>>日本軍は宣戦布告無しで空爆撃
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2005/02/09 06:48 投稿番号: [4494 / 41162]
>>日本海軍機による無差別都市爆撃による民間人の殺害は米国、英国など欧米諸国においては早い段階から新聞
ラジオ、ニュース映画などで世界に報道された。
>何のこと?
上海戦の時の南京への渡洋爆撃のことか?
まさか、上海への爆撃のことではないよね?
困っちゃうよね。南京爆撃の事も知らずに、、また、中国軍の飛行機乗りはアメリカ人、ロシア人パイロットなど外国人パイロットも多数いたと記憶しているのだがね。
これは後ほど調べて見る価値がありそうだね。
また、日本海軍機は米艦「バネー号」英艦「レディバンド号」をも攻撃しているのだが、、おかしな事を書かれれるものだと、、、おもっておりやすよ!
1937年8月15日
南京渡洋爆撃は第二次上海事変が勃発する前日(8月12日)海軍軍司令部総長から中国派遣の第3艦隊(司令長官長谷川清中将)に対して下された。(大海令第12号)「敵攻撃し来たらば、機を失せず敵航空兵力を撃破すべき」
8月13日
夕方に上海戦の戦端が切られたのを待っていたかのように、同日夜 南京渡洋 が命ぜられたが、翌14日は東シナ海に停滞する台風のため爆撃機が長崎より出撃出来ず、台湾の台北基地を発進できた第3空襲部隊の18機が悪天候をおして杭州と広徳を空襲爆撃をしていた。
だが、、、8月15日の段階では、日本政府は軍中央と「不拡大方針をとり、戦争ではないとして、”北支事変”という呼称をことさらに使い、華北並びに上海での局地戦解決を模索していた。
戦争であるにも関わらず、宣戦布告も警告も発せず、侵略を企てた、軍事独裁政権ファシスト国家日本の崩壊への第一歩となったのである。
夜間空襲の恐怖
8月15日の南京渡洋爆撃は「空前の戦果を収めて帰還」と新聞等に報道されたが、木更津航空隊も虎の子の航空兵力であった96式陸上攻撃機を4機撃墜され6機が被弾による修理のため使用不可となった。
中国側の国防力を軽視しての結果、戦闘機の護衛のない状態での出撃であったこと、悪天候下に白昼低高度の爆撃を試み敢行したことが原因であった。(中国方面軍作戦1)
海軍はその後、中国戦闘機の追撃を受けない夜間空襲に作戦を変更し、昼間に爆撃を行う場合には高度3000m以上からの高々度爆撃に変更した。
南京夜間空襲は連夜のように敢行され、8月27日の場合には午前1時40分、2時20分、4時頃と真夜中から明け方にかけて3回の空襲を数えている(上海新聞「日報」)
夜間空襲のもう一つの恐怖は 日本軍爆撃機が「毒ガス」を散布することである。(ウイルソン文書)
8月29日 南京駐在の米国、英国、ドイツ、フランス、イタリア、5カ国外交代表が、南京空爆に抗議して爆撃行為の停止を求める抗議書を日本政府に提出した。
「いかなる、国の政治首都に、とりわけ戦争状態にない国に対する爆撃に人間性と国際礼譲についての配慮を必要とするような抑制について日本側に適当な配慮を促すべきである。(米国関係資料集)
日本が宣戦布告もしていない中国の南京を爆撃し、非戦闘員を殺害したことは、人間性と国際道義にもとる行為であると、強く非難した。
しかし、国際非難なんのその、とばかり長谷川清第3艦隊司令長官は「南京政府動揺し、奥地に移動の情報あり、さらに、南京を徹底的に空襲の要あり」と指示していた。(中国方面海軍作戦)
連日の夜間爆撃の恐怖に 耐えられなくなった南京住民は脱出し始めた、まず米国、英国、ドイツなどの外国人が何百人と南京から避難していき、ついで8月末日までに裕福な家庭の人々が遠くの親戚や姻戚を尋ねて避難していった。
残留したのは移動の為の交通手段、運賃もなく、尋ねる宛さえない貧しい人達と公務の為離れられない公務員であった。
ジョン_H_D_ラーベ(後の南京区 安全区国際委員会 の委員長)
ラーべ氏によると、「南京の人口は私が7月に出発したときは、約135万人でした。その後、8月中旬の爆撃の後で、その内数十万人が街を離れた。と記している。(南京事件、ラーべ報告書)
>何のこと?
