南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行は事実

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

南京への道(1) 

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/26 00:05 投稿番号: [28875 / 29399]
1937年12月1日、大本営は中支那方面軍に対し、戦闘序列を
発令し、そのうえで   「中支那方面軍ハ海軍ト協同シテ   敵国首都
南京ヲ   攻略スベシ」   という大陸命を   くだした。
戦闘序列とは、戦時に令する軍の編成のことを   指しており、
大陸命とは、大本営陸軍部を通じて発する天皇の命令を意味する。

すでに、半年も前に起きた   蘆溝橋での武力衝突を   発端として
両国の軍隊が   全面戦争に突入していた   にもかかわらず、
この大陸命で   大本営は、はじめて   中国を   「敵国」   と呼び、
首都南京への武力侵略を   正式に命令したのだ。   つまり日本は
当時、国際社会からの   大儀なき武力侵略に対する   批判を恐れ、
あくまでも「事変」   の鎮圧として、片付けようとしていたのだ。

もともと補給を軽視する日本軍の体質的欠点にくわえ、戦争方針が
数カ月程度の戦闘で中国軍を屈服させる   という甘い見通しのもと、
長期戦争の備えがないまま   中国に大軍を派兵したことが、のちに
深刻な食糧不足に伴う略奪行為多発や捕虜の大量殺戮につながった。

南京の攻略は、参謀本部が   初めから   予定していたわけではない。
第十軍を   杭州湾に上陸させたのは、予想外に厳しい上海の戦況を
打開するためであり、南京へ進撃するためではなかった。
中支那方面軍の編成も変則的で、司令部の機構も小さなものだった。
参謀長は   参謀本部第三部長   塚田攻少将、参謀副長は   参謀本部
第三課長   武藤章大佐、以下の参謀数名も   参謀本部の職員であり、
本部に在籍したまま   「出張」   の形式で   派遣された。

その他の司令部の人員の多くは、上海派遣軍司令部の人員が兼務し、
さらに   方面軍には、直属の兵站部隊が   まったく   無かった。
こうした   異例の編成は、上海から遠くへ侵攻するつもりがなく、
後方が局限されていたからであり、このために、中支那方面軍の
南京侵攻作戦には、次のような   問題点が生じた。

第1に、後方補給の準備が   まったく   欠けていたため、
南京へ殺到した   各部隊の給養は   ことごとく   徴発に依存し、
これが   略奪暴行多発の   原因になった。
第2に、方面軍司令部には   外交や渉外の   機能がなく、
国際法の顧問も   従来の戦争のように   置いていなかった。  

各国の公館が集中している首都に攻め込むのに、これは   きわめて
不十分な編成で、しかも   南京の公使館、上海の総領事館など
日本の外務省の機関との   連携も   悪かった。   それどころか、
軍は   外交官を   邪魔もの扱いにし、暴行を   制止しようとした
外交官が、身の危険を   感じるほどだった   と報告している。

第3に、軍紀風紀維持についての配慮が、きわめて   不十分だった。
方面軍には   もともと   直属の憲兵がなく、急遽配属された少数の
憲兵で   大軍の犯罪非行を取り締まるのは   ほぼ不可能に近かった。
第十軍に配属された   憲兵隊長の   上砂勝七も   「何分   数個師団
二十万の大軍に配属された憲兵の数僅かに百名足らずでは如何とも
方法がない」   (『憲兵三十一年』東京ライフ社刊)と嘆いていた。  

このように、方面隊の編成そのものにも、大虐殺事件に   つながる
大きな要因が   含まれていた   と言うことができる。

◆南京大虐殺という低脳のくだらん戯言⑤

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/24 23:48 投稿番号: [28874 / 29399]
当時の中国軍には、「占領されるくらいなら何もかも破壊してしまえ」との考えがあったそうで、南京以外にも日本軍が攻め込む前に村ごと焼き払って敗走した事が何度もあったそうです。

南京市民から略奪した後は、国民党軍の殆どが敗走し、一部が奪い取った衣服を身にまとい国際法に抵触する便衣兵となって、日本軍が占領したあとも散発的なゲリラ行為を続けてたそうです。

こうして、便衣兵を処分したのですが、それも武装解除してから市街追放する程度で、当時の「処分」=「処刑」とは違うわけです。

勿論抵抗した便衣兵やそれに疑われた人物がその場で射殺されたこともあるでしょうが、南京での死亡者の殆どがこの類であり、その数は決して多くはなかったのです。(抵抗する捕虜や便衣兵の殺害は戦場においては正当なる行為です)

当時の記録でも日本軍が南京を占領してから数万単位で人口が増加してる事実。

非常に危険だった中国大陸においては、国民党軍が治めてる地域よりも日本軍が治めている南京の方が安全と判断したからこその人口増なんですよね。


  追記

日本軍が攻めてくるというのに、これから攻められる南京城に逃げ込む馬鹿がどこにいるというのでしょうか。

安全な山や草の生い茂った野原に逃げ込んで身を隠すに決まっているでしょう。

国民党軍にしても共産軍にしてもゲリラ戦術を取っていたんですから真正面から戦闘を挑んでくる訳がないのです。

南京市の人口20万人の中の中国軍のほとんどが我さきに逃げ出して、南京城はほとんど空っぽだったと考えるのが当然だし、それが歴史の真実だったでしょう。

そして日本軍が撤退した3ヶ月後に、人口が25万人へと5万人も増えたのは周辺の町から南京城へ避難した人たちによって膨らんだからに違いないのです。

何故ならば、安全区以外にいる一般中国市民は、日本のスパイとみなされて共産軍によって虐殺されるかもしれないからです。

◆南京大虐殺という低脳のくだらん戯言④

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/24 23:46 投稿番号: [28873 / 29399]
当時の国民党や八路軍の連中がどれだけ酷いことをしてきたか。

ニューヨーク・タイムズのダーディン記者が、当時の様子を「支那軍による焼き払いの狂宴」と題して次のようにレポートしています。

「昭和12(1937)年12月7日、日本軍が句容を越えて進撃し始めたことが支那軍による焼き払いの狂宴の合図となった。
南京に向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。
村ぐるみ焼き払われたのである。
農業研究書、警察学校その他多数の施設が灰塵に帰した。
火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられた。
支那軍による焼き払いの損害は優に3000万ドルにも及ぶ。
これは日本軍の何ヶ月にもわたって行われた空襲による損害よりも大きい。」

そしてこの12月7日に、蒋介石や馬超俊市長は、自分たちだけさっさと飛行機で逃亡しているのです。

つまり、蒋介石や馬超俊市長は、それまで南京を国民党の本拠地としていながら、日本軍が近づいたと知るや否や、20万の市民と約5万の敗残兵を置き去りにして、そくさくと逃亡している。
あまりにも無責任です。

一方、南京攻略をした松井軍司令官は、攻城戦に際して、南京市内の安全区に対する砲爆撃を厳禁し、占領翌日の14日には、安全区の出入り口全てに歩哨を立てて許可のない者の入区を禁止して庇護してもいます。
実際、14日に安全区の視察のため入区しようと思ったが、歩哨に峻拒(しゅんきょ)されて果たせなかったという東京裁判の供述もある。それほど厳しく安全区内への出入りを管理していたのです。

金陵大学病院医師マッカラム氏は、東京裁判に提出した日記の中で次のように述べている。

「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。
若干のたいへん愉快な日本兵がいました。
私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」

日本人を憎悪していたマギー牧師でさえ
「安全区は難民の“天国”だったかも知れない」とさえ述べている。

安全区国際委員会の書記長スマイス博士(米)も、その調査報告書の中で「住民のほとんどはここに集まっていた。難民区内は一件の火災もなく平穏であった」と述べている。

それほどまでに日本軍は、市街地の統制をきちんと取り計らっていたのです。

◆南京大虐殺という低脳のくだらん戯言③

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/24 23:46 投稿番号: [28872 / 29399]
南京に従軍した村田和志郎氏(第18師団歩124歩兵伍長)の日記に、こんな記載があります。

<引用> ------------------------ -

湖州は浙江省の首都、呉興県政府の所在地。

城壁をはいると家屋は焼けて一面の焼け野原となり、殆ど瓦礫の巷と化していた。

とくに商店街は影も形もなく、処々に多数の支那兵の死骸が生々しい姿で倒れ転がっていた。誠に見るも無残な有様であった。

街には人影がみられない。

それでもどこからか若い女が三人でてきた。

我々の姿を見ると、彼女らは我々をぽつんと残った唯一の焼け残りの小屋へ招きいれ、いち早くズボンを脱ぐと、進んで下半身を丸出しにした。

助けてくれと一心にわれわれを拝んだ。

我々は三名で巡察の途中で思いかけぬ出来事に遭遇してしまった。

一人は娘、残る二人は人妻らしい体つきだった。
自分達は彼女らをそっとして置いてやった。

それでも恐怖に怯え、彼女ら三人はおののいて、脱いだ紺色のズボンを容易に身につけようとしなかった。

体を提供しても生命さえ助けてもらえれば、これに越したことはないと観念していたかに見えた。

また、ある民家では中年の女性が寝てうめいており、下半身を露出して指さして示し、何かわからぬ言葉を喋っていた。

支那兵は逃亡の際、この女性に迫り、拒絶されると腹を立て、銃剣を一突きにそこに突き刺したに違いなかった。

夥しい出血で苦しんで訴えている。

すぐに治安維持会(既に結成されていた中国人の自治組織)に連絡して看護員を連れてきた。さて助かったかどうか。

このようにして略奪と暴行のあとを見せつけられた。
--------------------------------

当時の支那には、政府がありません。

清が滅びて、地方軍閥による内乱状態にあった。

内乱状態の中で、被害を受けるのは、決まって武器を持たない一般市民です。

そして武器を持った支那の軍閥の代表格が国民党だった。
彼らは、支那の都市を襲い、市民に対して好き放題の乱暴狼藉を働いていた。

日本は行きがかり上、やむなく、彼らを追い払っていたのです。そしてそのひとつが、南京だった。

南京市は、乱暴狼藉軍団である国民党が、勝手に乱入して本拠地にしていたから、日本は叩いたのです。

そして市民の生活に平安を取り戻した。

なかには、市民にまぎれて、日本軍に悪さをしかける国民党のスパイや、共産党のスパイがいた。

こうした連中は、市民の協力を得て、日本軍は逮捕し、国際法上適法な範囲で軍紀に照らして処罰した。そういう連中は治安維持のために殺害した。これは当然のことです。

◆南京大虐殺という低脳のくだらん戯言②

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/24 23:45 投稿番号: [28871 / 29399]
戦後に参戦者の手記、日記、インタビュー等から、盛んに「虐殺」を言っている記事で、その取材の仕方が全く偏向したものである例を挙げます。

  まず、第一に、取材する相手に、虐殺を証言する人間しか選ばないという点があります。
  虐殺を否定すると思われる人には取材をしません。
  そればかりか取材をすると何とかデッチあげてでも虐殺に仕立てるという事を致します。
  場合によっては、証言を意図的に歪曲し、時には正反対の解釈をして、証言者がそんなことは言ってない、と憤慨(ふんがい)している例もあります。
  また、証言者が、
  「中隊の軍紀は非常に厳正でありました。」
  などと証言しても、そんなことは一切取り上げようとしません。
  自分の取材意図に合ってさえいれば、証言内容が明瞭(めいりょう)なウソであると判っていても、そのまま記事にしております。
  宮崎県の農家で写真と参戦者の日記を発見したとして南京虐殺の決定的証拠とした、朝日新聞の昭和58(1983)年8月4日の記事に対し、その写真は満州の馬賊の写真で、昭和初期に朝鮮買ったものであると、読者が抗議しています。
  また森村誠一の「続・悪魔の飽食」に、日露戦争当時の伝染病による死体写真を今次大戦の関東軍の虐殺の証拠写真としていつわって掲載しているのを、読者よりの指摘抗議によって暴かれたのは有名な話です。
  そのような記事について、
  「そんなことはあり得ないことである」
  と反論されても、無視し、認めないか、言を左右にしてうやむやにするのが、彼らの常套手段(じょうとうしゅだん)なのです。
  都城連隊関係者が、朝日新聞に対して名誉毀損の抗議訴訟を起こして朝日が敗訴した件、京都新聞の無責任な記事に対する歩兵20連隊第3中隊の抗議に対する態度、また「平和のための京都の戦争展」の朝日新聞の記事に対し私が抗議しましたが全く無回答、これが新聞の態度です。
  全く礼儀知らずと言うほかありません。


