松島・竹島までの距離と地図
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2006/01/08 23:09 投稿番号: [12406 / 18519]
半月城です。
Re:12401, ahirutousagi2さん
>太政官が松島をリアンクール岩と考えた可能性はほとんどないものと考えます。その理由は第一に由来の概略に記された距離認識です。「隠岐→80里(320km)→松島→40里(160km)→竹島」はリアンクールの位置からはあまりにかけ離れています。
都合の悪い史料は一切無視したうえで、都合のいい結論を導くのが ahirutousagi2さんの流儀でしょうか。
この機会に松島(竹島=独島)、竹島(鬱陵島)までの距離について権威ある史料からまとめてみたいと思います。下記で( )内は私の注釈です。
1.大西教保『隠岐古記集』
(島後より)亥の方四十余里にして松島あり・・・又酉の方七十里余に竹嶋有り
2.鳥取藩『竹嶋之書附』「小谷伊兵衛差出候 竹嶋の書附」
一.(島後の)福浦より松嶋まで八拾里程
一.松嶋より竹嶋へ四拾里程
3.『公文録 内務省之部』「日本海内竹島外一島 編纂方伺」由来の概略、および
『太政類典第二編』第九十六巻「竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」島根縣伺
松島・・・隠岐ヲ距ル八十里許リ、・・・竹島・・・隠岐國乾位一百二拾里許リ
4.『元禄九丙子年 朝鮮舟着岸一巻之覚書』
竹嶋と松嶋之間五十里在之(安龍福の供述)
この他に権威の薄い『竹島圖説』などもありますが、いずれも大同小異です。ともかく、隠岐と松島の間は40-80里、松島と竹島(鬱陵島)の間は30-50里というのが江戸時代の認識です。
なお、島根県の「日本海内竹島外一島 編纂方伺」由来の概略に書かれた松島・竹島までの距離は大谷・村川両家所蔵の古文書から採用されたことが伺書の付属文書から推察されます。
また、伺書付属の地図ですが、これは大谷家に伝わる「製図」が謄写されて添付されたことが伺書の「あとがき」に記されました。その地図は発見されていないようですが、これは鳥取藩『竹嶋之書附』付属の地図に近いものと推測されます。
ともかく ahirutousagi2さんが考えるような陸軍参謀局の朝鮮全図(1875)などは問題外です。また、文部省の日本全図(1877)にいたっては、伺書が出された1876年当時、発刊すらされていませんでした。
こうした島根県からの伺書を受けた内務省は、その伺書に加え独自の史料を添付しましたが、そのリストにはもちろんahirutousagi2さんがあげた地図などは存在しません。島根県が添付した地図で十分だったのでしょう。さらに太政官の段階では、内務省の申請日からわずか12日で内務省の伺書を承認しました。新たな地図の検討など論外だったことでしょう。
結論として、島根県や内務省、さらには太政官指令に記述された外一島が竹島=独島であることは、島に関する説明や島同士の古文書における距離などから明らかです。また、それはリアンクール岩であることはいうまでもありません。
それでも ahirutousagi2さんは、どうしても外一島が松島であると認めたくないのでしょうか?
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
Re:12401, ahirutousagi2さん
>太政官が松島をリアンクール岩と考えた可能性はほとんどないものと考えます。その理由は第一に由来の概略に記された距離認識です。「隠岐→80里(320km)→松島→40里(160km)→竹島」はリアンクールの位置からはあまりにかけ離れています。
都合の悪い史料は一切無視したうえで、都合のいい結論を導くのが ahirutousagi2さんの流儀でしょうか。
この機会に松島(竹島=独島)、竹島(鬱陵島)までの距離について権威ある史料からまとめてみたいと思います。下記で( )内は私の注釈です。
1.大西教保『隠岐古記集』
(島後より)亥の方四十余里にして松島あり・・・又酉の方七十里余に竹嶋有り
2.鳥取藩『竹嶋之書附』「小谷伊兵衛差出候 竹嶋の書附」
一.(島後の)福浦より松嶋まで八拾里程
一.松嶋より竹嶋へ四拾里程
3.『公文録 内務省之部』「日本海内竹島外一島 編纂方伺」由来の概略、および
『太政類典第二編』第九十六巻「竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」島根縣伺
松島・・・隠岐ヲ距ル八十里許リ、・・・竹島・・・隠岐國乾位一百二拾里許リ
4.『元禄九丙子年 朝鮮舟着岸一巻之覚書』
竹嶋と松嶋之間五十里在之(安龍福の供述)
この他に権威の薄い『竹島圖説』などもありますが、いずれも大同小異です。ともかく、隠岐と松島の間は40-80里、松島と竹島(鬱陵島)の間は30-50里というのが江戸時代の認識です。
なお、島根県の「日本海内竹島外一島 編纂方伺」由来の概略に書かれた松島・竹島までの距離は大谷・村川両家所蔵の古文書から採用されたことが伺書の付属文書から推察されます。
また、伺書付属の地図ですが、これは大谷家に伝わる「製図」が謄写されて添付されたことが伺書の「あとがき」に記されました。その地図は発見されていないようですが、これは鳥取藩『竹嶋之書附』付属の地図に近いものと推測されます。
ともかく ahirutousagi2さんが考えるような陸軍参謀局の朝鮮全図(1875)などは問題外です。また、文部省の日本全図(1877)にいたっては、伺書が出された1876年当時、発刊すらされていませんでした。
こうした島根県からの伺書を受けた内務省は、その伺書に加え独自の史料を添付しましたが、そのリストにはもちろんahirutousagi2さんがあげた地図などは存在しません。島根県が添付した地図で十分だったのでしょう。さらに太政官の段階では、内務省の申請日からわずか12日で内務省の伺書を承認しました。新たな地図の検討など論外だったことでしょう。
結論として、島根県や内務省、さらには太政官指令に記述された外一島が竹島=独島であることは、島に関する説明や島同士の古文書における距離などから明らかです。また、それはリアンクール岩であることはいうまでもありません。
それでも ahirutousagi2さんは、どうしても外一島が松島であると認めたくないのでしょうか?
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 12401 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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