Re: 南京虐殺の決定的証拠だ!(横)
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/03/27 21:41 投稿番号: [9248 / 41162]
>各部隊は自分たちの何十倍もの捕虜を抱え込んで大混乱に陥り、処置に困って虐殺に及んだようである。
その伝聞証言が事実か作り話かの問題は別にして、味方部隊の何十倍もの捕虜(正確には敵の投降兵)を抱え込んで大混乱に陥った場合、それらの投降兵は殺しても差し支えない。
これは虐殺ではない。
――――――
投降兵の助命は、次の場合に拒否しても差し支えない。
第一は、白旗を掲げた後なお射撃を継続する軍隊の将兵に対して、
第二は、敵の戦争法規違反に対する報復として、
第三は、緊急必要の場合において、すなわち捕虜を収容すれば、彼らのために軍の行動の自由が害せられて、軍自身の安全が危うくされる場合においてである。
(オッペンハイム)
――――――
中谷孝本人も、「1万人の捕虜を100数十人の兵隊で監視することは不可能ですし、またそれだけの人数の食料をどうやって確保するかといったことも深刻な問題で、結局は処分するしかなかったはずです」と言っているのだから、この場合の投降の拒否は差し支えない。
また、日本軍は南京だけでも1万人以上の支那軍投降兵を捕虜として保護したが、支那軍は支那事変8年間で日本軍投降兵を一人も捕虜として保護しなかった。
>揚子江岸下関(シャークヮン)方面より突入した第16師団長中嶋中将の日記によれば、
>「…始末に堪えず、捕虜にはせぬ方針なり」
>と書かれている。捕虜にはせず逃がしもしない…。
――――――
(3)本当に処刑されたのか?
中島日記に関して(その一)
http://www.geocities.jp/nankin1937jp/page028.html
(抜粋)
以上のように中島日記に記載された仙鶴門付近で確保した約7千人の捕虜は、殺害されずに南京に収容されたと考えられます。複数の史料による裏づけがあるということです。
(4)捕虜ハセヌ方針(東中野説)
中島日記に関して(そのニ)
http://www.geocities.jp/nankin1937jp/page029.html
(抜粋)
従って、「捕虜ハセヌ方針」とは「投降兵は武装解除後に追放して捕虜にはしない方針」という意味になる。
(5)捕虜ハセヌ方針(南京戦史)
中島日記に関して(その三)
http://www.geocities.jp/nankin1937jp/page030.html
(抜粋)
以上のように状況を含めて考察すると「捕虜を受け入れるな」という命令の意図が見えてくるのではないでしょうか。常に捕虜を受け入れるな、投降を認めるな、という意味合いではなく、ある限定された状況下においては「勝手に戦闘を停止して投降兵を収容するな、なぜならば軍全体が危機に陥る可能性があるからだ」という内容であることが推察されるわけです。
以上を踏まえて私が個人的に中島日記を意訳するとこうなります。
「軍の方針は、捕虜とは呼ぶな、尋問が終わったら適時解放せよというものだが、一万人もの敵兵が投降してくるとは誰も想定していなかったではないか。武装解除もままならないのでこのままでは釈放もできないし、収容といっても場所、食料の問題もあり大変だ。取り敢えず部隊を増派して野外で監視しているが、このまま延々置いておくわけにもいかない。7千人となると処刑も大変だ。大きな壕があればまとめて放り込んで処刑できるかも知れないが平地だとそうもいかない。数十人単位に小分けして処刑したほうがよいか。どうしたものか」
という感じになると思います。
中島中将個人としては処刑の方向で考えていたようですが、その後戦場が一段落し捕虜の収容が可能と判断されたので、仙鶴門付近の捕虜約7000人は南京城内に護送され収容されたと考えられます。中島中将が捕虜を使役している状況を見て叱責したのは「銃器の管理が杜撰であり危険だ」という意味での叱責であり、捕虜を使役した行為についてはむしろ賞賛していることからも、ことごとく全ての捕虜を殺害する方針ではなかったと考えられます。
――――――
>民間人と兵隊の区別がつかず、捕えた数の多さに恐怖を募らせて住民を含む多数の中国人を殺戮したのだ。100人あまりの部隊が1万人近い捕虜を任されて、捕虜に対する恐怖心のあまり川岸の潅木林に連れ出して囲み、全員焼き殺したと言う事例も、実行した兵士から聞いた。
「民間人と兵隊の区別がつかず」ということは便衣兵だったことを意味するので殺すのは当然の責務。
