日本の竹島=独島領土編入と放棄3
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/01/12 09:57 投稿番号: [682 / 18519]
この回答を受けて幕府は竹島(鬱陵島)の本格的な検討を始めた。老中・阿部豊後守は鳥取藩にたいし一七か条からなる質問「御尋の御書付」を問い合わせた。そのなかで注目される質問は「因州 伯州え付候竹嶋はいつの此より両国え附属候哉」「竹嶋の外両国え附属の嶋有之候哉」の二点である。幕府は、竹島が鳥取藩付属であると思いこんでいたようである。また、幕府は竹島以外に因幡、伯耆両国所属の島が存在するかどうか尋ねたが、これはとりもなおさず当時の幕府は松島(竹島=独島)の存在を認識していなかったことを示している。大谷家の記録によると同家は幕府の許可を得て松島の開発も行ったとされているが、そうした渡海許可の公文書は見当たらないうえに元禄時代の幕府が松島を認識していないようなので、幕府は松島渡海許可の公文書を発行しなかったと考えられる(6)。
幕府の質問に対して鳥取藩は「竹嶋は因幡 伯耆附属ニては(ママ)無御座候」「竹嶋松嶋其外両国え付属の嶋 無御座候」と明言し、竹島、松島は自藩領ではないと回答した(7)。幕府は、鳥取藩が竹島は自藩領でないと回答したことや、その島に日本人が住んでいないこと、さらに地理的に因幡からよりは朝鮮からの方が近いことなどを考慮し、同島はかつて朝鮮領であったことは明らかであると判断した。このとき「兵威」を用いて竹島を日本領にする案もあったが、結局は竹島を放棄した。九六(元禄九)年一月二十八日、竹島を「無用の小島」と断じて鳥取藩に同島への渡海禁止を申しわたした。この決定は、対馬藩を通じて朝鮮へ伝えられ、竹島一件は終結した。その際、幕府は松島(竹島=独島)については何も言及しなかったが、幕府決定における鳥取藩回答書の役割からみて、幕府は松島も暗に放棄したものとみられる。それを示すかのように、後述するが徳川幕府の官撰地図に松島、竹島はともに記載されなかったし、後の明治政府の認識も幕府は松島、竹島を同時に版図外にしたものとみなしている。なお、竹島渡航禁止以後、独自の経済的価値のない松島だけのために渡航することは幕末まですっかりなくなっていた(8)。
さて、すでに幕府の竹島渡海禁止令が出された一六九六年六月、その三年前に日本へ連行されたことのある安龍福(安同知)は、鬱陵島および子山島は朝鮮領であると訴えるため、隠岐を経て伯耆へやって来た。安は日本へ来たとき、船に「朝鬱両島 監税将臣 安同知 騎」と墨書した旗をかかげた。これは日本では「朝鬱両島ハ 鬱陵島 日本ニテ是ヲ竹島ト称ス 子山島 日本ニテ松島ト呼フ」と理解された(9)。安の訴えは竹島一件をめぐる外交交渉自体にはほとんど影響を与えなかったが、安の言動は結果的に今日の竹島=独島問題に大きな影響を与えた。それは、日本でいう当時の竹島は朝鮮の鬱陵島、松島は于山島という認識を日本および朝鮮政府に定着させたことによる。たとえば、後述するように日本で明治時代「松島開拓」問題が起きた時、外務省の田邊局長は「聞ク松島ハ・・・于山ナリ」と記した。朝鮮でも正史の『粛宗実録』は「松島即子山島 此亦我國地」と記録した。子山島は于山島を指す。
こうした安龍福の活動や竹島一件の結果、松島、竹島の一対の島は朝鮮領と認識されるようになった。そのため、江戸時代の代表的な地図はほとんど松島、竹島を日本の領土外として扱った。官撰地図でいえば伊能忠敬の「日本輿地図藁」や「日本国地理測量之図」、「伊能小図」などはすべて松島、竹島を記載していない(10)。換言すれば、多くある伊能忠敬の地図で松島、竹島を描いた地図は一枚も知られていない。同様に徳川幕府が幕末に伊能忠敬の日本全図や間宮林蔵の測量図をもとに唯一出版した木版画の官撰地図『官板実測日本地圖』にも松島、竹島は記入されなかった(11)。
一方、民間発行の地図では、十七世紀前半に徳川幕府が最初に作成した日本図を写したと思われる「扶桑国都水陸地理図」にも松島、竹島は記載されなかった(12)。また、一七一二年以来たびたび発刊され、江戸時代中期を代表する地図である石川流宣の「大日本国大絵図」にも松島、竹島は記載されなかった(13)。さらに、江戸時代後期を代表する地図としては、一七七八(安永七)年に官許を得て半世紀にわたりたびたび発刊された長久保赤水の日本地図があげられる。この地図は、日本領を色分けするに際して松島、竹島を朝鮮領同様に無着色のままにした。たとえば、初期の安永八(一七七九)年『改正日本輿地路程全圖』(14)や、晩期の天保四(一八三三)年『新刻日本輿地路程全圖』第四刻などである(15)。これらは幕府の官許を得ているので準官撰地図といえるが、そこにおいて松島、竹島の両島は朝鮮領と認識されていたと見なされる。