さらに、偏向的時後取材により「南京大虐殺」を盛んに主張する例を挙げます。
  朝日新聞の本多勝一という記者が「中国の旅」という本を書いています。
  これは彼が戦後・満州・中国に行って、日本人がそんなに悪い事をしたかを中国人に取材して、全く無批判に鵜呑みにして書いたものですが、その内の南京関係の例をあげてみましょう。

  イ、姜根福の証言。
    日本軍は南京城北の燕子磯で10万人くらい機関銃で射殺した。
    紫金山で2千人を生き埋めにした。
    あるいは軍用犬に中国人を襲わせ、その人肉を食わせた。城内で20万人を虐殺、死体を積み上げて石油をかけて焼いた。

  ロ、伍長徳の証言。
    南京戦直後、日本兵に銃剣で肩を刺されたが逃げ、揚子江に飛び込んで、日が暮れるまで水中に隠れていた。日本軍は逮捕した青年を高圧線にぶら下げてあぶり殺し、工業用硝酸をかけて殺した。

  ハ、李秀英(女性)の証言。
    日本兵に強姦されそうになり抵抗、その銃剣を奪って格闘して追い払った。しかし37ヶ所も刺されて気絶していたのを、親族の者達に助けられた。

  2千人を生き埋めにするための労力と時間と穴の大きさは、どれ程のものであったのでしょうか?
  軍用犬に人を襲わせて、その肉を食わせるなどという馬鹿なことがあり得るのでしょうか?
  石油や工業用硝酸を、戦場でいつ、どこで入手したのでしょうか?
  揚子江は確かに冬でも凍りはしませんが、12月の揚子江に飛び込んで、首だけ出していて一体日が暮れるまで我慢できるのでしょうか?
  高圧線に、どうやって人間を吊り下げるのでしょうか?
  当時の日本兵は現役バリバリで士気も高く、女性と格闘して銃剣を奪われ、尻尾を巻いて逃げ出すような情けない兵士がいる訳がありません。
  37ヶ所も刺されて失神した者が、また蘇生するなどという事があり得るでしょうか?
  どれ1つ取ってもすぐウソだと判る事ばかりです。
  それを本多勝一記者は、「なるほど、ごもっともです」とそのまま本にしているのです。
  本多記者については、
  「朝日の中には、本多君に対して良くない感情を持っている人が沢山いる」という事を朝日新聞の同僚の記者が言っていますし、又石原慎太郎氏は平成3(1991)年の「文藝春秋」に、
  「朝日には本多という奇妙な性格の記者がいて、盛んに南京虐殺のことを書く」と言っております。
  本多勝一記者は、
  「日本の子弟に国際性を持たせるため、南京大虐殺の教育を徹底させる必要がある」と言っています。
  私は売国奴、何を血迷ったか、妄語断じて許すべからずと、憤(いきどお)りに駆られます。

◆南京大虐殺という低脳のくだらん戯言①

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/24 23:44 投稿番号: [28870 / 29399]
南京攻略した日本軍の先兵の記述によると、国民党軍は戦闘を放棄し、南京市内で略奪の限りを尽くす中国兵士たち。

当時の中国軍には、「占領されるくらいなら何もかも破壊してしまえ」との考えがあったそうで、南京以外にも日本軍が攻め込む前に村ごと焼き払って敗走した事が何度もあったそうです。

南京市民から略奪した後は、国民党軍の殆どが敗走し、一部が奪い取った衣服を身にまとい国際法に抵触する便衣兵となって、日本軍が占領したあとも散発的なゲリラ行為を続けてたそうです。

こうして、便衣兵を処分したのですが、それも武装解除してから市街追放する程度で、当時の「処分」=「処刑」とは違うわけです。

勿論抵抗した便衣兵やそれに疑われた人物がその場で射殺されたこともあるでしょうが、南京での死亡者の殆どがこの類であり、その数は決して多くはなかったのです。(抵抗する捕虜や便衣兵の殺害は戦場においては正当なる行為です)

当時の記録でも日本軍が南京を占領してから数万単位で人口が増加してる事実。

非常に危険だった中国大陸においては、国民党軍が治めてる地域よりも日本軍が治めている南京の方が安全と判断したからこその人口増なんですよね。


  追記

日本軍が攻めてくるというのに、これから攻められる南京城に逃げ込む馬鹿がどこにいるというのでしょうか。

安全な山や草の生い茂った野原に逃げ込んで身を隠すに決まっているでしょう。

国民党軍にしても共産軍にしてもゲリラ戦術を取っていたんですから真正面から戦闘を挑んでくる訳がないのです。

南京市の人口20万人の中の中国軍のほとんどが我さきに逃げ出して、南京城はほとんど空っぽだったと考えるのが当然だし、それが歴史の真実だったでしょう。

石井松根大将らの南京入場の映像からもそれは伺い知ることが出来るのです。

そして日本軍が撤退した3ヶ月後に、人口が25万人へと5万人も増えたのは周辺の町から南京城へ避難した人たちによって膨らんだからに違いないのです。

何故ならば、安全区以外にいる一般中国市民は、日本のスパイとみなされて共産軍によって虐殺されるかもしれないからです

文盲率80パーセントの中国人民

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/24 12:29 投稿番号: [28869 / 29399]
当時の中国の文盲率が表題のようで在ったのであれば、文字も書くことは出来なかっただろうね。

つまり、記録も出鱈目だったということだね、日本では識字率9割以上だからね、文明開化以来。

南京虐殺肯定論者が説明し得いない数字

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/24 11:35 投稿番号: [28868 / 29399]
皇軍入城時の支那人状況

当時南京に在遺留する支那人の数は23万乃至25万と称せられ其の大部分は所謂難民区(漢中路以北、中山路以西の地区)一帯に居住し居り国際委員会及び紅卍会中心となり救済、救護その他の世話を為せり
国際委員会は独逸人ラーベを会長とし在留外国人(当時の外国人独逸人5名(墺1を含む)白露2名、米国人16名、合計23名)の一部委員となり難民収容所25箇所(旧交通部、金陵大学、同女子大学、同中学、同営桑科、同神学院、同図書館、山西路小学、湖北小学其の他)を設けたるが其の人員約6万と称せられたり

難民区に避難中の支那人推定25万に対し軍側に於いては査問委員を設け12月24日より良民に対し安居証を交付せるが1月5日一先ず一段落を告げたるを以て6日7日の両日は未交付安居証の整理をなし九日より逐次避難民を夫々自宅に復帰せしむることとなり・・・・・云々

↑この様な明確な資料を無視するのが、中国と日本国内の獅子身中の虫国賊馬鹿サヨ達なんですね。

誰も見たこもない南京事件と慰安婦です

投稿者: stmtr314stmtr 投稿日時: 2012/12/24 11:03 投稿番号: [28867 / 29399]
支那人や朝鮮人は、抑制する・控える・自制するなど気質が皆無であり、
自分に有利になることならば、嘘でも出鱈目でもでっち上げるし
うそ鳴きでも、ストーカー行為でも、人殺しでも何でもします。

日本人と支那人朝鮮人とは、真逆の性格を持っていることは
四川大地震と東日本大震災とを対比すれば直ぐ判りますが、
その他にもオリンピック、サッカーなど数多ある例から直ぐ判ります。

つまり支那人朝鮮人は、事実があれば我慢しないで叫ぶし鳴くので、
南京事件があれば、敗戦前に事件が明るみになったでしょうし
慰安婦が売春婦でなければ、戦後直ぐに事件が明るみになったでしょう。

ところが歴史的事実は、何十年後に、南京の事件があったとか
慰安婦があったとか、言いますが、
そんな悠長な支那人朝鮮人は世の中にいません。

ということは、南京事件や慰安婦を肯定する人は、
完全な支那共産党の工作員スパイや韓国の工作員スパイと、
自ら認めていることになります。

南京虐殺肯定論者の論理の破綻

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/24 09:35 投稿番号: [28866 / 29399]
1.総て推測でしかない。

2.日本軍の資料を総て否定している。

3.目撃証言者の信憑性が皆無である。

4.証言者の行動が実戦記録と完全に不一致である。

5.中国兵しか行わなかったことを日本軍が行ったとしている。

6.欧米の新聞記事と完全に不一致である。

7.上記に関し、悪評高いハイースト系の新聞記事を基にしている、裏付けの取れない記事。

8.当時の軍命令と完全に不一致である。

9.軍命令を無視している事。

10.中国に於ける日本兵の犯罪に関する取締は、国内に於けるよりも厳格であったこと。

11.昭和12年の国内に於ける兵士の検挙数は約三千名、支那に於いては約六千名となっている。さらに、強姦は非親告罪となたこと(中国に於いて)。

12.犯罪の告発は被害を受けた中国人が行っていること。身分に関係が無かったこと。

13.犯罪は、日本兵の告発による者も多数あったこと。

14.憲兵の取締は国内よりも遙かに厳格であったこと。

15.上官への反航は厳格に取り締まられたこと。

16.資料が無い部分に関しては総て推論である事。

上記が、南京虐殺肯定論者の論理が破綻している部分である。

否定論の限界と破綻(5)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/24 08:06 投稿番号: [28865 / 29399]
犠牲者数の確定は困難であるものの、殺人や掠奪、強姦など
残虐行為が発生した事実は、軍や国際機関の   関係者などの
さまざまな   記録、証言によって   覆すことはできない。
このため、南京虐殺否定派は、苦し紛れに   根拠に乏しい
珍論・奇論の類を   持ち出してくることも   少なくない。

たとえば、「南京虐殺は、日本軍の仕業にみせかけるために
中国軍の反日攪乱工作隊がやったこと」   などもその一つだ。
南京市内に潜伏した   中国軍の敗残兵がいたのは   確かだが、
身を守るために   用心深く   潜伏していることが重要であり、
攪乱するなどという   状況になかったことは、明白だ。

南京を退却する時の中国軍が   脱出・避難のために   必要な
物資を略奪したり、不法行為を働いた可能性は否定できない。
しかし、問題視されるのは、中国軍が退却した後、日本軍が
占領した後に発生した事件であり、それは   中国軍の行為を
はるかに凌ぐ規模の蛮行にこそ   問題があるのだ。
N・Yタイムズのダーディン記者は、以下のように報告する。

   「南京に   中国軍最後の崩壊が訪れた時、人々の間の安堵の
   気持ちは非常に大きく、また   南京市政府及び防衛司令部が
   瓦解した時の印象はよくなかったので、人々は喜んで日本軍を
   迎えようとしていた。   しかし、日本軍の蛮行がはじまると、
   この安堵と歓迎の気持ちは   たちまち恐怖へと変わっていった。
   日本への憎しみを   いっそう深く   人々の心に植え付けた」
   (1938年1月9日付「ニューヨークタイムズ」)

南京市は   12月13日以降、日本軍に制圧され、7万人もの
日本兵が   警備に当たっていた下で、反日攪乱工作なるものが
どのように展開されたのか、はなはだ疑問と言わざるをえない。
もしも   南京市民が「反日感情を扇動」   されたと仮定しても、
武器を持たない市民が   軍事的に反抗することは   不可能だ。

百歩譲って、もしも、中国軍の便衣兵が   ゲリラ戦を企図して
潜伏していたと   仮定すれば、当然   日本軍に摘発される際に
武器をもって   抵抗しないということは   あり得ないし、
散発的な武器による抵抗が   あったならば、その記録が
日本軍側に   まったく   残らないはずはない。

