南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行は事実
Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー
◆慰安婦強制連行の嘘・デタラメ・捏造①
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/22 23:38 投稿番号: [28835 / 29399]
●日本ではじめて「従軍慰安婦」を戦争犯罪として世に広めたのが、千田夏光著「従軍慰安婦」(1973年)および「続・従軍慰安婦」(1974年)です。
この本では、千田氏が「挺身隊」として動員された朝鮮人女性20万人のうち、5〜7万人が慰安婦にさせられたと書いています。しかし「挺身隊」とは軍需工場などへ勤労動員された者のことで「慰安婦」とは全く別のものです。
また、挺身隊員で慰安婦になれと強制された例は一つも確認されていません。これは朝鮮の反日運動家が「挺身隊で連れて行かれる者は慰安婦にさせられる」というデマを流したのを、千田氏がろくに検証もせずに書いてしまったようです。
●次に発行されたインチキ本は「私の戦争犯罪−朝鮮人連行−」吉田清治著(1983年)です。この本で吉田氏は韓国済州島で慰安婦にするための女性狩りを度々行ったと告白した上、日本・韓国およびアメリカなどで謝罪講演をして廻りました。
しかし、千葉大学教授の秦郁彦氏が済州島に行って実際に調査したところ、吉田氏が慰安婦にするための女性を1000人近く徴用したとう事実はないことが判明しました。
それに現地の新聞がすでに「吉田証言に該当する事実はない」と報道していたのです。
韓国政府も国際人権委員会も吉田証言を引用して報告書を書いていますが、それは日本の朝日新聞が吉田証言をとりあげて、これを権威付けたからです。
しかし、今日では、吉田証言は全くの嘘であることが証明されて、本人もフィクション(作り話)であることを認めています。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28835.html
◆南京で略奪の限りを尽くす中国軍兵士
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/22 23:36 投稿番号: [28834 / 29399]
南京攻略した日本軍の先兵の記述によると、国民党軍は戦闘を放棄し、南京市内で略奪の限りを尽くす中国兵士たち。
当時の中国軍には、「占領されるくらいなら何もかも破壊してしまえ」との考えがあったそうで、南京以外にも日本軍が攻め込む前に村ごと焼き払って敗走した事が何度もあった。
南京市民から略奪した後は、国民党軍の殆どが敗走し、一部が奪い取った衣服を身にまとい国際法に抵触する便衣兵となって、日本軍が占領したあとも散発的なゲリラ行為を続けてたそうです。
こうして、便衣兵を処分したのですが、それも武装解除してから市街追放する程度で、当時の「処分」=「処刑」とは違うわけです。
勿論抵抗した便衣兵やそれに疑われた人物がその場で射殺されたこともあるでしょうが、南京での死亡者の殆どがこの類であり、その数は決して多くはなかったのです。(抵抗する捕虜や便衣兵の殺害は戦場においては正当なる行為です)
当時の記録でも日本軍が南京を占領してから数万単位で人口が増加してる事実。
非常に危険だった中国大陸においては、国民党軍が治めてる地域よりも日本軍が治めている南京の方が安全と判断したからこその人口増なんですよね。
追記
日本軍が攻めてくるというのに、これから攻められる南京城に逃げ込む馬鹿がどこにいるというのでしょうか。
安全な山や草の生い茂った野原に逃げ込んで身を隠すに決まっているでしょう。
国民党軍にしても共産軍にしてもゲリラ戦術を取っていたんですから真正面から戦闘を挑んでくる訳がないのです。
南京市の人口20万人の中の中国軍のほとんどが我さきに逃げ出して、南京城はほとんど空っぽだったと考えるのが当然だし、それが歴史の真実だったでしょう。
石井松根大将らの南京入場の映像からもそれは伺い知ることが出来るのです。
そして日本軍が撤退した3ヶ月後に、人口が25万人へと5万人も増えたのは周辺の町から南京城へ避難した人たちによって膨らんだからに違いないのです。
何故ならば、安全区以外にいる一般中国市民は、日本のスパイとみなされて共産軍によって虐殺されるかもしれないからです
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28834.html
◆南京大虐殺とは中国軍によるもの
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/22 23:23 投稿番号: [28833 / 29399]
実は日本軍が南京に入る前から市内には多数の死体が存在していた。十一月二十九日の様子を、ドイツのリリー・アベック記者はこう記している。
「もはやどこに行っても、規律の解体と無秩序が支配していた。南京駅に二千人の負傷者を乗せた汽車が到着したが、誰も見向きもしなかった。看護兵も付き添っていなかった。負傷兵たちは二日間も放置された後、その二日間に死んだ者と一緒に降ろされ、駅のホームに並べられた。死骸が空気を汚染し、悪臭を放った」
十二月七日、中国軍は南京周辺を徹底的に焼き払い、焼け出された市民が難民となって城内に流入、商品流通が麻痺し食料難が加速、一部では暴動が起こった。中国軍は治安維持のため少しでも怪しいものは手当たり次第に銃殺した。
十日頃には完全な無政府状能心に陥り、統制を失った中国兵たちによる掠奪が横行した。在南京アメリカ大使館のエスピー副領事は、陥落直前の南京の様子を漢口のアメリカ大使館にこう報告している。
「日本軍入城前の最後の数日間には、疑いもなく彼ら自身の手によって市民と財産に村する侵犯が行われたのであった。気も狂わんばかりになった中国兵が軍服を脱ぎ棄て市民の着物に着替えようとした際には、事件をたくさん起こし、市民の服欲しさに、殺人まで行った」
南京にはたくさんの死体があった。それも平服の死体があった。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28833.html
Re: ■南京市民と日本軍とのふれあい
投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/22 22:20 投稿番号: [28832 / 29399]
>餅を大量に取り寄せ、市民たちにお雑煮を振る舞ったりした。
日本兵の食糧もろくにないのに、南京市民にそんなにサービスしていいのか。
ボランティアで戦争してるわけじゃないだろ!
これは メッセージ 28747 (z_gusinlp さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28832.html
Re: ◆〈反対尋問〉に耐えられない証言ばか
投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/22 22:16 投稿番号: [28831 / 29399]
>数名ならともかく、十九万人もの死体が跡形もなく消えたと言われて、誰が信じることができるだろうか。
たしかに難しいな。
もし唯一可能性があるとすれば、揚子江に流すことだろう。
これは メッセージ 28824 (madabakayatuterunokaomae さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28831.html
Re: ◆真実の証言 欧米人の証言
投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/22 22:14 投稿番号: [28830 / 29399]
>南京攻略に先立って何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害よりも大きい
初めて聞いた話だな。
南京攻略戦の前に、南京空襲もやっていたということか?
