Re: 高句麗の竹島(鬱陵島)
投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/12/21 06:22 投稿番号: [12370 / 18519]
半月城さん
焼火山縁起における竹島と高句麗の関係について、現時点での私の意見を述べます。
>
『隠州視聴合記』の焼火山縁起によると、村川の船は
>高句麗の地に漂着したのではなく、高句麗の海に流されただけ
>でした。その時に念仏をとなえたら、たちまち隠岐の港の漁火が
>見えたとあるので、高句麗の海域は隠岐のすぐ近くにあると
>認識されていたようです。
>
そうであれば、隠岐から二日一夜もかかるほど遠くにある
>松島(竹島=独島)や、さらにそれから一日の航路にある竹島
>(鬱陵島)は、漠然と高句麗の海域にあると考えられていたの
>ではないでしょうか。したがって、高句麗の竹島(鬱陵島)と
>いう表現がピッタリだといえます。
私は、村川の船は竹島の西方に存在する高句麗の海域に流され、隠岐の港ではなく、最寄の朝鮮の港に入ったと考えます。理由は以下の二つです。
(1)高句麗に「落つ」という表現
「落ちる」という言葉は、「落ち武者」「都落ち」などの用例を見ても分かるように、「不本意な移動」のニュアンスを持ちます。「高句麗に落つ」についても、「不本意ながら高句麗へ行った」というニュアンスがあることを踏まえて解釈すべきです。
もしも、隠岐から竹島へ行く航路上に高句麗の水域があるという認識であれば、高句麗へ行くこと自体は竹島渡航の目的に適っており、別に不本意なことはありません。その場合「高句麗に落つ」という表現は使わないと思います。
(「隠岐へ向かったが、台風のため日本に流れついた」という文は、変でしょう?)
(2)「異域」という表現
竹島渡航エピソードに続く部分では、神が天地に満ち満ちた存在であり、異域であっても神の霊験は現れることを強調しています。この文脈から考えて、竹島渡航のエピソードは、異域で神の霊験が現れた例として紹介されていると見るべきです。
つまり、村川の船が見た漁火は「異域」と呼ぶのが相応しい場所に現れたものであり、隠岐の港の漁火ではなかった筈です。
ご意見をお聞かせ下さい。
これは メッセージ 12365 (te2222000 さん)への返信です.
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