硫黄島の戦闘の意味すること(4)
投稿者: komash0427 投稿日時: 2006/08/20 22:06 投稿番号: [229063 / 232612]
4
闘うことすでに10数日、3月に入ったときには、もはや戦いの結末は目に見えてしまった。陸軍中央は、天皇陛下の御嘉尚(ごかしょう)の言葉とともに、再三にわたって激励電報を発してきた。3月6日の参謀総長と軍令部総長の連名の電報にはこうあった。
「渺(びょう)タル絶海ノ孤島ニ奮戦スル将兵ノ獲得シツツアル戦機ニ投ジ、敵企図破摧(はさい)ノ為徹底セル方策ヲ具現シ得ズ、多数将兵ヲシテ敵ノ鋒鏑(ほうてき)ニ斃レシム。本職等其ノ責ニ当ル者日夜断腸ノ思ヲ禁ズル能ハズ」
硫黄島の放棄は、いわば大本営にとっては予定の作戦指導であったのである。せっかく力戦奮闘してもらっても、それを勝機ととらえて何らの反撃作戦にでられない。その苦悩を陸海の最高首脳は率直に告白しているのである。
が、大本営がどんなに断腸の思いを抱こうが、栗林兵団の将兵にはかかわりのないことであった。字義通り最後の一兵まで抵抗しようと、3月10日ごろ以降に、栗林中将は生き残っている将兵すべて北地区の陣地に集結させた。そのときには、司令部をおいた"栗林洞窟"の上には、たえず30機以上の敵機が飛んでおり、陣地の回りには一木一草も見当たらない情況になっていた。
3月15日、日本軍の抵抗もさすがにバラバラとなった。星条旗がはじめて硫黄島全土に翻った。翌16日、米軍はすべての組織的抵抗の終わったことを公表した。占領まで26日の長い時間がかかったことになる。
日本軍の損害は戦死約1万9,900名、戦傷は約1,000名。対して米軍は戦死6,821名、戦傷2万1,865名、合計した死傷者は2万8,686名で、上陸した海兵隊員の2人に1人が戦死はまたは戦傷したことになる。太平洋戦争で、米軍の反攻開始ののちにその死傷者が日本軍を上まわったのは、この硫黄島の戦いだけである。
日本軍の捕虜は1,033人。すべてが負傷して動けなくなったものばかりである。
スミス中将は言った。
「この戦闘は、過去168年の間に海兵隊が出合ったもっとも苦しい戦闘の一つであった。・・・・・太平洋で戦った敵指揮官のなかで、栗林中将はもっとも勇猛であった」
なるほど、栗林は文人将軍として名高かった。すでにふれたように、長野県出身、陸士26期、騎兵科、陸軍大学を2番で卒業した秀才。しかし、栗林は貴族的な持ち味や文才だけの、単なる文人脈ではなかった。むしろ敵将が褒め讃える以上に、栗林中将という軍人は日本陸軍が生んだもっとも勇猛果敢な指揮官のひとりであった。彼は着任と同時に、硫黄島に骨を埋める覚悟を決めている。また部下のひとりひとりに同じように死の覚悟を求め、全員に決死の日本精神の練成を要求した。死ぬも生きるも全員が一つ心をもって戦わん、の方針を打ち出している。それは「日本精神練成五誓」および「敢闘ノ誓」の栗林自筆の文書となり、これらを全軍に配布し、その徹底化を図った。しかもそのために常に率先垂範、部下と栗林は苦楽をともにした。「敢闘ノ誓」の全文を引こう。
一 我等ハ全力ヲ奮ッテ本島ヲ守リ抜カン
一 我等ハ爆薬ヲ擁キテ敵ノ戦車ニブツカリ之ヲ粉砕セン
一 我等ハ挺身敵中ニ斬込ミ敵ヲ鏖殺(おうさつ)セン
一 我等ハ一発必中ノ射撃ニ依ッテ敵ヲ撃チ斃(たお)サン
一 我等ハ各自敵十人ヲ殪(たお)サザレバ死ストモ死セズ
一 我等ハ最後ノ一人トナルモ「ゲリラ」ニ依ッテ敵ヲ悩マサン
この敢闘精神と全島要塞化とをもって米軍を迎え撃ったのである。そして昭和20年初頭、いよいよ米軍の来攻必死という戦況下において、栗林はさらに「戦闘心得」を全軍に配布し、島の死守を徹底させた。
「防禦戦闘」12項のうちのいくつかを引く。
4 爆薬で敵の戦車を打ち壊せ 敵数人を戦車とともに これぞ殊勲の最なるぞ
6 陣内に敵が入っても驚くな 陣地死守して撃ち殺せ
8 長斃れても一人で陣地を守りぬけ 任務第一 勲を立てよ
10 一人の強さが勝の因 苦戦に砕けて死を急ぐなよ胆の兵
11 一人でも多く斃せば遂に勝つ 名誉の戦死は十人斃して死ぬるのだ
12 負傷しても頑張り戦え虜となるな 最後は敵と刺し違え
こうして硫黄島防衛の日本軍将兵は、栗林の心をひとりひとりがおのれの心として、最後の一兵となるまで戦いつづけたのである。
