それは勘違い d(^^
投稿者: ja2047 投稿日時: 2005/07/31 06:25 投稿番号: [6811 / 41162]
>>ついでに、日本の外交官やら軍人まで、なんでこの捏造大作戦に
>>荷担したのだろうか。
>お人よしの日本人は、当時も、一部のその筋の外交官や軍人が、安全区国際委員会から発信されていた嘘報告・嘘抗議・嘘宣伝を真に受けてしまったんだよ。
いやいや、現場にいた外交官や軍人は、日本軍による掠奪・暴行・殺人が
あったのを実際に体験したと言ってるよ。
宣伝を信じたんじゃあない、実際に見ている。
上海日本大使館参事官 日高信六郎氏の回想
「掠奪や虐殺について、占領直後の南京に入った参事官の日高信六郎氏は、わたしに次のように語った。
『はげしかった。そこら辺にたくさん死んでいる。歩いていると、ポンポンと音がする。鉄砲が人に当たっている音だ。こりゃいかんと思い、憲兵隊長のところへ行った。
「街に出てごらん。手に何か持っていない兵隊がいたら、わたしは敬礼するよ」
といったが、隊長は、憲兵は十四名しかいないし、明日(十七日)の入城式に備えて忙しいからという。しかし、わたしがあまりいったので、風呂上がりであったが、軍服を着、部下を連れてトラックで出て行った。そして、掠奪している兵隊、強姦している兵隊を、サーベルの曲がるくらいひっぱたいたといった』」
(「南京事件と広田弘毅」(上) 城山三郎 「潮」1972年10月号)
「 何と言っても、残虐事件の最大の原因の一つは、上層部の命令が徹底しなかったことであろう。たとえば捕虜の処遇については、高級参謀は松井さん同様心胆を砕いていたが、実際には、入城直後でもあり、恐怖心も手伝って無闇に殺してしまったらしい。揚子江岸に捕虜たちの死骸が数珠つなぎになって累々を打ち捨てられているさまは、いいようもないほど不愉快であった。
しかし心がけのいい軍人も少なくなかったし、憲兵もよくやっていたが、入城式の前日(十二月十七日)憲兵隊長から聞いたところでは、隊員は十四名に過ぎず、数日中に四十名の補助憲兵が得られるという次第であったから、兵の取締りに手が廻らなかったのは当然だった。そして一度残虐な行為が始まると自然残虐なことに慣れ、また一種の嗜虐的心理になるらしい。戦争がすんでホッとしたときに、食糧はないし、燃料もない。みんなが勝手に徴発を始める。床をはがして燃す前に、床そのものに火をつける。荷物を市民に運ばせて、用が済むと「ご苦労さん」という代りに射ち殺してしまう。不感症になっていて、たいして驚かないという有様であった。
問題はこのような放火、殺人、暴行、掠奪といった残虐行為を、外国人の見ている前で働いたということであろう。しかも軍の上層部では戦争に没頭していたし、今日とは違ってラジオ・ニュースなどもなかったから、このような事件をあまり知らなかったのである。そこで私は、多分十二月十五日だったと記憶するが、司令官の朝香宮を訪ね、「南京における皇軍の行動は全世界の注目を浴びているから、そのおつもりで・・・」と暗に注意を促してから、参謀長に会い、「いま、こういう話をしてきたが、外国の権益のあるところでは慎重にやらねばならない。南京でやっていることが世界中の評判になっているから、大いに自重して欲しい」と申し入れたところ、素直に諒解してくれた。その他警備司令部、憲兵司令官などをも歴訪して同趣旨を説いてまわったことを覚えている。」
(「広田弘毅」 広田弘毅伝記刊行会 1966 P311〜P315)
>>荷担したのだろうか。
>お人よしの日本人は、当時も、一部のその筋の外交官や軍人が、安全区国際委員会から発信されていた嘘報告・嘘抗議・嘘宣伝を真に受けてしまったんだよ。
いやいや、現場にいた外交官や軍人は、日本軍による掠奪・暴行・殺人が
あったのを実際に体験したと言ってるよ。
宣伝を信じたんじゃあない、実際に見ている。
上海日本大使館参事官 日高信六郎氏の回想
「掠奪や虐殺について、占領直後の南京に入った参事官の日高信六郎氏は、わたしに次のように語った。
『はげしかった。そこら辺にたくさん死んでいる。歩いていると、ポンポンと音がする。鉄砲が人に当たっている音だ。こりゃいかんと思い、憲兵隊長のところへ行った。
「街に出てごらん。手に何か持っていない兵隊がいたら、わたしは敬礼するよ」
といったが、隊長は、憲兵は十四名しかいないし、明日(十七日)の入城式に備えて忙しいからという。しかし、わたしがあまりいったので、風呂上がりであったが、軍服を着、部下を連れてトラックで出て行った。そして、掠奪している兵隊、強姦している兵隊を、サーベルの曲がるくらいひっぱたいたといった』」
(「南京事件と広田弘毅」(上) 城山三郎 「潮」1972年10月号)
「 何と言っても、残虐事件の最大の原因の一つは、上層部の命令が徹底しなかったことであろう。たとえば捕虜の処遇については、高級参謀は松井さん同様心胆を砕いていたが、実際には、入城直後でもあり、恐怖心も手伝って無闇に殺してしまったらしい。揚子江岸に捕虜たちの死骸が数珠つなぎになって累々を打ち捨てられているさまは、いいようもないほど不愉快であった。
しかし心がけのいい軍人も少なくなかったし、憲兵もよくやっていたが、入城式の前日(十二月十七日)憲兵隊長から聞いたところでは、隊員は十四名に過ぎず、数日中に四十名の補助憲兵が得られるという次第であったから、兵の取締りに手が廻らなかったのは当然だった。そして一度残虐な行為が始まると自然残虐なことに慣れ、また一種の嗜虐的心理になるらしい。戦争がすんでホッとしたときに、食糧はないし、燃料もない。みんなが勝手に徴発を始める。床をはがして燃す前に、床そのものに火をつける。荷物を市民に運ばせて、用が済むと「ご苦労さん」という代りに射ち殺してしまう。不感症になっていて、たいして驚かないという有様であった。
問題はこのような放火、殺人、暴行、掠奪といった残虐行為を、外国人の見ている前で働いたということであろう。しかも軍の上層部では戦争に没頭していたし、今日とは違ってラジオ・ニュースなどもなかったから、このような事件をあまり知らなかったのである。そこで私は、多分十二月十五日だったと記憶するが、司令官の朝香宮を訪ね、「南京における皇軍の行動は全世界の注目を浴びているから、そのおつもりで・・・」と暗に注意を促してから、参謀長に会い、「いま、こういう話をしてきたが、外国の権益のあるところでは慎重にやらねばならない。南京でやっていることが世界中の評判になっているから、大いに自重して欲しい」と申し入れたところ、素直に諒解してくれた。その他警備司令部、憲兵司令官などをも歴訪して同趣旨を説いてまわったことを覚えている。」
(「広田弘毅」 広田弘毅伝記刊行会 1966 P311〜P315)
これは メッセージ 6810 (ja2047 さん)への返信です.