上海戦の時の南京への渡洋爆撃のことか?
まさか、上海への爆撃のことではないよね?
困っちゃうよね。南京爆撃の事も知らずに、、また、中国軍の飛行機乗りはアメリカ人、ロシア人パイロットなど外国人パイロットも多数いたと記憶しているのだがね。
これは後ほど調べて見る価値がありそうだね。
また、日本海軍機は米艦「バネー号」英艦「レディバンド号」をも攻撃しているのだが、、おかしな事を書かれれるものだと、、、おもっておりやすよ!
1937年8月15日
南京渡洋爆撃は第二次上海事変が勃発する前日(8月12日)海軍軍司令部総長から中国派遣の第3艦隊(司令長官長谷川清中将)に対して下された。(大海令第12号)「敵攻撃し来たらば、機を失せず敵航空兵力を撃破すべき」
8月13日
夕方に上海戦の戦端が切られたのを待っていたかのように、同日夜 南京渡洋 が命ぜられたが、翌14日は東シナ海に停滞する台風のため爆撃機が長崎より出撃出来ず、台湾の台北基地を発進できた第3空襲部隊の18機が悪天候をおして杭州と広徳を空襲爆撃をしていた。
だが、、、8月15日の段階では、日本政府は軍中央と「不拡大方針をとり、戦争ではないとして、”北支事変”という呼称をことさらに使い、華北並びに上海での局地戦解決を模索していた。
戦争であるにも関わらず、宣戦布告も警告も発せず、侵略を企てた、軍事独裁政権ファシスト国家日本の崩壊への第一歩となったのである。
夜間空襲の恐怖
8月15日の南京渡洋爆撃は「空前の戦果を収めて帰還」と新聞等に報道されたが、木更津航空隊も虎の子の航空兵力であった96式陸上攻撃機を4機撃墜され6機が被弾による修理のため使用不可となった。
中国側の国防力を軽視しての結果、戦闘機の護衛のない状態での出撃であったこと、悪天候下に白昼低高度の爆撃を試み敢行したことが原因であった。(中国方面軍作戦1)
海軍はその後、中国戦闘機の追撃を受けない夜間空襲に作戦を変更し、昼間に爆撃を行う場合には高度3000m以上からの高々度爆撃に変更した。
南京夜間空襲は連夜のように敢行され、8月27日の場合には午前1時40分、2時20分、4時頃と真夜中から明け方にかけて3回の空襲を数えている(上海新聞「日報」)
夜間空襲のもう一つの恐怖は 日本軍爆撃機が「毒ガス」を散布することである。(ウイルソン文書)
8月29日 南京駐在の米国、英国、ドイツ、フランス、イタリア、5カ国外交代表が、南京空爆に抗議して爆撃行為の停止を求める抗議書を日本政府に提出した。
「いかなる、国の政治首都に、とりわけ戦争状態にない国に対する爆撃に人間性と国際礼譲についての配慮を必要とするような抑制について日本側に適当な配慮を促すべきである。(米国関係資料集)
日本が宣戦布告もしていない中国の南京を爆撃し、非戦闘員を殺害したことは、人間性と国際道義にもとる行為であると、強く非難した。
しかし、国際非難なんのその、とばかり長谷川清第3艦隊司令長官は「南京政府動揺し、奥地に移動の情報あり、さらに、南京を徹底的に空襲の要あり」と指示していた。(中国方面海軍作戦)
連日の夜間爆撃の恐怖に 耐えられなくなった南京住民は脱出し始めた、まず米国、英国、ドイツなどの外国人が何百人と南京から避難していき、ついで8月末日までに裕福な家庭の人々が遠くの親戚や姻戚を尋ねて避難していった。
残留したのは移動の為の交通手段、運賃もなく、尋ねる宛さえない貧しい人達と公務の為離れられない公務員であった。
ジョン_H_D_ラーベ(後の南京区 安全区国際委員会 の委員長)
ラーべ氏によると、「南京の人口は私が7月に出発したときは、約135万人でした。その後、8月中旬の爆撃の後で、その内数十万人が街を離れた。と記している。(南京事件、ラーべ報告書)
これは メッセージ 4493 (deliciousicecoffee さん)への返信です.