南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Re:まずは脱線のお付き合い 2)

投稿者: ja2047 投稿日時: 2005/06/26 09:04 投稿番号: [6200 / 41162]
>さて、上記(1)〜(3)の民間人大量殺害に関する証言は以下の通り。

はい、あなたによれば、   「こちらの方が多い」   はずの「何もなかった証言」を
集めていただきました。
一つずつ見せていただきましょう。


>・石川達三(「生きている兵隊」作者)
「私が南京に入ったのは入城式から2週間後です」
――そのときどのような虐殺をご覧になられましたか?
「大殺戮の痕跡は一ぺんも見ておりません」


このインタビュー、石川氏がなくなる間際に電話でなされて、
死後発表されたものだそうですね。
一般には生前の石川達三は次のように述べていたことが知られています。

「入城式に送れて正月私が南京へ着いたとき街上は死屍累々大変なものだった。大きな建物へ一般の中国人数千をおしこめて床へ手榴弾をおき油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶絶させた。また武装解した捕虜を練兵場へあつめて機銃の一斉射撃で葬った。しまいには弾丸を使うのはもったいないとあって、揚子江岸へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるようにしておいて、この上へ中国人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切って河中へつきおとしたり逃げ口をふさがれた黒山のような捕虜が戸板や机に捕まって川を流れて行くのを下流で待ち構えた駆逐艦が機銃の一斉射撃で片っぱしから殺害した。
戰争中の興奮から兵隊が無軌道の行動に逸脱するのはありがちのことではあるが、南京の場合はいくら何でも無茶だと思つた、」
(「読売新聞」1946年5月9日付記事)



>・橋本登美三郎(朝日新聞社上海支局次長)
「南京の事件ねえ。全然聞いていない。もしあれば、記者の間で話にでるはずだ。記者は少しでも話題になりそうなことは互いに話にするし・・・」

それはいいんですけどね。
同じインタビューの中で、こんなことも言ってますね。

―当時の報道規制をどう感じましたか。
「何も不自由は感じていない。思ったこと、見たことはしゃべれたし、書いてたよ」
(『「南京事件」日本人48人の証言』   P39)

なんか、この時点で、既に少しおかしいように思います   (−−;
昭和10年代の戦時期の日本の報道状況について、
「何も不自由は感じていない。思ったこと、見たことはしゃべれたし、書いてたよ」
と言われて本気に出来ますか?



>・足立和雄(朝日新聞社南京特派員)
「私は南京大虐殺なんて見ていません。」


どういう質問を受けての答なのか、ですね。
足立和夫氏は「見た」ことについてはこう語っています。

「朝日新聞支局のそばに、焼跡でできた広場があった。そこに、日本兵に看視されて、中国人が長い列を作っていた。南京にとどまっていたほとんどすべての中国人男子が、便衣隊と称して捕えられたのである。私たちの仲間がその中の一人を、事変前に朝日の支局で使っていた男だと証言して、助けてやった。そのことがあってから、朝日の支局には助命を願う女こどもが押しかけてきたが、私たちの力では、それ以上なんともできなかった。”便衣隊”は、その妻や子が泣き叫ぶ眼の前で、つぎつぎに銃殺された。
「悲しいねえ」
私は、守山君にいった。守山君も、泣かんばかりの顔をしていた。そして、つぶやいた。「日本は、これで戦争に勝つ資格を失ったよ」と。
内地では、おそらく南京攻略の祝賀行事に沸いていたときに、私たちの心は、怒りと悲しみにふるえていた。」
(『守山義雄文集』収録の足立和雄「南京の大虐殺」=守山義雄文集刊行会・一九七五年)


[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)