良い事例だ
投稿者: nmwgip 投稿日時: 2005/05/16 23:51 投稿番号: [5647 / 41162]
yominokuni56氏が良い事例を出してくれた。
まず本論に入る前に、裁判所の事実確認とやらについて。
ニュースを注意深く読んだ人は、この裁判が事実関係の真偽を争ったものではないことを知っているだろう。
原告は戦争犯罪に対して損害賠償を求め、被告である国は事実関係については争わず、戦争被害は国家間の賠償で決着済みであり被告には賠償を請求する権利はないと主張している。(賠償請求の放棄=賠償金ゼロでの決着であることは既に何度か論じた。)
だから判決で拘束力を持つのは、賠償請求が棄却されたという部分だけだ。
では高裁が地裁に続いて事実関係を確認した、というのは何を指しているのだろうか。
これは、判決理由つまり傍論と言われるものの中で述べられている。
ところでこれも、知っている人にとっては改めて説明されるのもうんざりするくらい明確なことだが、傍論には本来拘束力はない。法的根拠もない。極論すれば、傍論は裁判官の独り言だ。ところが困ったことに、判例主義の我が国では、この傍論がその後の判断基準になってしまう傾向がある。
ここで問題なのは、判決と傍論が逆方向を向いている場合だ。判決と傍論が整合している場合は、傍論に不満があれば控訴・上告して更に争うことが出来る。ところが判決と傍論が逆方向を向いている場合、傍論に不満があっても裁判そのものは勝っているのだから、それ以上裁判で争う利益は無いと見なされて、控訴・上告が認められないことも多い。
結果として、真実と異なる傍論が糾される機会もないまま、判例として確定してしまうことになる。
今回の裁判も同じ。判決そのものに関係ない、つまり判決自体の理由となっていない傍論が、裁判に負けた原告の主張を、根拠を十分検証することもなく事実と認めるものとなっている。
事実とした理由は「原告の主張を偽とする証拠が提出されていない」だ。被告は最初から事実関係を争っていないのだから、証拠が無いのは当たり前ではないか。
こうなるともう、傍論ではなく暴論だ、と私は言いたい。
前置きが長くなってしまった。
ここからが本題だ。
平頂山事件が無辜の住民の虐殺であったのか、匪賊の協力者の掃討であったのか、その背景についてはひとまず置いておく。それを解明するのはこのトピの目的ではない。
平頂山事件と呼ばれる出来事は、その背景の真偽は別にして、また被害者数が誇張されているにしても、確かにあった。
そしてこの事件は、リットン調査団の調査結果を審議していた国際連盟理事会に提議されている。
南京に比べれば遙かに片田舎である炭鉱村で、当時中国側の主張では700名の被害者の事件ですらこうして国際連盟に提議されているのに、一国の首都で、万単位の住民虐殺があったはずの南京戦が何故国際連盟に提訴されなかったのか。
南京が決して情報封鎖されていた訳ではないことは、何人もの論者によって述べられている。
万単位の住民虐殺があったなら、国際連盟の関係者がそれを知らないはずはない。
それなのに何故、審議すらされなかったのか?
答えは自ずと明らかだろう。
国際連盟から非難を受けるような出来事は、南京では存在しなかったのだ。
まず本論に入る前に、裁判所の事実確認とやらについて。
ニュースを注意深く読んだ人は、この裁判が事実関係の真偽を争ったものではないことを知っているだろう。
原告は戦争犯罪に対して損害賠償を求め、被告である国は事実関係については争わず、戦争被害は国家間の賠償で決着済みであり被告には賠償を請求する権利はないと主張している。(賠償請求の放棄=賠償金ゼロでの決着であることは既に何度か論じた。)
だから判決で拘束力を持つのは、賠償請求が棄却されたという部分だけだ。
では高裁が地裁に続いて事実関係を確認した、というのは何を指しているのだろうか。
これは、判決理由つまり傍論と言われるものの中で述べられている。
ところでこれも、知っている人にとっては改めて説明されるのもうんざりするくらい明確なことだが、傍論には本来拘束力はない。法的根拠もない。極論すれば、傍論は裁判官の独り言だ。ところが困ったことに、判例主義の我が国では、この傍論がその後の判断基準になってしまう傾向がある。
ここで問題なのは、判決と傍論が逆方向を向いている場合だ。判決と傍論が整合している場合は、傍論に不満があれば控訴・上告して更に争うことが出来る。ところが判決と傍論が逆方向を向いている場合、傍論に不満があっても裁判そのものは勝っているのだから、それ以上裁判で争う利益は無いと見なされて、控訴・上告が認められないことも多い。
結果として、真実と異なる傍論が糾される機会もないまま、判例として確定してしまうことになる。
今回の裁判も同じ。判決そのものに関係ない、つまり判決自体の理由となっていない傍論が、裁判に負けた原告の主張を、根拠を十分検証することもなく事実と認めるものとなっている。
事実とした理由は「原告の主張を偽とする証拠が提出されていない」だ。被告は最初から事実関係を争っていないのだから、証拠が無いのは当たり前ではないか。
こうなるともう、傍論ではなく暴論だ、と私は言いたい。
前置きが長くなってしまった。
ここからが本題だ。
平頂山事件が無辜の住民の虐殺であったのか、匪賊の協力者の掃討であったのか、その背景についてはひとまず置いておく。それを解明するのはこのトピの目的ではない。
平頂山事件と呼ばれる出来事は、その背景の真偽は別にして、また被害者数が誇張されているにしても、確かにあった。
そしてこの事件は、リットン調査団の調査結果を審議していた国際連盟理事会に提議されている。
南京に比べれば遙かに片田舎である炭鉱村で、当時中国側の主張では700名の被害者の事件ですらこうして国際連盟に提議されているのに、一国の首都で、万単位の住民虐殺があったはずの南京戦が何故国際連盟に提訴されなかったのか。
南京が決して情報封鎖されていた訳ではないことは、何人もの論者によって述べられている。
万単位の住民虐殺があったなら、国際連盟の関係者がそれを知らないはずはない。
それなのに何故、審議すらされなかったのか?
答えは自ずと明らかだろう。
国際連盟から非難を受けるような出来事は、南京では存在しなかったのだ。
これは メッセージ 5637 (yominokuni56 さん)への返信です.