日本は中国人による通州大虐殺?一説
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2005/05/17 19:09 投稿番号: [5657 / 41162]
信夫信三郎氏「聖断の歴史学」より
7 通州事件(三)
通州に駐屯していた日本の特務機関(陸軍の諜報工作機関)は、一九三七年七月二六日、日本軍の北京・天津地区にたいする攻撃が迫ったため、通州門外の兵営に駐屯していた中国第二九軍の部隊にたいし「貴部隊が停戦協定線上に駐屯せられる事は、在留邦人の保全と冀東の安寧に害がある」という理由で二七日午前三時までに武装を解除するとともに北京に向けて退去するよう要求した。
しかし、第二九軍はうごこうとしなかった。
日本軍は、二七日午前四時から攻撃を開始し、午前一一時ごろまでに第二九軍を掃蕩した。
通州門外に中国軍隊はいなくなった。ところが、日本軍は、通州の中国軍隊兵舎のとなりに冀東防共自治政府保安隊の幹部訓練所があることをよく知らず、保安隊の隊員を第二九軍の兵士と誤認して爆撃し、数名の保安隊員を死傷させた。
特務機関長の細木繁中佐は、冀東防共自治政府の長官に陳謝し、犠牲者の家族に挨拶し、賠償に誠意をつくした。
北京特務機関補佐官として現地にいた寺西忠輔大尉は、日本軍が誠意をつくしたため、「保安隊員は心中の鬱憤を軽々に、表面立って爆発させる事はしなかったのである」としるしたが、北平駐在大使館付武官補佐官として北平にいた今井武夫少佐は、保安隊員は「関東軍飛行隊から兵舎を誤爆されて憤激の余り、愈々抗日戦の態度を明かにした」と述べた。
七月二九日、保安隊は予定の行動に蜂起した。日本軍の守備隊は、北京南苑の攻撃に向っていて通州の守備は手薄であった。
まさか傀儡政権の保安隊が抗日の蜂起をするとは夢にもおもわず、逆に通州は安全だというので北京から戦火を避けて避難してくるものさえあった。
日本軍は完全に虚をつかれた。留守を守る守備隊の数は、寄せ集めて百十名ばかりであった。保安隊の攻撃は、通州守備隊と特務機関に集中した。守備隊長藤尾心一中尉と機関長細木繁中佐は戦死した。
守備隊と特務機関のつぎには居留民が攻撃をうけた。居留民の家は一軒のこらず襲撃をうけ、掠奪と殺戮にあった。掠奪には保安隊員だけでなく市民も加わった。日本人の旅館近水楼の掠奪は徹底的であった。死体には烏が群がった。性別のわからない死体もあり、新聞は「鬼畜の行為」とつたえた。
陸軍省がしらべた犠牲者の数は、八月五日現在で発見できたもの一八四名、男九三名、女五七名、性別不明者三四名であり、生き残って保護をうけたものの数は、一三四名、その内訳は「内地人」七七名と「半島人」(朝鮮人)五七名であった。
当時の支那駐屯軍司令官香月清司中将の『支那事変回想録摘記』が記録する犠牲者の数は、日本人一〇四名と朝鮮人一〇八名であり、朝鮮人の大多数は「アヘン密貿易者および醜業婦にして在住未登録なりしもの」であった。朝鮮人のアヘン密貿易者が多数いたことは、通州がアヘンをもってする中国毒化政策の重要な拠点であったことを示していた。
通州事件は、日本の中国「毒化政策」にたいする中国民族の恐怖と抵抗を標示していた。
戦史家児島襄は、「在留邦人三百八十五人のうち幼児十二人をふくむ二百二十三人が殺され、そのうち三十四人は性別不明なまでに惨殺されていた」と指摘し、「生き残った者は、かろうじて教会に逃げこみ、あるいは例外的な中国人の好意でかくまわれ、中国服を着用して変装できた人々であった」としるした。
七月三〇日、守備隊に増援部隊が加わり、事件はおさまった。
