1932年平頂山住民虐殺事件高裁判決
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2005/05/16 06:39 投稿番号: [5637 / 41162]
2005年5月14日(土)
読売新聞
平頂山事件
生存者3名が日本政府を相手取り総額6000万円の損害賠償を求めた控訴審判決が13日東京高裁であった。「宮崎公男裁判長」は「戦争による賠償問題は政府間で決められるべき問題で個人が賠償を求めることは出来ない」」 と請求を棄却した。
一審東京地裁判決を支持し、原告の控訴を棄却した。
揚宝山さん(82)国側は1.2審を通じて事実確認をしておらず、原告らが被害を受けた事を認定、その上で一審判決同様、旧憲法下での国の不法行為は責任を問われないとうする「国家無答責の法理」を適用、「旧日本軍は原告に極めて悲惨な体験をさせたと言えるが、賠償は認められない。」とした。
国家無答責=旧憲法下において、公務員の不法行為に関して、国家は賠償する責任が無いとするもの。(都合の良い規定ですな)
「平和に対する罪」なんてのと裏返しに考えても意味があると思いますね。
”戦争は罪ではない”と憲法改正しますか?(笑)
資料)平頂山事件
(1) 1931年9月18日、瀋陽(旧奉天)北部の柳条湖で日本軍が謀略により南満州鉄道を爆破。これを中国側の仕業として、いわゆる満州事変が始まり、翌1932年3月1日には、傀儡国家「満州国」の建国を宣言したため、抗日運動が活発化した。
1)抗日運動の中で組織された「抗日民衆自衛軍」は、1932年9月15日未明、日本の中国植民地支配の象徴であった撫順炭坑を襲撃し、日本の撫順独立守備隊との間で戦闘となり、抗日民衆自衛軍はもちろん、日本側も11名の死傷者を出した。
(2) 抗日民衆自衛軍の襲撃から数時間後、撫順独立守備隊首脳らは緊急会議を召集し『抗日民衆自衛軍が炭坑を襲撃する前に平頂山を通過したにも関わらず、平頂山の住民は通報を怠った。したがって住民は「匪賊」と通じているのを戒めとする』と言う理由で、平頂山の住民を全員虐殺し、住家を焼き払う事を決めた。
(3) 1932年9月16日の日中、撫順独立守備隊は平頂山の住民を一ヶ所に集め包囲し、一斉に機銃掃射を浴びせた。機銃掃射が終わると、兵士達は死体の山に踏み込み、生存者を調べ、見つけると銃剣で突き刺し息の根を止めた。赤ん坊も、子供も妊婦も情け容赦無く突き刺した。後日日本軍は虐殺の事実を隠蔽するため、遺体に石油をまいて焼却し、ダイナマイトで崖を爆破し、死体を埋めた。これによって、約400世帯、約3000人が住んでいたと言われる平頂山が消滅し、住民の大部分が虐殺され、その場から逃げ出した者は極僅かに過ぎなかった。
(4) 平頂山事件の特徴として3点挙げられる。
1つは、虐殺の被害者が全て一般住民であると言うこと。
2つ目は、加害者側である日本では殆ど知られていない事件であると言うこと。
3つ目は最終的に責任を取らされた者が、事件の責任者とは言えない日本人であったと言うことである。
中国では平頂山事件は広く知れていて、事件現場は「平頂山殉難同胞遺骨館」として保存されている。私達は、そこで累々と折り重なっている人骨を目の当りにする事で、今尚平頂山事件の様相を、その凄惨さを垣間見る事ができる。
資料説明
「中国人戦争被害者の要求を支える会」は平頂山事件から奇跡的に生き残った方々3名が、1996年8月14日に日本政府に対し損害賠償請求訴訟を提起し現在係争中の他、数多くの訴訟を支えております。上記資料は、その内「平頂山訴訟」より要旨を引用させて頂きました
平頂山事件
生存者3名が日本政府を相手取り総額6000万円の損害賠償を求めた控訴審判決が13日東京高裁であった。「宮崎公男裁判長」は「戦争による賠償問題は政府間で決められるべき問題で個人が賠償を求めることは出来ない」」 と請求を棄却した。
一審東京地裁判決を支持し、原告の控訴を棄却した。
揚宝山さん(82)国側は1.2審を通じて事実確認をしておらず、原告らが被害を受けた事を認定、その上で一審判決同様、旧憲法下での国の不法行為は責任を問われないとうする「国家無答責の法理」を適用、「旧日本軍は原告に極めて悲惨な体験をさせたと言えるが、賠償は認められない。」とした。
国家無答責=旧憲法下において、公務員の不法行為に関して、国家は賠償する責任が無いとするもの。(都合の良い規定ですな)
「平和に対する罪」なんてのと裏返しに考えても意味があると思いますね。
”戦争は罪ではない”と憲法改正しますか?(笑)
資料)平頂山事件
(1) 1931年9月18日、瀋陽(旧奉天)北部の柳条湖で日本軍が謀略により南満州鉄道を爆破。これを中国側の仕業として、いわゆる満州事変が始まり、翌1932年3月1日には、傀儡国家「満州国」の建国を宣言したため、抗日運動が活発化した。
1)抗日運動の中で組織された「抗日民衆自衛軍」は、1932年9月15日未明、日本の中国植民地支配の象徴であった撫順炭坑を襲撃し、日本の撫順独立守備隊との間で戦闘となり、抗日民衆自衛軍はもちろん、日本側も11名の死傷者を出した。
(2) 抗日民衆自衛軍の襲撃から数時間後、撫順独立守備隊首脳らは緊急会議を召集し『抗日民衆自衛軍が炭坑を襲撃する前に平頂山を通過したにも関わらず、平頂山の住民は通報を怠った。したがって住民は「匪賊」と通じているのを戒めとする』と言う理由で、平頂山の住民を全員虐殺し、住家を焼き払う事を決めた。
(3) 1932年9月16日の日中、撫順独立守備隊は平頂山の住民を一ヶ所に集め包囲し、一斉に機銃掃射を浴びせた。機銃掃射が終わると、兵士達は死体の山に踏み込み、生存者を調べ、見つけると銃剣で突き刺し息の根を止めた。赤ん坊も、子供も妊婦も情け容赦無く突き刺した。後日日本軍は虐殺の事実を隠蔽するため、遺体に石油をまいて焼却し、ダイナマイトで崖を爆破し、死体を埋めた。これによって、約400世帯、約3000人が住んでいたと言われる平頂山が消滅し、住民の大部分が虐殺され、その場から逃げ出した者は極僅かに過ぎなかった。
(4) 平頂山事件の特徴として3点挙げられる。
1つは、虐殺の被害者が全て一般住民であると言うこと。
2つ目は、加害者側である日本では殆ど知られていない事件であると言うこと。
3つ目は最終的に責任を取らされた者が、事件の責任者とは言えない日本人であったと言うことである。
中国では平頂山事件は広く知れていて、事件現場は「平頂山殉難同胞遺骨館」として保存されている。私達は、そこで累々と折り重なっている人骨を目の当りにする事で、今尚平頂山事件の様相を、その凄惨さを垣間見る事ができる。
資料説明
「中国人戦争被害者の要求を支える会」は平頂山事件から奇跡的に生き残った方々3名が、1996年8月14日に日本政府に対し損害賠償請求訴訟を提起し現在係争中の他、数多くの訴訟を支えております。上記資料は、その内「平頂山訴訟」より要旨を引用させて頂きました
これは メッセージ 1 (the_super_aikokusya さん)への返信です.