支那軍の暴虐、「上海、その問題点」
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2005/02/10 03:42 投稿番号: [4521 / 41162]
>日本が宣戦布告もしていない中国の南京を爆撃し、
8月15日の日本海軍による渡洋爆撃は南京の飛行場等を爆撃したもので、支那の大軍に包囲攻撃されていた上海の国際租界の日本人の命を永らえる為だった。
第8章 上海、その問題点
1、反日暴力の嵐
前章で次の諸点が明らかになった。
1、日本は北支で戦争することも望んでいなかったし、予期もしていなかった。
2、中国軍の引き起こした盧溝橋事件に続く3週間の間、日本側は4度休戦協定を結んだが、中国軍は悉くこの休戦協定を破った。
3、この3週間の間、日本は動員令を出すことを控えたが、南京政府は即座に動員令を出した。
4、この3週間の間に25万人の中国軍が北支に集結したが、日本はこの事件を平和的な交渉を通じて解決しようと必死の努力をした。
5、平和を求める日本側の努力に対して、中国軍は通州で200人の日本の民間人を虐殺し、1万人の日本人が住んでいる天津日本租界区へ攻撃を仕掛けてきた。
上海で日本人が平和を熱望する気持ちには、北京におけるよりももっと切実なものさえあった。北支の状況が余りにも深刻な事態になっている中で、兵力を分散しないほうが日本にとって有利であることは明らかであった。しかしここ上海においても北支と同様に中国は「事件」の発生をそそのかした。
2、大山大尉の殺害
1937年8月9日の事件を中国側が発生させたのは、まさにこのような緊張した雰囲気の中においてであった。その日の夕方6時ごろ、大山海軍中尉と彼の運転手が国際疎開の延長にある通りを車で走行中、所謂平和維持部隊と呼ばれている多数の中国人兵士が突然襲い掛かってきた。大山中尉は30発以上の弾丸を喰らい蜂の巣にされて即死。運転手は重傷を負い、その後間もなく死亡。大山中尉と運転手は国際租界にある日本海軍の本部に所属していた。
日本と中国の当局による共同の公式調査の結果、この事件は血も凍るような最も残忍な殺人であることが判明した。大山中尉の死体は切断され原形を留めていなかった。その死体は無数の弾丸が撃ち込まれていたばかりでなく、(以下略)
3、中国軍の前進
1937年8月12日未明、中国軍大本営の正規軍大部隊が上海まで前進し、国際租界の日本人居住区域に包囲攻撃を仕掛けてきた。
事態は突然このように極めて不安定なものになった。日本側は平和的な解決がもたらされるという期待をまだ捨てずに、上海休戦協定に参加している列強諸国の合同委員会会議を招集し、中国軍の撤退を再び要求した。列強諸国の代表は日本の誠意を認め、中国側に再考を促した。
しかし中国は聞く耳を持たず、8月13日未明、中国軍が海軍陸戦隊への攻撃を開始した。
4、日本、戦闘に追い込まれる
ニューヨーク・タイムズ上海特派員は、8月30日付で次のように報じた。
地域的な敵対行動の勃発を回避する試みによりここで開催された様々の会議に参加した多くの外国政府の代表や外国の正式なオブザーバーたちは皆、次の点に同意するであろう。即ち日本軍は敵の挑発の下で最大限に抑制した態度を示し、数日間の間だけでも全ての日本軍上陸部隊を兵営の中から一歩も外出させなかった。但しそれによって日本人の生命と財産を幾分危険に曝したのではあるが。
8月13日以前に上海で開催された会議に参加した1人の外国代表は次のように観ている。7月初めに北京の近郊で始まった戦争の責任は誰にあるのか、ということに関しては意見が分かれるかもしれないが、上海の戦闘状態に関する限り記録の証明している事実はただ1つしかない。日本軍はここ上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐために出来る限りの全てのことをした。だが日本軍は中国軍によって文字通り衝突へと無理矢理追い込まれてしまったのである。中国軍は外国人の居住している地域と外国の権益を、この衝突の中に巻き込もうとする意図があるかのように思えた。
ニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙の上海特派員ビクトル・キーン氏は、9月16日付で同様の見解を述べている。
北支での戦闘に外国列強諸国が殆ど注意を払わないでいた間に、中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地が無い。上海で最後の抵抗をすることによって、多分何等かの形での仲裁なり或いは少なくとも中国の側に立った警告がなされるであろう、という期待があったのである。その上、上海北部の地形は北支の地形よりも防衛活動を行うのに遥かに適していたのである。さらに中国軍最精鋭部隊もまた、この地域に駐留していた。
