竹島

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竹島=独島と安龍福1

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/02 22:52 投稿番号: [1335 / 18519]
   半月城です。
   前回予告したように安龍福の渡日について書くことにします。元禄時代、安は二回も日本へ渡りました。最初は鳥取藩の商人、大谷・村川両家による連行、二度目は安みずから鬱陵島と于山島は朝鮮領であると訴えるため渡日しました。

   安の渡日に関する朝鮮の同時代史料としては、正史の『粛宗実録』、政策決定最高機関の重要議事録である『備辺司騰録』があります。これらはその性格上、事件の逐次的な記録です。一方、それらを要約した官撰史料に『東国文献備考』(1770、逸失)とその増補版である『増補文献備考』(1908)がありますが、こちらは要約されているだけに読みやすいのが特徴です。
   これらの史料すべてで安の供述が引用されましたが、それは基本的に「手柄話」の性格を有することはいうまでもありません。史料はもちろんそれらを全面的に信頼しているわけではありません。『粛宗実録』では、かれを「漂風愚民」と記しました。
   さらに、安の二度目の官吏を装った勝手な渡日は、斬首刑に相当する罪とされました。しかし、その一方でかれの抗議行動が対馬の鬱陵島横取りを防いだとして、安の功績も同時に認定しました。そのため、かれは斬首刑をまぬがれ、流刑ですまされました。

   他方、かれの抗議行動を今日の視点でみると、安はすでに「輿地志」が記した「鬱陵、于山は皆于山国の地、于山はすなわち倭がいうところの松島である」という認識を日本にも定着させたという点で注目されます。これは今日の竹島=独島問題に重要な一石を投じたので特筆にあたいします。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=682

   前置きが長くなりましたが、安龍福(アン ヨンボッ)の渡日を『増補文献備考』にみることにします。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   最初、東莱(現 釜山市)の安龍福は隷能櫓軍として倭の言葉に通じていた。粛宗19年(1693)夏、海で漁をしていたところ漂流して鬱陵島に到着したが、たまたま倭船に遭い拘束され五浪島に入った。そこで安龍福は島主にこういった。
  「鬱陵島はわが国までの距離は一日なのにたいし、日本までは五日ほどかかる。これはわが国に属するのではないか。朝鮮人みずから朝鮮の地へいくのになぜ拘束するのか」

   隠岐島主は安を屈服させられないとみるや、かれを伯耆州へ送った。州の太守はかれを銀銭などで厚くもてなした。安龍福は、日本人がふたたび鬱陵島に入らないように願うのみであり、銀をもらうのは意にそわないといった。とうとう伯耆州の太守は関白に稟議して書契を作成しかれに授け「鬱陵島は日本領ではない」といった。
   安は長崎島へ移った。島主はすなわち対馬島の一党である。関白の書契を見せるように求められたので、これを出したところ奪われてしまい、ついに返してもらえなかった。
   安龍福は対馬島に送られた。その時、対馬島主は関白の命令を偽り、鬱陵島に関して数回もめ事を起こしたが、これは関白の意思ではない。鬱陵島は魚や竹が豊富なので、倭がその島を持つのは利益が大きい。また、倭の一行が島にいけば、国家がそれを厚く遇するので、このため倭の往来はやまなかった。
   ここに至り、対馬島は自分たちの奸計を安龍福がことごとく暴露するのを恐れて安を牢に入れた。かれを東莱に押送して倭館に幽閉し、前後90日してはじめて龍福を帰した。
(つづく)
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