南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行は事実

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◆元第16師団連隊長 魂の講演録⑥

投稿者: momotarou_no_onitaiji 投稿日時: 2012/12/27 23:31 投稿番号: [28917 / 29399]
9、太田壽男
南京の停泊場司令部の職員の少佐が、「12月16、17、18日に何万という死体を処理した」と書いています。

この人は後に戦犯となり、満州の撫順収容所に収容されてそこで書いたものであります。
ところが同停泊場司令部に梶谷という職員(曹長)の日記によると、太田少佐は12月16、17、18日に南京にはいなかった。
この人は12月25日に、上海から初めて南京に来た人であります。
太田という人は、戦犯収容所に収容されて、おそらくそう書くように強制されたものだと思います。
  それをいかにもまことしやかに、虐殺の証拠だと言うのです。
  太田少佐の手記については、毎日新聞静岡支局の武田某という記者が広島市に住んでいる畝本正巳氏(陸士46期。戦車隊中隊長として南京攻略戦に参加、偕行社編纂の「南京戦史」の編纂委員)のところに聴きに来た際、畝本氏は、
  「そんな馬鹿な事は無い」
  と、梶谷日記も見せて、太田少佐の手記の誤りである事を説明しています。
ところがそれが毎日新聞の記事になってみると、虐殺の動かぬ証拠として太田手記を載せ、しかも少佐であった人の証言であり、間違いないと言っているのです。
畝本氏の証言も梶谷日記のことも、一切無視しているのです。
今、お話したようなことが、「南京大虐殺」論の実態なのです。

南京に虐殺があったという主張にこれだけウソが多いということがお判りになれば、逆に虐殺は無かったという証拠になるのではないでしょうか。
「あった」という証明は簡単なのですが、「無かった」という証明はなかなか難しいのです。
ですから、「あった」という論にこれだけウソが多いことを指摘して、逆に証明する以外ありません。
しかしその指摘は、私や戦友、部下達が直接体験したところから出ているのです。


●南京に虐殺があったという主張にこれだけウソが多いということがお判りになれば、逆に虐殺は無かったという証拠になるのではないでしょうか。

●「あった」という証明は簡単なのですが、「無かった」という証明はなかなか難しいのです。

●ですから、「あった」という論にこれだけウソが多いことを指摘して、逆に証明する以外ありません。
しかしその指摘は、私や戦友、部下達が直接体験したところから出ているのです。


「しかしその指摘は、私や戦友、部下達が直接体験したところから出ているのです。」

◆元第16師団連隊長 魂の講演録⑤

投稿者: momotarou_no_onitaiji 投稿日時: 2012/12/27 23:12 投稿番号: [28916 / 29399]
5、東史郎(あずましろう)
歩兵第20連隊第3中隊上等兵。
わが南京プラトーン」という著書で随所に諸上官の悪口を書き、戦友の非   行として虐殺、強盗、強姦の情景を描写。
又「7千人の捕虜を各中隊に分配して殺害した」「中隊長自ら斥候(偵察)   に行った」等と書いています。

彼は私の連隊の兵士です。
捕虜を各中隊に分配して殺害するというような事はあり得ませんし、現に   私の中隊はそんな分配など受けた覚えはありません。
またどんなに激戦であろうとも、中隊長が約200人の部下の指揮を放棄して斥候に行くなんて、そんな馬鹿なことも考えられません。

各中隊はみな「中隊会」という戦友会を持っていますが、そんなウソを平気で書く男ですから、戦友会を除名されております。

また、「東という兵士が倉庫に秘蔵していた手記を我々に資料として提供した」と発表した新聞がありますが、同じ町に住んでいる私の部下が、私に手紙を送ってくれて、「東の家に倉庫なんてあったことはありません」と、はっきり言っております。
又、朝日新聞の記事によりますと、彼は自分の階級を「軍曹」と詐称して福岡で講演したこともあります。


6、北山与
歩兵第20連隊第3機関銃中隊。
「12月13日西山(前記の溝山のこと)麓で捕虜を火刑に処す」
「12月14日戦銃隊は紫金山の掃討、約800名、武装解除後、皆殺し」と証言。

これは私が第3大隊長代行として指揮した部隊の兵士です。
こんな命令を出したこともありませんし、これほど重要な事を、直接の指揮官である私が知らないはずがありません。
そんな大ウソを、朝日新聞は喜んで書いているのです。
彼はまた、自分は日記を書いたけれども、それは中隊長に検閲されるから差し支えのないことばかり書いた、と言っておりますが、戦場の中隊長は、兵士の日記を点検するほど暇ではありませんし、またどの兵士が日記を書いているかなんてことは判りません。


7、上羽武一郎
第16師団衛生隊の担架兵。
「戦場で放火、殺人、切り捨て勝手たるべしの命令があったので毎夜民家に放火して、住民をあぶり出して殺害した」と、メモに書いていると、新聞のインタビューに答え、
「中山門攻撃の歩兵第20連隊の多数の死傷者を運搬のため、住民中の青年約100名を徴用、使用した後虐殺」と証言。
「放火、殺人、切り捨て勝手たるべし」などと言う馬鹿なことを言う指揮官がいるわけがありません。
また当時の戦場の住民の中に、100名もの青年がそこいらにいる等という事はあり得ません。

8、最近、私が聞いた話で、京都に共産党をバックにした団体がありますが、それが舟橋照吉という男の日記が出た、これが虐殺の動かぬ証拠であると盛んに言っております。
  週刊誌に出たその日記なるものを私は子細に読みました。
  輜重輸卒(補給部隊)で京都の連隊に入ったそうですが、まるで自分1人で敵陣に突入し勇戦奮闘したようなことが書いてあります。
  輜重輸卒が戦闘に参加したり、まして敵陣に突入するなんてことはあり得ない事です。

◆元第16師団連隊長 魂の講演録④

投稿者: momotarou_no_onitaiji 投稿日時: 2012/12/27 23:11 投稿番号: [28915 / 29399]
実際に戦争に行った人間が、手記を書いたり日記を書いたりという形で色々虐殺を言っています。

  まず第一に、日記や手紙を書いたというのがおかしいと思います。
  戦場で兵士が日記を書けるものかどうか。
  背嚢(はいのう)は必要最小限の携行品で一杯になっています。
  その中へ一体何冊のノートを入れていったのか?
  筆記具は鉛筆なのか、インキなのか?
  当時はボールペンなどはありません。
  終日戦闘を続けて、あるいは土砂降りの雨の中を一日中行軍して、くたくたになって露営して、暗闇の中にはロウソクの灯りさえ無いのです。
  また敵と至近距離に対峙(たいじ)して夜を徹することもあります。
  戦場では、眠るのが精一杯のことが多いのです。
  そんな中で、どうして日記が書けるのでしょうか?
  丹念に日記を書くという力があったのでしょうか?
  それだけ考えても、戦場で書いた日記だというのは、どうも信用出来ないのです。

  彼らの証言をいくつかあげてみましょう。

  1、中山重夫
   岩仲戦車隊の兵で、昭和12(1937)年12月11日に雨花台(南京城南側、中華門外の台地)で、約4時間にわたって捕虜が虐殺されるのを見たと証言。
  静岡県の中学教師、森正孝という人物が作った「侵略」という8ミリ映画を持ち歩いて各地で講演をして回っています。
 
  昭和12(1937)年12月12日は激戦の真っ最中で、そんな中で捕虜を殺している余裕は絶対に無いのです。
  まして数時間もそれを見物するなどは考えられません。
  特に、中山重夫氏が配属されていた戦車隊は、南京城東側の中山門攻撃に加わっており、11日、12日の状況はすでにお話した通りです。
  この部隊にいた兵士が、南京城南側の雨花台で捕虜の虐殺を見るわけがないじゃないですか。
  そんな大ウソを平気で言うのです。

