事実には油断も隙も関係ないです
投稿者: ja2047 投稿日時: 2006/02/22 21:03 投稿番号: [8998 / 41162]
>> 捕虜殺害が多数あったことは日本側の公式記録と個人記録から明かですし、
>どこにそんな公式記録があるというのですか。
防衛庁図書館ほか多数
>逃亡を企てた捕虜の処刑、
ああ、具体的に挙げてください。
>実態は捕虜解放だった「処断」の記録、
幕府山事件のことなら、反乱自衛発砲説を唱えているのは山田手記だけです。
これを支持する記録はありません。
第一、殺害が複数回にわたり大規模に行われたことの説明は自衛発砲説では付きません。
捕虜を運ぶに十分な数の舟艇を集めていたという記録はなく、逆に大量処分するに十分な機関銃を動員していたという記録が残っています。
上級司令部の指示も「殺せ」であり、山田部隊長の腹案が「移送・釈放」にあったということやそのための準備をしたという部下の記録や証言はありません。
>捕虜収容前の戦闘による殺害記録
投降の意思表明があったのなら、収容を拒否して殺害するのは基本的に国際法違反です。
この手の行為は実際は日本軍以外でもあちこちで行われたようですが、それはこの種の殺害が国際法違反であると言うこととは別のことです。
>射殺命令があったとされながら実は捕虜として収容していた記録はありますが、
これも具体例が不明です。
南京で最終的に捕虜が残ったのはウソでも何でもありませんが、獲得捕虜総数の何分の一かであることは、ほとんどの研究者の認めるところです。
>捕虜殺害の記録が一体どれだけあるというんです。
具体的に挙げて見せてください。
第16師団 歩兵第30旅団
歩兵第33連隊戦闘詳報 第三号附表
自昭和十二年十二月十日
至昭和十二年十二月十四日
[俘虜] 将校14、准士官・下士官兵3、082、馬匹52
[備考] 1、俘虜は処断す
第114師団 歩兵第127旅団 第66連隊 第1大隊戦闘詳報
(12月13日)
八、午後二時零分連隊長より左の命令を受く
左記
イ、旅団命令により捕虜は全部殺すへし
其の方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何[略]
各隊共に午後五時準備終り刺殺を開始し概ね午後七時三十分刺
殺を終り連隊長に報告す
第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失
敗せり
捕虜は観念し恐れす軍刀の前に首を差し伸ふるもの銃剣の前に
乗り出し従容とし居るものありたるも中には泣き喚き救助を嘆
願せるものあり特に隊長巡視の際は各所に其の声起れり
山田栴二少将(旅団長、山田支隊支隊長) 山田栴二日記
十二月十五日 晴
捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す
皆殺せとのことなり
各隊食糧なく困却す
『南京戦史資料集2』
>> 市民への暴行殺人が頻発したことも明かです。
>何が明らかなんですか。
>被害者も目撃者も明らかでない物の方が多い国際委員会の文書以外、市民への暴行殺人が頻発した記録が何処にあるというんです。
陸軍省人事局長阿南惟幾少将(のち大将、終戦時陸軍大臣)は南京視察から帰って「中島師団婦人方面、殺人、不軍紀行為は、国民的道義心の廃退、戦況悲惨より来るものにして言語に絶するものあり。」(阿南惟幾 S12.12.22陸軍省局長会報におけるメモ)
と言ってます。
でりちゃんなどはこれは安全区委員会の宣伝を鵜呑みにした結果だと言いますけど、私は当時の日本軍中枢が揃いも揃って何の確認もせずに、自軍の将兵よりも外国人の資料を信じたとは思えない。
もし本当にそうだったのなら、これはこれで当時の日本軍の組織には非常に問題があったと言うことになってしまいますが、ちょっとそうは思えません。
>そんな物があるというなら、市民の犠牲者の個別記録の集計結果を早く出して下さい。
もう2ヶ月が経過しましたよ。
氏名の判明した集計というのは戦後に中華民国南京検察処が行ったものしかないのですね。
リアルタイムの記録ではない。しかも、とてもじゃないが、軍民合わせて30万とかに達するものではない。氏名の上がっているものは百人のオーダーでしかない。
発生時点で個別集計が可能であったのは日本軍だけなんですが、しなかったのです。
だから、私は繰り返し言ってるのです。