これは メッセージ 28827 (madabakayatuterunokaomae さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28830.html
Re: ◆仁多 ←ありえん!ほどのノータリン
投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/22 22:10 投稿番号: [28829 / 29399]
これは メッセージ 28828 (madabakayatuterunokaomae さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28829.html
◆仁多 ←ありえん!ほどのノータリン
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/22 21:44 投稿番号: [28828 / 29399]
これは メッセージ 28819 (仁多 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28828.html
◆真実の証言 欧米人の証言
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/22 21:29 投稿番号: [28827 / 29399]
南京入城に際し、新聞記者たちも同行
南京が日本軍によって陥落したとき、日本軍兵士たちとともに、多くの新聞記者やカメラマンが共に南京市内に入りました。その総勢は100人以上。また日本人記者たちだけでなく、ロイターやAPなど、欧米の記者たちもいました。しかし、その中の誰一人として「30万人の大虐殺」を報じていません。
アメリカのパラマウント・ニュースも、南京占領の記録映画をつくっていますが、その中に「30万人大虐殺」は報じられていません。また当時、中国で「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」というイギリス系の英字新聞が発行されていましたが、たとえば1937年12月24日(南京陥落の11日後)の紙面をみると、日本軍が南京市民に食糧などを配って市民が喜んでいる光景が、写真入りで報道されています。
南京占領後、安全区のリーダーであったドイツ人、ジョン・ラーベは、「日本軍が安全区を攻撃しなかったことを深く感謝いたします」との感謝状を松井大将に手渡しています。
南京に便衣兵は居た
南京の城壁内で、ニューヨーク・タイムズのティルマン・ダーディン記者は、「軍服を一斉に脱ぎ捨てる中国兵たち」に出くわしています。
「私は一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽といってよいほどの光景であった。多くの兵士は下関へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。小路に走りこんで便衣(民間人の普通の服)に着替えてくる者もあった。中には素っ裸になって一般市民の衣服をはぎ取っている兵士もいた」(ニューヨーク・タイムズ
1937年12月22日付)
また南京陥落後、南京城壁内へ入った日本兵たちもみな、この「脱ぎ捨てられた中国兵の軍服」が街路の至るところに散乱しているのを目撃しています。彼ら中国兵は、民間人になりすますために、軍服を脱ぎ捨て、民間人の服に着替えたのです。民間人の服を盗む者もいれば、民間人を撃ち殺して衣服をはぎ取る者も多くいました(南京のジェームズ・エスピー副領事の報告)。
中国軍が自ら村や農村に火をつけた
アメリカのティルマン・ダーディン記者は、南京で日本軍を迎え撃つ中国軍の様子を、こう書いています。「中国軍による焼き払いの狂宴(12月7日以降)…南京へ向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。村ぐるみ焼き払われたのである。中山陵園内の兵舎・邸宅や、近代化学戦学校、農業研究実験室、警察学校、その他多数の施設が灰塵に帰した。…この中国軍による焼き払いによる物質的損害を計算すれば、優に2000万ドルから3000万ドルにのぼった。これは、南京攻略に先立って何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害よりも大きい」(ニューヨークタイムズ)。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28827.html
Re: なぜ「南京大虐殺」はおこったのか
投稿者: konoyo_anoyo 投稿日時: 2012/12/22 21:26 投稿番号: [28826 / 29399]
はあ〜、またまたボケが誕生か〜。
日本国軍の追撃に敗走していた、蒋介石の国民党軍の三光作戦を日本軍の性にしている、反日日本人でっか〜?全く、日本軍人を愚弄している、シナ畜生どもと同じよの〜。
これは メッセージ 28807 (ヨーコ さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28826.html
◆真実の証言 中国軍による虐殺
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/22 21:25 投稿番号: [28825 / 29399]
実は日本軍が南京に入る前から市内には多数の死体が存在していた。十一月二十九日の様子を、ドイツのリリー・アベック記者はこう記している。
「もはやどこに行っても、規律の解体と無秩序が支配していた。南京駅に二千人の負傷者を乗せた汽車が到着したが、誰も見向きもしなかった。看護兵も付き添っていなかった。負傷兵たちは二日間も放置された後、その二日間に死んだ者と一緒に降ろされ、駅のホームに並べられた。死骸が空気を汚染し、悪臭を放った」
十二月七日、中国軍は南京周辺を徹底的に焼き払い、焼け出された市民が難民となって城内に流入、商品流通が麻痺し食料難が加速、一部では暴動が起こった。中国軍は治安維持のため少しでも怪しいものは手当たり次第に銃殺した。
十日頃には完全な無政府状能心に陥り、統制を失った中国兵たちによる掠奪が横行した。在南京アメリカ大使館のエスピー副領事は、陥落直前の南京の様子を漢口のアメリカ大使館にこう報告している。
「日本軍入城前の最後の数日間には、疑いもなく彼ら自身の手によって市民と財産に村する侵犯が行われたのであった。気も狂わんばかりになった中国兵が軍服を脱ぎ棄て市民の着物に着替えようとした際には、事件をたくさん起こし、市民の服欲しさに、殺人まで行った」
南京にはたくさんの死体があった。それも平服の死体があった。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28825.html
◆〈反対尋問〉に耐えられない証言ばかり
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/22 21:21 投稿番号: [28824 / 29399]
中国政府は、中国国民党が戦後、多大の苦労をしてようやく集めた十一件
の証言によって「十九万人が集団殺戮された」と主張している。
しかし、その計算の仕方は杜撰極まりない。どこそこでAという中国人
が、日本軍が何万もの中国人を集団殺害しているのを目撃したというよう
な《十一件》の証言の犠牲者数を単純に合計して十九万人という数字を主
張しているに過ぎないのである。
しかも、この十九万に関して『資料選輯』は「集団殺戮に会い、死体を焼
かれて痕跡をとどめなかった者は十九万以上に達」したと主張し、死体なき
殺人事件だと言い張るのである。
数名ならともかく、十九万人もの死体が跡形もなく消えたと言われて、誰が
信じることができるだろうか。
実はこれら十一件の証言は、事件から八年も経った後に集められたもので
あり、反対尋問も受けていない。その内容も合理性を著しく欠く。
何故なら、これらの証言を信じれば、陥落直後の十二月十四日から十八日ま
でのたった五日間に、一日平均三万八千人もの中国人が、約千六百人の日本
軍歩兵第七連帯第一、第二大隊(その多くは治安維持や警備を担当していた)
の手によって安全区及びその付近において殺害され、十九万もの死体はすべ
て石油などで焼かれて痕跡をとどめなかったことになるからである。
大量殺害施設として名高いナチスのアウシュヴィッツでさえ、殺害数は一
日平均約七百十人であった。一日平均三万八千人も殺害するためには、アウ
シュヴィッツ並の施設が五十三箇所も必要となる。もちろんそんな施設はな
かった。
では十一件の証言はどのようなものか。〈起訴状〉にその内の一件、「魯
甦」の証言に基づいて次のように書かれている。
日本軍は十二月十八日、南京城北の草鞋狭で捕虜と老若男女の避難民を含
めた五万七千余人を一ヵ所に集めて、まず機関銃で掃射し、さらに生きてい
る人を銃剣で刺殺し、その上にガソリンをまいて焼いた。おなじような大規
模な虐殺は南京陥落後の一週間のうち数件おこなわれた。
東京裁判にも証言を提出した「魯甦」によると、日本軍は、近郊の村に包
囲・拘禁していた五万七千四百十八名もの難民と兵士を十二月十六日夜、ワ
イヤーロープで二人ずつ括り、四列に並べて下関・草鞋峡まで追い立て、機
関銃で掃射しつくした後、さらに銃剣でやたらめったら突き刺し、最後に石
油をかけ、火をつけて焼き、残った人骨をことごとく揚子江の中に投げ入れ
た。この一部始終を、南京城内の「市街戦」に際して「砲弾」を受け「腿」
に負傷し上元門大芽洞に避難した証言者が「目の前で」目撃したという。
この〈証人〉が法廷に出廷していたならば当然、次のような〈反対尋問〉
を受けただろう。
一、証人は闇夜の中でいったいどうやって五万七千四百十八名もの犠牲者
を一桁まで正確に数えることができたのか。
二、日本兵が要所を固めている城内から城外の下関までの道を、証人はど
のようにして通って、殺害現場を目撃できる場所に行けたのか。
三、六万人近い中国人をワイヤーロープで縛り上げるのに日本兵は何人く
らいおり、どれくらいの時間を要したか。中国人はおとなしく縛られたの
か。
四、六万人もの中国人を殺害現場まで押送するのに、警護の日本兵は何人いたのか。