  2、曽根一夫
   豊橋の歩兵第18連隊の軍曹(分隊長)として従軍。
   「私記南京虐殺」3部作を発表、その中で蘇州河の戦闘につき、
  「11月7日朝霧の中工兵の人柱による橋上を敵弾を冒して走り、敵弾命中し河中に転落」と書いております。
 
  これが全くのウソであります。
  曽根一夫は豊橋歩兵第18連隊の軍曹ではなく、名古屋の野砲第3連隊の初年兵であったことを、彼と同じ中隊(野砲3、第12中隊)にいた戦友が証言しており、所属部隊の階級も全くデタラメですし、蘇州河の戦闘になどは参加しておりません。
  また第18連隊の中隊長、及部巷氏は、
  「11月7日は激しい風雨であり(朝霧などは無し)、蘇州河は水深2メートル余りで人柱等不可能、さらに当時は敵弾の飛来等ある状況では無かった」と、証言しています。
  こんなウソを平気で言っております。

  3、富沢孝夫
   海軍の暗号兵。
  「昭和12(1937)年12月11日、松井軍司令官の虐殺を戒(いまし)める暗号を傍受・解読した」と証言。
 
  海軍の暗号兵が陸軍の暗号を傍受・解読する事は、技術的に出来ないのです。
  さらにもう1つは、12月11日には、松井軍司令官は蘇州で入院しておられ、南京にはおられません。
  にもかかわらず、彼は平気でそういう事を言っております。

  4、石川フミ
   東北出身の日赤の看護婦で、病院船筑波丸に乗って揚子江を遡行(そこう)、12月27日に南京に上陸、中山陵を見物し、途中で「女、子供の死体が散乱しているのを見た」と証言。

  そんな時期に、そこいらに死体がある訳がありません。
  現実に、私は何度か中山陵に行きましたが、一体の死体も見たことはありません。
  何度も通った私が全然見ていないのに、たった一度行った看護婦が、散乱した死体を見るわけがないじゃありませんか 。

◆元第16師団連隊長 魂の講演録③

投稿者: momotarou_no_onitaiji 投稿日時: 2012/12/27 23:11 投稿番号: [28914 / 29399]
反日赤旗記者の捏造本

「隠された連隊史」という本を、共産党「赤旗」の下里正樹という記者が書いております。
 
これには私の属しました福知山歩兵第20連隊のことが書かれています。
 
大体、共産党の機関紙の記者が書いたものですから、内容は読まずとも知れたものですが、私の連隊のことを書いているものですから読んでみますと、よくもまぁこれだけ大ウソを書けたものだと思うくらいのものです。

  イ、「歩兵第20連隊では兵士が上官の指揮を批判し、命令に反抗し、将校はひたすら兵に迎合して兵の非行も黙認し、部隊内には下克上の空気蔓延し、将校の権威も指導力も全く零であった」

  私は第20連隊の中隊長として、兵士の機嫌を取らねばならない等と、思った事さえ1度もありません。
  常に部下の兵士と共に、お互いが信頼しあって戦ってきたのです。
  その結果もう半世紀も経った今もなお、当時の戦友会が毎年開かれているのです。
  来月の7日にも、私の中隊の戦友会が京都府の綾部で行われますが、例年のごとく、「隊長殿、是非出席して下さい」と招待されております。
  将校が兵士の機嫌を取らねばならなかった軍隊で、そんなことが続けられるのでしょうか?
  また私が十数年前に大病で下関で入院したことがありますが、当時の部下の多くは京都府に住んでいるのですが誰かれ言うとも無く、
  「隊長殿がひどい病気だ」
  ということで、知らぬ間に多額の見舞い金を送ってくれました。
  私はベッドで感激の涙にむせんだ事でした。
  将校と下士官・兵の心が離れていたならば、こんなことはあり得ないと思います。
  これは私の場合だけではなく、中隊長と中隊の兵士の気持ちがしっかりと結ばれていなければ、激戦を戦い抜くということは出来ないのです。

  ロ、「日露戦争の際、歩兵第28連隊(北海道旭川)の兵2千人が捕虜になり、戦後恥ずかしくて日本には帰らず、ハワイに移住した者もある」
 
  これもまた、ものを知らずに書いたにしてもあまりにひどいじゃないか、というものです。
  1個連隊は約3千人ですが、そのうち2千人が捕虜になったなどということはあり得ないことです。
  私に言わせれば、下里正樹は「私はウソを書いております」と、自分で白状しているようなものであります。
  「天に向かってツバをする」とはこの事でしょう。

◆元第16師団連隊長 魂の講演録②

投稿者: momotarou_no_onitaiji 投稿日時: 2012/12/27 23:10 投稿番号: [28913 / 29399]
(2)次に、戦後に参戦者の手記、日記、インタビュー等から、盛んに「虐殺」を言っている記事で、その取材の仕方が全く偏向したものである例を挙げます。

  まず、第一に、取材する相手に、虐殺を証言する人間しか選ばないという点があります。
  虐殺を否定すると思われる人には取材をしません。
  そればかりか取材をすると何とかデッチあげてでも虐殺に仕立てるという事を致します。
  場合によっては、証言を意図的に歪曲し、時には正反対の解釈をして、証言者がそんなことは言ってない、と憤慨(ふんがい)している例もあります。
  また、証言者が、
  「中隊の軍紀は非常に厳正でありました。」
  などと証言しても、そんなことは一切取り上げようとしません。
  自分の取材意図に合ってさえいれば、証言内容が明瞭(めいりょう)なウソであると判っていても、そのまま記事にしております。
  宮崎県の農家で写真と参戦者の日記を発見したとして南京虐殺の決定的証拠とした、朝日新聞の昭和58(1983)年8月4日の記事に対し、その写真は満州の馬賊の写真で、昭和初期に朝鮮買ったものであると、読者が抗議しています。
  また森村誠一の「続・悪魔の飽食」に、日露戦争当時の伝染病による死体写真を今次大戦の関東軍の虐殺の証拠写真としていつわって掲載しているのを、読者よりの指摘抗議によって暴かれたのは有名な話です。
  そのような記事について、
  「そんなことはあり得ないことである」
  と反論されても、無視し、認めないか、言を左右にしてうやむやにするのが、彼らの常套手段(じょうとうしゅだん)なのです。
  都城連隊関係者が、朝日新聞に対して名誉毀損の抗議訴訟を起こして朝日が敗訴した件、京都新聞の無責任な記事に対する歩兵20連隊第3中隊の抗議に対する態度、また「平和のための京都の戦争展」の朝日新聞の記事に対し私が抗議しましたが全く無回答、これが新聞の態度です。
  全く礼儀知らずと言うほかありません。


さらに、偏向的時後取材により「南京大虐殺」を盛んに主張する例を挙げます。
  朝日新聞の本多勝一という記者が「中国の旅」という本を書いています。
  これは彼が戦後・満州・中国に行って、日本人がそんなに悪い事をしたかを中国人に取材して、全く無批判に鵜呑みにして書いたものですが、その内の南京関係の例をあげてみましょう。

  イ、姜根福の証言。
    日本軍は南京城北の燕子磯で10万人くらい機関銃で射殺した。
    紫金山で2千人を生き埋めにした。
    あるいは軍用犬に中国人を襲わせ、その人肉を食わせた。城内で20万人を虐殺、死体を積み上げて石油をかけて焼いた。

  ロ、伍長徳の証言。
    南京戦直後、日本兵に銃剣で肩を刺されたが逃げ、揚子江に飛び込んで、日が暮れるまで水中に隠れていた。日本軍は逮捕した青年を高圧線にぶら下げてあぶり殺し、工業用硝酸をかけて殺した。

  ハ、李秀英(女性)の証言。
    日本兵に強姦されそうになり抵抗、その銃剣を奪って格闘して追い払った。しかし37ヶ所も刺されて気絶していたのを、親族の者達に助けられた。

