>むちからものしりかおへ-1
投稿者: jyoui 投稿日時: 2003/03/01 10:33 投稿番号: [1248 / 29399]
>*なぜ南部へ進駐せねばならなかったのかを考えてみると、第一に支那事変解決の為の援蒋ルート遮斷が挙げられる。
>*侵略するための動機としては確固たるもので、動かしようがない。
>武力による威嚇、恫喝があったと見るのが当然のような気がします。日本軍の1
武力による威嚇、恫喝があるだろうが、9万人のフランス軍を相手に、本格的に戦争を仕掛ける場合は、”攻者三倍”の原則で、27万人の動員を必要とする。(空軍戦力が強力でも、18万人は必要でしょう。)
当時は中国各地のフランス租界にもフランス軍がいて、中国相手の戦争中で、それらに同時対処する事が可能だろうか?
(引用)
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http://www.kisweb.ne.jp/personal/cflat/azian_travel_crow/history/tabi_07_france.htm
休戦協定と仏領海外植民地
仏独、仏伊休戦協定によって、フランス本土は以下の通りに分割された。
●ドイツの占領地区・・・パリを含む北半分とボルドーを含む南西部
●自由地区・・・・中央部の小都市・ヴィシーを首府とするフランス政府
●ドイツ併合地区・・・仏独の長年の係争地である北東部のアルザス・ ロレーヌ
●イタリア占領地区・・・マルセイユを含む南西部の一部地区
ドイツの全ての被占領国の中で、フランスだけが、国土の3分の1程度ではあったが、「主権」国家として政府を持ちつづけることが許された。しかし「主権」国家とはいっても、さまざまな制限がある「主権」であり、対独協力が「自主的」にも半強制的にも進められた。連合国軍が北アフリカに上陸すると、ドイツ軍は1942年11月11日、フランス全土を占領することになる。
パリ陥落、ドイツへのフランスの降伏、フランス本土のドイツ軍占領となったが、インドシナを含むフランスのアジア・アフリカの広大な海外領土については、ナチス・ドイツは、ヨーロッパから離れたこれらの海外領土が離反していくのを防ぐ仕事をヴィシー政権に任せておく方が、ドイツ占領軍にとって得策であると判断。ドイツ占領軍の統制下ではなく、対独協力政権たるヴィシー政府の管轄のままとされた。
その後の展開
1944年6月2日、連合軍のノルマンディー上陸作戦が敢行され、1944年8月25日は、パリ解放が行われ、パリに凱旋したドゴールが、1944年9月9日、臨時政府首席として組閣を行った。翌1945年5月7日にはナチス・ドイツが降伏する。一方、仏領インドシナでは、パリ解放後1944年8月30日、ドゴールが、日本=ヴィシー政府間で締結された協定の無効を宣言し、敗色濃厚な日本の在留軍とインドシナ政庁との間に対立が顕在化してきた。米軍がインドシナ上陸をしてきた場合、在インドシナのフランス軍が呼応することを恐れ、日本軍は武力行使による在インドシナのフランス軍の武装解除とインドシナの完全占領を計画し、1945年3月9日クーデターを敢行した。これにより日本の敗戦まで、インドシナにおけるフランスの主権は全く失われた。
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これでも1945年3月9日まではフランスが行政主権を握っていたことが判り、又この時期は日本軍の大陸打通作戦(1944年5月発令)により中国沿岸部をベトナム国境まで占領下に置き、鉄道路を確保できた状況での援軍移動ができる状態での出来事です。
>*侵略するための動機としては確固たるもので、動かしようがない。
>武力による威嚇、恫喝があったと見るのが当然のような気がします。日本軍の1
武力による威嚇、恫喝があるだろうが、9万人のフランス軍を相手に、本格的に戦争を仕掛ける場合は、”攻者三倍”の原則で、27万人の動員を必要とする。(空軍戦力が強力でも、18万人は必要でしょう。)
当時は中国各地のフランス租界にもフランス軍がいて、中国相手の戦争中で、それらに同時対処する事が可能だろうか?
(引用)
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http://www.kisweb.ne.jp/personal/cflat/azian_travel_crow/history/tabi_07_france.htm
休戦協定と仏領海外植民地
仏独、仏伊休戦協定によって、フランス本土は以下の通りに分割された。
●ドイツの占領地区・・・パリを含む北半分とボルドーを含む南西部
●自由地区・・・・中央部の小都市・ヴィシーを首府とするフランス政府
●ドイツ併合地区・・・仏独の長年の係争地である北東部のアルザス・ ロレーヌ
●イタリア占領地区・・・マルセイユを含む南西部の一部地区
ドイツの全ての被占領国の中で、フランスだけが、国土の3分の1程度ではあったが、「主権」国家として政府を持ちつづけることが許された。しかし「主権」国家とはいっても、さまざまな制限がある「主権」であり、対独協力が「自主的」にも半強制的にも進められた。連合国軍が北アフリカに上陸すると、ドイツ軍は1942年11月11日、フランス全土を占領することになる。
パリ陥落、ドイツへのフランスの降伏、フランス本土のドイツ軍占領となったが、インドシナを含むフランスのアジア・アフリカの広大な海外領土については、ナチス・ドイツは、ヨーロッパから離れたこれらの海外領土が離反していくのを防ぐ仕事をヴィシー政権に任せておく方が、ドイツ占領軍にとって得策であると判断。ドイツ占領軍の統制下ではなく、対独協力政権たるヴィシー政府の管轄のままとされた。
その後の展開
1944年6月2日、連合軍のノルマンディー上陸作戦が敢行され、1944年8月25日は、パリ解放が行われ、パリに凱旋したドゴールが、1944年9月9日、臨時政府首席として組閣を行った。翌1945年5月7日にはナチス・ドイツが降伏する。一方、仏領インドシナでは、パリ解放後1944年8月30日、ドゴールが、日本=ヴィシー政府間で締結された協定の無効を宣言し、敗色濃厚な日本の在留軍とインドシナ政庁との間に対立が顕在化してきた。米軍がインドシナ上陸をしてきた場合、在インドシナのフランス軍が呼応することを恐れ、日本軍は武力行使による在インドシナのフランス軍の武装解除とインドシナの完全占領を計画し、1945年3月9日クーデターを敢行した。これにより日本の敗戦まで、インドシナにおけるフランスの主権は全く失われた。
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これでも1945年3月9日まではフランスが行政主権を握っていたことが判り、又この時期は日本軍の大陸打通作戦(1944年5月発令)により中国沿岸部をベトナム国境まで占領下に置き、鉄道路を確保できた状況での援軍移動ができる状態での出来事です。
これは メッセージ 1243 (mudagane さん)への返信です.