竹島=独島と安龍福2
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/02 22:53 投稿番号: [1336 / 18519]
安龍福は東莱府に報告したが聞き入れてもらえなかった。翌年、接慰官が東莱に来るや安はふたたび以前のできごとを訴えたが、朝廷もやはりこれを信じなかった。そのころ、倭の使節がたびたび東莱に来たが、将来もし両国にひびが入っても人はこれを憂うのみで、だれも対馬島の欺瞞を知らないであろう。
憤慨した安龍福は蔚山の海辺に行った。そこの商僧、雷憲は船を持っていた。龍福はかれを誘った。鬱陵島は海菜が多いので、そこへ行く道を案内したいと言った。僧は快くこれに従った。
(1696年)ついに帆をあげ3昼夜航海して鬱陵島に停泊した。そこへ倭船が東からやって来た。それを見た龍福はかれらを縛ろうといったが、船乗りたちはおそれてしりごみした。
龍福はひとり前に出て怒り、なぜわが境域を犯すのかと倭人をののしった。倭人がいうには、かれらはもとより松島に向かうところで、ちょうど帰るところだということだった。さらに龍福は倭人を追って松島に至り「松島はすなわち芋山島である。お前たちは、芋山島もまた倭が境域であることを聞いていないのか」と叱り、棒でその釜を砕いた。
倭人はおおいに驚いて逃げた。龍福は伯耆州に行き状況を太守に告げた。太守はかれらをことごとく捕らえて裁いた。龍福は鬱陵監税官と偽って称し、堂にのぼり太守と対等に礼をかわした。そして大声でこう言った
「対馬島の中間の偽りを正すのは、単に鬱陵の一事だけのことではない。わが国が送った幣貨を対馬島が日本に転売し多大な利益をあげた。また、対馬島は米15斗を1斛(こく)とすべきなのに7斗を1斛に、布30尺を1疋(ひき)とすべきなのに20尺を1疋に、1束の紙を3束に偽ったが、関白がこれをどう扱うのか知る由もない。我は関白に一書を送りたい」
伯耆州の太守はこれを許可した。このころ、対馬の島主の父親が江戸にいてこれを聞いて大いに驚き、伯耆の太守に「その書が朝に知られると夕にはわが子が死ぬので、太守はよろしく取りはかってほしい」と乞うた。
太守は江戸から帰るや、龍福に書を差し出さないように言った。また、すみやかに対馬島に帰り、もし争いごとのようなものがあったら人や書を送るように言った。
安は帰国し、蠔陽に泊まり官衙に報告した。また、伯耆州にいたときに太守に呈した文書をこれまでの証拠として提出した。ほかの従者も一人一人調べられたが、龍福の言と違いはなかった。ここに至り、倭はふたたび偽りをいうことが不可能なのを知り、東莱府に書状を送り「ふたたび鬱陵島に人を送らないようにする」と謝罪した。
このとき、事の発端が龍福にあったため、倭はかれを憎み、龍福が対馬島を経由しなかった行動を罪とした。旧約定では対馬島から釜山に向かう一路以外はすべて禁止とするという一文があるためである。
朝廷の議論は、龍福の罪は斬首刑に該当すると皆主張したが、ただ領敦寧・尹趾完、領中枢・南九萬はかれを殺せば対馬島を喜ばす一方、その人傑を憤激させる結果になるので、その非や碌々としたところを正すべきであり、生かして後日のために役立てられるようにすべきだとした。結局、かれを流刑にした。今や倭が鬱陵島をふたたび日本の地にしようとしないのは、みな龍福の功である。
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(つづく)
憤慨した安龍福は蔚山の海辺に行った。そこの商僧、雷憲は船を持っていた。龍福はかれを誘った。鬱陵島は海菜が多いので、そこへ行く道を案内したいと言った。僧は快くこれに従った。
(1696年)ついに帆をあげ3昼夜航海して鬱陵島に停泊した。そこへ倭船が東からやって来た。それを見た龍福はかれらを縛ろうといったが、船乗りたちはおそれてしりごみした。
龍福はひとり前に出て怒り、なぜわが境域を犯すのかと倭人をののしった。倭人がいうには、かれらはもとより松島に向かうところで、ちょうど帰るところだということだった。さらに龍福は倭人を追って松島に至り「松島はすなわち芋山島である。お前たちは、芋山島もまた倭が境域であることを聞いていないのか」と叱り、棒でその釜を砕いた。
倭人はおおいに驚いて逃げた。龍福は伯耆州に行き状況を太守に告げた。太守はかれらをことごとく捕らえて裁いた。龍福は鬱陵監税官と偽って称し、堂にのぼり太守と対等に礼をかわした。そして大声でこう言った
「対馬島の中間の偽りを正すのは、単に鬱陵の一事だけのことではない。わが国が送った幣貨を対馬島が日本に転売し多大な利益をあげた。また、対馬島は米15斗を1斛(こく)とすべきなのに7斗を1斛に、布30尺を1疋(ひき)とすべきなのに20尺を1疋に、1束の紙を3束に偽ったが、関白がこれをどう扱うのか知る由もない。我は関白に一書を送りたい」
伯耆州の太守はこれを許可した。このころ、対馬の島主の父親が江戸にいてこれを聞いて大いに驚き、伯耆の太守に「その書が朝に知られると夕にはわが子が死ぬので、太守はよろしく取りはかってほしい」と乞うた。
太守は江戸から帰るや、龍福に書を差し出さないように言った。また、すみやかに対馬島に帰り、もし争いごとのようなものがあったら人や書を送るように言った。
安は帰国し、蠔陽に泊まり官衙に報告した。また、伯耆州にいたときに太守に呈した文書をこれまでの証拠として提出した。ほかの従者も一人一人調べられたが、龍福の言と違いはなかった。ここに至り、倭はふたたび偽りをいうことが不可能なのを知り、東莱府に書状を送り「ふたたび鬱陵島に人を送らないようにする」と謝罪した。
このとき、事の発端が龍福にあったため、倭はかれを憎み、龍福が対馬島を経由しなかった行動を罪とした。旧約定では対馬島から釜山に向かう一路以外はすべて禁止とするという一文があるためである。
朝廷の議論は、龍福の罪は斬首刑に該当すると皆主張したが、ただ領敦寧・尹趾完、領中枢・南九萬はかれを殺せば対馬島を喜ばす一方、その人傑を憤激させる結果になるので、その非や碌々としたところを正すべきであり、生かして後日のために役立てられるようにすべきだとした。結局、かれを流刑にした。今や倭が鬱陵島をふたたび日本の地にしようとしないのは、みな龍福の功である。
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(つづく)
これは メッセージ 1335 (hangetsujoh さん)への返信です.
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