  2千人を生き埋めにするための労力と時間と穴の大きさは、どれ程のものであったのでしょうか?
  軍用犬に人を襲わせて、その肉を食わせるなどという馬鹿なことがあり得るのでしょうか?
  石油や工業用硝酸を、戦場でいつ、どこで入手したのでしょうか?
  揚子江は確かに冬でも凍りはしませんが、12月の揚子江に飛び込んで、首だけ出していて一体日が暮れるまで我慢できるのでしょうか?
  高圧線に、どうやって人間を吊り下げるのでしょうか?
  当時の日本兵は現役バリバリで士気も高く、女性と格闘して銃剣を奪われ、尻尾を巻いて逃げ出すような情けない兵士がいる訳がありません。
  37ヶ所も刺されて失神した者が、また蘇生するなどという事があり得るでしょうか?
  どれ1つ取ってもすぐウソだと判る事ばかりです。
  それを本多勝一記者は、「なるほど、ごもっともです」とそのまま本にしているのです。
  本多記者については、
  「朝日の中には、本多君に対して良くない感情を持っている人が沢山いる」という事を朝日新聞の同僚の記者が言っていますし、又石原慎太郎氏は平成3(1991)年の「文藝春秋」に、
  「朝日には本多という奇妙な性格の記者がいて、盛んに南京虐殺のことを書く」と言っております。
  本多勝一記者は、
  「日本の子弟に国際性を持たせるため、南京大虐殺の教育を徹底させる必要がある」と言っています。
  私は売国奴、何を血迷ったか、妄語断じて許すべからずと、憤(いきどお)りに駆られます。

◆元第16師団連隊長 魂の講演録①

投稿者: momotarou_no_onitaiji 投稿日時: 2012/12/27 23:09 投稿番号: [28912 / 29399]
元第16師団(京都)歩兵第20連隊(福知山)大隊長、森王琢氏

  ―   謹(つつし)んで英霊に捧(ささ)ぐ―

   『「南京大虐殺」はなかった』より



「虐殺はあった」と主張する人を一応「虐殺論者」と呼ぶ事に致しますが、この中には新聞記者、学者、評論家という人達、それともう一つは戦争に行った兵隊、下士官、将校がおります。
  そういう人達の虐殺論がいかにウソでありデタラメであるかをこれからご説明します。

  (1)まず、当時の従軍記者の例をあげます。
  当時南京には、新聞各社の記者が100名以上もおりました。

  イ、朝日新聞の今井正剛記者という記者が「南京城内の大量殺人」という本を書いております。大阪毎日(当時)の後藤記者が、
 
  「あなたはとんでもない事を書いていますね」とただしたところ、今井記者は、
  「あれは興味本位で書いたのだ」と白状しています。
  朝日の同僚の記者は、
  「今井君は危険な前線に出て、目で見てものを書く人ではなく、後方で人の話を聞いて記事を書くのが上手であった」と批判をしております。

  ロ、東京日々新聞の鈴木二郎という記者は、
   「私は12月12日に中山門より入城した。後続部隊が次々に中山門上で万歳をし、写真を撮っていた。中山門の上では盛んに捕虜が虐殺されていた」と証言しております。
  作家の阿羅健一氏が、
  「あなは12月12日に中山門に入られたのですか。それは13日の間違いではありませんか」と問い正したのにも関わらず、
  「いや、私は12日に入って、現実に捕虜が殺されるのを見たんだ」と譲らないのです。
  12月12日には、私は先ほどお話したように、中山門正面約2キロ手前の溝山の山頂にいました。
  双眼鏡で中山門の城壁がやっと見えたのですが、敵兵がいっぱいおりました。
  一体いつになったらあれを占領できるのかと、その時思ったことを私ははっきり覚えています。
  そんな時期に、一新聞記者がどうして中山門に入れるのでしょうか。
  中山門の高さは約10メートル、厚さ20センチの扉はぴったり閉まっており、しかも門の内側には土嚢(どのう)がいっぱい積み上げられてありました。
  13日の未明、我が歩兵20連隊が砲撃によって崩れた城壁をよじ登って占領し、私は15日に中山門に入ったのですが、ここで捕虜が虐殺されたような形跡は全くありませんでした。
  要するに、鈴木二郎という記者の証言は、全くのウソであります。
 
  ハ、東京日々新聞の浅海一男という記者が、「百人斬り」という記事を書いています。
  京都の9連隊の野田・向井の2人の少尉に、上官が、どちらが早く百人を斬ることが出来るか競争せよ、勝者に賞を与えようと命じられ、2人が百人斬りを競ったというものでありますが、これが全くのウソであります。
  第一に、軍隊で戦争の真っ最中に、上官が将校にかかる競争を命じ、勝った方に賞をやろうなどと言うこと、また将校もそんなエサで釣られるようなことは、軍隊の常識としてあり得ません。
  その時の上官であると言われている富山大隊長も、
  「そんな馬鹿なことがあるものか」
  と、ハッキリ否定しておられます。
  さらに野田少尉は大隊副官、向井少尉は大隊砲小隊長であり、両方とも部下が銃剣を持って敵陣に突入する部隊の指揮官ではありません。
  そういう将校に、敵に突入して百人斬りを命ずる馬鹿がいるでしょうか?
  そういう作り話がまことしやかに書かれ、そのために両少尉は戦犯にされ、処刑されたのです。
  東京裁判の最中に、向井少尉の家族が、浅海記者にあの記事はウソである、作り話であるということを証言して欲しいと懇願していますが、浅海記者は逃げ回ってその証言を回避しております。
  私は、彼が2人の若い将校を殺したのも同然だと考えております。

Re: 難問 ワダツミと仁多はどっちがバカか

投稿者: rugaruga12 投稿日時: 2012/12/27 22:45 投稿番号: [28911 / 29399]
>たった3か月で5万人分の住宅、水、食料のインフラを整えるのは不可能

焼き打ちや堤防を決壊させて中国人民に迷惑をかける中国軍を掃討するまでの一時的な避難なら可能ですな。

Re: 未だに南京大虐殺を信じている低脳がい

投稿者: rugaruga12 投稿日時: 2012/12/27 22:43 投稿番号: [28910 / 29399]
>キリスト教の牧師なり神父がアジアに布教にくるはずもないのだが

神父の仕事の一つには異教徒や異端者の改宗もあるのだが。

そもそも欧州以外の地域での布教活動の目的はザビエル神父のような一部例外を除けばスポンサーであるスペインやポルトガルの為に交易(=略奪)と植民地を作るための尖兵ですけど。

>常識で考えてもわかる話。


こう言う常識ですか?
北方十字軍
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%96%B9%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D
アルビジョア十字軍
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%93%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A2%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D

なるほどなるほど常識的に考えれば確かにそうでしょうね。

Re: 難問 ワダツミと仁多はどっちがバカか

投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/27 22:27 投稿番号: [28909 / 29399]
newdendenmaru2よりもnyankotyanndamonのほうがまだ賢い。

というよりずる賢い。

彼には「資料改竄」というわざがある。




(nyankotyanndamon氏による改竄の実例)

第二條   娼妓名簿に登録せられざる者は娼妓稼を為すことを得ず

娼妓名簿は娼妓所在地諸官警察官署(占領地に在りては領事警察)に備えるものとす

娼妓名簿に登録せられたる者は取締上警察官署の監督を受けるものとす

第三條   娼妓名簿の登録は娼妓たらんとする者自ら警察官署に出頭し左の事項を具したる書面を以て之を申請すべし
    
     一.娼妓と為る事由
     二.生年月日
     三.同一籍内にある最近尊属親、尊属なきときは戸主の承諾を得たること若し承諾を与えべきものなきときは其の事実
     四.未成年者に在りては前号の外実父、実父なきときは実母、実父母なきときは実祖父、実祖父なきときは實祖母の承諾を得たる殊
     五.娼妓稼を為すに於ける住居
     六.娼妓名簿登録後に於ける住居
     七.現在の生業但し他人に依り生計を営むものは其の事実
     八.娼妓たりし事実の有無竝に嘗て娼妓たりし者は其の稼業者たりしも之を申請すること

