図を作成し水路報告としました(注2)。その報告書をもとに当時の外務省取調官・北澤正誠はこう結論づけました。
「松島は鬱陵島にして、その他竹島なる者は一個の岩石たるに過ぎざるを知り、事始て了然たり。然るときは今日の松島は即ち元禄十二年称する所の竹島にして、古来我版図外の地たるや知るべし(注3)」
北澤は、開拓願いの松島はやはり江戸時代の竹島であり、日本の版図外であると正しく結論づけました。しかし「竹島なる者は一個の岩石」という結論は疑問です。その当時「竹島」はその名が消えかかっていたとはいえ、北澤が自身が『竹島考證』で引用した戸田敬義の「竹島渡海願」にみられるように、古来の認識どおり鬱陵島をさす場合が根強くありました。
その一方で「竹島」を鬱陵島近辺の島に比定した例は他に見いだされていません。北澤のいう「一個の岩石」とははっきりせず、あるいは竹嶼を想定したのかもしれませんが、当時はahirutousagi2さんがいうように、竹島を竹嶼などに比定した例はほかに皆無だったようです。
結局、軍艦・天城の報告書がダメ押しになったのか、鬱陵島は次第に「松島」と称されるようになり、古来、鬱陵島をさした竹島の名は消えていきました。それと同時に竹島=独島をさした古来の松島の名は竹島=独島と無関係になっていきました。何とも影の薄い島です。
名前を転用されてしまった竹島=独島は、外国名のホーネットあるいはリアンクール、略してリャンコ島などと呼ばれるようになりました。当時、竹島=独島は日本の島であるという認識がほとんどなかっただけに、島名が外国名で呼ばれるようになっても何の違和感もなかったようです。
(注1)川上健三『竹島の歴史地理的研究』(復刻版)古今書院,1996
(注2)水路報告第三十三號
此記事ハ現下 天城艦 乗組員 海軍少尉 三浦重郷ノ略畫 報道スル所ニ係ル
日本海
松島[韓人之ヲ鬱陵島ト稱ス]錨地ノ発見
松島ハ我隠岐國ヲ距テル北西四分三約一百四十里ノ處ニアリ該島 従来 海客ノ精檢ヲ経ザルヲ以テ其假泊地ノ有無ヲ知ルモノナシ 然ルニ今般 我天城艦 朝鮮ヘ廻航ノ際 此地ニ寄港シテ該島 其東岸ニ假泊ノ地ヲ發見シタリ 即左ノ圖面ノ如シ
右報告候也
明治十三年九月十三日 水路局長 海軍少将 柳楢悦
([ ]内は原文で注釈風に2行に分けて書かれている)
(注3)北澤正誠『竹島考證』(復刻版)エムテイ出版,1996
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 2804 (hangetsujoh さん)への返信です.
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