否定派が   苦しまぎれに吹聴する珍論奇説は、他にもある。
「中国兵の捕虜は   指揮官の命令なしに降伏したのだから
捕虜の特権がなく、処刑しても違法ではない」   という
主張や、中国軍の死者の大半が「同士打ち」   によるもの
などという   証拠資料も示せない主張などは   その典型だ。
国際社会共通の歴史認識とは   大きく   かけ離れた主張を
大真面目に繰り返す者たちのレベルは、この程度なのだ。

否定論の限界と破綻(4)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/24 08:05 投稿番号: [28864 / 29399]
南京市に残留した中国軍の敗残兵は、捕虜要件に該当しない
便衣兵であり、日本軍に   抗戦するものであるから、処刑は
妥当であった   という主張がある。   しかし、すくなくとも
安全区内において   敗残兵が   不法なゲリラ活動をしていた
ということを証明できる史料は、どこにも   存在しない。

南京陥落後に   「便衣兵」   によって   日本軍は、はたして
どれほどの損傷を   受けたというのだろうか。
そもそも   「便衣兵」   とする根拠は   どこにあるだろうか。
当時の   新聞の報道を、以下に   引用してみよう。

   「なお潜伏二万五千   敗残兵狩り続く   外国権益を特別保護」
   敗残兵にして便衣に着替えている市中に潜伏する者二万五千名
   と推定されているので、我が軍は清掃に努力し、一方敗残兵の
   嫌疑あるものは   取り調べ、老人婦女子に   保護を加えている」
   (1937年12月16日付   東京朝日新聞)

この記事は、記者が   独自に取材したものではなく、
軍司令部の発表を   記事にしたものだ。   ここには、「便衣兵」
という文字は   出ていない。   潜伏した2万5千人については
敗残兵との表現であり、軍司令部の認識だったことが伺える。
次に   外国の新聞報道も確認しておこう。以下に引用するのは、
N・Yタイムズ   1937年12月17日付の記事だ。

   「昨日   南京の日本軍司令部は、南京城内で   1万5000人
   以上の捕虜を得たと発表した。市内には、このほか軍服を捨て、
   武器を隠し、平服を着た兵士2万5000人がいると信じられ
   ている」(「南京事件資料集・アメリカ関係資料編」青木書店)

これも   日本軍の発表を   記事にしたものだが、南京城内で
1万5000人以上の「捕虜を得た」   としているところに
注目すべきだ。   便衣兵は   捕虜資格がないのであるから、
軍司令部には、正規兵ないし敗残兵を捕まえた   という認識が
あったことになる。残りの2万5000人については、前掲の
東京朝日新聞の記事にある通り、敗残兵と認識していたのだ。

仮に、武器を捨てずに   日本軍に対し危害を与える目的で
市内に潜伏しているのであれば、たしかに   便衣兵であり、
非合法戦闘員として   殺害することは   違法ではない。
しかし、実際には   武器を捨て、ひたすら   自衛のために
身を隠していた敗残兵を   狩り出して殺害したことになる。
ジョン・ラーベの12月16日の日記には次の記述がある。

   「たったいま聞いたところによると、武装解除した中国人
   兵士がまた数百人、安全区から連れ出されたという。銃殺
   されるのだ。   そのうち五十人は   安全区の警察官だった。
   兵士を   安全区に入れたというかどで   処刑されるという」

安全区内で武装解除した兵士は、国際法上   保護の対象だ。
ましてや   警察官まで処刑したとすれば、明白な違法行為
であり、ゲリラの掃討だったなどとは、到底   言い難い。

否定論の限界と破綻(3)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/24 08:04 投稿番号: [28863 / 29399]
南京大虐殺が国際的に知られるようになったのは、市内での
敗残兵の掃蕩が   外国人の眼に   触れたことによってだった。
否定派は、敗残兵が「便衣兵」   であり、陸戦条約の要件を
満たさない   ゲリラの一種であるから、捕虜待遇を受ける
資格はないのだ   と主張するものも   少なくない。

南京防衛軍司令官   唐生智は、12月12日夕刻   ひそかに
揚子江を渡って逃走した。   このため防衛軍は一挙に崩壊し、
脱出を図る者、武器を捨て投降する者、軍服を脱いで市内に
潜伏する者など、日本軍の入城前に   完全に四散してしまい、
組織的にはもちろん、各個の戦闘能力さえも   消失していた。

中国兵の大量処刑は、南京が陥落し   日本軍が制圧した後に
行われたものであり、戦闘行為と   見なすことは   できない。
すでに   抗戦の意図はなく、専ら逃亡目的で   平服を着用し
隠れていた兵士を   便衣兵と見なして   殺害したり、市民を
一方的に便衣兵と見なして殺害した行為は、明らかな虐殺だ。

南京陥落後に中国軍が   市内でゲリラ戦を展開した事実はない。
陥落直後の南京で、墜落した日本軍機搭乗員の遺体捜索活動に
従事した海軍将校   奥宮正武の記述を   以下に引用しておこう。

   便衣兵或は便衣隊といわれていた中国人は、昭和7年の
   上海事変の際はもとより、今回の   支那事変の初期にも
   かなり積極的に日本軍と戦っていたが、南京陥落直後は
   そうとは   いえなかった。   わたしの知る限り、彼らの
   ほとんどは   戦意を完全に   失って、ただ生きるために
   軍服を脱ぎ、平服に着替えていた。   したがって彼らを
   通常いわれているゲリラと同一視することは   適当とは
   思わない。(『私のみた南京事件』PHP研究所1977年)

多くの記者が南京を脱出したが、市内に残った者も   数人いた。
N・YタイムズのF・ティルマン・ダーディンは   その一人だ。
彼の12月22日発航空便記事は、以下のように伝えていた。

   袋の鼠となった中国兵の大多数は、戦う気力を失っていた。
   何千という兵隊が、外国の安全区委員会に出頭し、武器を
   手渡した。   委員会はその時、日本軍は捕虜を寛大に扱う
   だろうと思い、彼らの投降を   受け入れる以外なかった。
   たくさんの中国軍の集団が   個々の外国人に   身を委ね、
   子供のように   庇護を求めた。
   (中略)
   南京を   掌握するにあたり、日本軍は、これまで続いた
   日中戦争の過程で犯された   いかなる虐殺より野蛮な虐殺、
   略奪、強姦に熱中した。抑制のきかない日本軍の残虐性に
   匹敵するものは、ヨーロッパの   暗黒時代の蛮行か、
   それとも   中世のアジアの征服者の残忍な行為しかない。

   無力の中国軍部隊は、ほとんどが武装を解除し、投降する
   ばかりになっていたにもかかわらず、計画的に逮捕され、
   処刑された。安全区委員会にその身を委ね、難民センターに
   身を寄せていた何千人かの兵隊は、組織的に選び出され、
   後ろ手に縛られて、城門の外側の処刑場に   連行された。

否定論の限界と破綻(2)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/24 08:02 投稿番号: [28862 / 29399]
捕虜殺害に機関銃が使用された場合、たとえば1時間以上も
連射し続けていれば、銃身が加熱して撃てなくなる、だから
何十万もの捕虜を殺害することは不可能だなどという主張を
大マジメに   吐き散らす   可笑しな否定論者もいる。
何万もの捕虜を   同じ場所で、一度に殺した   わけではなく、
もちろん   同じ機関銃だけで   殺害したわけがない。

実際の   捕虜殺害に、さまざまな方法が採られていたことは
多数の資料で確認できるが、たとえば   そのひとつとして、
第十軍第百十四師団歩兵六十六聯隊第一大隊戦闘詳報がある。
この資料には、数日間にわたり収容した捕虜を、上部からの
命令で組織的に殺害した事実と方法について   記述している。
同戦闘詳報の   12月13日の記事を   以下に引用する。

   (13日)
   午後二時零分聯隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク
   左記
   イ、旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スベシ   其ノ方法ハ
   十数名ヲ捕縛シ逐次銃殺シテハ如何
   (中略)
   午後三時三十分各中隊長ヲ集メ捕虜ノ処分ニ附キ意見ノ
   交換ヲナサシメタル結果、各中隊ニ等分ニ分配シ監禁室
   ヨリ五十名宛連レ出シ、第一中隊ハ路営地南方谷地、
   第三中隊ハ路営地西南方凹地、第四中隊ハ露営地東南
   谷地付近ニ於テ刺殺セシムルコトトセリ
   (中略)
   各隊共ニ午後五時準備終リ刺殺ヲ開始シ   概ネ午後七時
   三十分刺殺ヲ終リ   聯隊ニ報告ス
   第一中隊ハ当初ノ予定ヲ変更シテ一気ニ監禁シ焼カント
   シテ失敗セリ
   捕虜ハ観念シ恐レズ軍刀ノ前ニ首ヲサシ伸ブルモノ、
   銃剣ノ前ニ乗リ出シ   従容トシ居ルモノアリタルモ、
   中ニハ泣キ喚キ救助ヲ嘆願セルモノアリ   特ニ隊長巡視
   ノ際ハ各所ニ其ノ声起レリ

この大隊には、連隊長を経由して旅団命令が伝達された。
命令内容は、「捕虜は全部殺すべし」   というものであり、
捕虜殺害を禁じた国際法規に反する非人道的処置だった。
聯隊からは、ご丁寧に、殺害の手順についても、「十数名
ずつ逐次銃殺してはどうか」   と提案されている。

命令を受けた大隊は、各中隊で分担して、50名ずつを
露営地外の   窪地や谷地など要所に連行して   刺殺した。
各隊とも午後5時から開始し、午後7時30分頃に終了。
聯隊に報告したが、中には   一気に焼き殺そうと試みて
失敗した中隊もあった   ということが   記録されている。

一旦収容した捕虜を   軍の命令で不法に殺害したことは
あきらかであり、これは   国際法に違反し、人道に背く
組織的な犯罪行為   そのものだった。

否定論の限界と破綻(1)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/24 08:01 投稿番号: [28861 / 29399]
南京事件を否定する者の中には、「当時の日本軍の   規模では
何十万もの虐殺は不可能」   「大虐殺を行う余力はない」
などと   主張するものがいる。   また「何万もの膨大な数の
遺体は   どこに消えたのか」   などと疑問を呈し、
大量虐殺はなかったと   主張する否定論者もいる。

南京での捕虜の殺害は、数時間程度で   行われたものではない。
城内の掃蕩だけでも数日を要し、その前後の攻略戦を含めたら
さらに   期間は長い。   その間に、10万を超える大兵力が
一人平均数名の捕虜を処断しただけで   膨大な殺害数になる。

捕虜の   大量殺害の方法と   遺体の処理については、たとえば
第十六師団長中島今朝吾中将の日誌などからも   推測できる。
以下に引用してみよう。
   (12月13日)
  一、斯くて敗走する敵は大部分第十六師団の作戦地境内の
   森林村落地帯に出て又一方鎮江両塞より逃て来るもの
   ありて到る所に捕虜を見到底其始末に堪えざる程なり
  一、大体捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片付くる
   こととなしたる(れ)ども、千五千一万の群集となれば
   之が武装を解除することすら出来ず唯彼等が全く戦意を
   失ひ、ぞろぞろついてくるから安全なるものの、之が
   一旦掻擾(騒擾)せば始末に困るので   部隊をトラック
   にて増派して監視と誘導に任じ   十三日夕はトラックの
   大活躍を要したり乍併戦勝直後のことなれば中々実行は
   敏速には出来ず   斯る処置は当初より予想だにせざりし
   処なれば参謀部は大多忙を極めたり
  一、後に至りて知る処に依りて佐々木部隊丈にて処理せし
   もの約一万五千、大平門に於ける守備の一中隊長が処理
   せしもの約一三○○   其仙鶴門附近に集結したるもの約
   七八千人あり尚続々投降し来る
  一、此七八千人之を片付くるには相当大なる壕を要し中々
   見当らず一案としては百二百に分割したる後適当のヶ処
   に誘きて処理する予定なり

12月13日の時点で、第十六師団だけで   始末に困るほどの
大量の捕虜を捕らえたが、これは「予想だに」しなかったため
「参謀部は大多忙を極めた」   としている。   そのうえで、
7〜8千人を「片付ける」には、「相当大なる壕」   を要するが
なかなか見当たらない。   そこで、100〜200人に分割し、
適当な場所に誘導して「処理する」、と記している。

