Re:まずは脱線のお付き合い 3)
投稿者: ja2047 投稿日時: 2005/06/26 09:06 投稿番号: [6201 / 41162]
>・佐藤振寿(東京日々新聞カメラマン)
――虐殺があったといわれますが?
「見ていません。」
見たものはこういうものだったというのが本人の証言です。
「明けて12月14日、前の前の晩は中山陵近くの山上で寒い夜を過ごしたのですが、前の晩は中山門内の中国軍将校の社交機関・励志社の建物で寝ました。しかし、しばらくして他の師団に従軍していた本社の仲間が続々と集まり、中国宿へ移動しました。
そうこうしていると、支局の連絡員が励志社の先で何かやっていると知らせにきたのです。駆けつけると、大きな門があり、駐軍88師司令部の題字があり、中に入ると、兵営のような建物の前の庭に、中国兵が100人以上、上半身裸にされ後ろ手に縛られている。彼らの前にはちょうど8畳ほどの穴が二つ掘られてあって、一つの穴の縁には中国兵を座らせ、日本兵が後頭部をポンと小銃で撃つと、まるで軽業のように中国兵は一回転してその穴に落ちていった。もう一つの穴のほうでは、着剣した銃を構えた日本兵が中国兵を突き刺し、穴に落としていた。僕はカメラを持っていましたが、それを見て撮らせてくれとは言えなかった。銃殺や刺殺をしていた日本兵たちは逆上していて、常人の顔とは思えず、何か言うと何をされるかわからず怖かった。
殺された中国兵は、既に穴の中に入っていた中国兵も含めると、300人ほどいたと思う。」
「従軍カメラマンの証言 佐藤振寿さん(元東京日日新聞写真部員)」(『毎日新聞秘蔵 不許可写真1』毎日新聞社1998年12月30日発行)204頁
「後で仲間にこの時のことを話すと、カメラマンとしてどうして写真を撮らなかったかと反問された。「写真を撮っていたら、おそらくこっちも殺されていたよ」と答えることしかできなかった。
このような事件を見たのは筆者だけではなかったようだ。東京から第百一師固に従軍するだめ、大阪から同じ軍用船で上梅へ渡った記者伸間に「東京朝日」の足立和雄君がいた。
十二月十六日は晴天だった。社の車を使えたので、南京住民の姿をルポするために市内を走り回った。そして南京城外北東部にある玄武潮の風景写真を撮ったりした帰途、難民区近くを通りかかると、何やら人だかりがして騒々しい。そして大勢の中国の女が、私の乗った車に駆け寄って来た。車を止める助手台の窓から身を車の中に乗り入れ、口々に何か懇願するような言葉を発しているが、中国語が判らないからその意味は理解できない。しかし、それらの言葉のトーンで何か助けを求めていることだけはわかった。彼女たちの群れを避けて、中山路へ出ると多数の中国人が列をなしている。難民区の中にまぎれこみ一般市民と同じ服装していた敗残兵を連行しているという。憲兵に尋ねると、その数五、六千名だろうと答えたので、撮った写真の説明にその数を書いた。」
「上海・南京 見た 撮った 従軍とは歩くこと」 佐藤 振壽(元毎日新聞記者)
浅井カメラマンについては、具体的な目撃談は発掘できませんでした 悪しからず <(_ _)>
>では最後に、マクドナルド記者の12月18日タイムズの記事の要約を引用します。
「要約」でないものを引用して下さると有り難いです。
あなたの「要約」は、本人が他で語ったこととかなり矛盾する場合もあるようです。
>さて、#6160の質問に戻りましょう。
ダーディン、スティールの報じた南京の惨状に関する一致証言者について、何人名前を挙げられますか?
南京は平穏で死体も少なかったと証言している、名前が判明している日本人ジャーナリスト・文化人の人数を大きく上回るものではないはずですが。
まだ足りませんか?
――虐殺があったといわれますが?
「見ていません。」
見たものはこういうものだったというのが本人の証言です。
「明けて12月14日、前の前の晩は中山陵近くの山上で寒い夜を過ごしたのですが、前の晩は中山門内の中国軍将校の社交機関・励志社の建物で寝ました。しかし、しばらくして他の師団に従軍していた本社の仲間が続々と集まり、中国宿へ移動しました。
そうこうしていると、支局の連絡員が励志社の先で何かやっていると知らせにきたのです。駆けつけると、大きな門があり、駐軍88師司令部の題字があり、中に入ると、兵営のような建物の前の庭に、中国兵が100人以上、上半身裸にされ後ろ手に縛られている。彼らの前にはちょうど8畳ほどの穴が二つ掘られてあって、一つの穴の縁には中国兵を座らせ、日本兵が後頭部をポンと小銃で撃つと、まるで軽業のように中国兵は一回転してその穴に落ちていった。もう一つの穴のほうでは、着剣した銃を構えた日本兵が中国兵を突き刺し、穴に落としていた。僕はカメラを持っていましたが、それを見て撮らせてくれとは言えなかった。銃殺や刺殺をしていた日本兵たちは逆上していて、常人の顔とは思えず、何か言うと何をされるかわからず怖かった。
殺された中国兵は、既に穴の中に入っていた中国兵も含めると、300人ほどいたと思う。」
「従軍カメラマンの証言 佐藤振寿さん(元東京日日新聞写真部員)」(『毎日新聞秘蔵 不許可写真1』毎日新聞社1998年12月30日発行)204頁
「後で仲間にこの時のことを話すと、カメラマンとしてどうして写真を撮らなかったかと反問された。「写真を撮っていたら、おそらくこっちも殺されていたよ」と答えることしかできなかった。
このような事件を見たのは筆者だけではなかったようだ。東京から第百一師固に従軍するだめ、大阪から同じ軍用船で上梅へ渡った記者伸間に「東京朝日」の足立和雄君がいた。
十二月十六日は晴天だった。社の車を使えたので、南京住民の姿をルポするために市内を走り回った。そして南京城外北東部にある玄武潮の風景写真を撮ったりした帰途、難民区近くを通りかかると、何やら人だかりがして騒々しい。そして大勢の中国の女が、私の乗った車に駆け寄って来た。車を止める助手台の窓から身を車の中に乗り入れ、口々に何か懇願するような言葉を発しているが、中国語が判らないからその意味は理解できない。しかし、それらの言葉のトーンで何か助けを求めていることだけはわかった。彼女たちの群れを避けて、中山路へ出ると多数の中国人が列をなしている。難民区の中にまぎれこみ一般市民と同じ服装していた敗残兵を連行しているという。憲兵に尋ねると、その数五、六千名だろうと答えたので、撮った写真の説明にその数を書いた。」
「上海・南京 見た 撮った 従軍とは歩くこと」 佐藤 振壽(元毎日新聞記者)
浅井カメラマンについては、具体的な目撃談は発掘できませんでした 悪しからず <(_ _)>
>では最後に、マクドナルド記者の12月18日タイムズの記事の要約を引用します。
「要約」でないものを引用して下さると有り難いです。
あなたの「要約」は、本人が他で語ったこととかなり矛盾する場合もあるようです。
>さて、#6160の質問に戻りましょう。
ダーディン、スティールの報じた南京の惨状に関する一致証言者について、何人名前を挙げられますか?
南京は平穏で死体も少なかったと証言している、名前が判明している日本人ジャーナリスト・文化人の人数を大きく上回るものではないはずですが。
まだ足りませんか?
これは メッセージ 6200 (ja2047 さん)への返信です.