森島守人北京領事と池宗黒政務庁長官の話し合いにり、中国側の正式謝罪、慰謝金の支払い、慰霊塔の建設を条件に解決されている。
デタラメを書くなよ(笑)
7 通州事件(三)
通州に駐屯していた日本の特務機関(陸軍の諜報工作機関)は、一九三七年七月二六日、日本軍の北京・天津地区にたいする攻撃が迫ったため、通州門外の兵営に駐屯していた中国第二九軍の部隊にたいし「貴部隊が停戦協定線上に駐屯せられる事は、在留邦人の保全と冀東の安寧に害がある」という理由で二七日午前三時までに武装を解除するとともに北京に向けて退去するよう要求した。
しかし、第二九軍はうごこうとしなかった。
日本軍は、二七日午前四時から攻撃を開始し、午前一一時ごろまでに第二九軍を掃蕩した。
通州門外に中国軍隊はいなくなった。ところが、日本軍は、通州の中国軍隊兵舎のとなりに冀東防共自治政府保安隊の幹部訓練所があることをよく知らず、保安隊の隊員を第二九軍の兵士と誤認して爆撃し、数名の保安隊員を死傷させた。
特務機関長の細木繁中佐は、冀東防共自治政府の長官に陳謝し、犠牲者の家族に挨拶し、賠償に誠意をつくした。
北京特務機関補佐官として現地にいた寺西忠輔大尉は、日本軍が誠意をつくしたため、「保安隊員は心中の鬱憤を軽々に、表面立って爆発させる事はしなかったのである」としるしたが、北平駐在大使館付武官補佐官として北平にいた今井武夫少佐は、保安隊員は「関東軍飛行隊から兵舎を誤爆されて憤激の余り、愈々抗日戦の態度を明かにした」と述べた。
七月二九日、保安隊は予定の行動に蜂起した。日本軍の守備隊は、北京南苑の攻撃に向っていて通州の守備は手薄であった。
まさか傀儡政権の保安隊が抗日の蜂起をするとは夢にもおもわず、逆に通州は安全だというので北京から戦火を避けて避難してくるものさえあった。
日本軍は完全に虚をつかれた。留守を守る守備隊の数は、寄せ集めて百十名ばかりであった。保安隊の攻撃は、通州守備隊と特務機関に集中した。守備隊長藤尾心一中尉と機関長細木繁中佐は戦死した。
守備隊と特務機関のつぎには居留民が攻撃をうけた。居留民の家は一軒のこらず襲撃をうけ、掠奪と殺戮にあった。掠奪には保安隊員だけでなく市民も加わった。日本人の旅館近水楼の掠奪は徹底的であった。死体には烏が群がった。性別のわからない死体もあり、新聞は「鬼畜の行為」とつたえた。
陸軍省がしらべた犠牲者の数は、八月五日現在で発見できたもの一八四名、男九三名、女五七名、性別不明者三四名であり、生き残って保護をうけたものの数は、一三四名、その内訳は「内地人」七七名と「半島人」(朝鮮人)五七名であった。
当時の支那駐屯軍司令官香月清司中将の『支那事変回想録摘記』が記録する犠牲者の数は、日本人一〇四名と朝鮮人一〇八名であり、朝鮮人の大多数は「アヘン密貿易者および醜業婦にして在住未登録なりしもの」であった。朝鮮人のアヘン密貿易者が多数いたことは、通州がアヘンをもってする中国毒化政策の重要な拠点であったことを示していた。
通州事件は、日本の中国「毒化政策」にたいする中国民族の恐怖と抵抗を標示していた。
戦史家児島襄は、「在留邦人三百八十五人のうち幼児十二人をふくむ二百二十三人が殺され、そのうち三十四人は性別不明なまでに惨殺されていた」と指摘し、「生き残った者は、かろうじて教会に逃げこみ、あるいは例外的な中国人の好意でかくまわれ、中国服を着用して変装できた人々であった」としるした。
七月三〇日、守備隊に増援部隊が加わり、事件はおさまった。
森島守人北京領事と池宗黒政務庁長官の話し合いにり、中国側の正式謝罪、慰謝金の支払い、慰霊塔の建設を条件に解決されている。
デタラメを書くなよ(笑)
これは メッセージ 5654 (monpa60 さん)への返信です.