平和的自給自足自治の実現 「精神編」
投稿者: yuyu10nen 投稿日時: 2011/02/03 20:43 投稿番号: [4 / 9]
人間の内面精神状態は、様々な欲望、気分、感情、そのエネルギー状態に
大きく翻弄される「仕組み」になっていた。
それゆえに、人間は自らを平和的に自給自足自治できるように自己コントロールすることが難しく「されて」いた。
その不自由さを伴った状態は、真の意味で自由な状態ではない。
しかし、その不自由さから人間は、ただそうした不自由さから自由に
なりたいと意思するだけでは、多くの場合、簡単に自由になることが
できないように「されて」いた。
私自身が、人間として生きてみた結果、それを理解できた。
それゆえ、私は、その不自由さに翻弄されて、自己否定的な行為を
「させられてしまう」人間の責任を全面的に問うことができないと
理解するようになった。
人間のほとんどが、そうした弱さを生得的に「合意もなく無理やりに、有無を言わさず、与えられて」いた。
その不自由さは、その人間個人が、本当に自由な心と自由な状態から魂の
ルールを正しく教えられた上で、理性的に慎重に選ぶことを様々に
妨害していた。
そして、多くの場合、家庭で、学校で、職場で、社会の中で、自由な個人として生きようとする意思が、排他的な意思(集団的な意思)によって阻害されていた。
ひどい場合は、それは「いじめ」として表面化し、表面化しないまでも
その人間の内面状態に多くの圧力を与え続けていることが多く観察される
結果になった。
そして、それが当然であり、当たり前であるとされる精神的なエネルギー
が支配していた。
そのような環境の中で、自分自身として成長してゆくことは、非常に難しい。
多くの魂が、そうしたエネルギー場の中で、その心に深い傷を負い、精神的な深手を負う。
私自身が、そのような体験を何度もしてきたので、それがわかる。
空気を読め、という言葉が使われることがあるが、そうした言葉が使われる
場合の多くで、そうした排他的な精神支配の仕組みが存在していた。
それは、往々にして、排他的であり、その場の空気、雰囲気に従わない
意識存在を、その集団精神支配を行う支配意識たちが否定する理由に
なっていた。
だが、そんな理由は、独自の意識存在を否定する正当性にならないのは
明白である。
反対の立場になったら、その支配意識は、それをよしとする覚悟をして
そうしているとは思えなかったし、その覚悟があるからといって、
そんな圧力を自分とは違う考え方や生き方をする人間に、押し付ける
ことは正当化されない。
だが、この世界の多くでは、それが当然であるとされる場合が非常に多く
見られた。
そのような態度は、因果応報の法において、排他的な行為であり、最終的に自己否定になると理解しなければならない。
多くの人間が、そうして、その精神圧力に負けて、自分自身を失ってゆくのを
見るのは、つらい。
いじめ、仲間はずれ、そうした体験は、とてもつらいものである。
それは、孤独に生きることよりも、はるかにつらい体験である。
そんな体験を、当然のことだとして、平気で、誰かれなく、与えてはならない。
それは、最終的に自分自身が、そうした体験を与えた責任を負うことになる
ことだからだ。
自発的に、そんなことは意思してはならない。
また、であれば、あら捜しをして、そこを徹底的に攻撃してやろうなどと
考えるのもまた、いじめと変わらない。
この世界で、あら捜しをされて、因果律において、すべて完璧である意識は、
ほとんど存在できない。
そのような自己否定的な行為が生存において自動的に強制されている仕組みの世界なのだから。
であれば、それは、自分自身を否定する結果になる。
といっても、この世界の支配意識存在たちは、そういわれても、素直にその姿勢を、どうやら、容易に自分自身で改めることができなくなってしまっている。
続く。
大きく翻弄される「仕組み」になっていた。
それゆえに、人間は自らを平和的に自給自足自治できるように自己コントロールすることが難しく「されて」いた。
その不自由さを伴った状態は、真の意味で自由な状態ではない。
しかし、その不自由さから人間は、ただそうした不自由さから自由に
なりたいと意思するだけでは、多くの場合、簡単に自由になることが
できないように「されて」いた。
私自身が、人間として生きてみた結果、それを理解できた。
それゆえ、私は、その不自由さに翻弄されて、自己否定的な行為を
「させられてしまう」人間の責任を全面的に問うことができないと
理解するようになった。
人間のほとんどが、そうした弱さを生得的に「合意もなく無理やりに、有無を言わさず、与えられて」いた。
その不自由さは、その人間個人が、本当に自由な心と自由な状態から魂の
ルールを正しく教えられた上で、理性的に慎重に選ぶことを様々に
妨害していた。
そして、多くの場合、家庭で、学校で、職場で、社会の中で、自由な個人として生きようとする意思が、排他的な意思(集団的な意思)によって阻害されていた。
ひどい場合は、それは「いじめ」として表面化し、表面化しないまでも
その人間の内面状態に多くの圧力を与え続けていることが多く観察される
結果になった。
そして、それが当然であり、当たり前であるとされる精神的なエネルギー
が支配していた。
そのような環境の中で、自分自身として成長してゆくことは、非常に難しい。
多くの魂が、そうしたエネルギー場の中で、その心に深い傷を負い、精神的な深手を負う。
私自身が、そのような体験を何度もしてきたので、それがわかる。
空気を読め、という言葉が使われることがあるが、そうした言葉が使われる
場合の多くで、そうした排他的な精神支配の仕組みが存在していた。
それは、往々にして、排他的であり、その場の空気、雰囲気に従わない
意識存在を、その集団精神支配を行う支配意識たちが否定する理由に
なっていた。
だが、そんな理由は、独自の意識存在を否定する正当性にならないのは
明白である。
反対の立場になったら、その支配意識は、それをよしとする覚悟をして
そうしているとは思えなかったし、その覚悟があるからといって、
そんな圧力を自分とは違う考え方や生き方をする人間に、押し付ける
ことは正当化されない。
だが、この世界の多くでは、それが当然であるとされる場合が非常に多く
見られた。
そのような態度は、因果応報の法において、排他的な行為であり、最終的に自己否定になると理解しなければならない。
多くの人間が、そうして、その精神圧力に負けて、自分自身を失ってゆくのを
見るのは、つらい。
いじめ、仲間はずれ、そうした体験は、とてもつらいものである。
それは、孤独に生きることよりも、はるかにつらい体験である。
そんな体験を、当然のことだとして、平気で、誰かれなく、与えてはならない。
それは、最終的に自分自身が、そうした体験を与えた責任を負うことになる
ことだからだ。
自発的に、そんなことは意思してはならない。
また、であれば、あら捜しをして、そこを徹底的に攻撃してやろうなどと
考えるのもまた、いじめと変わらない。
この世界で、あら捜しをされて、因果律において、すべて完璧である意識は、
ほとんど存在できない。
そのような自己否定的な行為が生存において自動的に強制されている仕組みの世界なのだから。
であれば、それは、自分自身を否定する結果になる。
といっても、この世界の支配意識存在たちは、そういわれても、素直にその姿勢を、どうやら、容易に自分自身で改めることができなくなってしまっている。
続く。
これは メッセージ 3 (yuyu10nen さん)への返信です.
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