Re: 未だに南京大虐殺を信じている低脳がい

投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/27 21:08 投稿番号: [28907 / 29399]
>で、キリスト教やユダヤ教、イスラームなどアブラハム系の宗教における「人」の区分基準は自分の宗教または宗派を信仰しているかどうか。
つまり、他宗教はもちろん他宗派である場合ですらも人としてみなされません。


もし一神教が他宗教信仰者を「人」と見なさないのなら、キリスト教の牧師なり神父がアジアに布教にくるはずもないのだが。

常識で考えてもわかる話。

Re: 難問 ワダツミと仁多はどっちがバカか

投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/27 21:01 投稿番号: [28906 / 29399]
まだすごいバカがいた。

その名は z_gusinlp。   「日本軍舎の前では、シナ人の子どもたちが爆竹を鳴らして、歓声をあげていた」

いくら物資に乏しい日本軍とはいえ、目の前でシナ人の子供に爆竹を鳴らされるほど落ちぶれてはおらん。

Re: 難問 ワダツミと仁多はどっちがバカか

投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/27 20:53 投稿番号: [28905 / 29399]
もっとすごいバカがいる。

その名は、madabakayatuterunokaomae。

「そして日本軍が撤退した3ヶ月後に、人口が25万人へと5万人も増えたのは周辺の町から南京城へ避難した人たちによって膨らんだからに違いないのです。」


たった3か月で5万人分の住宅、水、食料のインフラを整えるのは不可能。

難問 ワダツミと仁多はどっちがバカか?

投稿者: newdendenmaru2 投稿日時: 2012/12/27 18:15 投稿番号: [28904 / 29399]
●ワダツミ

『他国を   武力を用いて   攻撃・占領するためには、
少なくとも   「軍事力の脅威を排除する」という口実が必要だ。
軍事力を持たない日本には   「脅威」は   存在し得ない。』


●仁多

『治安を回復するために、とにかく誰彼かまわず虐殺してしまうということもな。ま、これは仮説にすぎんが。』

『 はい残念。
キリスト教はユダヤ教の人種差別を嫌って、イエスがユダヤ教の一分派として立ち上げた。
したがってキリスト教の根底にあるものは反人種差別。』



                (笑)



wadatumi_voice21の珍論の奥にあるもの

投稿者: newdendenmaru2 投稿日時: 2012/12/27 18:10 投稿番号: [28903 / 29399]
相も変わらずお馬鹿投稿を繰り返す wadatumi_voice21なる反日バカサヨが以前、こんな珍論を披歴していた。
       ↓

『他国を   武力を用いて   攻撃・占領するためには、
少なくとも   「軍事力の脅威を排除する」という口実が必要だ。
軍事力を持たない日本には   「脅威」は   存在し得ない。』

      by wadatumi_voice21


日本には軍事力がないんだそうなww
笑いを止めるのに苦労するが、笑ってばかりもいられない。
なにせこのバカは「本気で言っている」のだから・・・・

なぜこのようなバカげた珍論を大真面目に語るのか?
それは、wadatumi_voice21をはじめとする頭空っぽのバカサヨが「念仏平和主義者」であるからに他ならない。

例えば日本がどこかの国に攻められる。そして占領される。そして「日本国憲法」が停止されるということは、世界の歴史を見れば、充分に考えられることである。するとそういうことがないようにはどうすればいいかというと、当たり前の話だが、そのための軍隊を持っておく。つまり憲法を護るための軍隊を持っておくということである。これはバカ以外は当然そう考えるから、どこの国でもちゃんと憲法に規定された軍隊がある。永世中立国といわれるスイスにもある。いや、むしろ自前のしっかりした軍隊があるからこそ、永世中立を掲げることが出来るのである。ところがバカだけは、軍隊があると戦争を呼ぶんじゃないか。だからないほうがいい。しかしまったくないのも不安だから、軍隊とは呼ばずに「自衛隊」といおうと。内容でも変わっているのかというと、全然変わっていない。ただ、言葉で誤魔化しているだけである。

自衛隊は常識的に見れば、どこの国の誰が見ても、軍隊でる。しかし、軍隊といわずに自衛隊といおうと。日本には軍隊はないんだと安心する。だけど自衛隊はある。それで安心する。こういう奇妙な言葉の上での誤魔化しの二重構造の上にバカの論理(「日本に軍事力は無い」)は成り立っているのである。

「雨が降ると言えば雨が降るという世界」では、日本に軍隊はありませんといえば、無いんです。実際にはあっても、それはどう見ても軍隊じゃないかというものがあっても、言葉の上だけで打ち消しておけば、無いんです。そして、そのことによって安心する。

全くもって呆れ果てて屁も出ないとはこのことである。

Re: 南京への道の兵站5

投稿者: shoujouji 投稿日時: 2012/12/27 17:08 投稿番号: [28901 / 29399]
>↑十二月十二〜十三日頃食糧も弾薬も十分にあったんだね、師団(第十三師団)には。

「弾薬に乏しい日本軍が捕虜の処刑で弾薬を無駄にしたはずがない」というのが
馬鹿ウヨのよく言うセリフだがな(藁

Re: 未だに南京大虐殺を信じている低脳がい

投稿者: rugaruga12 投稿日時: 2012/12/27 15:38 投稿番号: [28900 / 29399]
>したがってキリスト教の根底にあるものは反人種差別。

で、キリスト教やユダヤ教、イスラームなどアブラハム系の宗教における「人」の区分基準は自分の宗教または宗派を信仰しているかどうか。

つまり、他宗教はもちろん他宗派である場合ですらも人としてみなされません。

教科書でも載っている十字軍や魔女狩り、宗教戦争などを少しでも理解していればわかりそうなものですけどね。

Re: 未だに南京大虐殺を信じている低脳がい

投稿者: rugaruga12 投稿日時: 2012/12/27 15:32 投稿番号: [28899 / 29399]
>食糧は行軍しながらでも購入なり略奪なりして調達可能だろう。

日本軍が来る前に中国軍が南京周辺を焼き討ちしておりましたので現地調達は物理的に不可能ですが。

あと仮に原材料を購入なり略奪なりしたとしてもそれなりに調理なり加工なりされていないと食べれません。下手に食べれば食中毒なり起こして全滅ですし。

それとも購入ならまだしも略奪されたかたがたはわざわざ日本兵向けに調理なり加工なりしてくれたのですかねぇ。ご親切にも。

>しかしいくら食糧のない日本軍とはいえ、最低、武器弾薬くらいは持って南京まで進軍したんじゃないのか。

で、南京郊外で餓死なり野垂れ死にでもしたのかね?

Re: 未だに南京大虐殺を信じている低脳がい

投稿者: rugaruga12 投稿日時: 2012/12/27 15:25 投稿番号: [28898 / 29399]
>治安を回復するために、とにかく誰彼かまわず虐殺してしまうということもな。

で、その命令書は?