否定派の中には、文中の「大体捕虜はせぬ方針」   とあるのは
殺害の方針ではなく、銃器を取り上げて釈放するという意味だ、
と唱えるものもいる。しかし、上記の文脈を素直に読解すれば、
捕虜は片端から   殺害するつもりだったが、数が多すぎるため
現場での処刑が難しい―   このため、小分けにして殺害しよう、
という意味だと   理解できる。

すくなくとも、「相当大なる壕」というのは、死体の処理か、
あるいは   捕虜を入れて周囲から銃撃するためには使えるが、
釈放するのであれば、大きな壕などは   必要がない。
遺体は   消えたのではなく、埋められたもの   と考えるのが
ごく自然であり、常識的な解釈だろう。

志気衰退(3)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/23 23:37 投稿番号: [28860 / 29399]
「極メテ悪質ナルモノ多発シアリ」   として、日本軍部自身が
認識していた   犯罪や非行の中でも、とりわけ多発した強姦は、
軍にとって   深刻な問題だった。
相手国民に与える影響も大きく、日本への憎悪と敵愾心を
かきたてるものだ   ということは、自覚されていた。

その唯一の対策が、軍が管理統制する「慰安施設」の設置だけ
というのは、近代軍の考え方としては、やはり次元が低かった
と言わざるを得ない。   前述した陸軍の「軍紀振作対策」には
「主トシテ事変地ニ於テ著意スベキ事項」   として、
次のような   慰安施設にかんする事項が   掲げられている。

    事変地ニ於テハ環境ヲ整理シ慰安施設ニ関シ周到ナル注意ヲ
    払ヒ、殺伐ナル感情及劣情ヲ緩和抑制スルコトニ留意ヲ要ス
    環境ガ軍人ノ心理延イテハ   軍紀ノ振作ニ影響アルハ贅言ヲ
    要セザル所ナリ。
    故ニ兵営ニ於ケル起居ノ設備ヲ適切ニシ、慰安ノ諸施設ニ
    留意スルヲ必要トス。  

    特ニ   性的慰安所ヨリ受クル   兵ノ精神的影響ハ
    最モ率直深刻ニシテ、之ガ指導監督ノ適否ハ志気ノ振興、
    軍紀ノ維持、犯罪及性病ノ予防ニ   影響スル所大ナルヲ
    思ハザルベカラズ

性的慰安所に対する指導監督の適否が、志気の振興、軍紀の維持、
そして   犯罪及び性病の予防に大きくかかわる   と指摘している。

南京攻略にあたって、日本軍将兵による   中国人女性にたいする
おびただしい数の強姦、強姦殺人が発生したことは、前述のとおり
日本軍自身が認めており、当然のことながら   被害を受けた中国、
さらには   世界中に   知られることとなった。

軍中央は、このことが   相手国の敵愾心をかきたてることを危惧し、
また、性病の大量発生が   戦力を低下させるほどに増加したことで、  
戦争遂行に有害である   と認識したのだ。
その対策が、慰安婦動員と   慰安施設整備、指導監督の強化だった。
このことに、当時の   日本軍の特質を   見ることができる。

軍が組織的に慰安所を設けることは、たちまち   全戦線に広がった。
そのため必要となった大量の慰安婦は、朝鮮、台湾などの植民地、
あるいは   占領地から   直接に「調達」   された。
その多くは、「婦人児童の売買禁止に関する国際条約」   が禁じている
21歳以下の未成年であり、換言すれば   軍の管理統制下におかれた
“組織的な強姦”   に   ほかならなかった。

志気衰退(2)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/23 23:36 投稿番号: [28859 / 29399]
志気が衰退していたうえに   上海の戦場では、予想を超えた
中国防衛軍の   はげしい抵抗に直面し、死傷者が続出した。
軍の志気が沈滞しただけでなく、傷病を負って帰還する兵を通じ、
実情が知られるようになると   国内にも重苦しい空気が広がった。

そのため   陸軍省は、38年2月19日に   通牒を出している。
表題は   「帰還部隊ノ軍紀風紀及防諜上ノ指導取締ニ関スル件」
その中で   帰還兵の「言動ニ関スル事項」   として、
次のように   戒めている。

   今次事変ニ於ケル派遣将兵竝傷病帰還者ノ言動通信等ニ依ルニ
   故意ニ上官ニ対シ誹謗的言動ヲ為シ軍紀上注意ヲ要スルモノ、
   或ハ第一線ノ苦戦、損害ノ状況、支那兵ノ戦闘力等ヲ   誇大ニ
   伝ヘ為ニ一般ノ志気ニ悪影響ヲ及ボス虞アルモノ、或ハ我軍
   将兵ノ行動ニ関シ殊更ニ其ノ非行ヲ誇称シ軍ノ威信ヲ失墜スル
   虞アルモノ等一局部又ハ特種ナル事象ヲ捉ヘテ誇称スル等
   言動上注意ヲ要スルモノアリ。

戦線の志気の沈滞が、国内にも波及することを危惧していたのだ。
戦争目的の不明確さからくる   軍隊の志気の低下が、
軍紀風紀の紊乱の理由の一つだったのだが、とりわけ兵の大部分が
生活をかかえ、家郷に心残りの大きい予後備の召集兵だったことも
軍紀風紀の頽廃と   志気の沈滞に   つながっていった。

陸軍省が、開戦2年間の   戦場における事例をまとめて作成した
「支那事変ノ経験ヨリ観タル軍紀振作対策」   は、この点について
次のように   述べている。

    在郷軍人ニ対スル教育指導ニ就テ
    今次事変勃発後二ヶ年間ニ発生セル在支全軍ノ犯罪ヲ
    役種別ニ就テ調査スルニ
     予備役    四六三
     後備役    六一四
     補充兵役   二八五
     現役     三一二
    ニシテ応召者ニ極メテ多ク又応召者ノ犯セシ罪質ハ軍成立ノ
    根元ニ触ルル対上官犯或ハ聖戦完遂ヲ妨害スベキ掠奪、強盗、
    強姦等極メテ悪質ナルモノ多発シアリ。   此ニ依リテ観ルモ
    軍紀振作上在郷軍人ノ教育指導ニハ格別ナル配慮ヲ要スルモノ
    ト思料セラル。
    (陸密第1955号「支那事変ノ経験ヨリ観タル軍紀振作対策」)

とくに応召者に   掠奪や強姦など悪質な犯罪が多発しているとして
注意を喚起し、在郷軍人の指導に配慮が必要であると指摘している。
日中戦争初期の2年間に限っても、すでに軍紀上の犯罪が多発し、
傾向としては   やはり予備役、後備役など召集された兵隊に多く、
それは「聖戦完遂ヲ妨害スル」ほど悪質なものであるということを
軍部当局においても   認識されていた   ということだ。

Re: 未だに南京大虐殺を信じている低脳がい

投稿者: shoujouji 投稿日時: 2012/12/23 23:35 投稿番号: [28858 / 29399]
おまえさあ、ベルリン陥落のときにドイツ人女性を強姦しまくった
のはソ連軍ではなくて、敗走するドイツ軍兵士だったに違いない、
と言ってるロシア人の馬鹿ウヨが仮にいるとすれば、おまえは
同様の阿呆かな?
終戦のときの満州で日本人女性を強姦しまくったのも・・・・
と言われれば、おまえはどう思う?くだらん戯れ言を言うのも
たいがいにしろや。

志気衰退(1)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/23 23:34 投稿番号: [28857 / 29399]
中国戦線の   日本軍について   注意すべきことは、
軍隊の志気が   衰退していた   という事実にある。
このことは、軍紀風紀頽廃の   原因の一つになり、
犯罪非行の背景となっていることから   見逃せない点だ。

戦場に送られた兵士の大部分は、突然の令状で召集された
予後備兵か   補充兵だった。
彼らは   予期しないときに、急遽   戦場に駆り出された。
その彼らに、祖国の危機に馳せ参じた志願兵にみるような、
愛国の熱情を   期待するのは   土台から無理なことだった。

そもそも   国民の愛国心に訴えるような   戦争目的、
つまり   大儀名分が、この「事変」には   存在しなかった。
近代日本が   それまでに経験した戦争、日清・日露・日独の
いずれも、戦争目的は   天皇の宣戦の詔書で   明示された。
しかし   事変と称した日中戦争では、過去の   どの戦争よりも
大規模な戦争となったにも関わらず、宣戦布告は   なされず、
したがって   宣戦の詔書も   だされなかった。

宣戦の詔勅に   かわるものとして   発表されたのが、
上海への陸軍派兵を決めた際の   政府声明   だった。
この声明では、「支那軍ノ暴戻ヲ膺懲シ以テ南京政府ノ反省ヲ
促ス為今ヤ断乎タル措置ヲトルノ已ムナキニ至レリ」   として、
「暴戻支那ノ膺懲」   が、この戦争の   目的だとしている。

日本の国土が   侵略の危機に   さらされているわけではなく、
国家存亡の危機ではないため、自衛の名目は成り立たなかった。
そこで「暴支膺懲」を   国家的な合言葉に   したわけだが、
ふとどきな支那人を   懲らしめてやる、というだけでは
国民を奮起させるのに十分なスローガンとは   言えなかった。

国民にとって   戦争目的が明確でなかったばかりでなく、
軍の幹部でさえ   それをはっきり理解できないのが実情だった。
たとえば、第十六師団   歩兵第二十聯隊長   大野宣明大佐が、
部下にあたえた訓辞でも、次のような   苦しい表現をしている。

   出征ノ目的理解ニ就テ
    今次事変ノ原因一ニシテ足ラズト雖、要ハ蒋介石政権ノ
   長期ニ亘ル排日侮日ニ由来スルモノニシテ、之ヲ膺懲シ
   抜本塞源ノ道ヲ講ズルハ実ニ我ガ皇軍ノ使命ニシテ天業
   恢弘ノ一過程ナリ。
   諸官ハ克ク今次出師ノ目的ヲ部下軍隊ニ徹底セシメ、
   忠勇ナル下級幹部以下ニ対シ確乎不動ノ信念ヲ培養
   セシムルヲ要ス。
   (防衛研究所所蔵、第十六師団関係資料綴「出征ニ方リ
   将校ニ与フル辞」より引用)

将校に対してさえ   こういう訓示をしなければならなかった。
したがって、下士官以下の兵隊に   戦争目的を理解させ、
志気を奮い立たせることは   容易ではなかった。
しかも   兵士の大部分が、年齢の高い予備や後備の召集兵で、
当然、一般社会に馴染み   後顧の憂いを抱えた人々だった。
これでは、とても志気旺盛とはいえないのが実情だったのだ。

Re: 未だに南京大虐殺を信じている低脳がい

投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/23 22:45 投稿番号: [28856 / 29399]
>支那兵は逃亡の際、この女性に迫り、拒絶されると腹を立て、銃剣を一突きにそこに突き刺したに違いなかった。


日本軍が迫ってきている切迫した状況のなかで、女性に迫る時間があるわけないだろ!

