南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行は事実

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南京事件に至るまで〜9 石原と武藤

投稿者: kinngyoya301 投稿日時: 2004/08/07 10:26 投稿番号: [5815 / 29399]
南京事件に至るまで〜9   石原完爾と武藤章

廬溝橋事件をきっかけとして陸軍は作戦計画も動員準備も不足のまま、場当たり的に全面戦争へと突入していった。

陸軍中央内部に「不拡大派」と「拡大派」の対立があり、やがて、「拡大派」が作戦の主導権を握るようになったのである。

不拡大派の中心人物は”石原完爾(参謀本部第1(作戦)部長)少将であり、
拡大派の先鋒は”武藤章(同部作戦課長)大佐である。(A旧戦犯絞首刑)

参謀本部は天皇の統帥権を補佐する陸軍中央統括機関で、陸軍に関する最高作戦指導機関である。

廬溝橋事件が勃発した時の参謀総長は「閑院宮載仁親王元帥」で、事実上の統括責任者は参謀次長の今井清中将は病気欠勤中であり、そのため、第1部長の石原完爾少将が次長を代行する立場であった。第2情報部長渡久雄中将は病気療養中で第3部長塚田攻少将第4部長下村定少将は拡大派であった。

(武藤章大佐は2.26事件を処理した際の辣腕ぶりが石原完爾部長に認められ、統帥部の最重要ポストである第1作戦課長に抜擢されていた。(37年3月)

廬溝橋事件の一報が7月8日に届いた時、石原完爾は「事件不拡大、現地解決」の方針を各部長を説いて同意を取り付けて、病臥中の今井参謀次長にかわって閑院宮参謀総長の決裁を受けて、「参謀本部の不拡大方針を決定」した。

「目下は満州国の建設の完成に専念し、対ソ軍備を完成し、これによって国防の安固を図らねばならぬ時に、もし、支那に手を出して、この計画を支離滅裂にしてはならない。
今や支那は昔の支那ではなく、国民党の革命は成就し、国家は統一競られ、国民の国家意識は覚醒している。日支全面戦争になったならば支那は広大な領土を利用して大持久戦を行い、日本の力では屈服出来ない。

日本は泥沼にはまった形となり、身動き出来なくなるで在ろう。
日本の国力も軍事力も今は貧弱である。日本は当分絶対に戦争を避けて、国力、軍事力の増大を図り、国防、国策の完遂を期する事が必要である。」(軍務局長武藤章回想録)

これに対して、通例ならば上官の決定に従って自分の考えを改めるか、引っ込める立場に在った武藤作戦課長は、そうし態度はとらず、石原第1部長に正面から対抗し、拡大方針を強硬に主張した。

*武藤の拡大論は陸軍中央の中堅層の多数派を代表するものであった。

「支那は統一不可能な分裂弱体国家であり、日本が強い態度を示せば、直ちに屈服する。この際、支那を屈服させて概して北支五省を日本の勢力下に入れ、満州を相まって対ソ戦略体勢を強化することが必要で、廬溝橋事件はそれを実現するため、願ってもない好機の到来を示すものである。
この事件は楽観を許さない、これに対処するには力をもってする外はなく、それには北支に兵力を増派して、状況によっては機を失せず一撃を加える。
これによってのみ、「時局の収拾」が出来るのである。」(軍務局長武藤章回想録)

不拡大派は拡大派に押し切られ、廬溝橋事件の現地停戦協定が成立したにも関わらず、

参謀本部は内地3個師団の華北派遣と支那駐屯軍の武力行使を指示、命令し、「北支事変」は 一挙に華北に拡大してしまったのである。

石原は、その後も北支事変の早期収拾を画策して奔走するも、陸軍内部に拡大派の下克上の風潮が強く参謀本部内をまとめる事が出来なかった。

(石原完爾は関東軍参謀時代中央、上層の統制を無視して謀略による柳条湖事件を引き起こして満州事変を主導し、成功した為、中央要職に栄転した過去がある。功さえ立てればどんな下克上の行為を冒しても、やがては賞され 、抑制しようとした上官は追い払われ、統制不服従者がこれに変わって統制者となる得るものだという軍規紊乱 の気運を醸成したとされる)

武藤章を典型として、独断専行をものともしない下克上の野心をもった中堅幕僚達が、拡大派の主力であった。

南京事件に至るまで〜10に続く(松井石根)
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