100人あまりの部隊が1万人近い便衣兵を殺すのは当然。
ただし、全員焼き殺したという話は嘘臭い。
その伝聞証言が事実か作り話かの問題は別にして、味方部隊の何十倍もの捕虜(正確には敵の投降兵)を抱え込んで大混乱に陥った場合、それらの投降兵は殺しても差し支えない。
これは虐殺ではない。
――――――
投降兵の助命は、次の場合に拒否しても差し支えない。
第一は、白旗を掲げた後なお射撃を継続する軍隊の将兵に対して、
第二は、敵の戦争法規違反に対する報復として、
第三は、緊急必要の場合において、すなわち捕虜を収容すれば、彼らのために軍の行動の自由が害せられて、軍自身の安全が危うくされる場合においてである。
(オッペンハイム)
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中谷孝本人も、「1万人の捕虜を100数十人の兵隊で監視することは不可能ですし、またそれだけの人数の食料をどうやって確保するかといったことも深刻な問題で、結局は処分するしかなかったはずです」と言っているのだから、この場合の投降の拒否は差し支えない。
また、日本軍は南京だけでも1万人以上の支那軍投降兵を捕虜として保護したが、支那軍は支那事変8年間で日本軍投降兵を一人も捕虜として保護しなかった。
>揚子江岸下関(シャークヮン)方面より突入した第16師団長中嶋中将の日記によれば、
>「…始末に堪えず、捕虜にはせぬ方針なり」
>と書かれている。捕虜にはせず逃がしもしない…。
――――――
(3)本当に処刑されたのか?
中島日記に関して(その一)
http://www.geocities.jp/nankin1937jp/page028.html
(抜粋)
以上のように中島日記に記載された仙鶴門付近で確保した約7千人の捕虜は、殺害されずに南京に収容されたと考えられます。複数の史料による裏づけがあるということです。
(4)捕虜ハセヌ方針(東中野説)
中島日記に関して(そのニ)
http://www.geocities.jp/nankin1937jp/page029.html
(抜粋)
従って、「捕虜ハセヌ方針」とは「投降兵は武装解除後に追放して捕虜にはしない方針」という意味になる。
(5)捕虜ハセヌ方針(南京戦史)
中島日記に関して(その三)
http://www.geocities.jp/nankin1937jp/page030.html
(抜粋)
以上のように状況を含めて考察すると「捕虜を受け入れるな」という命令の意図が見えてくるのではないでしょうか。常に捕虜を受け入れるな、投降を認めるな、という意味合いではなく、ある限定された状況下においては「勝手に戦闘を停止して投降兵を収容するな、なぜならば軍全体が危機に陥る可能性があるからだ」という内容であることが推察されるわけです。
以上を踏まえて私が個人的に中島日記を意訳するとこうなります。
「軍の方針は、捕虜とは呼ぶな、尋問が終わったら適時解放せよというものだが、一万人もの敵兵が投降してくるとは誰も想定していなかったではないか。武装解除もままならないのでこのままでは釈放もできないし、収容といっても場所、食料の問題もあり大変だ。取り敢えず部隊を増派して野外で監視しているが、このまま延々置いておくわけにもいかない。7千人となると処刑も大変だ。大きな壕があればまとめて放り込んで処刑できるかも知れないが平地だとそうもいかない。数十人単位に小分けして処刑したほうがよいか。どうしたものか」
という感じになると思います。
中島中将個人としては処刑の方向で考えていたようですが、その後戦場が一段落し捕虜の収容が可能と判断されたので、仙鶴門付近の捕虜約7000人は南京城内に護送され収容されたと考えられます。中島中将が捕虜を使役している状況を見て叱責したのは「銃器の管理が杜撰であり危険だ」という意味での叱責であり、捕虜を使役した行為についてはむしろ賞賛していることからも、ことごとく全ての捕虜を殺害する方針ではなかったと考えられます。
――――――
>民間人と兵隊の区別がつかず、捕えた数の多さに恐怖を募らせて住民を含む多数の中国人を殺戮したのだ。100人あまりの部隊が1万人近い捕虜を任されて、捕虜に対する恐怖心のあまり川岸の潅木林に連れ出して囲み、全員焼き殺したと言う事例も、実行した兵士から聞いた。
「民間人と兵隊の区別がつかず」ということは便衣兵だったことを意味するので殺すのは当然の責務。
100人あまりの部隊が1万人近い便衣兵を殺すのは当然。
ただし、全員焼き殺したという話は嘘臭い。
これは メッセージ 9241 (pipopipo555jp さん)への返信です.