五、六万体もの死体が骨になるまでにどのくらいの時間がかかったのか。
また六万体もの人骨を揚子江に流すために、どのくらいの日本兵がどのくら
いの時間をかけたのか。
更に、数時間にわたる機銃掃射の音が夜間に下関で鳴り響けば、安全区に
いた安全区委員会のメンバーなど誰かが気づいたはずだが、他に傍証は存在
するのか。
この疑問に、本〈証人〉を採用した告発側は、答えねばならない(安全区委員
会の記録には、この時期に日本軍によって殺された中国人の数は十四人と記
録されている)。
こうした〈反対尋問〉を想定すれば、この証言に証拠としての立証能力を
認めるのはほとんど不可能だ。中国側が懸命に集めて、ようやく採用した証
言でさえ、かくもいい加減なのである。ほかも推して知るべしであろう。
「十九万人殺害」の根拠たる中国側証言に〈証明力〉はもとより〈証拠能
力〉すらない。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28824.html
◆集まらなかった中国側証言
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/22 21:14 投稿番号: [28823 / 29399]
東京裁判に提出された「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告」によ
れば、第二次大戦後、日本の「戦争犯罪」を裁くため連合国が開廷し
た「東京裁判」に備え、中国国民政府は一九四五年十一月七日「南京敵
人罪行調査委員会」を設置し、中国人に南京における日本軍の犯罪を
申告するよう呼びかけた。
ところが、日本軍の残虐行為を申告する
者が「甚だ少なき」ばかりか、聞き取り調査を行うと唖然として「口
を噤みて語らざる者」や虐殺を「否認する者」までいたという。やむ
なく中国政府は暫定的な報告を一九四六年一月二十日、東京裁判に提
出したが、「日本軍による大量虐殺」の証拠は埋葬記録を除けば、魯甦
という人物の「目撃証言」ただ一件であった。
その後も調査を進め、ようやく「五百件の調査事実」を発掘したが、
「資料を獲得する毎々一々これを審査」した結果、新規に採用できたの
は僅か四件であった。ともかく「魯甦」証言と、慈善団体である「崇善堂」
と「紅卍字会」の二つの埋葬表と新規四件の証拠、計七件の証拠に基づい
て「被殺害者確数三十四万人」という結論を出し、一九四六年二月に東京
裁判所へ提出した(速記録第五十八号)。しかし《七件》の犠牲者数を
単純に積算しても《二十二万八千人》にしかならず、結論の《三十四万》
と大きく食い違っている。
その食い違いを東京裁判の国際検察局から指摘されたのだろう。
『資料選輯』によれば、中国国民政府は「極東法廷証拠法の要求するとこ
ろに合致させるため」、東京裁判開廷から二ヶ月後の一九四六年七月一日
から十一月十一日まで約五ヵ月間にわたって再調査を実施した。
その結果、「確かな証拠にもとづいて出廷し証言した者は二千七百八十四
件分、その中でも被害状況が重い被害者で出廷し証言し得た者は十一
件分」あったという(この内、三件は東京裁判に提出済み)。ともかく二つ
の埋葬表と、この十一の証言とによって、ようやく犠牲者数は三十四万と
なった。
以上のような経緯から、次の二つの真相が浮かび上がってくる。
一、八年前のこととはいえ、南京には当時、二十万人以上の中国人が住んでいた。
にもかかわらず、当時の中国人は、敗戦国となった日本軍の犯罪を告発する
のに消極的であったり否定的であり、かつ信憑性のある証言をする者もほと
んどいなかった。
二、東京裁判に提出した証拠だけでは「犠牲者三十四万人」を立証できな
かったため、東京裁判中も中国側は証言集めに奔走した。言い換えれば、
中国側は証拠も揃わない内から予め犠牲者を「三十四万」以上と決めてい
たとの疑念を生じるのを禁じ得ない。
「大漢和辞典」によれば、中国では「白髪三千丈」などというように、
「三千」には「大変多い」という意味がある。南京ではその百倍もの犠牲
者が出たとする中国側の一方的な発想によって、あくまで政治的に決定し
た数字だったのではないか。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28823.html
◆世界一厳正だった日本軍の軍紀
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/22 20:58 投稿番号: [28822 / 29399]
日本軍の軍紀に就いては、北清事変(義和団事件)当時にも欧米列強から賞賛され、各国軍隊の模範とされたことがあるが、かつて我々が中国戦線を征ったとき、その先々で中国民衆から熱烈歓迎を受けたのも、それは故なきことではない。
そんなことを知ってか知らずか、いわゆる戦後の進歩的文化人と称する売国奴どもは、日本軍の残虐行為なるものを捏造して、繰り返し繰り返し己の母国を罵倒しつづけているが、外国人(台湾)の評論家黄文雄氏は、次のように正鵠を射た卓見を述べている。
黄文雄氏の言によれば、事実は全く正反対で、日本軍はいつでもどこでも軍律厳しく、しかも人間性豊かであった。それに対して中国軍は残忍極まりない武装集団で、今なお彼らは自国民に対する飽くなき収奪と虐殺を繰り返している。それは中国四千年の動乱の歴史の連続であり、伝統ともいうべき不幸な現実である。
日本軍は日清戦争(1904〜1905)以来大東亜戦争(1941〜1945)に至るまで、変わることなく軍紀厳正であった。中国民衆にとって、いつ襲って来るかわからない自国の暴徒の如き武装集団に比べ、軍紀厳正な日本軍を信じ熱烈歓迎するのは当然のことで、決して日本軍に阿(おも)ねたり恐れてのことではなかったのである。
フランスの国際法学者フォーシーユは、日本軍を賛えて次のように語っている。「日中戦争で日本軍は、敵が国際法を無視したにも拘らず自らはこれを守り、日本軍人であることに誇りを持っていた。中国兵は卑怯にして残虐極まりない軍隊で、例えば中国軍の捕虜になると、四肢を斬り分けられ、生きながらに火炙(あぶ)りにされたり、磔(はりつけ)にされたりしたのである。更に日本兵の屍に対しても、酸鼻を極めた蛮行を行っている。即ち死者の首を切り落とし面皮を剥ぎとり、或は男根を切り落し、胸部を切り開いて石を詰め込み、首は両耳を穿って紐や針金を通し、さながら魚を串刺しにしたように口から喉に紐を通して持ち運びする等々、それが中国軍の戦争様式であり、日本軍には絶対に見ることのできない支那の戦争文化である」と。
フランスのフィガロ紙の従軍記者カレスコート・イリュスト、ラシオン紙の記者ラロ、両氏の『日本軍戦闘観戦記』によれば、
「日本軍隊は世界に対して誇るに足る名誉を有する。吾らは日本軍の如き慈愛心の富める軍隊を、この地球上広大なりといえども他に発見し得るか怪しむものなり」
と絶賛し、中国軍の暴虐蛮行については次のように記している。
「ひるがえって中国軍を見よ。日本兵のひとたび彼らの手に落つるや、あらゆる残虐の刑罰をもってこれを苦しむるなり。その残虐非情なる行為は、正に野蛮人にあらざれば為し得ざるものなり。然るに日本軍は、これあるにもかかわらず、暴に報ゆるに徳をもってす。さすがに東洋の君主国に愧じずというべし。」
北清事変(義和団事件)において、当時従軍した日本軍の軍紀が欧米列強の評判となり、賞賛されたことは冒頭に述べたが、その事実の証として次のような事があった。
天津落城の際天津市民は、「大日本順民」と書いて日章旗を掲げて日本軍に感謝の意を表明した。
また北京落城後、列強連合軍は北京市内を国別に分割管理したのであるが、その時ロシア軍管区では、軍紀が乱れてロシア兵が暴徒と化し、虐殺、放火、強姦など暴行の限りを尽し、そのため市民は難を逃れて日本軍管区へ洪水の如くに押し寄せた。たまりかねた北京市長は、その暴状を英国公使マクドナルドに訴え、ロシア管区を日本管区に替えるよう嘆願したという。
これらの事実は、ウッドハウス・映子の『北京燃ゆ』やジョージ・リンチの『文明の戦争』等に記述されている。およそ戦争の形態とか様式などというものは、その国々の文化様式でもある。武士道社会の伝統を受け継いだ日本軍は、近代戦の戦場に於ても武士道精神を発揮し、軍律厳しく整然と戦ったのである。
そして日本政府は、在日中国人に対しては戦時中と雖も国際法を守り、彼らの生命財産を守ったのであるが、在中国の日本人居留民は、日中間に紛争が起こるたびに虐殺、掠奪、暴行を受けつづけたことは、日清戦争以来枚挙にいとまがない事実である。
さて、これらの事例は、外国人の見聞記であるところに大きな意味と価値がある。日本人の自画自賛では決してないのである。日清戦争から大東亜戦争に至る聖なる戦いを、日本人でありながら臆面もなく、総て侵略戦争なりと言い切る「似て非なる日本人」よ、もって如何となすや。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28822.html
Re: 南京虐殺は無かった3
投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/22 20:33 投稿番号: [28820 / 29399]
>当時日本軍には食糧が無かったというお馬鹿さんが居る様だね。
以下に示す様に、給與都は食事のことだから、携行しているものを使用すると言うことは、日本軍は携行口糧を持っていたんだよ。
携行口糧はあくまで非常食であって、それだけじゃ長期戦は乗り切れん。
上海事変から南京攻撃まで3、4か月かかっている。
地元の農家からの生鮮食料品の略奪にしろ買い入れにしろ、それが無い限り、南京まで到達するのは無理だ。
日本軍は兵站を軽視しすぎた。
これは メッセージ 28806 (nya**otyan*dam*n さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28820.html
Re: ■南京市民と日本軍とのふれあい
投稿者: nidanidao 投稿日時: 2012/12/22 20:26 投稿番号: [28819 / 29399]
>日本軍舎の前では、シナ人の子どもたちが爆竹を鳴らして、歓声をあげていた。
以上が、南京で起った事実です。
ありえん!
