◆元第16師団連隊長 魂の講演録④
投稿者: momotarou_no_onitaiji 投稿日時: 2012/12/27 23:11 投稿番号: [28915 / 29399]
実際に戦争に行った人間が、手記を書いたり日記を書いたりという形で色々虐殺を言っています。
まず第一に、日記や手紙を書いたというのがおかしいと思います。
戦場で兵士が日記を書けるものかどうか。
背嚢(はいのう)は必要最小限の携行品で一杯になっています。
その中へ一体何冊のノートを入れていったのか?
筆記具は鉛筆なのか、インキなのか?
当時はボールペンなどはありません。
終日戦闘を続けて、あるいは土砂降りの雨の中を一日中行軍して、くたくたになって露営して、暗闇の中にはロウソクの灯りさえ無いのです。
また敵と至近距離に対峙(たいじ)して夜を徹することもあります。
戦場では、眠るのが精一杯のことが多いのです。
そんな中で、どうして日記が書けるのでしょうか?
丹念に日記を書くという力があったのでしょうか?
それだけ考えても、戦場で書いた日記だというのは、どうも信用出来ないのです。
彼らの証言をいくつかあげてみましょう。
1、中山重夫
岩仲戦車隊の兵で、昭和12(1937)年12月11日に雨花台(南京城南側、中華門外の台地)で、約4時間にわたって捕虜が虐殺されるのを見たと証言。
静岡県の中学教師、森正孝という人物が作った「侵略」という8ミリ映画を持ち歩いて各地で講演をして回っています。
昭和12(1937)年12月12日は激戦の真っ最中で、そんな中で捕虜を殺している余裕は絶対に無いのです。
まして数時間もそれを見物するなどは考えられません。
特に、中山重夫氏が配属されていた戦車隊は、南京城東側の中山門攻撃に加わっており、11日、12日の状況はすでにお話した通りです。
この部隊にいた兵士が、南京城南側の雨花台で捕虜の虐殺を見るわけがないじゃないですか。
そんな大ウソを平気で言うのです。
2、曽根一夫
豊橋の歩兵第18連隊の軍曹(分隊長)として従軍。
「私記南京虐殺」3部作を発表、その中で蘇州河の戦闘につき、
「11月7日朝霧の中工兵の人柱による橋上を敵弾を冒して走り、敵弾命中し河中に転落」と書いております。
これが全くのウソであります。
曽根一夫は豊橋歩兵第18連隊の軍曹ではなく、名古屋の野砲第3連隊の初年兵であったことを、彼と同じ中隊(野砲3、第12中隊)にいた戦友が証言しており、所属部隊の階級も全くデタラメですし、蘇州河の戦闘になどは参加しておりません。
また第18連隊の中隊長、及部巷氏は、
「11月7日は激しい風雨であり(朝霧などは無し)、蘇州河は水深2メートル余りで人柱等不可能、さらに当時は敵弾の飛来等ある状況では無かった」と、証言しています。
こんなウソを平気で言っております。
3、富沢孝夫
海軍の暗号兵。
「昭和12(1937)年12月11日、松井軍司令官の虐殺を戒(いまし)める暗号を傍受・解読した」と証言。
海軍の暗号兵が陸軍の暗号を傍受・解読する事は、技術的に出来ないのです。
さらにもう1つは、12月11日には、松井軍司令官は蘇州で入院しておられ、南京にはおられません。
にもかかわらず、彼は平気でそういう事を言っております。
4、石川フミ
東北出身の日赤の看護婦で、病院船筑波丸に乗って揚子江を遡行(そこう)、12月27日に南京に上陸、中山陵を見物し、途中で「女、子供の死体が散乱しているのを見た」と証言。
そんな時期に、そこいらに死体がある訳がありません。
現実に、私は何度か中山陵に行きましたが、一体の死体も見たことはありません。
何度も通った私が全然見ていないのに、たった一度行った看護婦が、散乱した死体を見るわけがないじゃありませんか 。
まず第一に、日記や手紙を書いたというのがおかしいと思います。
戦場で兵士が日記を書けるものかどうか。
背嚢(はいのう)は必要最小限の携行品で一杯になっています。
その中へ一体何冊のノートを入れていったのか?
筆記具は鉛筆なのか、インキなのか?
当時はボールペンなどはありません。
終日戦闘を続けて、あるいは土砂降りの雨の中を一日中行軍して、くたくたになって露営して、暗闇の中にはロウソクの灯りさえ無いのです。
また敵と至近距離に対峙(たいじ)して夜を徹することもあります。
戦場では、眠るのが精一杯のことが多いのです。
そんな中で、どうして日記が書けるのでしょうか?
丹念に日記を書くという力があったのでしょうか?
それだけ考えても、戦場で書いた日記だというのは、どうも信用出来ないのです。
彼らの証言をいくつかあげてみましょう。
1、中山重夫
岩仲戦車隊の兵で、昭和12(1937)年12月11日に雨花台(南京城南側、中華門外の台地)で、約4時間にわたって捕虜が虐殺されるのを見たと証言。
静岡県の中学教師、森正孝という人物が作った「侵略」という8ミリ映画を持ち歩いて各地で講演をして回っています。
昭和12(1937)年12月12日は激戦の真っ最中で、そんな中で捕虜を殺している余裕は絶対に無いのです。
まして数時間もそれを見物するなどは考えられません。
特に、中山重夫氏が配属されていた戦車隊は、南京城東側の中山門攻撃に加わっており、11日、12日の状況はすでにお話した通りです。
この部隊にいた兵士が、南京城南側の雨花台で捕虜の虐殺を見るわけがないじゃないですか。
そんな大ウソを平気で言うのです。
2、曽根一夫
豊橋の歩兵第18連隊の軍曹(分隊長)として従軍。
「私記南京虐殺」3部作を発表、その中で蘇州河の戦闘につき、
「11月7日朝霧の中工兵の人柱による橋上を敵弾を冒して走り、敵弾命中し河中に転落」と書いております。
これが全くのウソであります。
曽根一夫は豊橋歩兵第18連隊の軍曹ではなく、名古屋の野砲第3連隊の初年兵であったことを、彼と同じ中隊(野砲3、第12中隊)にいた戦友が証言しており、所属部隊の階級も全くデタラメですし、蘇州河の戦闘になどは参加しておりません。
また第18連隊の中隊長、及部巷氏は、
「11月7日は激しい風雨であり(朝霧などは無し)、蘇州河は水深2メートル余りで人柱等不可能、さらに当時は敵弾の飛来等ある状況では無かった」と、証言しています。
こんなウソを平気で言っております。
3、富沢孝夫
海軍の暗号兵。
「昭和12(1937)年12月11日、松井軍司令官の虐殺を戒(いまし)める暗号を傍受・解読した」と証言。
海軍の暗号兵が陸軍の暗号を傍受・解読する事は、技術的に出来ないのです。
さらにもう1つは、12月11日には、松井軍司令官は蘇州で入院しておられ、南京にはおられません。
にもかかわらず、彼は平気でそういう事を言っております。
4、石川フミ
東北出身の日赤の看護婦で、病院船筑波丸に乗って揚子江を遡行(そこう)、12月27日に南京に上陸、中山陵を見物し、途中で「女、子供の死体が散乱しているのを見た」と証言。
そんな時期に、そこいらに死体がある訳がありません。
現実に、私は何度か中山陵に行きましたが、一体の死体も見たことはありません。
何度も通った私が全然見ていないのに、たった一度行った看護婦が、散乱した死体を見るわけがないじゃありませんか 。