日本側が詳細な調査をして残せば、あるいは30万という数字が定着することは避けられたのかもしれない、と。
>どこにそんな公式記録があるというのですか。
防衛庁図書館ほか多数
>逃亡を企てた捕虜の処刑、
ああ、具体的に挙げてください。
>実態は捕虜解放だった「処断」の記録、
幕府山事件のことなら、反乱自衛発砲説を唱えているのは山田手記だけです。
これを支持する記録はありません。
第一、殺害が複数回にわたり大規模に行われたことの説明は自衛発砲説では付きません。
捕虜を運ぶに十分な数の舟艇を集めていたという記録はなく、逆に大量処分するに十分な機関銃を動員していたという記録が残っています。
上級司令部の指示も「殺せ」であり、山田部隊長の腹案が「移送・釈放」にあったということやそのための準備をしたという部下の記録や証言はありません。
>捕虜収容前の戦闘による殺害記録
投降の意思表明があったのなら、収容を拒否して殺害するのは基本的に国際法違反です。
この手の行為は実際は日本軍以外でもあちこちで行われたようですが、それはこの種の殺害が国際法違反であると言うこととは別のことです。
>射殺命令があったとされながら実は捕虜として収容していた記録はありますが、
これも具体例が不明です。
南京で最終的に捕虜が残ったのはウソでも何でもありませんが、獲得捕虜総数の何分の一かであることは、ほとんどの研究者の認めるところです。
>捕虜殺害の記録が一体どれだけあるというんです。
具体的に挙げて見せてください。
第16師団 歩兵第30旅団
歩兵第33連隊戦闘詳報 第三号附表
自昭和十二年十二月十日
至昭和十二年十二月十四日
[俘虜] 将校14、准士官・下士官兵3、082、馬匹52
[備考] 1、俘虜は処断す
第114師団 歩兵第127旅団 第66連隊 第1大隊戦闘詳報
(12月13日)
八、午後二時零分連隊長より左の命令を受く
左記
イ、旅団命令により捕虜は全部殺すへし
其の方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何[略]
各隊共に午後五時準備終り刺殺を開始し概ね午後七時三十分刺
殺を終り連隊長に報告す
第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失
敗せり
捕虜は観念し恐れす軍刀の前に首を差し伸ふるもの銃剣の前に
乗り出し従容とし居るものありたるも中には泣き喚き救助を嘆
願せるものあり特に隊長巡視の際は各所に其の声起れり
山田栴二少将(旅団長、山田支隊支隊長) 山田栴二日記
十二月十五日 晴
捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す
皆殺せとのことなり
各隊食糧なく困却す
『南京戦史資料集2』
>> 市民への暴行殺人が頻発したことも明かです。
>何が明らかなんですか。
>被害者も目撃者も明らかでない物の方が多い国際委員会の文書以外、市民への暴行殺人が頻発した記録が何処にあるというんです。
陸軍省人事局長阿南惟幾少将(のち大将、終戦時陸軍大臣)は南京視察から帰って「中島師団婦人方面、殺人、不軍紀行為は、国民的道義心の廃退、戦況悲惨より来るものにして言語に絶するものあり。」(阿南惟幾 S12.12.22陸軍省局長会報におけるメモ)
と言ってます。
でりちゃんなどはこれは安全区委員会の宣伝を鵜呑みにした結果だと言いますけど、私は当時の日本軍中枢が揃いも揃って何の確認もせずに、自軍の将兵よりも外国人の資料を信じたとは思えない。
もし本当にそうだったのなら、これはこれで当時の日本軍の組織には非常に問題があったと言うことになってしまいますが、ちょっとそうは思えません。
>そんな物があるというなら、市民の犠牲者の個別記録の集計結果を早く出して下さい。
もう2ヶ月が経過しましたよ。
氏名の判明した集計というのは戦後に中華民国南京検察処が行ったものしかないのですね。
リアルタイムの記録ではない。しかも、とてもじゃないが、軍民合わせて30万とかに達するものではない。氏名の上がっているものは百人のオーダーでしかない。
発生時点で個別集計が可能であったのは日本軍だけなんですが、しなかったのです。
だから、私は繰り返し言ってるのです。
日本側が詳細な調査をして残せば、あるいは30万という数字が定着することは避けられたのかもしれない、と。
これは メッセージ 8983 (nmwgip さん)への返信です.