Re: 太政官指令と江戸時代の松島領有意識
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/01/07 12:24 投稿番号: [12401 / 18519]
>a. 「松島」に関する記録はない。
>b. 「松島」に関する記録はあるが、どこの国の領土かは明確でない。
>c. 「松島」が日本領であることを示す記録がある。
>d. 「松島」が朝鮮領であることを示す記録がある。
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bの可能性が高いものと思います。c,dについては積極的に考えうる根拠はなかったものと想像できそうです。あとはaですが、諸地図や隠州視聴合紀など、何もなかったということはないでしょう。
1870年の「竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末」の検討も必要かと思います。この記述を念頭に置くとすれば、もとより明治政府に松島の情報はほとんどなかったと考えられるのではないかと思います。
ただし「竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末」という題名をもって明治政府により松島が朝鮮領と認識されたとの理解は早計です。もとよりこれは明治政府の領土意識を表明するものではありませんから。
また佐田白茅らへの調査指令にもともとこの項目は入っていなかったところを見ると、指令を明文化することを避けた、不明の部分に対する情報収集であったということだったのだと私は想像しています。
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>つまり、太政官が松島をダジュレー島と思ったにせよリアンクール岩と思ったにせよ、以下のことは確実に言えるということです。
●明治政府が調べた江戸時代の記録の中に、松島が日本領であることを示す記録は無かった。
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太政官が松島をリアンクール岩と考えた可能性はほとんどないものと考えます。その理由は第一に由来の概略に記された距離認識です。「隠岐→80里(320km)→松島→40里(160km)→竹島」はリアンクールの位置からはあまりにかけ離れています。
第二に、当時の地図があります。以前に以下の地図を紹介しましたが、
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/great-japan.html
陸軍参謀局の朝鮮全図(1875)と文部省の日本全図(1877)も鬱陵島が竹島と松島に描かれており、現在の独島は描かれておらず、リアンクール=松島との積極的な理解はこの時期において見ることはできません。
第三に、その三年後の軍艦天城の調査による、竹島=竹嶼と松島=鬱陵島の規定です。こうした規定を整合的に考えるには、太政官が松島=リアンクールと考えたとの理解は苦しいものがあります。
私の理解はこうです。「明治政府が調べた江戸時代の記録の中に、松島が日本領であるとも朝鮮領であるとも示す明確な記録は無かった」。また「リアンクール岩が朝鮮領であるとの認識もなかった。」あわせて「明治政府は太政官判断によって江戸幕府時代から理解されてきた竹島・松島を版図外と規定した。ただし、その地理的な理解は鬱陵島までを指すにほかならなかった。」です。
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>竹島一件以降、江戸幕府に松島の領有意識があったかどうかは時々論争になりますが、1877年の太政官指令は領有意識が無かったことの証拠になると思います。
>そして、これは江戸時代が終わった直後に、幕府の文書をほぼそのまま継承した明治政府が、「版図の取捨は重大の事件」という認識を持って調査した結果ですから、信頼性の高い証拠と言えそうです。
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これはどうでしょうか。太政官指令をもって江戸幕府の領有意識の「証拠」とするのはちょっとどうかと思いますが。明治政府が江戸幕府の文書を継承したとしても、太政官指令でもって江戸幕府の考えを規定することは後世のものが歴史を見るにおいてどうなのでしょうか。
太政官指令は一つの手がかりではありますが、一方でさらなる江戸幕府の関係資料の発掘を期待し、また現存の資料を検討し尽くすことが順序ではないでしょうか。太政官指令は「証拠」というよりは重要な「資料」あるいは「根拠の一つ」といった程度で考えるのがいいのではないでしょうか。
江戸幕府の考えは、それはそれであらためて検討が必要であるものと思います。
>b. 「松島」に関する記録はあるが、どこの国の領土かは明確でない。
>c. 「松島」が日本領であることを示す記録がある。
>d. 「松島」が朝鮮領であることを示す記録がある。
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bの可能性が高いものと思います。c,dについては積極的に考えうる根拠はなかったものと想像できそうです。あとはaですが、諸地図や隠州視聴合紀など、何もなかったということはないでしょう。
1870年の「竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末」の検討も必要かと思います。この記述を念頭に置くとすれば、もとより明治政府に松島の情報はほとんどなかったと考えられるのではないかと思います。
ただし「竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末」という題名をもって明治政府により松島が朝鮮領と認識されたとの理解は早計です。もとよりこれは明治政府の領土意識を表明するものではありませんから。
また佐田白茅らへの調査指令にもともとこの項目は入っていなかったところを見ると、指令を明文化することを避けた、不明の部分に対する情報収集であったということだったのだと私は想像しています。
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>つまり、太政官が松島をダジュレー島と思ったにせよリアンクール岩と思ったにせよ、以下のことは確実に言えるということです。
●明治政府が調べた江戸時代の記録の中に、松島が日本領であることを示す記録は無かった。
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太政官が松島をリアンクール岩と考えた可能性はほとんどないものと考えます。その理由は第一に由来の概略に記された距離認識です。「隠岐→80里(320km)→松島→40里(160km)→竹島」はリアンクールの位置からはあまりにかけ離れています。
第二に、当時の地図があります。以前に以下の地図を紹介しましたが、
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/great-japan.html
陸軍参謀局の朝鮮全図(1875)と文部省の日本全図(1877)も鬱陵島が竹島と松島に描かれており、現在の独島は描かれておらず、リアンクール=松島との積極的な理解はこの時期において見ることはできません。
第三に、その三年後の軍艦天城の調査による、竹島=竹嶼と松島=鬱陵島の規定です。こうした規定を整合的に考えるには、太政官が松島=リアンクールと考えたとの理解は苦しいものがあります。
私の理解はこうです。「明治政府が調べた江戸時代の記録の中に、松島が日本領であるとも朝鮮領であるとも示す明確な記録は無かった」。また「リアンクール岩が朝鮮領であるとの認識もなかった。」あわせて「明治政府は太政官判断によって江戸幕府時代から理解されてきた竹島・松島を版図外と規定した。ただし、その地理的な理解は鬱陵島までを指すにほかならなかった。」です。
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>竹島一件以降、江戸幕府に松島の領有意識があったかどうかは時々論争になりますが、1877年の太政官指令は領有意識が無かったことの証拠になると思います。
>そして、これは江戸時代が終わった直後に、幕府の文書をほぼそのまま継承した明治政府が、「版図の取捨は重大の事件」という認識を持って調査した結果ですから、信頼性の高い証拠と言えそうです。
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これはどうでしょうか。太政官指令をもって江戸幕府の領有意識の「証拠」とするのはちょっとどうかと思いますが。明治政府が江戸幕府の文書を継承したとしても、太政官指令でもって江戸幕府の考えを規定することは後世のものが歴史を見るにおいてどうなのでしょうか。
太政官指令は一つの手がかりではありますが、一方でさらなる江戸幕府の関係資料の発掘を期待し、また現存の資料を検討し尽くすことが順序ではないでしょうか。太政官指令は「証拠」というよりは重要な「資料」あるいは「根拠の一つ」といった程度で考えるのがいいのではないでしょうか。
江戸幕府の考えは、それはそれであらためて検討が必要であるものと思います。
これは メッセージ 12399 (te2222000 さん)への返信です.
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