それも日本軍舎の前で。
そこまで日本軍を甘く見てもらっては困る。
事実とすればその子供は往復ビンタどころじゃすまんぞ。
だいたい避難民所持品検査で、爆竹などの危険物が見逃されるはずはない。
これは メッセージ 28747 (z_gusinlp さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28819.html
Re: 海軍関係者の記述(3)
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/22 18:10 投稿番号: [28818 / 29399]
航空隊は南京城内に来たのは、何時のことかを知らん様だね、その航空隊将校とは。
航空兵団戦闘要報漢第一号
昭和十三年八月二十日
兵団作戦指導
1.南京飛行場設定に要する輸送力不足を補う為南京に於いて航空兵団第一臨時自動車隊を編成す其の編成及び機器の大要左の如し
左記
長
将校一
以下一二四名
自動車五〇輛
↑証言者の裏付けをチャンと取る必要があるよね。
これは メッセージ 28815 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28818.html
Re: 海軍関係者の記述(2)
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/22 17:45 投稿番号: [28817 / 29399]
海軍か俘虜にした中国兵はどうなったんだろうね、記録に在るが。
これは メッセージ 28814 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28817.html
Re: 海軍関係者の記述(1)
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/22 17:44 投稿番号: [28816 / 29399]
海軍の証言は信憑性が無いよね依り以上に、何故なら当時の乗船艦を特定していないからね。
船名が解れば、当時何をしていたのかは、記録に残っているから、陸軍以上の解りやすい。
これは メッセージ 28813 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28816.html
海軍関係者の記述(3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/22 16:51 投稿番号: [28815 / 29399]
念のため付記するが、奥宮正武氏は
反日サヨクとやら
ではない。
戦時中は航空隊参謀として活躍し、戦後は航空自衛隊学校長などを
務めた根っからの軍人だが、その専門家が
自ら目撃した事実により
民間人を含む無抵抗の中国人を対象として
虐殺が行われていたこと、
それが、組織的に
整然と実行されていたことを
証明している。
彼は、次のように
所見を述べている。
二日間のことから察して、それが戦場にありがちな一時的な、
興盲状態での対敵行動であるとは
私には思われなかった。
この日もまた、一連の処刑が、ある種の統制のとれた行動で
あるように感じた。
戦争中であっても、また、たとえ
敵国の人民だからといって、
何をしても許される
ということには、ならない。
海軍将校であった奥宮氏も、そのことを
十分理解していた。
その観点から、南京での事実を
次のように
結論づけている。
私は、この二目間に
下関で見た
合計約二十台分の、
言いかえれぱ、少なくとも
合計五百人以上の中国人の
処刑だけでも、大虐殺であった、と信じている。
もっとも、どれだけの被害者があれば
大虐殺であるかに
ついては、人それぞれに見解の相違があるかも知れないが。
それらに加えて、玄武湖の湖上や湖岸で見た大量の死体の
こととも考え合わせて、正確な数字は
分からなかったが、
莫大な数の
中国人の犠牲者があったのではないか、と
考えざるを
えなかった。
そうだとすれば、それは、明らかに、国際法上の大間題
ではないか
と思われた。
が、当時の私には、そのことを突っ込んで検討する時間的な
余裕がなかった。
(奥山正武著
『私の見た南京事件』
より引用)
容疑者の自白、そして
被害者や
目撃者による
証言は、
犯罪捜査でも
裁判でも、犯行事実を証明する直接証拠となる。
南京虐殺事件に関しても、同様のことが
言える。
否定論は、いずれも
「なかったはずだ」
「信じられない」
「あったとは思えない」
という主観論、憶測に
過ぎない。
これに対して、その時・その現場に居た者の証言は
客観的で、
具体的な供述であり、「直接証拠」
としての価値を有している。
これは メッセージ 28814 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28815.html
海軍関係者の記述(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/22 16:50 投稿番号: [28814 / 29399]
日本軍兵士のよる虐殺は、一部の不届き者が
衝動に駆られて
偶発的に引き起こしたものではないことが、多くの
目撃談や
記録資料によって
明白となっている。
元海軍将校
奥宮正武氏の証言の続きを
引用してみよう。
そこで、私は、付近にいた一人の若い陸軍士官に、尋ねた。
「なぜこのようなことをするのか」
答えて日く、
「数日前の夜、一人の勇敢な中国人が、わが
陸軍の小隊長級の若い士官十名か十一名かは分かりませんが
寝ている寝室に侵入して、全員を刺殺したそうです。そこで、
彼らの戦友や部下たちが、報復のために、その宿舎の付近の
住民を処刑しているとのことです」
彼の説明が正しかったか否かは
私には分からなかった。
そう説明するように教えられていたのか知れなかった。
奥宮氏に対する陸軍士官の説明が、もしも
正しかったとしたら、
宿舎付近の住民を
つかまえて、「処刑」
したということであり
復讐心に駆られた日本兵による非戦闘員の惨殺だったことになる。
さらに、証言は
次のように
続いている。
十二月二十七日。この日は市内の西部を重点的に見回る予定
であった。
が、前々日の光景が
あまりにも鮮明に記憶に
残っていたので念のために、まず再び下関に行くことにした。
下関の処刑場に近づくと、この日もまた、城内の方から、
中国人を乗せた
無蓋のトラックが、続々とやってきて、
倉庫地帯に消えていた。
再び、警戒中の哨兵にことわって、
門を入ったところ、前々日と同じような処刑が行なわれていた。
そこで、ある種の疑間が
生じた。
それは、
「多数の中国人を
大した混乱もなく、どうして、
ここまで連れてくることができるか」
ということであった。
そこで、処刑場の入口付近にいた一人の下士官に、その理由を
尋ねた。
ところが、彼は、何のためらいもなく、
「城内で、
戦場の跡片付けをさせている中国人に、“腹のすいた者は手を
上げよ”
と言って、手を上げた者を食事の場所に連れていく
かのようにして、トラックに乗せている
とのことです」
と説明してくれた。
そこで、更に、「日本刀や銃剣で処刑しているのはなぜか」
と質間したところ、
「上官から、弾薬を
節約するために、そうするように
命じられているからです」
との答が
返ってきた。
このような処刑が、南京占領から
二週間近くを経た後の
二十五日と二十七日に
手際よく行なわれていた。
戦闘中の殺害ではなく、また
敵対する便衣兵の掃討でもなく、
あきらかに
捕虜となった敗残兵を、組織的に
処刑していた
という事実が
示されている。
その異常な光景が、「あまりにも鮮明」
な記憶となったのだ。
これは メッセージ 28813 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28814.html
海軍関係者の記述(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/22 16:49 投稿番号: [28813 / 29399]
当時の中国の首都、南京を武力占領したのは
陸軍であるため、
大虐殺があった事実を示す多くの証言や記録は、おもに陸軍の
関係者によるものだが、ここで
海軍関係者の証言についても
参考として
あげておきたい。
南京周辺で撃墜された海軍機の
乗務員の遺体を捜索するため、
占領直後の南京に入った
海軍将校が、そこで目撃した虐殺の
状況に関し、客観的な視点から
冷静に記述している。
以下、奥宮正武著
『私の見た南京事件』
より引用。
下関は、南京と揚子江の対岸にある浦ロとともに、交通の
要衝であった。
浦ロは、私が上海着任直後に、最初に、
爆撃したところでもあった。
下関には
かなり大規模な
停車場と開源碼頭(波止場)があった。
そこで、その付近を見回っているうちに、陸軍部隊が
多数の中国人を
文字通り虐殺している現場を見た。(略)
構内の広場に入って見ると両手を後ろ手に縛られた中国人
十数名が、江岸の縁にそって数メートル毎に引き出されて、
軍刀や銃剣で惨殺されたのち、揚子江に投棄されていた。
岸辺に近いところは、かなり深く目に見えるほどの速さの
流れがあったので、ほとんどの死体は下流の方向に流れ去って
いた。
が、一部の死にきれない者が
もがいているうちに、
江岸から少し離れたところにある浅瀬に流れついていたので
付近は血の川となっていた。
そして、死にきれないものは銃撃によって止めが刺されていた。
この一連の処刑は、流れ作業のように、極めて手順よく
行なわれていた。
大声で指示する人々もいなかった。
そのことから見て、明らかに陸軍の上級者の指示によるもの
であると推察せざるをえなかった。
したがって、部外者である私が
ロを出す余地はないと感じた
次第であった。
----
-
