なぜ日中戦争が回避できなかったか
投稿者: htfgs719 投稿日時: 2004/08/06 21:58 投稿番号: [5814 / 29399]
kinngyoya301さんの「南京事件に至るまで」シリーズを途中まで読ませていただきました。
記載内容で
「なぜ日中戦争が回避できなかったか」 についてよく分からなかったもので私なりに書き込ませていただきます。
異論もあろうかと思います、ご意見を聞かせてほしいと思います。
まず盧溝橋事件ですが、きっかけとなった最初の一発は中国共産党紅軍の仕業ということが定説になっているようです。
しかし、当初この盧溝橋事件は昭和12年7月11日現地の停戦協定調印で一応の決着しています。
では、なぜこれが拡大したかです。
日本政府は盧溝橋事件の停戦協定調印を待たずに7月11日 午後の閣議で華北出兵が決定してしまいす。
これに対し7月18日 石原少将は、杉山陸相に「・・・この際、思いきって北支にある日本軍全体を一挙に山海関の満支国境まで引き下げる。・・・」という提案をし日本側の妥協による戦争回避の可能性はあったのです。
陸軍が内実は戦争を避けたがっており、文民統制回復のチャンスでした。(不成功でしたが)
一方中国国民党政府の場合は
7月17日蘆山で、蒋介石総統が「・・この事変を片付けるかどうかが最後の関頭の境目である・・徹底的に抗戦するほかない」と演説します。
そして7月19日、宋哲元の妥協的行動を牽制するため、この演説をラジオで公表、7月22日、蒋介石は北京撤退を進める宋哲元のもとに参謀次長を派遣し、国民政府の戦争決意を伝えます。
こうして7月11日の停戦協定調印はたった約2週間で破られることになったのです。
7月25日 郎坊(ろうぼう)にて、日本軍に対し、突如中国兵が小銃、機関銃を乱射してくる事件。
北京の広安門から北京城内に入城する日本軍に対して、中国側から突如襲撃が行われた広安門事件。
7月26日 支那駐屯軍の戦闘許可具申を受けた日本軍参謀本部は戦闘を決意し、武力行使を許可します。
7月28日 支那駐屯軍が北京を占領、同日日本軍は総攻撃を開始し,北平・天津一帯を占領,さらに華北の重要都市を次々に攻略。
7月29日 通州にて非戦闘員である日本人男女子供が虐殺される通州事件。
このようにして石原少将の不戦構想も崩壊しました。
こうした一連の事件はロシア・コミュンテルンに繋がる共産党紅軍主導による日本への戦争誘発行為が深く係わっていたと考えられます。
資料 1
「盧溝橋事件を拡大させたコミンテルン指令と日本人虐殺事件」
http://www.history.gr.jp/showa/228.html
これによるとソ連・コミンテルンは次のような指令を発しています。
1.「あくまで局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かなければならぬ。
2.日本への譲歩に依(よ)って、支那の解放運動を裏切ろうとする(中国人)要人を抹殺(まっさつ)してもよい。
3.下層民衆階級に工作し、・・・・国民政府をして戦争開始のやむなきにたち到らしめなければならぬ。
4.党(中国共産党)は対日ボイコットを全支那的に拡大しなければならぬ。
5.紅軍は国民政府と協力する一方パルチザン的行動にでなけらばならぬ。
<興亜院政務部興亜資料政治篇「盧溝橋事件に対するコミンテルン指令」>
資料 2
「「西安事変」の禁区をこじ開けよ」
http://www6.plala.or.jp/GEKI/geki/1/42seian.html
これによると
昭和11年12月12日、西安で蒋介石が共産党軍に捕らえられたが、スターリンの仲介で助けられました。
しかしその結果第二次国共合作が成立したのです。
というで共産党軍が半年後の盧溝橋に堂々といただけではなく少なくとも国民党軍と対等の立場であったことになる訳です。
こうして日中戦争の起点となる第二次上海事変へと繋がってゆくのですが、
資料1の記載内容に注目していただきたいのですが、
2.日本への譲歩に依(よ)って、支那の解放運動を裏切ろうとする(中国人)要人を抹殺(まっさつ)してもよい。
は同国人を守る姿勢がない内容になっていることです。
この2の内容と二つの中国軍の戦法として知られる「更衣兵作戦」と「清野作戦」(焦土作戦)のうちの「清野作戦」(焦土作戦)に通ずるところがあります。
清野作戦を裏付ける記載は
資料 3
「昭和12(1937)年12月13日の南京陥落時の状況 」