おまえ、嘘でたらめばかり書くなよ。

Re: 未だに南京大虐殺を信じている低脳がい

投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/23 22:42 投稿番号: [28855 / 29399]
>だいたい、戦いの最中にドンパチやりながら、「使用弾薬何発。残り弾薬数何発」と、何度も伝令を出して司令部に報告を入れなければならないのが日本の軍隊です。
それだけ日本軍は物資に乏しかった。


おまえ、日本軍が南京市民に餅をふるまったといってだろ。

それはやっぱり嘘ということだな。

Re: 未だに南京大虐殺を信じている低脳がい

投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/23 22:39 投稿番号: [28854 / 29399]
>日本人を憎悪していたマギー牧師でさえ
「安全区は難民の“天国”だったかも知れない」とさえ述べている。


マギー牧師が日本人を憎悪などということはありえん。

キリスト教の牧師は人種差別をしない。

◆嘘まみれの元慰安婦とやらの証言

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/23 22:37 投稿番号: [28853 / 29399]
自称・元従軍慰安婦   算数も出来ない韓国人

韓国で元従軍慰安婦のチョン・ソウン氏が80歳で亡くなった。
朝鮮日報は次のように報じた。

『13歳のとき、インドネシアに連れて行かされ、7年間にわたって日本軍の従軍慰安婦として生きなければならなかった「挺身隊おばあさん」チョン・ソウン氏が、26日未明、慶尚南道の自宅で老患で亡くなった。80歳。
チョン氏は、1995年9月、中国で開かれた北京女性大会に、韓国代表として堂々と出席、全世界に向かって、「日本の軍医官から不妊手術を受けさせられ、金の代わりに軍票を受けた。1日平均50人ずつ、週末には100人の軍人と性関係を持たなければならなかった」などど証言。日本軍の蛮行を知らせた人物』


日本軍の蛮行を北京女性大会で話したとの事ですが、この話は100%有り得ません。

一日平均50人、週末100人と性関係を持ったとの事ですが時間的、体力的に不可能です。慰安婦の一日労働時間を15時間と仮定してみますと有り得ない数字が出てきます。

計算方法。

一日労働時間を15時間と仮定。分に直すと15×60=900分。

間の休憩時間を一回5分と定めると50人の場合で49回、よって49×5=休憩時間245分。900−245=655分。655÷50人=1人あたり13分。   100人の場合は休憩回数99回、よって99×5=休憩時間495分。900−495=405分。405÷100=1人あたり4分。

7年間の合計は、6日間が50人、週末が100人なので合わせて週400人。一年は約52週なので年間20800人。慰安婦経験は7年なので14万5600人、つまり約14万6千人と寝た。

一回あたり13分、4分では慰安婦の意味を全く成していませんし、たかが13歳の少女がこれほどまで人気が有ったとでも言うのでしょうか?大人でも身の危険がある上に、13歳の少女なら数日で普通死にます。死去が目に見えている上に年間20800回、合計14万6千回は常識の枠を超えていますので、不可能と断定する以外ありません。また、慰安婦は接客を断る自由が認められており、激務でしたらそれを理由に接客を断れたはずです。

万歩譲って可能だとしても80歳で死去したのですから、誕生年は1924,5年と計算でき13歳の時に従軍慰安婦となったのですから年は1937年となります。1937年当時のインドネシアは蘭領で日本領となったのは1942年の話です。蘭領インドネシアで日本軍の蛮行などありえない話であり完全に自己矛盾に陥っています。本当に慰安婦だったのであればこのような間違った発言は絶対にしません。

この記事を記載した朝鮮日報もおかしいと思ったのか既に記事を削除しています。明らかに少し考えれば問題点に気が付くのですがそれにも気が付かずに堂々と褒め称えている所に韓国の異常を感じます。韓国人は算数の計算も出来ないのでしょうか?また、従軍慰安婦と挺身隊は全く関係ありません。ニュースにもなる人が死去して死者を批判するのは気が進みませんが、結局の所はまた捏造者が1人逝ったに過ぎないのです。

未だに南京大虐殺を信じている低脳がいる④

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/23 22:30 投稿番号: [28852 / 29399]
当時、同盟の特派員であった故前田雄二氏(元日本プレスセンター専務理事)は、内外のニュース社発行の「世界と日本」の中で次のように述べています。

「いわゆる“南京大虐殺”というのは、2〜30万という数は別としても、主として住民婦女子を虐殺したというものだとされている。

ところが殺されなければならない住民婦女子は、当時全部“難民区”内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。

そして私の所属していた同盟通信社の旧支局はこの中にあり、入城4日目には、私たち全員はこの支局に居を移し、ここに寝泊まりして、取材活動をしていた。

すなわち難民区内が私たちの生活圏で、すでに商店が店を開き、日常生活を回復していた。

住民居住区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。

こういう中で、万はおろか、千あるいは百をもって数えるほどの虐殺が行われるなど、あり得るはずはなかった。

すなわち“捕虜・便衣兵の処刑・殺害”はあったがそれは戦闘行為の枠内で論ぜられるべきものであって、非戦闘員の大量虐殺などはなかった。

それがさ も事実あったかのように伝えられ、教科書にまで記載されるということは、見過ごしていいことではない。」

当時、反日的な報道をしていた米紙「タイム」でさえ、「日本軍は“安全区”をちょっぴり可愛がった」と、評しています。

未だに南京大虐殺を信じている低脳がいる③

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/23 22:29 投稿番号: [28851 / 29399]
当時の国民党や八路軍の連中がどれだけ酷いことをしてきたか。

ニューヨーク・タイムズのダーディン記者が、当時の様子を「支那軍による焼き払いの狂宴」と題して次のようにレポートしています。

「昭和12(1937)年12月7日、日本軍が句容を越えて進撃し始めたことが支那軍による焼き払いの狂宴の合図となった。
南京に向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。
村ぐるみ焼き払われたのである。
農業研究書、警察学校その他多数の施設が灰塵に帰した。
火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられた。
支那軍による焼き払いの損害は優に3000万ドルにも及ぶ。
これは日本軍の何ヶ月にもわたって行われた空襲による損害よりも大きい。」

そしてこの12月7日に、蒋介石や馬超俊市長は、自分たちだけさっさと飛行機で逃亡しているのです。

つまり、蒋介石や馬超俊市長は、それまで南京を国民党の本拠地としていながら、日本軍が近づいたと知るや否や、20万の市民と約5万の敗残兵を置き去りにして、そくさくと逃亡している。
あまりにも無責任です。

一方、南京攻略をした松井軍司令官は、攻城戦に際して、南京市内の安全区に対する砲爆撃を厳禁し、占領翌日の14日には、安全区の出入り口全てに歩哨を立てて許可のない者の入区を禁止して庇護してもいます。
実際、14日に安全区の視察のため入区しようと思ったが、歩哨に峻拒(しゅんきょ)されて果たせなかったという東京裁判の供述もある。それほど厳しく安全区内への出入りを管理していたのです。

金陵大学病院医師マッカラム氏は、東京裁判に提出した日記の中で次のように述べている。

「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。
若干のたいへん愉快な日本兵がいました。
私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」

日本人を憎悪していたマギー牧師でさえ
「安全区は難民の“天国”だったかも知れない」とさえ述べている。

安全区国際委員会の書記長スマイス博士(米)も、その調査報告書の中で「住民のほとんどはここに集まっていた。難民区内は一件の火災もなく平穏であった」と述べている。

それほどまでに日本軍は、市街地の統制をきちんと取り計らっていたのです。

未だに南京大虐殺を信じている低脳がいる②

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/23 22:29 投稿番号: [28850 / 29399]
南京に従軍した村田和志郎氏(第18師団歩124歩兵伍長)の日記に、こんな記載があります。

<引用> ------------------------ -

湖州は浙江省の首都、呉興県政府の所在地。

城壁をはいると家屋は焼けて一面の焼け野原となり、殆ど瓦礫の巷と化していた。

とくに商店街は影も形もなく、処々に多数の支那兵の死骸が生々しい姿で倒れ転がっていた。誠に見るも無残な有様であった。

街には人影がみられない。

それでもどこからか若い女が三人でてきた。

我々の姿を見ると、彼女らは我々をぽつんと残った唯一の焼け残りの小屋へ招きいれ、いち早くズボンを脱ぐと、進んで下半身を丸出しにした。

助けてくれと一心にわれわれを拝んだ。

我々は三名で巡察の途中で思いかけぬ出来事に遭遇してしまった。

一人は娘、残る二人は人妻らしい体つきだった。
自分達は彼女らをそっとして置いてやった。

それでも恐怖に怯え、彼女ら三人はおののいて、脱いだ紺色のズボンを容易に身につけようとしなかった。

体を提供しても生命さえ助けてもらえれば、これに越したことはないと観念していたかに見えた。

また、ある民家では中年の女性が寝てうめいており、下半身を露出して指さして示し、何かわからぬ言葉を喋っていた。

支那兵は逃亡の際、この女性に迫り、拒絶されると腹を立て、銃剣を一突きにそこに突き刺したに違いなかった。

夥しい出血で苦しんで訴えている。

すぐに治安維持会(既に結成されていた中国人の自治組織)に連絡して看護員を連れてきた。さて助かったかどうか。

このようにして略奪と暴行のあとを見せつけられた。
--------------------------------

当時の支那には、政府がありません。

清が滅びて、地方軍閥による内乱状態にあった。

内乱状態の中で、被害を受けるのは、決まって武器を持たない一般市民です。

そして武器を持った支那の軍閥の代表格が国民党だった。
彼らは、支那の都市を襲い、市民に対して好き放題の乱暴狼藉を働いていた。

日本は行きがかり上、やむなく、彼らを追い払っていたのです。そしてそのひとつが、南京だった。

南京市は、乱暴狼藉軍団である国民党が、勝手に乱入して本拠地にしていたから、日本は叩いたのです。

そして市民の生活に平安を取り戻した。

なかには、市民にまぎれて、日本軍に悪さをしかける国民党のスパイや、共産党のスパイがいた。

こうした連中は、市民の協力を得て、日本軍は逮捕し、国際法上適法な範囲で軍紀に照らして処罰した。そういう連中は治安維持のために殺害した。これは当然のことです。

未だに南京大虐殺を信じている低脳がいる①

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/23 22:28 投稿番号: [28849 / 29399]
だいたい、戦いの最中にドンパチやりながら、「使用弾薬何発。残り弾薬数何発」と、何度も伝令を出して司令部に報告を入れなければならないのが日本の軍隊です。
それだけ日本軍は物資に乏しかった。

そのあたり、使っている武器にも、その性格がよく出ています。

日本軍の主力銃は、三八指揮歩兵銃です。
この銃は、いわゆる元込め式の単発銃です。
弾を一発一発込めて、装填してから撃つ。
いわゆる「乱射」や「集団虐殺」のようなこと自体、なじまないのです。
ハナからそういうことを想定した銃ではない。

だいたい単発銃で、30万人をいったいどうやって殺すのか。

30万人に、1発ずつ銃弾を撃ち込んで殺すとしても、それには30万発の弾薬がいります。
そんな弾薬、日本軍は持っていません。

機関銃で殺したに違いない?!

バカなことを!

当時の日本軍の機関銃は、米国製の1秒間に何発という高性能機関銃ではない。

パン・・・パン・・・パン・・・と断続的に撃つのが精いっぱい。1分間に打てる弾はおおむね40発。しかも5分も撃ったら過熱して、砲身を冷やさないと、焼き付いた。

お暇な方は計算してみてください。それで30万人殺すには、いったい何日かかるのか。

かつてそのことを指摘した人がいます。
そしたら支那いわく「日本兵は日本刀で、何万人も斬り殺した」

バカをいっちゃぁいけません。日本刀はたしかに切れ味鋭いけれど、3人も斬ったら、脂にまみれて斬れなくなる。人間の体というのは、脂にまみれて斬れなくなった刀でも通せるほどヤワじゃないです。

加えて、当時のシナ人の便服というのは、めちゃめちゃ生地が厚い。銃剣で突き刺そうとしても、素人では刃が立たなかったというのも、有名な話です。

Re: ◆屁理屈まみれの元慰安婦とやらの証言

投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/23 21:29 投稿番号: [28848 / 29399]
「日本を取り戻す!」とか言って、選挙前はタカ派に見えた安倍。

選挙に勝ったとたんに、竹島の日参加やめたり、尖閣の公務員駐在やめたから、

ひょっとしたら、また元慰安婦に謝罪するかもしれんな。

Re: ◆世界一厳正だった日本軍の軍紀

投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/23 21:23 投稿番号: [28847 / 29399]
>日本軍の軍紀に就いては、北清事変(義和団事件)当時にも欧米列強から賞賛され


それで調子に乗って気が緩んだのだろうか。

しかしだからといって食糧をおろそかにしてまで慰安婦の管理まで軍が介入したことは感心せんな。

戦争に負けたのも当然といえば当然。

Re: ◆南京大虐殺とは中国軍によるもの

投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/23 21:17 投稿番号: [28846 / 29399]
>南京にはたくさんの死体があった。それも平服の死体があった。


おまえ、自分が貼り付けたyoutubeを見たのか?

