Re: 増田手記――安全区外は無人
投稿者: ja2047 投稿日時: 2006/02/19 08:08 投稿番号: [8952 / 41162]
>この様に、担当地区外の活動は厳重に禁止されていました。
我が家の前の道路は制限速度30km/hですが、50キロぐらいで走るヤツはいくらでもいます。
禁止されていたというのと、実際のどのように行われたかというのは全く別の話であって、そこに実際の記録の価値があるのです。
>おそらく、増田六助上等兵は安全区の正確な境界を知らなかったということでしょう。
これは可能性としてはあります。地図は渡されていたようですが全員にではないでしょう。
増田氏自身の回想によると、この日掃討した「難民区」とは、中山門を入った大通りを1.5kmほど進んで左に入ったところだということです。
これをそのまま受け取ると、中山東路の南側の35連隊の担当区域になるので、これもおかしい。
途中で新街口の交差点を右に折れたとすれば、安全区東部ということになります。
>そういう知識を必要としない、見聞に関しては「基本的な事実は押さえている」ということですね。
増田日記、増田手記自体からは、その認識が事実なのか勘違いなのかは判りません。
U・I上等兵日記にも「難民区」とありますので、兵はそう認識していたことが判ります。
さらに、増田手記は「歩兵第二十連隊第四中隊(坂隊)支那事変出征戦友の手記」に納められていたので、これは中隊としての中隊長公認の認識であったことが判ります。
この結果、「偕行」の「南京戦史」は安全区東部の掃討を20連隊が行ったと記述したのです。
士官学校を出た旧軍人の団体である「偕行」の編集陣がそのように判断したのですから、旧軍経験者としては「あり得ない」という判断をしなかった、ということが事実です。
>増田手記は、安全区外を「人影どころか犬ころ一匹居ない死の街」と書き記しています。
表現に誇張はあるにしても、安全区外は事実上無人だったということです。
14日には街路はほぼ無人だったということでよろしいのではないですか?
他の将兵の回想にしても、「奥の方には人がいたようだが、街路は無人だった」と書かれていますから。
これは メッセージ 8946 (nmwgip さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13_1/8952.html