証言者である
奥宮正武氏は、高知県出身の
海軍軍人で、
戦後は
航空自衛隊に勤務し、空将で退官した人物だ。
南京事件当時の階級は海軍大尉で、航空隊分隊長を務めていた。
海軍兵学校出身で、歴戦を経験してきた
軍事の専門家であり
その視点は、冷静かつ的確に
現場の状況を
把握している。
彼が目撃した
虐殺の様子からは、戦闘の混乱の中で中国兵を
殺害したのではなく、抵抗できない
中国人たちを
組織的に、
「流れ作業のように、極めて手順よく」
処刑していたことが
分かる。
また、彼は
その状況からみて、上部からの指示によるものと
軍人としての視点から推察できた
という事実も記している。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28813.html
◆人類史上最悪の捏造 「南京大虐殺」
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/22 16:27 投稿番号: [28812 / 29399]
当時の中国軍には、「占領されるくらいなら何もかも破壊してしまえ」との考えがあったそうで、南京以外にも日本軍が攻め込む前に村ごと焼き払って敗走した事が何度もあったそうです。
南京市民から略奪した後は、国民党軍の殆どが敗走し、一部が奪い取った衣服を身にまとい国際法に抵触する便衣兵となって、日本軍が占領したあとも散発的なゲリラ行為を続けてたそうです。
こうして、便衣兵を処分したのですが、それも武装解除してから市街追放する程度で、当時の「処分」=「処刑」とは違うわけです。
勿論抵抗した便衣兵やそれに疑われた人物がその場で射殺されたこともあるでしょうが、南京での死亡者の殆どがこの類であり、その数は決して多くはなかったのです。(抵抗する捕虜や便衣兵の殺害は戦場においては正当なる行為です)
当時の記録でも日本軍が南京を占領してから数万単位で人口が増加してる事実。
非常に危険だった中国大陸においては、国民党軍が治めてる地域よりも日本軍が治めている南京の方が安全と判断したからこその人口増なんですよね。
追記
日本軍が攻めてくるというのに、これから攻められる南京城に逃げ込む馬鹿がどこにいるというのでしょうか。
安全な山や草の生い茂った野原に逃げ込んで身を隠すに決まっているでしょう。
国民党軍にしても共産軍にしてもゲリラ戦術を取っていたんですから真正面から戦闘を挑んでくる訳がないのです。
南京市の人口20万人の中の中国軍のほとんどが我さきに逃げ出して、南京城はほとんど空っぽだったと考えるのが当然だし、それが歴史の真実だったでしょう。
そして日本軍が撤退した3ヶ月後に、人口が25万人へと5万人も増えたのは周辺の町から南京城へ避難した人たちによって膨らんだからに違いないのです。
何故ならば、安全区以外にいる一般中国市民は、日本のスパイとみなされて共産軍によって虐殺されるかもしれないからです。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28812.html
なぜ「南京大虐殺」はおこったのか3
投稿者: yoko_713412 投稿日時: 2012/12/22 16:07 投稿番号: [28811 / 29399]
「南京大虐殺」についての報道
アメリカでは即報道される……世界的に知られる
日本では……初めてその全容が知らされたのは「極東国際軍事裁判」で(陥落は知らされていたが・・・)
(極東国際軍事裁判提出資料では被虐殺者数は20万人、指揮者だった松井石根大将の責任が問われる)
コピペ
これは メッセージ 28809 (ヨーコ さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28811.html
Re: なぜ「南京大虐殺」はおこったのか2
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/22 15:15 投稿番号: [28810 / 29399]
柳条溝事件は中国共産軍が起こしたもだよ。
当初は中国軍も、日本軍も解らなかったんだよ。
中国共産党がマッチポンプを成功させたんだよ、之まで何遍も遣ってきたからね。
盧溝橋も中国軍は「盧溝橋城外の兵は中国の戦帰軍では無いので日本軍の攻撃には一切中国軍は口を出さない」と現地中国軍司令官は言っているよ。
これは メッセージ 28809 (ヨーコ さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28810.html
なぜ「南京大虐殺」はおこったのか2
投稿者: yoko_713412 投稿日時: 2012/12/22 14:42 投稿番号: [28809 / 29399]
十五年戦争の開始から南京大虐殺までの経経
1931.9.18
柳条湖事件(満州事変)を引き起こし、東北三省を占領する。
(十五年戦争のはじまり)
1932.3
「満州国」成立
1933.3
世界からの非難が集まり、国際連盟を脱退
1937.7.7
盧溝橋事件
8.13
陸海空軍の大部隊で上海に進攻
(ここで、日本軍は3か月で中国を制すると豪語する)
11.12
上海陥落
(中支那方面軍司令官松井石根の指揮下、すみやかに南京に向けて進攻を開始
11.22
日本空軍、南京を爆撃、12月3日までにその数はのべ111回及ぶ
11月下旬
「南京安全区国際委員会」を設立、「難民区」の設置
12.5
3ルートに分かれ、南京進攻開始
12.8
南京に対する包囲網完成
12.10
南京城壁近くの陣地に総攻撃開始
12.13
午前9時、日本軍城内に侵入、虐殺を開始
(日本軍第16師団歩兵第30旅団の歩兵第38連隊が城北に達し、中国郡の退路を遮断)
以後、1938年1月まで虐殺が続けられ、その遭難者は30万人(中国側発表)におよぶ
コピペ
これは メッセージ 28807 (ヨーコ さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28809.html
Re: なぜ「南京大虐殺」はおこったのか
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/22 14:30 投稿番号: [28808 / 29399]
右側支隊命令
十二月十二日午後〇時五十分
於
堯化門北方高地
一.微弱ナル敵ハ尚北方ニ残留シ在リ先遣大隊ハ本日午前十一時三十分十字街方向ニ進出シ該地東側高地ニ在ル敵ヲ攻撃中
師団主力ハ今朝来攻撃ヲ続行中ナルガ如シ
二.支隊ハ今ヨリ玄武湖北方地区ニ向ヒ転進セントス
三.先遣隊ハ前任務ヲ続行スベシ
四.前衛ハ午後一時二十分其ノ歩兵先頭ヲ以テ銀吼山北側ヲ出発シ岡下馬営ヲ経テ十字街ニ向ヒ前進スベシ
五.前衛ハ依然現態勢ニ在リテ支隊ノ転進ヲ掩護スベシ後命ヲ待ッテ夜暗ヲ利用シ支隊本部ニ追及シ得ベキ準備ニ在ルベシ
六.後衛ハ支隊ノ転進ヲ掩護シタル後一切ノ後方機関ヲ掩護シテ支隊本部ニ追及スベシ
但シ一部ヲ以テ残置シ軍直轄ノ砲兵及衛生機関等掩護ニ任ゼシムルヲ要ス又敵状ニ在リテハ其ノ大部ヲ以テ現任地付近ニ於イテ駐止戦後ノ必要ヲ生ズル場合ヲ顧慮スルヲ要ス
七.本隊タル諸隊ハ逐次堯化門付近ニ集合左ノ序列ニ従ヒ前衛ノ後方千米ヲ続行スベシ
八.余ハ本隊ノ先頭ヲ行進ス
支隊長
佐々到一
軍隊区分
先遣大隊長
歩兵第三十三連隊第一大隊(第二中隊欠)
旅団無線一機
前衛
司令官
助川大佐
歩兵第三十八連隊本部
第一大隊(第三中隊欠)
工兵小隊
軽装甲車第八中隊
左側衛
歩兵第三十八連隊第二大隊(第5中隊欠)
本隊
支隊司令部
歩兵第三中隊
歩兵第五中隊
野砲兵大隊(一中隊欠)
迫撃小隊
歩兵第十一中隊
各人各隊ノ武功ニシテ特ニ抜群ナルモノ
(1)各人武功特ニ抜群ナルモノ
第一大隊長
陸軍歩兵中尉
竹内
正
連隊副官
陸軍歩兵少尉
児玉義雄
第一中隊長
陸軍歩兵大尉
奥藤悟一郎
連隊旗手
陸軍歩兵少尉
蛭澤憲一
連隊通信班長代理
陸軍歩兵准尉
西峯義雄
連隊本部要員
陸軍歩兵伍長
久保
實
軍旗歩哨
陸軍歩兵上等兵
上田正夫
同
同
増田善祐
同
同
奥西二三四
同
同
奥田信造
同
同
宮本源三郎
独立軽装甲車第八中隊長
陸軍歩兵大尉
福田林治
(2)各隊武功特ニ抜群ナルモノ
第一大隊
第一中隊
独立軽装甲車第八中隊
↑個人の表彰も在ったんだね。
自棄糞になることはなかったんだよ、君の説は間違い。
旧進撃の為に中国兵が逃げ遅れたんだね、残念だね、君の説は間違い。
中国人を蔑視していたという資料は無いよね、中山陵も破壊していないし、壮士廟も破壊していないしね。
コピペは駄目だよ。特に間違いのコピペはね。
これは メッセージ 28807 (ヨーコ さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28808.html
なぜ「南京大虐殺」はおこったのか
投稿者: yoko_713412 投稿日時: 2012/12/22 13:24 投稿番号: [28807 / 29399]
①
天皇が統帥する日本の軍隊では上官の命令には絶対服従
→兵士一人一人の人間性が無視された(兵士の心がすさんでゆく)
②
上海での3か月あまりにおよぶ苦戦の末、南京進撃を命じられた兵士らがやけくそ状態になっていた
③
急進撃のため、戦闘部隊に兵たん部隊が追いつけず、現地(南京)での徴発、自活が命ぜられた
④
日清戦争からの中国人差別視
(コピペ)
これは メッセージ 1 (yuu*ou*eiwa さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28807.html
南京虐殺は無かった3
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/22 12:35 投稿番号: [28806 / 29399]