(つづく)
幕府の質問に対して鳥取藩は「竹嶋は因幡 伯耆附属ニては(ママ)無御座候」「竹嶋松嶋其外両国え付属の嶋 無御座候」と明言し、竹島、松島は自藩領ではないと回答した(7)。幕府は、鳥取藩が竹島は自藩領でないと回答したことや、その島に日本人が住んでいないこと、さらに地理的に因幡からよりは朝鮮からの方が近いことなどを考慮し、同島はかつて朝鮮領であったことは明らかであると判断した。このとき「兵威」を用いて竹島を日本領にする案もあったが、結局は竹島を放棄した。九六(元禄九)年一月二十八日、竹島を「無用の小島」と断じて鳥取藩に同島への渡海禁止を申しわたした。この決定は、対馬藩を通じて朝鮮へ伝えられ、竹島一件は終結した。その際、幕府は松島(竹島=独島)については何も言及しなかったが、幕府決定における鳥取藩回答書の役割からみて、幕府は松島も暗に放棄したものとみられる。それを示すかのように、後述するが徳川幕府の官撰地図に松島、竹島はともに記載されなかったし、後の明治政府の認識も幕府は松島、竹島を同時に版図外にしたものとみなしている。なお、竹島渡航禁止以後、独自の経済的価値のない松島だけのために渡航することは幕末まですっかりなくなっていた(8)。
さて、すでに幕府の竹島渡海禁止令が出された一六九六年六月、その三年前に日本へ連行されたことのある安龍福(安同知)は、鬱陵島および子山島は朝鮮領であると訴えるため、隠岐を経て伯耆へやって来た。安は日本へ来たとき、船に「朝鬱両島 監税将臣 安同知 騎」と墨書した旗をかかげた。これは日本では「朝鬱両島ハ 鬱陵島 日本ニテ是ヲ竹島ト称ス 子山島 日本ニテ松島ト呼フ」と理解された(9)。安の訴えは竹島一件をめぐる外交交渉自体にはほとんど影響を与えなかったが、安の言動は結果的に今日の竹島=独島問題に大きな影響を与えた。それは、日本でいう当時の竹島は朝鮮の鬱陵島、松島は于山島という認識を日本および朝鮮政府に定着させたことによる。たとえば、後述するように日本で明治時代「松島開拓」問題が起きた時、外務省の田邊局長は「聞ク松島ハ・・・于山ナリ」と記した。朝鮮でも正史の『粛宗実録』は「松島即子山島 此亦我國地」と記録した。子山島は于山島を指す。
こうした安龍福の活動や竹島一件の結果、松島、竹島の一対の島は朝鮮領と認識されるようになった。そのため、江戸時代の代表的な地図はほとんど松島、竹島を日本の領土外として扱った。官撰地図でいえば伊能忠敬の「日本輿地図藁」や「日本国地理測量之図」、「伊能小図」などはすべて松島、竹島を記載していない(10)。換言すれば、多くある伊能忠敬の地図で松島、竹島を描いた地図は一枚も知られていない。同様に徳川幕府が幕末に伊能忠敬の日本全図や間宮林蔵の測量図をもとに唯一出版した木版画の官撰地図『官板実測日本地圖』にも松島、竹島は記入されなかった(11)。
一方、民間発行の地図では、十七世紀前半に徳川幕府が最初に作成した日本図を写したと思われる「扶桑国都水陸地理図」にも松島、竹島は記載されなかった(12)。また、一七一二年以来たびたび発刊され、江戸時代中期を代表する地図である石川流宣の「大日本国大絵図」にも松島、竹島は記載されなかった(13)。さらに、江戸時代後期を代表する地図としては、一七七八(安永七)年に官許を得て半世紀にわたりたびたび発刊された長久保赤水の日本地図があげられる。この地図は、日本領を色分けするに際して松島、竹島を朝鮮領同様に無着色のままにした。たとえば、初期の安永八(一七七九)年『改正日本輿地路程全圖』(14)や、晩期の天保四(一八三三)年『新刻日本輿地路程全圖』第四刻などである(15)。これらは幕府の官許を得ているので準官撰地図といえるが、そこにおいて松島、竹島の両島は朝鮮領と認識されていたと見なされる。
(つづく)
これは メッセージ 681 (hangetsujoh さん)への返信です.
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