竹島

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「竹島一件」と竹島=独島再確認4

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/02/23 16:40 投稿番号: [1297 / 18519]
  (1)ー(3)についてはすでに記したので詳細は省き、ここでは(4)の「輿地志」を取りあげます。これは私的な史料なので、本来なら取りあげる価値はありません。領有論争には官撰史料のみが重要です。
   しかしながら「輿地志」は官撰史料『東国文献備考』(1770)にその一部が引用されたので決して無視できない史料です。「輿地志」自体は現在伝わりませんが、于山島に関する「輿地志」の記述は『東国文献備考』に下記のように引用されました(注4)。

  「成宗二年、別に三峯島について告げる者がいた。そこで政府は朴元宗を見に行かせた。しかし、風濤が荒かったため到達できずに帰ったが同行の一船だけが鬱陵島に泊まり、大竹や大きいアワビを取った。島には居民はいないという。<輿地志がいうには、鬱陵、于山は皆于山国の地、于山はすなわち倭がいうところの松島である>」

  <   >内は小さな字体で書かれた部分ですが、これにより1656年以前からすでに下記の認識が朝鮮政府で主流だったことがわかります。
  于山国=鬱陵島 + 于山島、朝鮮領
  于山島=倭がいう松島

   こうした史的背景を考慮するとき、張漢相が目視した竹島=独島は于山島に違いないのですが、張漢相はその島名を記録に残さなかったようでした。もしこのとき、島名が記録されていたら、江戸時代における竹島=独島問題は完全にクリアになっていたかもしれません。
   なお、これらの史料では鬱陵島と于山島との具体的な距離については何も記述はありません。したがって、張漢相が言及した距離の割りだしかたは依然として疑問のまま残ります。

   さて、調査団の2年後、漁民の安龍福が官吏を装って大胆にも上記の認識を日本に確認させるため隠岐へ渡航したのですが、これについては次回書くことにします。

(注1)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000,77頁
(注2)宋炳基『鬱陵島と獨島』(韓国語)檀國大学校出版部,1999
(注3)張漢相「鬱陵島事蹟」、注2より引用
  東方五里許 有一小島 不甚高大 海長竹叢生於一面 霽雨〓捲之日 入山登中峯 則南北両峯 岌崇相面 此謂三峯也 西望大関嶺透〓之状 東望海中有一島 杳在辰方 而其大未満蔚島三分之一 不過三百余里
(注4)『増補文献備考』巻之三十一、輿地考十九
  『増補文献備考』(1908)は『東国文献備考』(1770、逸失)の増補版。下記の記述は増補部分に含まれないことが明確になっているので、1770年当時のオリジナルな記述のままと思われます。なお『成宗実録』では成宗3年に朴宗元を派遣したとあります。
「成宗二年 有告別三峯島者 乃遣朴元宗往見之 因風濤不得到而還 同行一船泊鬱陵島 只取大竹大鰒魚 囘啓云島中無居民矣<輿地志云 鬱陵于山皆于山國地 于山則倭所謂松島也>」

   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
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