http://www.history.gr.jp/nanking/nanking.html
記載内容で
「なぜ日中戦争が回避できなかったか」 についてよく分からなかったもので私なりに書き込ませていただきます。
異論もあろうかと思います、ご意見を聞かせてほしいと思います。
まず盧溝橋事件ですが、きっかけとなった最初の一発は中国共産党紅軍の仕業ということが定説になっているようです。
しかし、当初この盧溝橋事件は昭和12年7月11日現地の停戦協定調印で一応の決着しています。
では、なぜこれが拡大したかです。
日本政府は盧溝橋事件の停戦協定調印を待たずに7月11日 午後の閣議で華北出兵が決定してしまいす。
これに対し7月18日 石原少将は、杉山陸相に「・・・この際、思いきって北支にある日本軍全体を一挙に山海関の満支国境まで引き下げる。・・・」という提案をし日本側の妥協による戦争回避の可能性はあったのです。
陸軍が内実は戦争を避けたがっており、文民統制回復のチャンスでした。(不成功でしたが)
一方中国国民党政府の場合は
7月17日蘆山で、蒋介石総統が「・・この事変を片付けるかどうかが最後の関頭の境目である・・徹底的に抗戦するほかない」と演説します。
そして7月19日、宋哲元の妥協的行動を牽制するため、この演説をラジオで公表、7月22日、蒋介石は北京撤退を進める宋哲元のもとに参謀次長を派遣し、国民政府の戦争決意を伝えます。
こうして7月11日の停戦協定調印はたった約2週間で破られることになったのです。
7月25日 郎坊(ろうぼう)にて、日本軍に対し、突如中国兵が小銃、機関銃を乱射してくる事件。
北京の広安門から北京城内に入城する日本軍に対して、中国側から突如襲撃が行われた広安門事件。
7月26日 支那駐屯軍の戦闘許可具申を受けた日本軍参謀本部は戦闘を決意し、武力行使を許可します。
7月28日 支那駐屯軍が北京を占領、同日日本軍は総攻撃を開始し,北平・天津一帯を占領,さらに華北の重要都市を次々に攻略。
7月29日 通州にて非戦闘員である日本人男女子供が虐殺される通州事件。
このようにして石原少将の不戦構想も崩壊しました。
こうした一連の事件はロシア・コミュンテルンに繋がる共産党紅軍主導による日本への戦争誘発行為が深く係わっていたと考えられます。
資料 1
「盧溝橋事件を拡大させたコミンテルン指令と日本人虐殺事件」
http://www.history.gr.jp/showa/228.html
これによるとソ連・コミンテルンは次のような指令を発しています。
1.「あくまで局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かなければならぬ。
2.日本への譲歩に依(よ)って、支那の解放運動を裏切ろうとする(中国人)要人を抹殺(まっさつ)してもよい。
3.下層民衆階級に工作し、・・・・国民政府をして戦争開始のやむなきにたち到らしめなければならぬ。
4.党(中国共産党)は対日ボイコットを全支那的に拡大しなければならぬ。
5.紅軍は国民政府と協力する一方パルチザン的行動にでなけらばならぬ。
<興亜院政務部興亜資料政治篇「盧溝橋事件に対するコミンテルン指令」>
資料 2
「「西安事変」の禁区をこじ開けよ」
http://www6.plala.or.jp/GEKI/geki/1/42seian.html
これによると
昭和11年12月12日、西安で蒋介石が共産党軍に捕らえられたが、スターリンの仲介で助けられました。
しかしその結果第二次国共合作が成立したのです。
というで共産党軍が半年後の盧溝橋に堂々といただけではなく少なくとも国民党軍と対等の立場であったことになる訳です。
こうして日中戦争の起点となる第二次上海事変へと繋がってゆくのですが、
資料1の記載内容に注目していただきたいのですが、
2.日本への譲歩に依(よ)って、支那の解放運動を裏切ろうとする(中国人)要人を抹殺(まっさつ)してもよい。
は同国人を守る姿勢がない内容になっていることです。
この2の内容と二つの中国軍の戦法として知られる「更衣兵作戦」と「清野作戦」(焦土作戦)のうちの「清野作戦」(焦土作戦)に通ずるところがあります。
清野作戦を裏付ける記載は
資料 3
「昭和12(1937)年12月13日の南京陥落時の状況 」
http://www.history.gr.jp/nanking/nanking.html
これは メッセージ 5664 (kinngyoya301 さん)への返信です.