>ま、これは仮説にすぎんが。

根拠もへったくりもない以上は仮とはいえ説でもないですけどね。

南京への道の兵站5

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/27 15:02 投稿番号: [28897 / 29399]
歩兵第百十六連隊

一.十二日午前八時次の宿営地に向かい出発午後四時十分連隊本部、第二大隊は諌壁鎮、連隊機関銃薛湾、歩兵砲は石頭、第一大隊は枯林に夫々宿営せり

一.十三日午前九時師団集結地鎮江に出発午後二時鎮江に到着し師団の指示により鎮江党部に宿営し次期作戦に備える為弾薬及び糧食の補給を行う

↑十二月十二〜十三日頃食糧も弾薬も十分にあったんだね、師団(第十三師団)には。

Re: 未だに南京大虐殺を信じている低脳がい

投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/26 17:22 投稿番号: [28896 / 29399]
>>キリスト教の牧師は人種差別をしない。

>けど「キリスト教」誕生から現在進行形で宗教・宗派差別はしてますがね。


はい残念。

キリスト教はユダヤ教の人種差別を嫌って、イエスがユダヤ教の一分派として立ち上げた。

したがってキリスト教の根底にあるものは反人種差別。

Re: 未だに南京大虐殺を信じている低脳がい

投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/26 17:20 投稿番号: [28895 / 29399]
>>おまえ、日本軍が南京市民に餅をふるまったといってだろ。

>仮にそれがうそならば何十万の虐殺するほどの武器弾薬もない=物理的に虐殺は不可能となるのだが。


なにもわしは虐殺が事実だと確信を持つ者ではないが、

食糧は行軍しながらでも購入なり略奪なりして調達可能だろう。

しかしいくら食糧のない日本軍とはいえ、最低、武器弾薬くらいは持って南京まで進軍したんじゃないのか。

Re: 未だに南京大虐殺を信じている低脳がい

投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/26 17:17 投稿番号: [28894 / 29399]
>だったら、残党兵がうろうろし、治安が回復していないところで虐殺なんかしている暇があるわけないのだが


逆の考え方もあるだろう。

治安を回復するために、とにかく誰彼かまわず虐殺してしまうということもな。

ま、これは仮説にすぎんが。

南京への道の兵站4

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/26 14:29 投稿番号: [28893 / 29399]
上海派遣軍命令   昭和十二年十一月二十五日午後八時
         於   滸浦鎮

一.軍は常州に迎脾摘を追撃中なり

二.兵站は第一線兵団推進の為逐次補給点を滸浦鎮−常熟−常州道竝に常熟
   −江蔭−常州道に沿う地区に前進せしめんとす
   水路補給輸送は臨時碇泊場司令官部之を担任す

三.滸浦鎮兵站司令官は先ず主力ヲ以て滸浦鎮に一部を以て常熟に位置し主
   として集成騎兵隊第十三師団、重藤支隊及び第十六師団に対する補給に
   任ずべし
   警備区域は当分の間&#26949;山−常熟水路以東滸浦鎮南北の線に亘る間とし一
   部の兵力を以て碇泊場司令部の担任する水路輸送を直接警戒掩護すべし
   特に&#26949;山鎮は確実に占領するを要す

四.野戦道路構築隊は滸浦鎮−常熟道を自動車を通し得る如く応急保守すべ
   し

五.兵站自動車第四十一中隊は主力ヲ以て前任務を続行すべし

六.野戦予備病院第十五班は主力を以て大吉丸雲陽丸にありて患者を収容す
   ると共に一部を以て滸浦鎮に上陸し後送患者の受領保護に任ずべし
   野戦予備病院第二十七班は速に主力を以て常熟に開設し患者の収容に任
   ずべし

七.患者輸送部支部は第一線各兵団の患者後送に任ずべし
   特に第十三師団と密接に連繋するを要す

八.第三兵站病馬廠は先ず常熟に開設し病馬の収容に任ずべし

九.第六師団後備歩兵第一大隊は常熟付近の警備に任ずべし

一〇.第六師団後備野砲兵第一中隊竝に第二師団後備工兵第一中隊は滸浦鎮
   南側地区に集結待命すべし
   野砲兵中隊は随時&#26949;山及び梅李鎮方向を射撃し得る如く準備しあるを要
   す

           軍司令官   松井石根
   下達法
     印刷交付

↑兵站は順調に行われていたんだね、これを知らんのは中国軍くらいなものだろうね。

南京への道の兵站3

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/26 13:48 投稿番号: [28892 / 29399]
12年11月12日   K方面揚陸計劃

一.中支碇泊場監部は配属揚陸作業をして当内上陸各兵団指揮官の区処を受
   けしめ重藤支隊の先頭部隊を極めて秘密裏に奇襲上陸せしめ次いで各兵
   団戦闘部隊を急速に揚陸す

二.爾後引続き後続部隊及軍需品を揚陸し且水路輸送を担任す

三.上陸根拠地を滸、浦口とし状況に依り白茆口に設定す

四〜六   省略

七.畑中部隊は直ちに所要の船艇を進水し重藤部隊の右翼隊及び左側支隊を
   移乗せしめ13日午前2時出発海軍水雷艇嚮導の許に極めて隠密裡に上
   陸點に向かい進行同午前五時三十分頃着岸上陸部隊を上陸せしむ

八.第一輸送戦隊は右第一回上陸部隊第一錨地発進後出発午前六時上陸點錨
   地に至り投錨す
   又第二輸送戦隊は第一輸送戦隊の中央後に又第16師団戦隊は其の左翼
   に投錨す

九〜十省略

十一.上陸兵団の上陸進捗し海上の船艇を他に転用し得る状況に至れば畑中
   部隊は歩兵約一大隊を乗艇せしめ得る船艇を各重藤部隊及中島部隊に交
   付し第一線の推進に使すものとす其の時機は別命す

十二.畑中部隊は兵団揚陸中と雖も軍需品の到着せるに従い之を揚陸し兵站
   に交付す又速に滸浦口状況に依り白茆口に根拠地を設定し上海より水路
   輸送用の船艇の集合するに従い水路輸送を開始し弾薬糧秣を第一線に追
   及せしむるものとす

十三〜二十省略

二十一.重藤支隊滸浦鎮(若しくは白茆口)を占領せば兵站と協力し時機を
   失せず上陸拠点設定するべし
   拠点設定要領■■■
   (一)日々20噸軍需品を揚陸しこれを直ちに水路により前送し得るを
      標準とす
   (二)根拠地の設備程度及び強度は相当長期間(約二、三箇月)に亘る
      ものとして設定するを要す
   (三)警備に関しては重藤支隊と協定す

――――――――――――――――――――――−−−−−
上海派遣軍長江上流方面上陸に伴う後方計画案

一.兵站は兵団の上陸及び常熟無錫付近の戦闘に遺憾なからしむると共に戦
   況の進展に伴う江蔭攻略南京向かう追撃に支障なからしむるを方針とす

二.兵団上陸地方面に補給所廠兵站部隊の一部を配置し後方業務の円滑を期
   す
   上陸方面に転用する兵站部隊別紙第一の如く其の上陸順序日次別紙第二
   の如し

三.滸浦鎮若しくは白茆口を補給の基点とす

四.補給線は滸浦鎮(白茆口)−支塘鎮及び滸浦鎮(白茆口)−常熟−無錫
   道に予定す

五.補給廠より有力なる部員を先遣せしむ
   上陸当初は水上倉庫の形式に依り爾後速に陸上に集積す

六.弾薬
   上陸部隊は務めて部隊装備を充実携行せしむ
   野戦砲兵廠支廠には上陸第三日以降速に先ず三分の一会戦分を前送集積
   す
   弾薬の補給開始は上陸後4日以後とす

七.器材
   上陸部隊には予め豊富に軽渡河材料を交付せり橋梁構築材料を前送す

八.糧秣
   上陸部隊には五日分の糧秣を携行上陸せしむ
   上陸第3日以降糧秣揚陸を開始し各隊に対する補給は各当該部隊の上陸
   第4日より実施す
   成る可く速に50師団分の糧秣を基点に集積す
   特に地方物資の収集利用に努

九.輸送は水路及び兵站自動車中隊による
   上陸当初は水路を主とし後兵站自動車中隊を揚陸す

十.此の方面に充当する船数は地方水船約七十(大40、小30)兵站自動
   車約六中隊とす

以降省略

↑上記のように兵站はされていたんだね、中国軍は兵站がなかったようだね自国内でも。

Re: 未だに南京大虐殺を信じている低脳がい

投稿者: rugaruga12 投稿日時: 2012/12/26 10:47 投稿番号: [28891 / 29399]
>日本軍が迫ってきている切迫した状況のなかで、女性に迫る時間があるわけないだろ!

