>>抗日独立運動をしたからこそ
投稿者: giant_aho 投稿日時: 2004/09/28 21:59 投稿番号: [3206 / 41162]
「石枕
(下巻)」
張俊河
1976年
サイマル出版会
(著者は日本軍を脱走して中国で活動していた上海臨時政府に参加し、金九主席の側近になっていた。)
ことのほか私たちを哀しませたのは、韓同志が、そのころ上海を拠点として日本軍の手先をつとめながら財をなしていた、孫という男の奸計にかかって日本の憲兵隊に逮捕されたことだった。韓同志はこの孫に、軍資金の調達を申し入れたのだ。孫は日時と場所を定めて、そこで会うことを約束したという。その日、約束の場所にはあらかじめ日本の憲兵たちが待ち受けていた。これが韓同志の逮捕に関する顛末の全てだった。その孫が、今もぬけぬけと、この国で大手を振って歩いていると聞くにおよんでは。
けれども、私たちをなおのこと嘆かせたのは、新しい事実だった。日本軍が降伏する直前(1945年8月15日)まで通訳か、それでなければ前線地区を回って阿片を商ったり日本軍慰安婦の抱え主を演じた連中までが、一朝にして光復軍(韓国臨時政府の軍隊)の帽子を手に入れ、独立運動家、亡命者、革命家などを自称する、とうてい見るに忍びない風潮が横行したことだった。のみならず、同じく異国にある同胞たちの財産を、そうした連中であればあるほど先に立って没収して回るのが普通だった。
ありていに言って、臨時政府や光復軍が、その名称の大きさに比して機構や人員においてあまりにも弱体だったことは、否定しえない事実だった。指導者クラスの人材は曲がりなりにも存在したが、青年層の人材はまことに不足の状態にあった。そんなありさまだったから、過去の経歴を問わずに、独立運動家の名を手当たりしだいに分け与えたのだ。誰であろうと参加を希望しさえすれば、相手かまわず鄭重に迎え入れ、光復軍の帽子を一つずつ被せてやった。
当時、光復軍には三個支隊があった。(中略)第三支隊は学徒兵脱走者十数名を中心幹部とする最前線の部隊だった。最前線地域という条件のゆえに人員の確保は容易だったし、したがって兵力も150名に達していた。けれども、そのほとんどが光復軍に入隊してほんの一、二ヶ月の、新入隊員たちだった。
ところで、この三つの支隊が相互に反目し合う状態から、やがては覇権でも競うようになったことから、光復軍の精神におのずと背く結果をひき起こしたのだ。とりわけ上海、南京を舞台に活動していたある支隊のいわゆる学徒出身幹部どもの傍若無人な専断ぶりときたら、実に常軌を逸したものだった。
(中略)
我が同胞たちの中でもいくぶん富裕な連中は、解放と同時に日本のスパイという意味の漢奸の烙印を捺され、大部分が中国の官憲によって投獄されたり、財産を没収されるありさまにあった。はなはだしくは、我が革命家をもって任じる例の支隊の隊員たちまでが、韓国人同胞を処刑に処したり、掠奪を繰り返すなどして同胞たちの感情を損ねるまでに及んでいた。かくも暗澹たる状態に置かれるようになったのは、一言で言って、例の支隊の独善と傲慢さのゆえであったといって言い過ぎることはない。彼らはあたかも、日本軍からの脱出がこうした独善と傲慢を目的としたものであるかのように振舞ったのだ。それは、脱出の動機を虚栄と功名心に求めたのと替わるところのない行動だった。
(著者は日本軍を脱走して中国で活動していた上海臨時政府に参加し、金九主席の側近になっていた。)
ことのほか私たちを哀しませたのは、韓同志が、そのころ上海を拠点として日本軍の手先をつとめながら財をなしていた、孫という男の奸計にかかって日本の憲兵隊に逮捕されたことだった。韓同志はこの孫に、軍資金の調達を申し入れたのだ。孫は日時と場所を定めて、そこで会うことを約束したという。その日、約束の場所にはあらかじめ日本の憲兵たちが待ち受けていた。これが韓同志の逮捕に関する顛末の全てだった。その孫が、今もぬけぬけと、この国で大手を振って歩いていると聞くにおよんでは。
けれども、私たちをなおのこと嘆かせたのは、新しい事実だった。日本軍が降伏する直前(1945年8月15日)まで通訳か、それでなければ前線地区を回って阿片を商ったり日本軍慰安婦の抱え主を演じた連中までが、一朝にして光復軍(韓国臨時政府の軍隊)の帽子を手に入れ、独立運動家、亡命者、革命家などを自称する、とうてい見るに忍びない風潮が横行したことだった。のみならず、同じく異国にある同胞たちの財産を、そうした連中であればあるほど先に立って没収して回るのが普通だった。
ありていに言って、臨時政府や光復軍が、その名称の大きさに比して機構や人員においてあまりにも弱体だったことは、否定しえない事実だった。指導者クラスの人材は曲がりなりにも存在したが、青年層の人材はまことに不足の状態にあった。そんなありさまだったから、過去の経歴を問わずに、独立運動家の名を手当たりしだいに分け与えたのだ。誰であろうと参加を希望しさえすれば、相手かまわず鄭重に迎え入れ、光復軍の帽子を一つずつ被せてやった。
当時、光復軍には三個支隊があった。(中略)第三支隊は学徒兵脱走者十数名を中心幹部とする最前線の部隊だった。最前線地域という条件のゆえに人員の確保は容易だったし、したがって兵力も150名に達していた。けれども、そのほとんどが光復軍に入隊してほんの一、二ヶ月の、新入隊員たちだった。
ところで、この三つの支隊が相互に反目し合う状態から、やがては覇権でも競うようになったことから、光復軍の精神におのずと背く結果をひき起こしたのだ。とりわけ上海、南京を舞台に活動していたある支隊のいわゆる学徒出身幹部どもの傍若無人な専断ぶりときたら、実に常軌を逸したものだった。
(中略)
我が同胞たちの中でもいくぶん富裕な連中は、解放と同時に日本のスパイという意味の漢奸の烙印を捺され、大部分が中国の官憲によって投獄されたり、財産を没収されるありさまにあった。はなはだしくは、我が革命家をもって任じる例の支隊の隊員たちまでが、韓国人同胞を処刑に処したり、掠奪を繰り返すなどして同胞たちの感情を損ねるまでに及んでいた。かくも暗澹たる状態に置かれるようになったのは、一言で言って、例の支隊の独善と傲慢さのゆえであったといって言い過ぎることはない。彼らはあたかも、日本軍からの脱出がこうした独善と傲慢を目的としたものであるかのように振舞ったのだ。それは、脱出の動機を虚栄と功名心に求めたのと替わるところのない行動だった。
これは メッセージ 3038 (giant_aho さん)への返信です.