日本軍軍医は「南京に入場して一人の死体も見ていない」と言っておる。

◆世界一厳正だった日本軍の軍紀

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/23 15:02 投稿番号: [28845 / 29399]
日本軍の軍紀に就いては、北清事変(義和団事件)当時にも欧米列強から賞賛され、各国軍隊の模範とされたことがあるが、かつて我々が中国戦線を征ったとき、その先々で中国民衆から熱烈歓迎を受けたのも、それは故なきことではない。

そんなことを知ってか知らずか、いわゆる戦後の進歩的文化人と称する売国奴どもは、日本軍の残虐行為なるものを捏造して、繰り返し繰り返し己の母国を罵倒しつづけているが、外国人(台湾)の評論家黄文雄氏は、次のように正鵠を射た卓見を述べている。

黄文雄氏の言によれば、事実は全く正反対で、日本軍はいつでもどこでも軍律厳しく、しかも人間性豊かであった。それに対して中国軍は残忍極まりない武装集団で、今なお彼らは自国民に対する飽くなき収奪と虐殺を繰り返している。それは中国四千年の動乱の歴史の連続であり、伝統ともいうべき不幸な現実である。

日本軍は日清戦争(1904〜1905)以来大東亜戦争(1941〜1945)に至るまで、変わることなく軍紀厳正であった。中国民衆にとって、いつ襲って来るかわからない自国の暴徒の如き武装集団に比べ、軍紀厳正な日本軍を信じ熱烈歓迎するのは当然のことで、決して日本軍に阿(おも)ねたり恐れてのことではなかったのである。

フランスの国際法学者フォーシーユは、日本軍を賛えて次のように語っている。「日中戦争で日本軍は、敵が国際法を無視したにも拘らず自らはこれを守り、日本軍人であることに誇りを持っていた。中国兵は卑怯にして残虐極まりない軍隊で、例えば中国軍の捕虜になると、四肢を斬り分けられ、生きながらに火炙(あぶ)りにされたり、磔(はりつけ)にされたりしたのである。更に日本兵の屍に対しても、酸鼻を極めた蛮行を行っている。即ち死者の首を切り落とし面皮を剥ぎとり、或は男根を切り落し、胸部を切り開いて石を詰め込み、首は両耳を穿って紐や針金を通し、さながら魚を串刺しにしたように口から喉に紐を通して持ち運びする等々、それが中国軍の戦争様式であり、日本軍には絶対に見ることのできない支那の戦争文化である」と。

フランスのフィガロ紙の従軍記者カレスコート・イリュスト、ラシオン紙の記者ラロ、両氏の『日本軍戦闘観戦記』によれば、

「日本軍隊は世界に対して誇るに足る名誉を有する。吾らは日本軍の如き慈愛心の富める軍隊を、この地球上広大なりといえども他に発見し得るか怪しむものなり」

と絶賛し、中国軍の暴虐蛮行については次のように記している。

「ひるがえって中国軍を見よ。日本兵のひとたび彼らの手に落つるや、あらゆる残虐の刑罰をもってこれを苦しむるなり。その残虐非情なる行為は、正に野蛮人にあらざれば為し得ざるものなり。然るに日本軍は、これあるにもかかわらず、暴に報ゆるに徳をもってす。さすがに東洋の君主国に愧じずというべし。」

北清事変(義和団事件)において、当時従軍した日本軍の軍紀が欧米列強の評判となり、賞賛されたことは冒頭に述べたが、その事実の証として次のような事があった。

天津落城の際天津市民は、「大日本順民」と書いて日章旗を掲げて日本軍に感謝の意を表明した。

また北京落城後、列強連合軍は北京市内を国別に分割管理したのであるが、その時ロシア軍管区では、軍紀が乱れてロシア兵が暴徒と化し、虐殺、放火、強姦など暴行の限りを尽し、そのため市民は難を逃れて日本軍管区へ洪水の如くに押し寄せた。たまりかねた北京市長は、その暴状を英国公使マクドナルドに訴え、ロシア管区を日本管区に替えるよう嘆願したという。

これらの事実は、ウッドハウス・映子の『北京燃ゆ』やジョージ・リンチの『文明の戦争』等に記述されている。およそ戦争の形態とか様式などというものは、その国々の文化様式でもある。武士道社会の伝統を受け継いだ日本軍は、近代戦の戦場に於ても武士道精神を発揮し、軍律厳しく整然と戦ったのである。

そして日本政府は、在日中国人に対しては戦時中と雖も国際法を守り、彼らの生命財産を守ったのであるが、在中国の日本人居留民は、日中間に紛争が起こるたびに虐殺、掠奪、暴行を受けつづけたことは、日清戦争以来枚挙にいとまがない事実である。

さて、これらの事例は、外国人の見聞記であるところに大きな意味と価値がある。日本人の自画自賛では決してないのである。日清戦争から大東亜戦争に至る聖なる戦いを、日本人でありながら臆面もなく、総て侵略戦争なりと言い切る「似て非なる日本人」よ、もって如何となすや。

Re: 軍紀風紀頽廃(1)

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/23 09:40 投稿番号: [28844 / 29399]
掃蕩経過ノ概要次ノ如シ

(1)中山路通リ出発午前十時三十分トス其ノ東方鉄道線路(南京鉄路)百年亭(北極閣ノ東方約八粁)ノ線ニテ概ネ午前十一時三十分鐘阜門―玄武門西連ヌル線午後零時三十分

(2)中央門西南方高地ヲ東北ニ亘ル線概ネ午後一時三十分

(3)其ノ以北和平門ニ至ル午後二時

(4)午後三時掃蕩終レバ第一大隊ハ和平門付近ニ第二大隊ハ中央門付近ニ兵力ヲ集結スベシ

(5)歩兵砲中隊ハ中央門北側高地ニ午前十時三十分迄ニ陣地ヲ占領シ城内外ニ脱出スル敵ヲ殲滅スベシ

(6)通信班ハ第一大隊、第三大隊、連隊本部間ニ電話連絡午前十時三十分迄ニ完了スベシ

(7)其ノ他(速射砲中隊及各隊小行李車輌ニシテ市内ニ持入リ出来ナイモノ)ハ速射砲中隊長ノ区署ヲ以テ中央門外ニ至リ待機スベシ

第三大隊ヨリ歩兵二分隊ヲ掩護部隊トシテ派遣スベシ

(8)第四中隊ノ一小隊ハ予備隊トス金川門外ニ位置スベシ

(9)余ハ先ズ金川門ニ至ル
連隊長   助川大佐

3.概ネ予定ノ如ク掃蕩ヲ実施中左ノ旅団命令ヲ受ケタルヲ以テ直ニ通信班ヲシテ旅団司令部―下関間ノ電話連絡ニ任ジセシメタリ

右側支隊命令   十二月十四日午後一時三十五分
於   南京中央門外司令部

一.軍(師団)ト海軍トノ連絡ノ為本日午後五時迄ニ左ノ如ク電話ヲ架設スベシ

旅団&#65533;I―&#65533;I歩兵第三十八連隊(昨夜ノ位置)、歩兵第三十八連隊

歩兵第三十八連隊&#65533;I―&#65533;I軍艦勢多歩兵第三十三連隊

但シ軍艦勢多ハ錨地京滬桟橋

4.午後五時三十分掃蕩ヲ完了ス其ノ結果付表第二ノ如シ

連隊ハ一部ヲ以テ和平門、中央門ヲ守備シ主力ヲ以テ宿営地ニ露営スル為左ノ命令ヲ下達ス

歩兵第三十八連隊命令   十二月十四日午後九時
於   下関

一.敗走セル敵ハ尚残留シアリ

二.連隊(第二大隊欠)ハ一部ヲ以テ要点ヲ確保シ主力ヲ以テ下関ニ兵力ヲ集結シ村落宿営セントス

三.第一中隊ハ和平門及中央門ノ守備ニ任ズベシ特ニ支那人ヲ一切出入リセシムベカラズ

四.各隊ハ外宿営者ノ指示セル所ニ従ヒ村落露営スベシ

五.露営司令官宮武中佐トス

六.本夜ノ給與ハ携帯セルモノヲ使用スベシ

七.第三大隊ハ連隊砲ノ給與ヲ担任スルモノトス

衛生隊ハ中央門外ニ繃帯所ヲ開設シアリ第三野戦病院ハ城内中央医院ニアル筈

八.余ハ露営地ノ略々中央ニ在リ午後十一時三十分命令受領者ヲ差出スベシ

↑上記のように統制はとれているし、食糧に関しても問題は無いし、馬鹿サヨの主張は中国の主張の焼写しだよね。

中国主張は公式の記録と整合性が全く無い。

Re: 軍紀風紀頽廃(1)

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/23 09:40 投稿番号: [28843 / 29399]
1.敵ハ南京西北部下関ヨリ揚子江北岸ニ敗走セシモ我ノ進出急ナリシ為全ク退路ヲ扼止セラレ殆ド殲滅セラレタルモ城内ニハ尚抵抗スルノ意思ヲ有スル敵相当多数潜在シアルモノノ如シ十二月十四日旅団ハ南京城中央門以西ニ位置シ南京城内外ノ掃蕩ヲ徹底的実施センコトヲ企図シ左記命令ヲ下達セラル

当時旅団司令部ハ中央門外ニ在リテ連隊ハ下関ニ在リ連絡稍々不便ナリ

前衛命令   十二月十四日午前四時五十分
於   中央門外

一.敵ハ全面的ニ敗北セルモ尚抵抗ノ意思ヲ有スルモノ散在ス

二.旅団ハ本十四日南京北部城内及城外ヲ徹底的ニ掃蕩セントス

三.歩兵第三十三連隊ハ金川門(之ヲ含ム)以西ノ城門ヲ守備シ下関及北極角ヲ東西ニ連ヌル線及城内中央ヨリ獅子山ニ通ズ道路(含ム)城内三角地帯ヲ掃蕩シ支那兵ヲ撃滅スベシ

四.歩兵第三十八連隊(第二大隊欠)ハ金川門(之ヲ含マズ)以東ノ城門ヲ守備シ歩兵第三十三連隊掃蕩地区以東ノ城内及和平門中央大学農林ヲ連ヌル線以西地区ヲ掃蕩シ支那兵ヲ撃滅スベシ

五.歩兵第三十八連隊第二第隊ハ玄武湖及柴金山ノ中間ニ在ル山岳地帯(之ヲ含ム以北ノ地区)ヲ掃蕩シ支那兵ヲ撃滅スベシ

六.各隊ハ師団ノ指示在ル迄俘虜ヲ受付クルヲ許サズ

七.野砲兵第一大隊ハ和平門北側付近ニ在リテ烏龍山砲臺方面ニ於イテ駐止セラルルト思ワルル敵ノ兵団ニ対シ適時射撃シアル如ク陣地ヲ選定シ其ノ準備ニ在ルベシ

八.独立軽装甲車第八中隊ハ其ノ一小隊ヲ速ニ湯水鎮ニ至ラシメ軍司令官ノ直轄タラシメ爾余ハ中央門付近ニ集結シ後命ヲ待ツベシ

九.迫撃砲隊ハ現在地ニ在リテ待機スベシ

一〇.工兵隊ハ予備隊ト成リ中央門外ニ位置スベシ

一一.余ハ中央門外ニ在リ
支隊長   佐々木少将

二   戦闘ニ影響ヲ及ボシタル気象及地形等ノ状態

1.日出時刻ハ概ネ午前七時ニシテ快晴気温ハ日中温暖夜間モ亦月明アリ

2.地形及住民
南京城内ニ避難民相当数有リタルモ之等ハ一地区ニ集合シアリテ掃蕩地区内ニハ住民殆ド無シ

三   彼我ノ兵力其ノ他ノ状況

1.敵ハ統制ノ許ニ我ト交戦ノ意図ヲ有スルガ如キモノ無キガ敗残潜在スル数ハ少ナクモ五、六千名ヲ下ラズ

2.我ノ兵力ハ第二大隊及連隊砲中隊、速射砲中隊

3.交戦セシ敵ノ團体号第三十六師ノ一部竝ニ教導総隊及清涼山砲臺守備隊ノ敗残兵ナルガ如シ

四   各時機ニ於ケル戦闘経過

1.掃蕩経過ノ概要別紙要図ノ如シ

2.連隊ハ午前九時掃蕩命令ヲ下シ午前十時展開線ニ就カントセシモ途中金川門其ノ他ニ障碍物多ク行進渋滞シ午前十一時ニ至リ予定ノ線ニ展開ス

歩兵第三十八連隊命令   十二月十四日午前九時
於   下関

一.敵ハ全面的ニ敗北セルモ尚抵抗ノ意思ヲ有スルモノ散在ス

旅団ハ本十四日南京北部城内及城外ヲ徹底的ニ掃蕩ス

歩兵第三十三連隊ハ獅子山砲臺中山路中央三叉路以西地区及下関ヲ掃蕩ス

二.歩兵第三十八連隊(第二中隊欠)ハ和平門―金竜門―中山路(含マズ)ト中央門トノ大通交叉点ノ水關ノ地区内ヲ掃蕩シ支那兵ヲ撃滅セント第二大隊ハ玄武湖以東柴金山ニ至ル間ヲ掃蕩スル筈