だったら、残党兵がうろうろし、治安が回復していないところで虐殺なんかしている暇があるわけないのだが

Re: 未だに南京大虐殺を信じている低脳がい

投稿者: rugaruga12 投稿日時: 2012/12/26 10:46 投稿番号: [28890 / 29399]
>おまえ、日本軍が南京市民に餅をふるまったといってだろ。

仮にそれがうそならば何十万の虐殺するほどの武器弾薬もない=物理的に虐殺は不可能となるのだが。

Re: 未だに南京大虐殺を信じている低脳がい

投稿者: rugaruga12 投稿日時: 2012/12/26 10:44 投稿番号: [28889 / 29399]
>キリスト教の牧師は人種差別をしない。

けど「キリスト教」誕生から現在進行形で宗教・宗派差別はしてますがね。

そして日本人の大半は非キリスト教徒どころか一神教が忌み嫌う多宗教の文化圏ですが。

南京への道の兵站2

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/26 09:45 投稿番号: [28888 / 29399]
補給用軍需品船舶輸送概見表(昭和十二年十一月二十三日)

糧食(新年用)   480噸    搭載日   十一月二十五〜三十日   揚陸日   十二月八〜十二日

糧食(新年用)   220噸    搭載日   十二月一〜三日   揚陸日   十二月六〜九日(大阪搭載)

糧食(新年用)   370噸    搭載日   十二月一〜三日   揚陸日   十二月六〜九日(広島搭載)

↑此以外に糧秣は十六回以上輸送されている。

又、もち20万瓩、糯米5万瓩が上海派遣軍に、餅12万瓩、糯米3万瓩が丁集団宛に送られている、昭和十二年十二月十五日。

これで食糧不足など起こる理由がない、これが歴史的事実である。

南京への道の兵站

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/26 09:11 投稿番号: [28887 / 29399]
昭和12年8月16日付

上海派遣軍上陸直後用糧秣

一.軍艦輸送糧秣

   軍艦に搭乗派遣せらる部隊に対しては其の兵額に応じ概ね二週間分の糧
   食、燃料を海軍に於いて整備し上陸部隊に交付する如く協定しあるに付
   受領の上補給用に充当せられたく

二.第一次軍隊輸送船下積み糧秣

   第一次に輸送せらるる軍隊輸送船には別紙第二の糧秣中適宜下積として
   搭載しあるに付き(船内糧秣残余共)揚陸後は補給用に充当せられ度

   尚本件糧秣の処理業務援助の為陸軍糧秣廠より陸軍主計大尉石川廣一を
   出張せしめらるるに付き派遣間貴軍に於いて区署し本業務を援助せしめ
   られ度
   (爾後は8月16日陸支密第313号の通り追送す)

下積糧秣交付区分

品目

乾麺麭       85,000瓩
携帯缶詰      19,000
携帯食塩      15,000
精米       960,000
精麦       250,000
尋常缶詰      94,000
同代用品      94,000
醤油エキス      5,000
醤油        34,000立
味噌        47,000瓩
乾物類       34,000
漬物類       50,000
木炭       120,000
大麦       800,000
干草       330,000

↑糧食の用意はしてあったんだね、これが史実だよ。

以降追送されているからね、糧秣は。

Re: 南京への道(1) 

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/26 08:14 投稿番号: [28886 / 29399]
昭和一二、一一、二八 秘 電報 一一、二七 後五、〇一発 八、三〇着 上参三第二六四号 次官 兵站総監宛 上海派遣軍参謀長 陸支密第一七〇〇号及第一七七七号臨命 第五九三号ニ依ル第三次補給弾薬ハ少数 ノモノヲ除ク外到着済逐次揚陸中ナリ、 未到着ハ本日迄ノ調査ニ依レハ手榴弾ニ万二千重擲弾二千七百九二式歩兵砲弾五千 八百野砲榴弾七千十加、榴弾六百、十五加 榴弾二千八百ナルモ差当リ不足ヲ感スルモ ノナシ 三、目下丁集団行ノ弾薬ト当軍ノモノト混在 スルカ如キコトナシ 四、十一月十一日以降ノ射耗断数ハ本月三十日 迄ノ分ヲ一括シテ調査中ナルモ比較 的少数ナリト判断シアリ (終)

↑弾薬の兵站も順調なんだね。

Re: 南京への道(1) 

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/26 08:08 投稿番号: [28885 / 29399]
昭和12年10月2日〜昭和12年10月7日

一、勤務ノ名称 陳家行及其東南地区ノ戦闘ニ於ケル輸送並ニ補給業務 二、期間 自昭和十二年十月八日至昭和十二年十月二十二日 三、師団ノ戦況経過ノ概要 別紙ノ如シ 四、連隊行動ノ概要 師団カ速ニ軍所命ノ線ニ進出センカ為ニ鋭意堅陣ヲ突破シツアル時連隊ハ師団ノ要求ニ応シ且師団ノ戦闘力ヲ保持増進セシメ其ノ活動性ヲ保有セシメンカ為ニ連日連夜泥寧ト闘ヒ豪雨ヲ冒シ駄馬ノ欠数ハ臂力ヲ以テ補ヒ或ハ楊行鎮姚家宅太平橋間ノ糧秣輸送或ハ第一線近ク前進シテ直接弾薬糧秣資材ヲ交付ス 時ニ補給点ニ弾薬糧秣ナシ時ハ兵站ニ至リ補充長途悪路豪雨ヲ冒シテ輸送補給ニ任ス 而シテ第一線ノ戦闘資材及糧秣ノ需要急ナル時ニ於テハ輸送モ極メテ迅速ニ行ハサル

↑和田罪の記述とは可成の点に於いて史実は懸け離れているよね。

兵站が順調に行われていたんだね。

Re: 南京への道(1) 

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/26 08:06 投稿番号: [28884 / 29399]
第十軍戦闘序列別表 第十軍直轄兵站部隊 第三師団第二兵站司令部 (留守第三師団長) 第五師団第二兵站司令部 (留守第五師団長) 第七師団第二兵站司令部 (第七師団長) 第十六兵站輜重兵隊 第十六兵站輜重兵隊本部 (第七師団長) 第九師団第三部、第四兵站輜重兵中隊(駄) (留守第九師団長) 兵站自動車第三乃至第七中隊 (近衛師団長) 第十軍予備馬廠(三号予備品廠) (第二師団長) 第十軍野戦砲兵廠(二号野戦砲兵廠) (第一師団長) 第十軍野戦工兵廠(一号野戦工兵廠) (第一師団長) 第十軍野戦瓦斯廠(四号野戦瓦斯廠) (第十六師団長) 第十軍野戦衣糧廠(八号野戦衣糧廠) (留守第五師団長) 第十軍

↑兵站部、衣糧廠も機能していたんだね。

Re: 南京への道(1) 

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/26 08:04 投稿番号: [28883 / 29399]
昭和十二年十二月自二日至三十一日 南京ニ至ル追撃及江北作戦間行動詳報 兵站自動車第八十一中隊 十二月二日 中作命令第九四号 中隊命令 十二月一日午前九時於楊家浜 一、中隊ハ明二日主力ラ以テ野戦砲兵廠ニ協力カセントス 二、第一小隊(一分隊欠)第二小隊(二分隊欠)ハ午后三時野戦砲兵廠ニ至リ弾薬ヲ積載帰行スヘシ 三、第一、第二小隊ヨリ各一分隊宛ヲ明二日午前九時迄ニ野戦砲兵廠ニ差出シ之ニ協力スヘシ 四、第三小隊ハ車輛ノ手入検査ヲ実施スヘシ 五、修理班ハ現在地ニ在リテ故障車ノ修理ニ任スヘシ 六、予ハ現在地ニ在リ 中隊長福頼中尉 下達法 小隊長、修理班長ヲ集メロ達ス 行動 一、第一小隊(一分隊欠)第二小隊(二分隊欠)