当時日本軍には食糧が無かったというお馬鹿さんが居る様だね。
以下に示す様に、給與都は食事のことだから、携行しているものを使用すると言うことは、日本軍は携行口糧を持っていたんだよ。
食糧が無かったなど、中国人の絵空事だよ。
又、軍の統制がとれていなかったという馬鹿も居るようだけど、下記のようにチャンと統制がとれていたんだね。
歩兵第三十八連隊命令
十二月十四日午後九時
於
下関
一.敗走セル敵ハ尚残留シアリ
二.連隊(第二大隊欠)ハ一部ヲ以テ要点ヲ確保シ主力ヲ以テ下関ニ兵力ヲ集結シ村落宿営セントス
三.第一中隊ハ和平門及中央門ノ守備ニ任ズベシ特ニ支那人ヲ一切出入リセシムベカラズ
四.各隊ハ外宿営者ノ指示セル所ニ従ヒ村落露営スベシ
五.露営司令官宮武中佐トス
六.本夜ノ給與ハ携帯セルモノヲ使用スベシ
七.第三大隊ハ連隊砲ノ給與ヲ担任スルモノトス
衛生隊ハ中央門外ニ繃帯所ヲ開設シアリ第三野戦病院ハ城内中央医院ニアル筈
八.余ハ露営地ノ略々中央ニ在リ午後十一時三十分命令受領者ヲ差出スベシ
連隊長
助川大佐
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28806.html
南京虐殺は無かった2
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/22 12:29 投稿番号: [28805 / 29399]
砲艦二見の航泊日誌より抜粋
昭和十二年十二月十二日
0750艦長寄港
0758同上帰艦
0805試運転施行(結果良好)
0830寄港用意(上流え向く)
0831近錨
0831起錨
〃
12節機械適宜
0834解散
0835配置に付く
0853都天廟砲台を砲撃制圧す
0900焦山水道通過
0907鎮江下流3哩附近の左岸に敵兵数名を認め撃退す
0920爪洲付近に現れたる敵兵及び陣地を砲撃銃撃に依り撃壊す
0930爪洲通過
1033先航掃海艇の響導船となる為強速にて進行す
1115北星洲通過
1130旧揚子懸通過
1200三河口通過
1230烏龍山砲台対岸付近の野砲陣地より盛んなる砲撃を受け進出不利と認め各艦大河沙上流に避退仮泊す
1310仮泊用意
1318右投錨
1355寄港用意(6号掃海艇の泊地設置の掩護を行う)
1358近錨
1359起錨
1401解散
1402配置に付く
1407烏龍山対岸野砲陣地を撃破す
1430主隊入泊
1435以前の錨地に仮泊す
1450山風の砲撃に妨害せざる様左岸近く転錨す
1530配置に付く
1604艦内四直哨戒トス
2315熱海出港(閉塞点捜索の為)
昭和十二年十二月十三日
0315勢多入港(閉塞点爆破作業を終え)
1037勢多保津偵察の為上江
1300上流より漂流し来たる敵敗残兵の討伐に努
1350出港用意(南京向け)
1351近錨(12節機械適宜)
1352起錨
〃
解散
〃
配置に付く
1445第十一戦隊将旗を一時江風に移す
1520烏龍山下流閉鎖点通過
1535烏龍山砲台沖通過
1620候家山付近にて敗残兵約20名の逃走するを認め砲撃す
1700南京入港命に依り草鞋洲一帯の敵敗残兵の討伐に行く
1720鵲鴻舵反航上江
1730南京下流十哩附近にて反転上江す
1830草鞋洲対岸ハルク二箇所を攻撃延焼す
1840熱海舵反航
1845敗残兵の掃蕩を終わり錨地に向かう
1900仮泊用意
1925解散
〃
艦内二直哨戒とす
錨地
南京海軍錨地左岸
錨鎖
右3節
水深
25米
低質
泥
昭和十二年十二月十四日
0715第二、第三号掃海艇下流に向け出港
0800出港用意(草鞋峡の残敵掃蕩の為)
0815内火艇を卸す
0830陸戦隊員集合
0835配置に付く
0850陸戦隊出航
0925同上帰艦
0930内火艇を揚ぐ
0935草鞋洲ビーコン附近にて敵敗残兵多数を認め砲撃銃撃撃滅す
1000漂流中の敵兵一名を本館に救助す
1032内火艇を卸す(江岸の小蒸汽臨検の為)
1050内火艇を揚ぐ
1415内火艇を卸す(陸上偵察の為)
1430内火艇を揚ぐ
1550草鞋峡の掃海の為下航す
1640掃海作業開始
1647導索を流す
1649導索結合
1650同上入れ始む
1651同上入れ終わり
1727掃海索岩に懸かり航進困難となりたる為曳索を放つ
1731掃海索を離す
1740掃海を中止し掃海索を揚收に行く
1757宋家索を揚收し設標す
1800掃海作業終了
1853仮泊用意
1858左投錨
1905解散
↑当時南京付近には多くの艦船が航行していたんだね。
江岸で俘虜を銃撃しているのを見たという証言は、海軍側には無い様だね。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28805.html
南京虐殺は無かった
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2012/12/22 10:54 投稿番号: [28804 / 29399]
・南京城内掃討戦時の残敵予想
5〜6千名
・南京城内の市民は略一箇所に集合していた事(安全区)
・城内の残敵の團体号は第三六師の一部、教導総隊と清涼山砲台守備隊の一部
・下関の銃撃戦(昭和十二年十二月十三日)に於ける推定中国兵約5〜6千名
・江岸及び江中に於いて、日本軍が攻撃したのは中国兵五百名
・昭和十二年十二月十日から十二日までの間の中国兵俘虜
将校70名
准士官下士官兵7130名
後部機関に引渡済
・昭和十二年十二月十四日南京城内掃討戦時に、南京城外(堯化門付近午前八時三十分頃、午後一時武装解除)で投降し俘虜となった中国兵
将校
70名
准士官下士官7130名
後部機関に引渡済
・昭和十二年十二月十四日師団と海軍間に電話連絡線設置、軍艦勢多−旅団
軍艦勢多の航泊日誌より抜粋
昭和十二年十二月十日
鎮江碇泊
昭和十二年十二月十一日
鎮江碇泊
昭和十二年十二月十二日
鎮江碇泊
昭和十二年十二月十二日
■子口碇泊
昭和十二年十二月十三日
南京碇泊(南京遡航作戦終了、先頭艇として南京に進出す)
1329打方始め
1410打方止む
1445打方待て
1537打方始め(目標七里洲附近筏上の敗残兵)
1545打方待て
1555■停止
1559津浦線下関碼頭に横付け、同埠頭上の敵約200名と戦闘開始
1615横付けを離す
〃
■前進原速
1625■前進微速
〃
入港用意
1630■停止
1632投錨
左7節
梅子洲下端
1637解散
正午迄の間の周囲を流るる敵敗残兵に対し小銃を以て射撃す
昭和十二年十二月十四日
0928中興碼頭に横付け
1415二見入港
1510二見下江
1625二号掃海艇入港
1630出港用意
1631後部舫索を話す
1632全部舫索を話す
1634■前進原速
1640入港用意
1645輛舷停止
〃
全部舫索を取る(中山碼頭)
1657解散
1735陸戦隊員出発(桟橋付近掃蕩)
1945同上帰艦
上記の状態で海軍に目撃者が居ないことは考えられない。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28804.html
◆南京大虐殺という醜悪なる歴史の捏造④
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/22 01:48 投稿番号: [28803 / 29399]
当時、同盟の特派員であった故前田雄二氏(元日本プレスセンター専務理事)は、内外のニュース社発行の「世界と日本」の中で次のように述べています。
「いわゆる“南京大虐殺”というのは、2〜30万という数は別としても、主として住民婦女子を虐殺したというものだとされている。
ところが殺されなければならない住民婦女子は、当時全部“難民区”内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。
そして私の所属していた同盟通信社の旧支局はこの中にあり、入城4日目には、私たち全員はこの支局に居を移し、ここに寝泊まりして、取材活動をしていた。
すなわち難民区内が私たちの生活圏で、すでに商店が店を開き、日常生活を回復していた。
住民居住区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。
こういう中で、万はおろか、千あるいは百をもって数えるほどの虐殺が行われるなど、あり得るはずはなかった。
すなわち“捕虜・便衣兵の処刑・殺害”はあったがそれは戦闘行為の枠内で論ぜられるべきものであって、非戦闘員の大量虐殺などはなかった。
それがさ も事実あったかのように伝えられ、教科書にまで記載されるということは、見過ごしていいことではない。」
当時、反日的な報道をしていた米紙「タイム」でさえ、「日本軍は“安全区”をちょっぴり可愛がった」と、評しています。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28803.html
◆南京大虐殺という醜悪なる歴史の捏造③
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/22 01:47 投稿番号: [28802 / 29399]
当時の国民党や八路軍の連中がどれだけ酷いことをしてきたか。
ニューヨーク・タイムズのダーディン記者が、当時の様子を「支那軍による焼き払いの狂宴」と題して次のようにレポートしています。
「昭和12(1937)年12月7日、日本軍が句容を越えて進撃し始めたことが支那軍による焼き払いの狂宴の合図となった。
南京に向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。
村ぐるみ焼き払われたのである。
農業研究書、警察学校その他多数の施設が灰塵に帰した。
火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられた。