三.第一大隊ハ右掃蕩隊第三大隊ハ左掃蕩隊トス

両大隊掃蕩地域ノ境界模範馬路中央門南北ノ大道ヲ連ヌル線トス線上ハ左大隊ニ属ス

四.両掃蕩隊ハ午前十時中山路ノ線ニ準備スベシ

午前十時マデニ第一中隊ヨリ鐘阜門(中央門西方一粁)―玄武門―水關―北極閣及中山路トノ三叉点付近ノ要点ヲ一部ヲ以テ占領スルヲ要ス

軍紀風紀頽廃(3)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/23 05:36 投稿番号: [28842 / 29399]
防衛研究所収蔵資料の中に、旧軍の   軍紀風紀関係資料がある。
「支那事変ニ於ケル軍紀風紀ノ見地ヨリ観察セル性病ニ就テ」
これは   大本営陸軍部研究班によって   作成されたもので、
その内容は   日中戦争時における兵士の性病に関する調査結果だ。

資料によると、   天津・杭州・蘇州の   3箇所の特設病院だけで、
1937年の開戦から   1939年までの   性病入院患者は、
1万6千人を超えていた   という驚くべき実態を   記録している。
この記録を   見ると、患者を   兵科別、役種別、階級別、年齢別、
感染機会別に分けた調査と、患者の   もとの職業別、教育程度別、
さらに、相手女性国籍別に分けた調査が   行われていたことが解る。

その結果は、兵科別では   輜重兵   砲兵に比較的多く、
役種別では   予後備役、補充兵役に多く、
階級別では   准士官下士官に比較的多く、
年齢別では   26歳〜30歳に多いことが示されている。

そして   明確に判ることは、感染機会が   内地からの帯患者よりも
戦地での感染者の方が   圧倒的に多くなっている   という事実だ。
また   感染地と   相手女性の調査では、備考として
「朝鮮女ノ活躍ハ他ヲ圧倒シアリ将来戦ノ参考タリ得ベシ」と
じつに   意味深長な文章が   書かれている。
ちなみに   役種別の患者数の調査結果は   以下のとおり。

   現役     1,156
   予備役    3,795
   後備役    4,363
   補充兵役   1,774
   軍属       809

これを見ると、予備役や後備役兵に   感染者が多いことが判る。
限られた期間の、しかも   3箇所の病院だけの調査ではあるが、
日本軍に   性病患者が   いかに増加していたか、
それも   戦地での感染者が圧倒的多数であったかが   示されている。
(引用資料:「支那事変ニ於ケル軍紀風紀ノ見地ヨリ観察セル性病ニ就テ」
防衛研究所所蔵『支那事変ノ経験ニ基ク無形戦力・軍紀風紀資料第5号』)

急速な軍隊の拡大による幹部と兵の素質の低下、とくに後備兵の増加が
軍紀風紀の頽廃の原因となり、その結果が、兵士個人の犯罪である
掠奪、強姦などを多出させたことが   こうした資料からも読み取れる。

その対策の一つが、組織的な慰安婦の動員、慰安施設の導入となり、
軍みずからが   管理と統制に   乗りだすことになったのだ。

軍紀風紀頽廃(2)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/23 05:15 投稿番号: [28841 / 29399]
参謀総長が異例の通達を出すほど、軍紀風紀は頽廃していた。
開戦後2年間のみに限っての軍紀風紀にかんする犯罪非違の
調査によると、日中戦争の戦地における   犯罪非違は、
日清・日露戦争に比べても   はるかに   高率となっていた。

以下は、無形戦力軍紀風紀資料第一号   『支那事変ニ於ケル
犯罪非違ヨリ視タル軍紀ノ実相並ニ之ガ振粛対策』   という
大本営陸軍部研究班が   昭和15年に作成した   資料による
軍隊内の犯罪数を   示したものだ。

  日清戦役(全戦役)   3387   内地1906   戦地1481
  日露戦争(全戦役)   5234   内地3780   戦地1454
  日支事変(2年間)   5221   内地2047   戦地3147

この数は、憲兵隊が取り扱ったもの   だけであり、
「実数ハ之ヨリ増加スベシ」   とされている。
そのうえで、戦地での   犯罪数は、日清・日露戦争よりも
「今次事変ニ於ケル犯罪数著大ナルヲ知ルベシ」   としている。

非違の発生件数は、日清・日露の記録がないので比較できないが、
「今次事変」   では   3万2964名にも   達しており、
しかも、「刑法処分ニ処スベキモノ本人ノ功績ト犯行ノ情状トヲ
酌量シテ行政処分ニ附シタルモノ相当数アリ」
「シカモ軍紀上相当悪性ナルモノ多数発生シツツアルニ於テオヤ」
としている。

つまり、軍法会議に付された   犯罪、懲罰権者の処罰ですませた
非違の双方とも、日中戦争下で   軍紀風紀犯罪が   多発している
という調査結果が   示されている。
こうした犯罪のなかで、もっとも多かったのが   掠奪だった。

上海から南京への追撃戦は   補給を無視しての急進撃で、
給養は   すべて徴発に頼った。
徴発といっても   そこは敵国であり、実態は掠奪にほかならなかった。
兵士の日記には、ほとんど例外なく、毎日   無人の集落から
何を徴発したかが   書かれているが、それは無統制に、
兵士が   勝手におこなう掠奪だったことを   具体的に示している。

徴発には   国際法があり、規則があった。
しかし、中国戦線で   それが守られることは   ほとんどなかった。
次のような南京攻略戦のさいの第九師団経理部将侯の記述がある。

   徴発品の代金支払は如何にされて居つたか、
   軍隊は強盗でも山賊でもない。
   必ず代金を払って買はねばならないのである。
   (中略)   後日所有者が代金の請求が出来るようにして
   置かねばならない故に   徴発書はかねて印刷配付して
   所要の事項を記入すればよいようにして(中略)ある。
   しかるに後日所有者が代金の請求に持参したものを見れば
   其記入が甚だ出鱈目である。
   例へば○○部隊先鋒隊長加藤清正とか   退却部隊長蒋介石
   と書いて其品種数量を箱入丸升とか樽詰少量と云ふものや
   全く何も記入してないもの   甚だしいものは単に馬鹿野郎
   と書いたものもある。   全く熱意も誠意もない。

でたらめな記入をした徴発書では、代金の支払いはできない。
中国の人々は、食糧などの物資を   だまし盗られたことになる。

軍紀風紀頽廃(1)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/23 05:14 投稿番号: [28840 / 29399]
虐殺の状況を示す数々の証言から   読み取れるものは何か。
それは、虐殺事件の背景に   幕僚層の国際感覚の欠如と
モラル低下にくわえて、軍紀風紀の頽廃という   軍内部の
深刻な問題があった   という事実だろう。

また、戦争の拡大と   軍隊の大量動員が、軍の素質の低下を
もたらしたことも、大きな要因になった   と考えられる。
それにともなって   軍の規律がゆるみ、軍紀風紀が乱れた。
このことが、犯罪非行を   続出させる原因となった。

大量虐殺は、軍の組織的行為である捕虜殺害や敗残兵狩りが
原因であることは   もちろんだが、さらに   軍紀の乱れから  
兵士個人による行為によって起こった場合も多出したことが、
いっそう   事件を大きくした。

この点は   軍上層部でも認めており、南京事件が   国際的な
非難を浴びたのを受け、南京占領直後の38年1月4日付で
参謀総長は中支那方面軍に   次のような要望を   行っている。

   顧ミレバ皇軍ノ奮闘ハ半歳ニチカシ   其行ク所常ニ必ズ
   赫々タル戦果ヲ収メ我将兵ノ忠誠勇武ハ中外斉シク
   之ヲ絶賛シテ止マズ   皇軍ノ真価愈々加ルヲ知ル
   然レ共   一度深ク軍内部ノ実相ニ及ベバ
   未ダ暇謹ノスクナカラザルモノアルヲ認ム
   就中軍紀風紀ニ於テ忌々シキ事態ノ発生   近時漸ク繁ヲ見  
   之ヲ信ゼザラント欲スルモ   尚疑ハザルベカラザルモノアリ
   惟フニ一人ノ失態モ全隊ノ真価ヲ左右シ   一隊ノ過誤モ
   遂ニ全軍ノ聖業ヲ傷ツクルニ至ラン
    (中略)
   遡テ一般ノ情特ニ迅速ナル作戦ノ推移或ハ部隊ノ実情等ニ
   考ヘ及ブ時ハ森厳ナル軍紀節制アル風紀ノ維持等ヲ
   困難ナラシムル幾多ノ素因ヲ   認メ得ベシ

   従テ露見スル主要ノ犯則不軌等ヲ挙ゲテ直ニ之ヲ外征部隊ノ
   責ニ帰一スベカラザルハ克ク此ヲ知ル
   然レ共実際ノ不利不便愈々大ナルニ従テ益々以テ之ガ克服ノ
   努力ヲ望マザルヲ得ズ(後略)
   (中支那方面軍参謀長「軍紀風紀ニ関スル件通牒」)  

参謀総長から   このような要望がでたことは、異例のことだった。
それだけ   在中国軍の   軍紀風紀の頽廃が、軍中央部にとっては
頭の痛い問題だったのだ。
同じ内容の要望は、北支那方面軍にも   出されているが、
これは   軍紀風紀の粛正が、この時期の   日本陸軍にとって、
大きな問題であったことを   示している。

◆すでに決着済み「強制連行」という大嘘

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/23 00:00 投稿番号: [28839 / 29399]
韓国人女性、呉善花氏

従軍慰安婦という言葉は最近になって出てきたものです。慰安婦がいたことは事実ですが、強制的に戦地へ連れて行くことなどは絶対にあり得ません。朝鮮も同じ国内でしたから、法治国家として司法の三審制度もあり、無法地帯ではありませんでした。もちろん、警察権力もしっかりしていました。そういう法治主義システムの網をかいくぐって、婦女子を強制的に連れて行くことなど、当時の朝鮮ではとうていできることではありませんでした。

私は韓国で生まれて二十六歳まで韓国で生活していた間、村の女を軍や総督府の官憲が 強制的に連行したといった話はいっさい耳にしたことがありません。   また、私が『生活者の日本統治時代』で、インタビューした植民地世代の韓国人の誰一人として、 そのような光景を見たことも聞いたこともないといっていますにもかかわらず、最近になってそうした話が出るなんて、まったくおかしなことだというしかありません。日本の左翼活動家が反日民族主義の活動家に入れ知恵して以来、 「そういうことがあったらしい」「そういうことがあったに違いない」「そういうことが事実あった」 というようにエスカレートしていったことは明らかです。こうして「従軍慰安婦」問題は、女子挺身他(女性の徴用者たち)と意図的に混同させられ、 大量の女たちが「従軍慰安婦」させられた、強制連行でそうさせられた、という物語がつくられ、 それがあたかも真実であるかのように韓国国内で信じられるまでになってしまったのです。