↑自動車兵站部隊が機能していたんだね。

Re: 南京への道(1) 

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/26 08:03 投稿番号: [28882 / 29399]
十二月一日 晴 東遷鎮-湖州間行軍 一、午前七時三十分宿営地東遷鎮-呉家兜出発 一路南京ニ向ヒ前進ヲ開始ス 嘉興集結迄連日ノ豪雨ニ輓馬倒シ@濘膝ヲ没スル中ヲ難行軍ニ行軍ヲ続ケタルニ及シ嘉興出発以来比較的快晴ニ悪シ道路モ稍平常ニ復ス 二、午前九時岡田少尉ヨリ報告スル 午前九時第一機団長ト連絡事項報告 1.午前九時第一機団先頭ハ昇山市出発 2.小休止ハ一時間毎ニ十分間 3.大休止ハ十二時二十分ヨリ一時間ノ予定 4.宿営地ニ到着シタラ直チニ宿舎ニヲクコト 5.宿営地ハ&#31377;水橋附近ト報告シテナキマシタ 十二月一日 岡田少尉 大隊長殿 大隊日日命令 十二月一日正午 於昇山市 一、各中隊ハ左記ノ通リ湖州丙兵站支部ニ残置スヘシ

↑兵站は順調なんだね。

Re: 南京への道(1) 

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/26 07:09 投稿番号: [28881 / 29399]
前提が全く事実と符合しない所が、和田罪の大嘘つきと言われる所以だね。

Re: 南京への道(1) 

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/26 07:08 投稿番号: [28880 / 29399]
戦闘序列とは、軍に依って発せられる命令で在る。

中支那派遣軍司令部編成は以下の通り。

中支那派遣軍司令部及中支那派遣軍兵站監部臨時編成要領、同細則ノ件 昭和13年2月3日 昭和13年8月1日 中支那派遣軍 上奏案 中支那派遣軍司令部及中支那派遣軍兵站監部臨時編成要領制定方施行ノ件 中支那派遣軍司令部及中支那派遣軍兵站監部臨時編成要領制定ノ件 允裁相成候ニ付テハ別紙軍令案ノ通之カ施行ヲ命セラレ度謹テ奏ス 朕中支那派遣軍司令部及中支那派遣軍兵站監部臨時編成要領ヲ製定シ之カ施行ヲ命ス 御名御璽 陸軍大臣 陸支機密受第一〇号 軍令陸甲 (別紙ノ通) 軍人陸甲第五号 3月9日 中支那派遣軍司令部及中支那派遣軍兵站監部臨時編成要領細則規定ノ件

南京への道(5)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/26 00:11 投稿番号: [28879 / 29399]
軍中央部が捕虜についての基本方針を示さず、方面軍も捕虜の
取り扱いについての方針を   さだめなかったことから、幕僚が
かってな指示をしたり、軍や師団が不統一な指示をしたことが
結果として   捕虜の大量殺害につながった。

軍や師団の幕僚が   捕虜の殺害を指示していたという記録には、
次のような例がある。
上海派遣軍の右翼、佐々木支隊の後方を進んだ独立攻城重砲兵
第二大隊第一中隊の   沢田正久中尉は、12月14日仙鶴門鎮
付近で   大部隊を捕虜にしたさいの状況を   証言している。

   捕虜の数は約一万(戦場のことですから正確に数えており
   ませんが、約八千以上おったと記憶します)   でしたが、
   早速、軍司令部に報告しましたところ、「直ちに射殺せよ」
   と言ったので拒否しましたら「では中山門まで連れて来い」
   と命令されました。   (『南京戦史資料集』540頁)
  
第十六師団歩兵第三十旅団第三十八聯隊副官児玉義雄少佐は、
師団副官から捕虜殺害の指示があったことを   証言している。

   連隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、
   彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団
   命令として「支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ」
   と電話で伝えられた。(略)この命令だけは何としても
   納得できないと思っております。
   参謀長以下参謀にも   幾度か意見具申しましたが、採用
   するところとならず、その責任は私にもあると存じます。
   部隊としては実に驚き、困却しましたが命令やむを得ず、
   各大隊に下達しましたが各大隊からは、その後何ひとつ
   報告はありませんでした。
   (「歩兵作命甲第111号」、『南京戦史資料集』622頁)

南京攻略戦に   直接参加した部隊の中で、上海派遣軍では
第十六師団の   歩兵第三十三聯隊と   歩兵第三十八聯隊、
第九師団の歩兵第七聯隊、第三師団の歩兵第六十八聯隊の
第一、第三大隊、第十軍では第百十四師団の歩兵第六十六聯隊
第一大隊と歩兵第百五十聯隊、国崎支隊、歩兵第四十一聯隊の
第三大隊、同第十二中隊の戦闘詳報が、防衛研究所   図書館に
保存されている。

このうち、第十六師団だけに限った資料でも、12月13日の
1日だけで、少なくとも2万人以上の捕虜を   殺害した事実が
分かっている。   たとえば、同師団の   中島師団長の日記にも
13日だけで2万4、5千の捕虜を「片付けた」   としており、
佐々木旅団長も   「我支隊のみで2万以上の敵は解決した」と
記録している。  

これは、第十六師団だけの、しかも   たった一日だけの数字だ。
南京攻略戦に投入された日本軍の総兵力は   約20万に達する。
日本軍全体で、数日間にわたって   展開された殲滅作戦により
どれほどの捕虜や   敗残兵と見なされた中国人が殺害されたか。
確定は困難だが、各兵士が   銃弾や銃剣を装備しているほか、
各隊毎に機関銃が備わっていた状況からすれば、戦闘力を失い
武器を捨てた捕虜たちを大量殺害するのは   簡単なことだった。

南京への道(4)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/26 00:10 投稿番号: [28878 / 29399]
ハーグ条約には   日本も加入し、1912年に   批准していた。
しかし、欧米諸国の兵と中国人兵士に対する日本軍の認識には
あきらかに異なる位置づけが   存在していた。   1933年に
陸軍歩兵学校が配布した   参考書「対支那軍戦闘法ノ研究」の
「捕虜ノ処置」   の項目には、次のように   書かれていた。

   「捕虜ハ   他列国人ニ対スル如ク必ズシモ之レヲ後送監禁シテ
   戦局ヲ待ツヲ要セズ」   「兵員ハ浮浪者多ク其存在ヲ確認セラ
   レアルモノ少キヲ以テ   仮ニ之レヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ
   世間的ニ問題トナルコト無シ」

中国兵捕虜は殺しても世間的に問題にならない、と教育された
日本軍将兵に、中国人蔑視の思想が根付いたのは   当然だった。
さらに、日中戦争が全面化しはじめた時点で出された陸軍次官
通牒「交戦法規ノ適用ニ関スル件」   は、以下のように示した。

   「現下ノ情勢ニ於テ帝国ハ対支全面戦争ヲ為シアラザルヲ以テ
   『陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約』
   ノ具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラズ」
   (1937年8月5日付   陸軍次官通牒陸支密第198号)

これにつづいて、「日支全面戦ヲ相手側ニ先ンジテ決心セリト
見ラルル如キ言動(例ヘバ戦利品、俘虜等ヘノ名称ノ使用)」
などはつとめて避けよ   と指示していた。
国際法規は   適用しなくてよい、捕虜という位置づけも不要。
このような指示が、とくに   敵愾心にあふれた第一線部隊の
兵士たちが   捕虜を   躊躇なく殺すうえで   免罪符となった。