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闘うことすでに10数日、3月に入ったときには、もはや戦いの結末は目に見えてしまった。陸軍中央は、天皇陛下の御嘉尚(ごかしょう)の言葉とともに、再三にわたって激励電報を発してきた。3月6日の参謀総長と軍令部総長の連名の電報にはこうあった。
「渺(びょう)タル絶海ノ孤島ニ奮戦スル将兵ノ獲得シツツアル戦機ニ投ジ、敵企図破摧(はさい)ノ為徹底セル方策ヲ具現シ得ズ、多数将兵ヲシテ敵ノ鋒鏑(ほうてき)ニ斃レシム。本職等其ノ責ニ当ル者日夜断腸ノ思ヲ禁ズル能ハズ」
硫黄島の放棄は、いわば大本営にとっては予定の作戦指導であったのである。せっかく力戦奮闘してもらっても、それを勝機ととらえて何らの反撃作戦にでられない。その苦悩を陸海の最高首脳は率直に告白しているのである。
が、大本営がどんなに断腸の思いを抱こうが、栗林兵団の将兵にはかかわりのないことであった。字義通り最後の一兵まで抵抗しようと、3月10日ごろ以降に、栗林中将は生き残っている将兵すべて北地区の陣地に集結させた。そのときには、司令部をおいた"栗林洞窟"の上には、たえず30機以上の敵機が飛んでおり、陣地の回りには一木一草も見当たらない情況になっていた。
3月15日、日本軍の抵抗もさすがにバラバラとなった。星条旗がはじめて硫黄島全土に翻った。翌16日、米軍はすべての組織的抵抗の終わったことを公表した。占領まで26日の長い時間がかかったことになる。
日本軍の損害は戦死約1万9,900名、戦傷は約1,000名。対して米軍は戦死6,821名、戦傷2万1,865名、合計した死傷者は2万8,686名で、上陸した海兵隊員の2人に1人が戦死はまたは戦傷したことになる。太平洋戦争で、米軍の反攻開始ののちにその死傷者が日本軍を上まわったのは、この硫黄島の戦いだけである。
日本軍の捕虜は1,033人。すべてが負傷して動けなくなったものばかりである。
スミス中将は言った。
「この戦闘は、過去168年の間に海兵隊が出合ったもっとも苦しい戦闘の一つであった。・・・・・太平洋で戦った敵指揮官のなかで、栗林中将はもっとも勇猛であった」
なるほど、栗林は文人将軍として名高かった。すでにふれたように、長野県出身、陸士26期、騎兵科、陸軍大学を2番で卒業した秀才。しかし、栗林は貴族的な持ち味や文才だけの、単なる文人脈ではなかった。むしろ敵将が褒め讃える以上に、栗林中将という軍人は日本陸軍が生んだもっとも勇猛果敢な指揮官のひとりであった。彼は着任と同時に、硫黄島に骨を埋める覚悟を決めている。また部下のひとりひとりに同じように死の覚悟を求め、全員に決死の日本精神の練成を要求した。死ぬも生きるも全員が一つ心をもって戦わん、の方針を打ち出している。それは「日本精神練成五誓」および「敢闘ノ誓」の栗林自筆の文書となり、これらを全軍に配布し、その徹底化を図った。しかもそのために常に率先垂範、部下と栗林は苦楽をともにした。「敢闘ノ誓」の全文を引こう。
一 我等ハ全力ヲ奮ッテ本島ヲ守リ抜カン
一 我等ハ爆薬ヲ擁キテ敵ノ戦車ニブツカリ之ヲ粉砕セン
一 我等ハ挺身敵中ニ斬込ミ敵ヲ鏖殺(おうさつ)セン
一 我等ハ一発必中ノ射撃ニ依ッテ敵ヲ撃チ斃(たお)サン
一 我等ハ各自敵十人ヲ殪(たお)サザレバ死ストモ死セズ
一 我等ハ最後ノ一人トナルモ「ゲリラ」ニ依ッテ敵ヲ悩マサン
この敢闘精神と全島要塞化とをもって米軍を迎え撃ったのである。そして昭和20年初頭、いよいよ米軍の来攻必死という戦況下において、栗林はさらに「戦闘心得」を全軍に配布し、島の死守を徹底させた。
「防禦戦闘」12項のうちのいくつかを引く。
4 爆薬で敵の戦車を打ち壊せ 敵数人を戦車とともに これぞ殊勲の最なるぞ
6 陣内に敵が入っても驚くな 陣地死守して撃ち殺せ
8 長斃れても一人で陣地を守りぬけ 任務第一 勲を立てよ
10 一人の強さが勝の因 苦戦に砕けて死を急ぐなよ胆の兵
11 一人でも多く斃せば遂に勝つ 名誉の戦死は十人斃して死ぬるのだ
12 負傷しても頑張り戦え虜となるな 最後は敵と刺し違え
こうして硫黄島防衛の日本軍将兵は、栗林の心をひとりひとりがおのれの心として、最後の一兵となるまで戦いつづけたのである。
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