『シナ大陸の真相』 K・カール・カワカミ著
8月15日の日本海軍による渡洋爆撃は南京の飛行場等を爆撃したもので、支那の大軍に包囲攻撃されていた上海の国際租界の日本人の命を永らえる為だった。
第8章 上海、その問題点
1、反日暴力の嵐
前章で次の諸点が明らかになった。
1、日本は北支で戦争することも望んでいなかったし、予期もしていなかった。
2、中国軍の引き起こした盧溝橋事件に続く3週間の間、日本側は4度休戦協定を結んだが、中国軍は悉くこの休戦協定を破った。
3、この3週間の間、日本は動員令を出すことを控えたが、南京政府は即座に動員令を出した。
4、この3週間の間に25万人の中国軍が北支に集結したが、日本はこの事件を平和的な交渉を通じて解決しようと必死の努力をした。
5、平和を求める日本側の努力に対して、中国軍は通州で200人の日本の民間人を虐殺し、1万人の日本人が住んでいる天津日本租界区へ攻撃を仕掛けてきた。
上海で日本人が平和を熱望する気持ちには、北京におけるよりももっと切実なものさえあった。北支の状況が余りにも深刻な事態になっている中で、兵力を分散しないほうが日本にとって有利であることは明らかであった。しかしここ上海においても北支と同様に中国は「事件」の発生をそそのかした。
2、大山大尉の殺害
1937年8月9日の事件を中国側が発生させたのは、まさにこのような緊張した雰囲気の中においてであった。その日の夕方6時ごろ、大山海軍中尉と彼の運転手が国際疎開の延長にある通りを車で走行中、所謂平和維持部隊と呼ばれている多数の中国人兵士が突然襲い掛かってきた。大山中尉は30発以上の弾丸を喰らい蜂の巣にされて即死。運転手は重傷を負い、その後間もなく死亡。大山中尉と運転手は国際租界にある日本海軍の本部に所属していた。
日本と中国の当局による共同の公式調査の結果、この事件は血も凍るような最も残忍な殺人であることが判明した。大山中尉の死体は切断され原形を留めていなかった。その死体は無数の弾丸が撃ち込まれていたばかりでなく、(以下略)
3、中国軍の前進
1937年8月12日未明、中国軍大本営の正規軍大部隊が上海まで前進し、国際租界の日本人居住区域に包囲攻撃を仕掛けてきた。
事態は突然このように極めて不安定なものになった。日本側は平和的な解決がもたらされるという期待をまだ捨てずに、上海休戦協定に参加している列強諸国の合同委員会会議を招集し、中国軍の撤退を再び要求した。列強諸国の代表は日本の誠意を認め、中国側に再考を促した。
しかし中国は聞く耳を持たず、8月13日未明、中国軍が海軍陸戦隊への攻撃を開始した。
4、日本、戦闘に追い込まれる
ニューヨーク・タイムズ上海特派員は、8月30日付で次のように報じた。
地域的な敵対行動の勃発を回避する試みによりここで開催された様々の会議に参加した多くの外国政府の代表や外国の正式なオブザーバーたちは皆、次の点に同意するであろう。即ち日本軍は敵の挑発の下で最大限に抑制した態度を示し、数日間の間だけでも全ての日本軍上陸部隊を兵営の中から一歩も外出させなかった。但しそれによって日本人の生命と財産を幾分危険に曝したのではあるが。
8月13日以前に上海で開催された会議に参加した1人の外国代表は次のように観ている。7月初めに北京の近郊で始まった戦争の責任は誰にあるのか、ということに関しては意見が分かれるかもしれないが、上海の戦闘状態に関する限り記録の証明している事実はただ1つしかない。日本軍はここ上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐために出来る限りの全てのことをした。だが日本軍は中国軍によって文字通り衝突へと無理矢理追い込まれてしまったのである。中国軍は外国人の居住している地域と外国の権益を、この衝突の中に巻き込もうとする意図があるかのように思えた。
ニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙の上海特派員ビクトル・キーン氏は、9月16日付で同様の見解を述べている。
北支での戦闘に外国列強諸国が殆ど注意を払わないでいた間に、中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地が無い。上海で最後の抵抗をすることによって、多分何等かの形での仲裁なり或いは少なくとも中国の側に立った警告がなされるであろう、という期待があったのである。その上、上海北部の地形は北支の地形よりも防衛活動を行うのに遥かに適していたのである。さらに中国軍最精鋭部隊もまた、この地域に駐留していた。
『シナ大陸の真相』 K・カール・カワカミ著
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