支那軍による焼き払いの損害は優に3000万ドルにも及ぶ。
これは日本軍の何ヶ月にもわたって行われた空襲による損害よりも大きい。」
そしてこの12月7日に、蒋介石や馬超俊市長は、自分たちだけさっさと飛行機で逃亡しているのです。
つまり、蒋介石や馬超俊市長は、それまで南京を国民党の本拠地としていながら、日本軍が近づいたと知るや否や、20万の市民と約5万の敗残兵を置き去りにして、そくさくと逃亡している。
あまりにも無責任です。
一方、南京攻略をした松井軍司令官は、攻城戦に際して、南京市内の安全区に対する砲爆撃を厳禁し、占領翌日の14日には、安全区の出入り口全てに歩哨を立てて許可のない者の入区を禁止して庇護してもいます。
実際、14日に安全区の視察のため入区しようと思ったが、歩哨に峻拒(しゅんきょ)されて果たせなかったという東京裁判の供述もある。それほど厳しく安全区内への出入りを管理していたのです。
金陵大学病院医師マッカラム氏は、東京裁判に提出した日記の中で次のように述べている。
「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。
若干のたいへん愉快な日本兵がいました。
私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」
日本人を憎悪していたマギー牧師でさえ
「安全区は難民の“天国”だったかも知れない」とさえ述べている。
安全区国際委員会の書記長スマイス博士(米)も、その調査報告書の中で「住民のほとんどはここに集まっていた。難民区内は一件の火災もなく平穏であった」と述べている。
それほどまでに日本軍は、市街地の統制をきちんと取り計らっていたのです。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28802.html
◆南京大虐殺という醜悪なる歴史の捏造②
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/22 01:47 投稿番号: [28801 / 29399]
南京に従軍した村田和志郎氏(第18師団歩124歩兵伍長)の日記に、こんな記載があります。
<引用>
------------------------
-
湖州は浙江省の首都、呉興県政府の所在地。
城壁をはいると家屋は焼けて一面の焼け野原となり、殆ど瓦礫の巷と化していた。
とくに商店街は影も形もなく、処々に多数の支那兵の死骸が生々しい姿で倒れ転がっていた。誠に見るも無残な有様であった。
街には人影がみられない。
それでもどこからか若い女が三人でてきた。
我々の姿を見ると、彼女らは我々をぽつんと残った唯一の焼け残りの小屋へ招きいれ、いち早くズボンを脱ぐと、進んで下半身を丸出しにした。
助けてくれと一心にわれわれを拝んだ。
我々は三名で巡察の途中で思いかけぬ出来事に遭遇してしまった。
一人は娘、残る二人は人妻らしい体つきだった。
自分達は彼女らをそっとして置いてやった。
それでも恐怖に怯え、彼女ら三人はおののいて、脱いだ紺色のズボンを容易に身につけようとしなかった。
体を提供しても生命さえ助けてもらえれば、これに越したことはないと観念していたかに見えた。
また、ある民家では中年の女性が寝てうめいており、下半身を露出して指さして示し、何かわからぬ言葉を喋っていた。
支那兵は逃亡の際、この女性に迫り、拒絶されると腹を立て、銃剣を一突きにそこに突き刺したに違いなかった。
夥しい出血で苦しんで訴えている。
すぐに治安維持会(既に結成されていた中国人の自治組織)に連絡して看護員を連れてきた。さて助かったかどうか。
このようにして略奪と暴行のあとを見せつけられた。
--------------------------------
当時の支那には、政府がありません。
清が滅びて、地方軍閥による内乱状態にあった。
内乱状態の中で、被害を受けるのは、決まって武器を持たない一般市民です。
そして武器を持った支那の軍閥の代表格が国民党だった。
彼らは、支那の都市を襲い、市民に対して好き放題の乱暴狼藉を働いていた。
日本は行きがかり上、やむなく、彼らを追い払っていたのです。そしてそのひとつが、南京だった。
南京市は、乱暴狼藉軍団である国民党が、勝手に乱入して本拠地にしていたから、日本は叩いたのです。
そして市民の生活に平安を取り戻した。
なかには、市民にまぎれて、日本軍に悪さをしかける国民党のスパイや、共産党のスパイがいた。
こうした連中は、市民の協力を得て、日本軍は逮捕し、国際法上適法な範囲で軍紀に照らして処罰した。そういう連中は治安維持のために殺害した。これは当然のことです。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28801.html
◆南京大虐殺という醜悪なる歴史の捏造①
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/22 01:46 投稿番号: [28800 / 29399]
だいたい、戦いの最中にドンパチやりながら、「使用弾薬何発。残り弾薬数何発」と、何度も伝令を出して司令部に報告を入れなければならないのが日本の軍隊です。
それだけ日本軍は物資に乏しかった。
そのあたり、使っている武器にも、その性格がよく出ています。
日本軍の主力銃は、三八指揮歩兵銃です。
この銃は、いわゆる元込め式の単発銃です。
弾を一発一発込めて、装填してから撃つ。
いわゆる「乱射」や「集団虐殺」のようなこと自体、なじまないのです。
ハナからそういうことを想定した銃ではない。
だいたい単発銃で、30万人をいったいどうやって殺すのか。
30万人に、1発ずつ銃弾を撃ち込んで殺すとしても、それには30万発の弾薬がいります。
そんな弾薬、日本軍は持っていません。
機関銃で殺したに違いない?!
バカなことを!
当時の日本軍の機関銃は、米国製の1秒間に何発という高性能機関銃ではない。
パン・・・パン・・・パン・・・と断続的に撃つのが精いっぱい。1分間に打てる弾はおおむね40発。しかも5分も撃ったら過熱して、砲身を冷やさないと、焼き付いた。
お暇な方は計算してみてください。それで30万人殺すには、いったい何日かかるのか。
かつてそのことを指摘した人がいます。
そしたら支那いわく「日本兵は日本刀で、何万人も斬り殺した」
バカをいっちゃぁいけません。日本刀はたしかに切れ味鋭いけれど、3人も斬ったら、脂にまみれて斬れなくなる。人間の体というのは、脂にまみれて斬れなくなった刀でも通せるほどヤワじゃないです。
加えて、当時のシナ人の便服というのは、めちゃめちゃ生地が厚い。銃剣で突き刺そうとしても、素人では刃が立たなかったというのも、有名な話です。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28800.html
埋葬記録と犠牲者数推計(3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/21 23:29 投稿番号: [28799 / 29399]
日本軍側の
資料には、数千
あるいは数万の単位で
捕虜を
処断した
と記録されている。
はたして、これほど
大量の
殺戮が可能だったのかと
一般民間人なら
疑問に思うだろう。
南京虐殺「マボロシ派」
などは、ハナから
否定してみせる。
ところが
近代戦において、それは
じつに容易なことだ。
例えば、1万人を殺害するのに、機関銃10丁あれば
1時間、
1個歩兵中隊200名の兵力があれば、30分で
射殺できる。
その歩兵中隊を、1個連隊では
12個隊
保有していた。
もちろん、南京に攻め込んだのは
1個連隊だけ
ではない。
しかも、捕虜の殺戮は
数時間程度で
行われたわけではない。
南京攻撃に動員された日本軍の総兵力は
10万を超えていた。
そして、大量虐殺は
南京城陥落直後の
数日間ではなく、
長期にわたる
攻防戦と占領後の掃蕩作戦の中で
発生した。
しかも、一部の無法者の犯行ではなく、組織的に
実行した。
近代軍の大兵力が、小銃や
機関銃による掃射
のみならず
銃剣による刺殺などを
数日間にわたり組織的に実行すれば、
抵抗できない捕虜の
大量殺戮は、いたって
容易だった。
参考として
南京戦にあたった将校の陣中日記を見てみよう。
以下は、歩兵第65連隊
第1大隊本部・上等兵の日記だ。
十二月十六日
今日南京城に物資徴発に行く。
捕虜の廠舎失火す、二千五百名殺す。
十二月十七日
今日は南京入城なり(一部分)。
俺等は今日も捕虜の始末だ。
一万五千名、今日は山で。
大隊で負傷、戦死有り。
(参考資料:『南京戦史資料集2』南京戦史編集委員会編)
1個大隊だけ、しかも
2日間だけで、1万7500名もの
捕虜を殺害した
という記録だ。
日本軍全体で、何日間もかけた
「捕虜処断」
の総数は、
はたして
どれほどだったのか、想像を絶する。
当時、南京に駐在していた
ドイツ外交官の
外交文書が
残されており、そこには
本国とのやりとりが記されている。
以下に
引用しよう。
(岩田勇治訳『資料・ドイツ外交官の見た南京事件』大月書店)
南京入城のさいの
日本軍の所業については、語らぬに
越したことはない。チンギス=ハーンを思い出さずには
いられないほどの
徹底した破壊ぶりであった。
(中略)
こうして南京に残っていた女という女はまったくひどい
目にあわされた。
これを
目の当たりにした男たちと
このことについて話をするのは容易ではない。残忍非道な
行為にたいする嫌悪感が、かれらの胸によみがえるからだ。
日本国内では、いまだに
この虐殺事件をめぐって
「論争」が
止まない。
しかし、虐殺そのものの否定や
学問を装う
自由主義史観の「学者」もどきの主張も含めて、これらの論は
国際社会という舞台では
歯牙にもかけられない
というのが
実情であり、狭い日本の
ごく一部でしか、通用していない。