日本軍の包囲網が完成し、また   防衛軍側が   ギリギリまで
「南京固守」   を唱え、退却の判断が   遅れたこともあって、
何万人もの中国兵が   逃げ遅れて   投降することになった。
これに対して   日本軍側には、捕虜収容の用意は   なかった。
予想を超える大量の捕虜が発生し、その処置に窮したことが、
大量殺害の直接原因だった。   方面軍司令官松井石根大将は、
南京での捕虜殺害について   次のように   述べている。

   捕虜も相当出来たけれども、捕虜に   食はせる物もない。
   さういふ状態で   戦闘しつつ捕虜が出来るから
   捕虜を始末することができない。
   それで   ちよん斬つてしまふことになつた。   (中略)
   始末が付かぬものだからシャーシャーと射つてしまつたのだ。
   その死骸が   川に流れた。   それから問題になつたのだ。
   (吉田裕「南京事件と国際法」より)

松井大将の捉えていた「南京事件」   とは、外国権益の侵害と
一般市民に対する   掠奪、暴行、強姦の   軍紀風紀問題であり、
捕虜処分の問題は視野の外だったようだ。   中国兵に限っては、
捕虜として   扱わなくとも、国際法上の犯罪行為にあたるとは
考えなかったことが   うかがえる。

南京への道(3)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/26 00:07 投稿番号: [28877 / 29399]
一方、南京防衛軍では、司令官唐生智が   南京死守を唱えていた。
このため、退却の時期を逸し、日本軍の完全包囲を   許すことに
なってしまった。   唐生智は、12日の   午後5時になってから
はじめて   撤退命令を発し、午後6時には   まっさきに渡河して
退却した。   しかし、十数万の防衛軍は   すでに   撤退の方法が
なくなっており、一挙に   崩壊してしまった。

指揮組織が消滅し、各部隊ごとに、あるいは   各個人バラバラに、
日本軍の間隙をぬって   逃れようとした。   このため   城外では
いたるところで   混戦が起こり、部隊や   小グループ、個々人で
投降する者が   続出した。   城内は、ほとんどの城門が日本軍に
押さえられたので、ただ一つ残った   下関に通じる   ユウ江門
(「ユウ」は手偏に邑)   に殺到して   大混乱に陥った。

唐生智が脱出した   下関から   揚子江の対岸に逃れる   経路には
わずかな渡河材料が   あるだけで、大混乱になり、13日の午後、
いかだや小船で   脱出しようとする中国兵が、海軍の第十戦隊の
砲艦や駆逐艦で撃滅された。   一部は東北方に脱出しようとして
14日に   山田支隊に捕らえられた。
逃げ遅れた多くの兵士は、軍服を脱いで   安全区に逃げ込んだ。  

こうして、南京防衛軍の組織は   日本軍の入城直前には   完全に
崩壊していた。   日本軍が入城した時点で、中国兵は戦闘能力を
すでに消失していた   というのが実態であり、捕虜の大量殺害を
戦闘中の行為と称して   正当化するのは   間違っている。

中支那方面軍は、17日に   松井方面軍司令官や   朝香宮派遣軍
司令官を先頭にして、各部隊の代表が参加する入城式を挙行した。
これに先立って、城内   とくに   難民20万余が   逃げ込んだ
国際安全区(難民区)   の掃討が、徹底的に   行なわれた。
敗残兵の「剔出」   と称して、兵士の疑いのある男子を引き出し、
次々と   処刑した。   その後、第十軍は   杭州攻略に向かい、
各師団は新配置に移行し、南京の治安粛正は第十六軍が担当した。

南京侵攻戦は上海戦ほどではないにせよ、防衛軍の激しい抵抗で、
日本軍にも   多くの損害が出た。   戦闘詳報などで   明らかに
なっている数字は、戦死1558人、戦傷4619人であるが、
一部不明の記録もあるため、全体としてはこれより   やや多い
数である   と推定される。

これに対する   南京防衛軍の損害は、より莫大なものだった。
防衛軍の総兵力は   約15万人だったが、そのうち包囲網から
逃れて、脱出できたものが   約6万人、残りの   9万人のうち
戦死者が   約1万人であるから、残りの8万人が武器を捨てた
敗残兵、投降兵、捕虜になったことになる。   問題になるのは、
この大量の投降者・捕虜に対する   日本軍の「処置」の方法だ。

捕虜の殺害は、明白な   国際法違反だった。
1899年に   制定された   「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」
いわゆるハーグ条約は、捕虜に対する人道的処遇を定めている。
しかし、日中戦争が全面化したとき、陸軍中央は   この戦争を
事変と称して、戦時国際法は適用せずという方針を出していた。

南京への道(2)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/26 00:06 投稿番号: [28876 / 29399]
中支那方面軍に   はじめて南京攻略が   下令されたとき、すでに
その隷下の   上海派遣軍も   第十軍も、独断で   南京に向かって
進撃していた。   上海派遣軍は、11月29日には常州を占領し、
丹陽にむかって前進中であり、第十軍は11月30日に   広徳を
占領したうえで、「独断をもって南京に向かう追撃準備を促進せん
とす」   と称して、前進を命令していた。

12月1日、中支那方面軍は、一挙に南京に   向かうのではなく、
上海派遣軍は   磨盤山山系西方の線に、第十軍は   蕪湖の線に、
各々進出することを命じた。   南京防衛陣地の前面で一旦態勢を
整え、南京の包囲網を   完成しようとするものだった。
ところが、第一線の各部隊は、南京一番乗りの   功名心にかられ、
方面軍の統率をこえて急進撃を続けた。   このため兵站、輜重が
追随できないままに、南京へ向かって   殺到することになった。

こうして、無統制のまま   南京攻撃戦は   はじまった。
上海派遣軍は、第十六、第九師団を   並列して   南京に進撃させ、
天谷支隊と第十三師団を   鎮江に向かわせた。   12月5日には
第十六師団は句容を、第九師団は南京防衛の   第一線陣地である
淳化鎮を   占領した。   第十軍の   第六師団と   第百十四師団は
並行して   南京に向かった。

中支那方面軍は、12月4日の時点で   両軍の南京攻撃準備線を
上天門、小衛、高橋門、雨花台、棉花地に統制する措置をとり、
12月7日には   「南京戦攻略要領」   を示達した。
要領は、両軍の作戦地境(城内を東西に区分)と配当城門を定め、
各師団の入城部隊を制限し、軍紀風紀の維持ならびに外国権益の
保護などを   示したものだった。

12月8日、各方面とも   南京防衛陣地への   攻撃が始まった。
上海派遣軍では、第十六師団が   12日に紫金山の線を占領した。
第九師団は10日には光華門まで達したが、南京防衛軍の抵抗が
予想以上に強く、その後の戦況が   進展しなかった。

また第十三師団主力は、鎮江から揚子江を渡河して   左岸に渡り、
津浦線の遮断に   向かった。   同師団の一部は山田支隊となって
12日   鎮江を出発、第十六師団の   右翼に進出して   烏龍山、
幕府山の   砲台占領に向かった。   当初、第二線兵団として
第九師団の後方を   前進していた   第三師団からは、11日に
一部の兵力を先遣隊として   南京攻撃に   参加させた。

第十軍では、第百十四師団を右、第六師団を左に   並列させて、
8日から   雨花台の堅固な陣地を攻撃した。   第六師団の一部
(歩兵第四十五聯隊)は   左翼の揚子江岸を前進し、南京から
退却する中国軍の部隊を撃破して、下関に向かった。
国崎支隊は   11日に蕪湖北方の慈湖鎮付近で   揚子江を渡り、
退路を遮断するために南京対岸の浦口に向かった。

こうして   日本軍は   南京城を完全に包囲し、紫金山、光華門、
雨花台などで   激しい攻撃が行われた。  
各部隊は、城内への   一番乗りの栄誉を   競っていたが、
国内では、“南京占領近し”   などといった報道が流され、
そのことも   現地軍の焦りを   誘うことになった。
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