「台湾人と日本精神」   蔡焜燦(台湾人)著   より
         
引き揚げ者の中には、海南島から日本兵と共に引き揚げてきた二十名ほどの台湾人慰安婦の姿もあった。彼女達は我々と同じキャンプに収容されて台湾への帰国を待っていた。彼女らは口々に、「海南島は儲かるし、それよりも兵隊さんが喜んでくれたんです」と語っていた。そうした生の声には、日本で騒がれるような強制連行の(悲劇)などは存在しなかったことを、私のこの耳がしっかり聞いている。(略)1999年、8月号の「正論」に掲載された許文龍氏(実業家であり、李登輝総統の国策顧問)の記事も、まさしくそんな氏の客観的な歴史観と実行力の賜物だったと言っていいだろう。日本でくすぶり続ける慰安婦の「強制連行」なる問題に首を傾げた許氏は、戦時中に慰安婦だった女性を集めてその事実を明らかにしたのである。もちろん結果は、日本の一部のマスコミや学識者がヒステリックに訴えるような「強制連行」なる事実は存在しなかった。

◆屁理屈まみれの元慰安婦とやらの証言

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/22 23:59 投稿番号: [28838 / 29399]
自称・元従軍慰安婦   算数も出来ない韓国人

韓国で元従軍慰安婦のチョン・ソウン氏が80歳で亡くなった。
朝鮮日報は次のように報じた。

『13歳のとき、インドネシアに連れて行かされ、7年間にわたって日本軍の従軍慰安婦として生きなければならなかった「挺身隊おばあさん」チョン・ソウン氏が、26日未明、慶尚南道の自宅で老患で亡くなった。80歳。
チョン氏は、1995年9月、中国で開かれた北京女性大会に、韓国代表として堂々と出席、全世界に向かって、「日本の軍医官から不妊手術を受けさせられ、金の代わりに軍票を受けた。1日平均50人ずつ、週末には100人の軍人と性関係を持たなければならなかった」などど証言。日本軍の蛮行を知らせた人物』


日本軍の蛮行を北京女性大会で話したとの事ですが、この話は100%有り得ません。

一日平均50人、週末100人と性関係を持ったとの事ですが時間的、体力的に不可能です。慰安婦の一日労働時間を15時間と仮定してみますと有り得ない数字が出てきます。

計算方法。

一日労働時間を15時間と仮定。分に直すと15×60=900分。

間の休憩時間を一回5分と定めると50人の場合で49回、よって49×5=休憩時間245分。900−245=655分。655÷50人=1人あたり13分。   100人の場合は休憩回数99回、よって99×5=休憩時間495分。900−495=405分。405÷100=1人あたり4分。

7年間の合計は、6日間が50人、週末が100人なので合わせて週400人。一年は約52週なので年間20800人。慰安婦経験は7年なので14万5600人、つまり約14万6千人と寝た。

一回あたり13分、4分では慰安婦の意味を全く成していませんし、たかが13歳の少女がこれほどまで人気が有ったとでも言うのでしょうか?大人でも身の危険がある上に、13歳の少女なら数日で普通死にます。死去が目に見えている上に年間20800回、合計14万6千回は常識の枠を超えていますので、不可能と断定する以外ありません。また、慰安婦は接客を断る自由が認められており、激務でしたらそれを理由に接客を断れたはずです。

万歩譲って可能だとしても80歳で死去したのですから、誕生年は1924,5年と計算でき13歳の時に従軍慰安婦となったのですから年は1937年となります。1937年当時のインドネシアは蘭領で日本領となったのは1942年の話です。蘭領インドネシアで日本軍の蛮行などありえない話であり完全に自己矛盾に陥っています。本当に慰安婦だったのであればこのような間違った発言は絶対にしません。

この記事を記載した朝鮮日報もおかしいと思ったのか既に記事を削除しています。明らかに少し考えれば問題点に気が付くのですがそれにも気が付かずに堂々と褒め称えている所に韓国の異常を感じます。韓国人は算数の計算も出来ないのでしょうか?また、従軍慰安婦と挺身隊は全く関係ありません。ニュースにもなる人が死去して死者を批判するのは気が進みませんが、結局の所はまた捏造者が1人逝ったに過ぎないのです。

◆慰安婦=性奴隷という噴飯モノの戯言

投稿者: ngmxj627 投稿日時: 2012/12/22 23:57 投稿番号: [28837 / 29399]
=超高給だった当事の「慰安婦」=

●『軍』慰安婦急募

一、行き先     ○○部隊慰安所
一、        年齢十八歳以上三〇歳以内体
一、募集   日    十月二十七日    十一月八日

一、開催日     十一月十日頃
一、     待遇   本人面談
一、募集人員    数十名
一、希望者
京城           町一九五
朝鮮旅館内
光   二六四五
(許氏)


●慰安婦(急至)大募集

年齢   一七歳以上
勤先   後方○○   慰安
月収   三〇〇円以上   (前借三〇〇〇円迄可)
午後八時より午後一〇時迄本人   談

今井紹介所


※巡査の初任給が45円だった時代、月収300円というのは現在の価値に換算すると月収133万円以上の高給であり、軍の高級将校の給与に匹敵する。


●強制連行された慰安婦はいたか?(日本側の調査)

当時、内閣官房副長官だった石原信雄氏は、次のように明らかにしている。強制連行の証拠は見あたらなかった。元慰安婦を強制的に連れてきたという人の証言を得ようと探したがそれもどうしても証言がなかった。納得できる証拠、証言はなかったが(今に至るも発見されていない)「彼女達の名誉のために、これを是非とも認めて欲しい」という韓国側の強い要請に応えて、河野洋平氏が強制的という言葉を使ってしまったというわけです。もう少し補足しますと、この問題の初期の段階では韓国政府は、この問題をあまり問題にしたくないような雰囲気を感じたんですけれども、日本側のいま申した人物がとにかくこの問題を掘り起こして大きくするという行動を現地へいってやりましてそしてこれに呼応する形で国会で質問を行うと。連携プレーのようなことがあって、韓国政府としてもそう言われちゃうと放っておけないという、そういう状況があったことは事実です。


●強制連行された慰安婦はいたか?(韓国側の調査)

韓国で慰安婦問題の取組みの中心となっている「挺身隊問題対策協議会」は、元慰安婦として登録された55名のうち、連絡可能な40余名に聞き取りをした。論理的に話が合うか、など、検証をしつつ、その中から信頼度の高い19人を選んで、証言集を出版した。今まで何らかの機会に、強制連行されたと主張しているのは9人だが、信憑性があるとしてこの証言集に含められたのは、4人のみ。さらにそのうちの二人は富山、釜山と戦地ではない所で慰安婦にされたと主張していて、「従軍慰安婦」ではあり得ない。残る2人が、金学順さんと、冒頭の4〜5千万円相当の貯金をしたという文玉珠さんなのだが、この証言集では、強制連行されたとは述べていない。結局、韓国側調査で信憑性があるとされた証言のうち、従軍慰安婦として強制連行されたと認められたものは、ひとつもない、というのが実態である。


■アメリカ軍による北ビルマのミチナ慰安所の慰安婦からの聞き取り報告

捕虜にした朝鮮人従軍慰安婦について米軍が聞き取り調査をした記録が、戦争情報局関係資料、心理戦チーム報告書 No.49、ビルマ(1944年10月1日)に記載されている。

[募集]

1942年(昭和17年)5月、日本人の業者が朝鮮半島に赴き、東南アジアにおける「軍慰安業務」のためとして女性を募集した。高収入、家族の借金返済のための好機、軽労働等の宣伝に応じて多くの女子が慰安婦業務に応募し、200〜300円の前払い報酬を受領した。

[日常生活]

(原告の文玉珠も生活していた)ビルマのミートキーナにおいては、通常二階建ての大きな建物に住んでおり、一人一部屋を与えられていた。食事は経営者が用意したものであった。食事や生活用品はそれほど切り詰められていたわけでもなく、彼女らは金を多くもっていたので、欲しいものを買うことができた。兵士からの贈り物に加えて、衣類、靴、タバコ、化粧品を買うことができた。ビルマにいる間、彼女らは(日本軍)将兵と共にスポーツをして楽しんだり、ピクニックや娯楽、夕食会に参加した。彼女らは蓄音機(レコード・プレーヤー)を持っており、町に買い物に出ることを許されていた。

◆慰安婦強制連行の嘘・デタラメ・捏造②

投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/22 23:56 投稿番号: [28836 / 29399]
●1989年大分市の青柳敦子氏と在日朝鮮人の宋斗会氏という二人の反日運動家が「慰安婦に日本国家が謝罪と補償をする運動」を起こしました。そして原告を100人と被害者を募集しはじめたわけです。

●1990年韓国梨花大学教授尹貞玉氏は吉田証言を事実と信じ込み、挺身隊と慰安婦を同一視しました。そして日本兵29人に対し、慰安婦1人(ニクイチ)のごろ合わせを用いて、慰安婦の数は朝鮮人だけで17万人から20万人いたと換算しています。大学教授であっても反日とか反体制とかいうイデオロギーに捕らわれると巧みなこじつけをするのは韓国でも日本でも同じです。

4、1991年4月にはソウルの日本大使館が尹氏を呼び、「強制連行の証拠はない」と伝えて韓国挺身隊協議会からの六項目の要求を拒否しました。その六項目とは下記です。
①強制連行を認める
②公式謝罪する
③蛮行の全てを自ら明らかにする
④慰霊碑を建てる
⑤補償をする
⑥歴史教育で語り続ける

●1991年から朝日新聞は従軍慰安婦強制連行に関する一大キャンペーンを開始しました。初めの証言者となった金学順という朝鮮人慰安婦は日本軍に強制連行されたと報ぜられましたが、本人が日本に来て証言したところによれば、14歳の時、家が貧しかったのでキーセンハウスに売られ、17歳になったとき、キーセンハウスの経営者である義父に日本軍の慰安所につれて行かれたことが分かりました。しかし朝日新聞はこれについての訂正記事を出していません。まだ前出の吉田清治の嘘の証言も真実として報道しました。更に宮澤首相訪韓の時に合わせて「挺身隊の名で連行された慰安婦の数は8万人とも20万人とも言われる」という嘘の解説を載せました。その結果、1992年1月宮澤首相は韓国でこの件について謝罪せざるを得ないようになりました。また、その後も河野官房長官談話でこれを追認した形になりました。この二人の日本高官の行った軽率な謝罪が国連に対するクマラワスワミ女史(スリランカ)の「日本軍性的奴隷問題に関する報告書」の中で、日本政府がその犯罪を認めたとされることになったのです。

●1992年1月14日、韓国ではマスコミが一斉に「小学生までが慰安婦にさせられた!」というショッキングなニューズを流しました。ところがこれがまた大言誤報で、真相は女子児童が挺身隊として勤労動員されたというだけの話だったのです。つまり挺身隊=慰安婦というデマを信じたマスコミの判断であったのです。

●1992年11月中央大学教授吉見義明編「従軍慰安婦資料集」が刊行されましたが、その中に「強制連行」を示す資料は一つもありませんでした。その本の解説の中で吉見教授は「一般には、強制連行というと人狩りの場合しか想定しない日本人が多いが、これは狭義の強制連行であり、詐欺などを含む広義の強制連行の問題をも深刻に考えてしかるべきであろう」と述べています。この人はこれまで「強制連行はあった」と論じてきたのに、色々調べていった末、それを裏付ける資料がないことが分かると論点をすり換えて「広義の強制連行」を考えるべきだなどと言い始めました。また「政府が資料を隠しているのかもしれないから、それが出てきたら事情が変わってくる」と暗示しているのも学者らしい狡さを見せつけられます。

●1997年1月3日の「朝まで生テレビ」に出演した吉見義明教授は、「植民地での奴隷狩り的強制連行は確認されていない」ことと、および「挺身隊が慰安婦にさせられた例も確認されていない」ことを認めました。これは日本政府の5年前に調査した公式発表と一致するものです。

  従って、従軍慰安婦強制連行問題は、議論が出つくして、調査もしつくして決着していると言わねばなりません。
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)