これは メッセージ 28798 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28799.html
埋葬記録と犠牲者数推計(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/21 23:27 投稿番号: [28798 / 29399]
前述した
慈善団体などによる
遺体の
収容・埋葬に関して
とくに
多数の埋葬作業にあたった団体としては、「紅卍会」と
「崇善堂」
があり、1937年12月から
38年3月までに
両者併せて
約15万5000体以上を
埋葬している。
東京裁判でも
南京虐殺事件の
最大の証拠とされたのが、
これら
慈善団体などによる
作業報告だった。
南京虐殺マボロシ派は、こうした数字はウソだ
と決め付ける。
なかには、崇善堂は民間の葬儀屋なので、多額の報酬を得るため
数を水増ししているのだ
という根拠のない説を唱える者もいる。
しかし、崇善堂は
日本軍の依頼にもとづき業務にあたっていた。
軍が依頼して
報酬を支払ったのであり、当然
その費用は
公金であるから、最低限の実績確認・検査は
行っている。
仮に
水増しがあったとしても、日本の役人の目を
欺くのには
限度というものがある。
なお、通常
戦場の掃除は自軍兵士や
捕虜が実行する。
軍がわざわざ民間団体に
委嘱したことは、
捕虜を大量に殺害したため労働力不足となったうえ、軍だけでは
処理しきれないほどの遺体が存在していた事実を
示している。
紅卍会と
崇善堂による遺体収容は、南京行政区の中だけであり、
周辺地域や
南京沿いを除く
揚子江などは
含まれていない。
さらに、遺体埋葬を行ったのは
この2つの組織だけではなく、
紅十字会(赤十字)など
複数の機関も
別途実施した。
したがって、南京周辺だけに限っても
約20万以上の
遺体が
存在していたということは、間違いない事実だ。
大量の遺体が遺棄されていたという事実は、日本軍の関係者も
記録している。
たとえば、第16師団の佐々木到一支隊長は
日記に
次のように
記している。
「この日、わが支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は1万数千に
上り
その外、装甲車が江上に撃滅したもの
ならびに各部隊の
俘虜を合算すれば、我が支隊のみにて2万以上の敵は解決されて
いる筈である。(中略)
午後2時ごろ、概して掃蕩を終わって
背後を安全にし、部隊を纏めつつ前進、和平門にいたる。」
「その後俘虜続々投降し来たり数千に達す、激昂せる兵は上官の
制止を肯かばこそ、片はしより
殺戮する。
多数戦友の流血と
十日間の辛酸を顧みれば
兵隊ならずとも『皆やってしまえ』と
言いたくなる。」
「白米は
もはや一粒もなし、城内には
有るだろうが、俘虜に
食わせるものの
持ち合わせなんか
我が軍には無い筈だった。」
(佐々木到一少将私記「南京戦史資料集」南京戦史編集委員会編)
佐々木少将が
大ウソつき
でなければ、支隊のみで2万以上の
敵兵を「解決」したこと、俘虜だと認識しながら
殺戮したこと、
食料が底をつき
俘虜の給養は不可能であった状況
などが判る。
このほかにも
数千あるいは数万の単位で捕虜を処断した事実を
記録している軍関係の資料が多数
残されている。
では、短期間に
これほどの大量殺戮が
可能だったのだろうか。
これは メッセージ 28797 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28798.html
埋葬記録と犠牲者数推計(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/12/21 23:26 投稿番号: [28797 / 29399]
南京城の内外には、夥しい数の
集団埋葬地が
存在している。
南京大学(旧金陵大学)
天文台そばの
金陵大学難民収容所及
遇難同胞記念碑、紫金山を望む
中山陵(孫文陵)近くにある
集団埋葬地なども
その一つ。
また、北極山の
至る所に
埋められた遺体叢葬の記念碑の数は、じつに
二千を超える。
犠牲者の遺体は
次の5つのルートで
埋葬、処理された。
①
国際委員会によるもの
同委員会のメンバーであるベイツは、戦後の東京裁判で証言し、
南京陥落後
72時間以内に、国際委員会が雇った
労働者が
埋葬した軍人・市民の遺体は「3万体に達した」と語っている。
②
慈善団体や宗教団体等によるもの
南京城内外に放置された
遺体の埋葬作業にあたった
団体で、
紅卍会
43,123体、
崇善堂
112,267体、
中国赤十字社
22,683体、合計
約178,000体の
埋葬記録がある。さらに
同善堂という団体が7,000体余
を埋葬したと記録されている。
③
市民の埋葬によるもの
市民の手で
合計36,000体あまりを収容・埋葬している。
湖南の木材商
盛世征、昌開運が出資して行った
水西門外の
遺体収容が28,730体、城南市民の
張瀉儒、楊広才らが
難民を組織して
中華門外の
7,000体あまりを
収容。
また、回教徒の埋葬隊が収容・埋葬した遺体は
約400体。
④
汪兆銘政権によるもの
汪兆銘政権(南京政府)
の市、区の両級機関の
共同組織が
7,400体を収容・埋葬したと記録され、うち第一区役場が
1938年2月に
同区の所轄内で
1,233体を収容。
下関区役場が
37年12月15日から
38年1月までに、
3,240体を収容。
南京市政公署の
監督官高冠吾が
38年12月から
39年の
春にかけて、衛生局に命じて
中山門外の霊谷寺、馬群一帯の3,000体余を
収容した。
⑤
南京進駐日本軍によるもの
日本軍の資料では、部隊を動員して約15万体を焼却・処理。
うち、南京停泊場の司令部の
足立少佐と
大田寿男が率いた
部隊は、10万体を
長江に投げ捨てたり、江北まで運んで
焼却・土中に埋めた
と記録されている。
また、南京侵攻部隊が処理したものは、5万体とされる。
上述した
遺体収容・埋葬処理の記録を
単純に加算すると
40万体にのぼる。
ただし、収容・処理された
遺体には
重複して集計されたものも含まれている可能性がある。
また、捕虜や市民ではなく、交戦中に戦死した中国軍兵士の
遺体も相当数
含まれている
と考えるべきだろう。
なお、日本軍関係者の記録によれば、揚子江に
投げ捨てたり、
城外に搬送して
密かに埋めた遺体も
少なくはない。
収容できなかったものは記録されず、正確な数を把握することは
残念ながら
困難だ。
したがって、公式には
東京裁判が
認定した犠牲者数「30万人以上」
としか
言えないのだ。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28797.html
◆すでに決着済みの「強制連行」という大嘘
投稿者: madabakayatuterunokaomae 投稿日時: 2012/12/21 19:06 投稿番号: [28796 / 29399]
韓国人女性、呉善花氏
従軍慰安婦という言葉は最近になって出てきたものです。慰安婦がいたことは事実ですが、強制的に戦地へ連れて行くことなどは絶対にあり得ません。朝鮮も同じ国内でしたから、法治国家として司法の三審制度もあり、無法地帯ではありませんでした。もちろん、警察権力もしっかりしていました。そういう法治主義システムの網をかいくぐって、婦女子を強制的に連れて行くことなど、当時の朝鮮ではとうていできることではありませんでした。
私は韓国で生まれて二十六歳まで韓国で生活していた間、村の女を軍や総督府の官憲が 強制的に連行したといった話はいっさい耳にしたことがありません。
また、私が『生活者の日本統治時代』で、インタビューした植民地世代の韓国人の誰一人として、 そのような光景を見たことも聞いたこともないといっていますにもかかわらず、最近になってそうした話が出るなんて、まったくおかしなことだというしかありません。日本の左翼活動家が反日民族主義の活動家に入れ知恵して以来、 「そういうことがあったらしい」「そういうことがあったに違いない」「そういうことが事実あった」 というようにエスカレートしていったことは明らかです。こうして「従軍慰安婦」問題は、女子挺身他(女性の徴用者たち)と意図的に混同させられ、 大量の女たちが「従軍慰安婦」させられた、強制連行でそうさせられた、という物語がつくられ、 それがあたかも真実であるかのように韓国国内で信じられるまでになってしまったのです。
「台湾人と日本精神」
蔡焜燦(台湾人)著
より
引き揚げ者の中には、海南島から日本兵と共に引き揚げてきた二十名ほどの台湾人慰安婦の姿もあった。彼女達は我々と同じキャンプに収容されて台湾への帰国を待っていた。彼女らは口々に、「海南島は儲かるし、それよりも兵隊さんが喜んでくれたんです」と語っていた。そうした生の声には、日本で騒がれるような強制連行の(悲劇)などは存在しなかったことを、私のこの耳がしっかり聞いている。(略)1999年、8月号の「正論」に掲載された許文龍氏(実業家であり、李登輝総統の国策顧問)の記事も、まさしくそんな氏の客観的な歴史観と実行力の賜物だったと言っていいだろう。日本でくすぶり続ける慰安婦の「強制連行」なる問題に首を傾げた許氏は、戦時中に慰安婦だった女性を集めてその事実を明らかにしたのである。もちろん結果は、日本の一部のマスコミや学識者がヒステリックに訴えるような「強制連行」なる事実は存在しなかった。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb_1/28796.html
Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ
[検索ページ]
(中東)
(東亜)
(捕鯨 / 捕鯨詳細)